◎金と仕事以外は本気でやらないという風潮の中心
スマホはよいものだ。何でも自分自身がやらずに他人にやらせてそれをスマホで見ることができる。
野球やサッカーやゴルフやバスケットボールやバレーボールや陸上競技を他人にやらせて、それをスマホで見ることができる。
恋愛や結婚やセックスまで他人にやらせてそれをスマホで見ることができる。スマホではあらゆるエロシーンは勿論、他人の行った暴力や戦争のグロシーンまで見られる頽廃ぶり。
また手に汗握るモバゲーは、時に課金の痛みはあるが、ゲーム上の自分は死んでも、リアルな自分は死なないからいいやといういい加減さが付きまとう。
われわれは、スマホを握った単なる見物人だ。どんな興奮するイベントも他人が代わりにやってくれるので、自分でやる必要はない。時間の浪費も避けられる。なぜならそれらは、無用なことばかりで、自分がやれば面倒も起こったりするし、うまく行かなかったりするので、自分がやるほど有用な事ではないからだ。だから自分は坐って「見る」だけだ。
有用な事は、金もうけであり、金を稼ぐことであり、金を貯めることであるという人が多いのではないか。ワークライフバランスで仕事以外の事も力を入れねばならないなどというのも、言われたからそう思っているだけで、本当は仕事と金だけでいいと思っているのではないか。それも楽をして金を稼ぎたい、と。
このようにして、仕事と金以外のことには、本気にならない世界が出現した。地獄とは、隙あらば他人を殺したり他人の物を奪ったりして、自分だけ楽して暮らそうと思う人ばかりの世界だそうだ。日本は挨拶と礼儀が発達していて、そのような本性は見えにくいが、実態はそれに近いのではないか。
また政府が貯蓄から投資へと勧めているが、投資は市場性商品であり、ゼロサムゲームであって、誰かが儲ければ他の誰かが必ず損をする仕組み。挙句、誰かがネコババしてもほとんど誰もそれを取り返せないという仮想通貨という、まさに盗賊市場みたいなものまで出て来た。これも広い目で見れば地獄的社会実現への一歩。
神仏への道、冥想の道は、一見無用であることに本気で取り組むこと。無用が用であることを理屈で説明などできないが、時代は無用な事に真剣に向き合わせるように人間を追い込んでいるようだ。
冥想シーンでは、人が本気で坐ることを求めるが、薄皮を何枚を剥くようにその本気の本気度が問われる。世は無用の名のもとに、世の中全体を地獄に追い落とすが、それに反比例して真実のものを求める度合が上がって行く人もいる。そういう人を水晶身魂、クリスタル・ピープルという。
余談だが、
あまりにもスマホでは多くのものが見れるものだから、そのコンテンツが本物かどうか疑わしい、実は相当にフェイク情報や嘘が紛れ込んでいるのではないか。さらにそういったデータベースの上に立つChatGPTは実は眉唾ものではないか。そういった疑問も出るようになってきた。
人間は知性が発達しすぎて、何が正しくて何が誤りなのかわからなくなってきたのだ。