◎ジェイド・タブレット-外典-06-16
◎政権との結びつき
空海に授法したことで、恵果のことは日本でも知られているが、恵果の師である不空三蔵はいま一つ知名度が低い。
不空三蔵の生い立ちは、諸説あるが、父は北インドのバラモン系の人物で、母はサマルカンド付近にいた康国人と考えられている。705年、不空が生れたが、幼時にして、両親を失い、母方の叔父に育てられた。初っぱなから不条理の巷に投げ込まれる人生を、最初から選んできたわけである。
10歳で甘粛省の武威に移り、13歳には早くも長安に入った。
幼年より出家の志を持っていた不空は、719年長安にやってきたばかりの金剛智三蔵に14歳で弟子入りし、翌年には出家した。
数年後、師の金剛智三蔵から金剛頂経系の密教を伝授された。
741年金剛智三蔵が入寂した。これを契機に不空は、インド、スリランカ方面に渡って、密教経典の収集を行い、普賢阿闍梨から当時のテンポラリーな密教を受法することができ、746年長安に戻った。
ここに人が亡くなると地を巡るの法則が見られる。
749年一旦都を離れ、広東に4年住むが、753年安禄山と並ぶ巨大軍閥であった河西節度使哥舒翰の後援を得ることに成功し、金剛頂経系の経典翻訳や布教を長安で行なうことができるようになった。
755年から763年の安禄山の乱の最中にも長安に踏みとどまり、大興善寺で護国の修法を続けた。
不空は774年、大興善寺で入寂。
不空は皇帝守護、国家安穏の修法を、何回も宮中内の道場にて行なったが、皇帝の支援を得るためにはこうした現世利益を見せながら、布教や修行のできる体制を維持していく方針だったと見える。
日本でも世俗権力を結びつきながら密教は護持されていくが、そもそも大衆宗教になりにくいクンダリーニ・ヨーガ系の密教が国家支配層の中で命脈を維持していったのは、中国では一旦邪宗のレッテルを貼られたら、徹底的に駆逐されがちなので、それを他山の石として、こうした方針をとったように思う。
(参考:中国密教/春秋社)