◎ジェイド・タブレット-外典-06-18
◎空海と日本人の安閑
後七日御修法とは、もともと弘法大師空海が開始せられた真言宗による国家鎮護の御修法である。
宮中にては、正月1日~7日に神事をとり行うのに対して(先七日)、正月8日~14日の後七日に行われる仏事すなわち国家鎮護の御修法を後七日御修法と呼ぶ。
空海は、天長5年、後七日御修法において、顕教スタイルの金光明最勝王経が講義されるのを聞き、このままではいけない、本格的な祈祷もなければならないと発心したのか、翌年に上奏し、承和元年(834年)から正月8日~14日、宮中中務省で、密教の修法をとり行った。
翌承和二年、勘解由という役所を改めて真言院とし、後七日御修法を永代恒例の厳儀とし、長安青龍寺恵果より招来した法具で荘厳した壇で、空海自らが大阿闍梨を務めこの修法を行った。
以後顕密双方の法式が執り行われることになった。空海はこの年高野山にて没す。
しかしながら、南北朝の戦乱で宮中真言院が廃絶、修法も中絶。
1432年普光院将軍(足利六代将軍義教)が真言院を再興し、後七日御修法も再開。
ところがまたも室町時代の戦乱で、後花園天皇の長禄年間(1457-60)に仏事廃止となったのと同時に後七日御修法も廃止となった。
江戸時代になり、東寺長者義演大僧正の奏請で、後水尾天皇が後七日御修法の再興を勅許。1623年から宮中で恒例として行われた。
更に明治4年9月太政官令にてこれが廃止せられた。
明治16年年初より、後七日御修法が再開、以後大東亜戦争末期も含め、後七日御修法は連綿として続けられている。
(参考:密教の神秘思想/山崎泰廣/大阪書籍)
宮中の国家鎮護の修法そのものは、このように、何千年も継続していたわけではない。ただし、修法中断の期間に国家鎮護されていなかったわけではない。
その中断期間においては、真言宗周辺の名も知れぬ篤信者が、国家鎮護の重心を担っていたのだろうと思う。これこそ日本の奇蹟ではあるが、誰もそんなところは騒ぎ立てず当たり前だと思っているようなところが日本らしい。この辺が日本人のおひとよしを育んだのだろうか。