◎自分のすべてを棄てる覚悟を試される
趙昇が崖の上に上がって来ると、師張陵は、「趙昇ができたからには、わしが同じことを試しても構うまい。わしなら桃の実を200個と言わずもっと沢山取って来れるだろう。」と言った。
王長と趙昇は黙っていたが、その他大勢の弟子は、「師がそんな危険なことをしてはなりません。」などと思い止まらせようとした。
ところが、張陵は、そそくさと崖から身を躍らせて谷に飛び込んでしまった。しばらく経っても張陵が戻って来ないので、弟子たちに不安と動揺が広がって行った。
王長と趙昇は、「師匠が亡くなってしまったら我々はどこに戻ったらいいのか。」と叫び、二人一緒に深い谷に身を投げた。崖の上に残された弟子たちは、二日間は待っていたが、そこまでの覚悟がなく、命あっての物種ということで、三々五々帰って行った。
さて王長と趙昇は谷底にゆっくりと降り立つと、張陵は、目の前の七宝台の上で端座し冥想していた。張陵は、莞爾として笑い、「そなたたち二名が来ることはわかっていた。」と言って、神丹、経書、秘訣を手渡した。
後に、張陵123歳にして、西暦156年天師の地位を息子の張衡に譲り、その後王長と趙昇を伴って青城山雲台峰から白日昇天した。
これは、魏伯陽の故事と類似したモチーフである。
つまり誰でも一生懸命努力すれば、成道するというものではないこと。弟子であってもその命を賭ける覚悟がないと秘伝を受けられないこと。だが、この世的なあらゆる経験をほとんど経て、俗世的な欲望が終わっていなければ、命を賭ける覚悟ができるものではないということ。
崖に飛び込んで、実際に生還できるものだとは思わない。過去の悪業を清算するために今生を終わらせたということもあるかも知れない。あるいは、チベットでよく言われる空中歩行術やまさに白日昇天で空中を進む術を用いたか。これらは、超能力、神通力を用いたということだが、カトリックでも教会内を飛び回る人物はいたものだ。ただし未悟の者が超能力、神通力を求めるのは、地獄への高速道路ではある。
よってここは、自分のすべてを棄てる覚悟を試されたと見るのだろう。
また、崖から落ちる話には、以下のようなものもある。