アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

社会的成功ほど失敗する

2024-01-25 04:52:28 | 道教neo

◎人生の安物買い

(2016-07-21)

 

この貧富の差が大きく、子供の貧困6割、非正規就業4割の下層が半数を占める時代に無用こそ真の用であることを理解させるのはなかなかむずかしい。千利休らが茶道具の値をつり上げて高く見せたのは、畢竟失敗だった。天下人秀吉に侘び数寄の無用の用を見せたのは、大成功だったが、後継者たちは軒並み茶道具の値の高さに目を奪われたきらいがある。

 

久松真一が茶道の徳を格調高く説明してみせたが、そんなに綺麗に説明できるものなら、世の中の茶の湯者はもっと増えていよう。

 

前世に荘子だったOSHOバグワンが荘子を語る。

 

『まわりを見まわしてごらん

成功した人々を見てみるがいい

政治家やら財産家、大実業家たちを

彼らにはどんなことが起こっているね?

彼らの所有している物を見るんじゃない

彼らそのものを直接見なさい

 

なぜなら物を見てしまったら欺かれる

物は胃カイヨウにならないし

車は心ぞう発作にもおそわれない

邸宅は入院することもない

 

だから物を見てはならない

見たらだまされる

人を見なさい

 

あらゆる所有物を取り除いたあとの

その人そのものを直接見るがいい

そうしたらあなたはそこに貧しさを感じるだろう

そうなったら乞食でさえ金持に見える

そうなったら、〈生〉に関するかぎり

貧乏人でさえずっと豊かであるかもしれない

 

成功は失敗する

成功ほど失敗するものはほかにない

なぜなら成功する人は〈生〉をつかまえそこなうからだ

あらゆるものをつかまえそこなうからだ

 

成功する人は実際安物買いをする

ニセ物のために本物を投げ捨て

浜辺にころがる色のついた小石のために

内なるダイヤモンドを捨ててしまう

小石を集めてダイヤモンドを失うのだ

金持とは失う人、成功者とは失敗者のことだ

 

だが、あなたがたは野心の眼で見るから

所有している物のほうを見る

政治家を見ないでその地位を見る

その大臣職を、その権力を見る

 

あなたはそこに坐っているまったく無力な

すべてを取り逃がしたその人をけっして見ない

歓びが一瞬とて垣間見ることすらないその人を・・・・

彼は権力を買った

が、その買物のなかで自分を失った

そしてそれはすべて安物買いなのだ』

(虚空の舟(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社 P68-69から引用)

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OSHOバグワン-3-荘子としての前世-3

2024-01-25 03:39:34 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-32

◎青春期の垂直の道-32

◎荘子-3

 

7.荘子の7つのチャクラ

儵(しゅく)という名の南海の帝王と、忽という名の北海の帝王とが、ある時、世界の真中の『渾沌』の支配する国で、一緒に出会った。渾沌に歓待されたお礼として、儵と忽は、穴のなかった渾沌に毎日一個づつ穴を開けていったら、一週間目に混沌は死んでしまった。

七つの穴とは、目2、耳2、鼻2、口1の合計七つの穴だという解説もあるが、実は7チャクラのこと。7チャクラを窮めれば、死の世界に入らざるを得ない。

 

8.荘子の覚醒までのステップ

まず女偊(じょく(亻禹))の覚醒までのステップ。

『わたしは修行三日目にこの世(天下)を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること七日目に物質を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること九日目に生を超越することができるようになった。既に生を超越したので、光明を得た(朝徹:朝日がぱっと照るように大悟する。中心太陽を見たか。)。

光明を得て後に独存となった。

独存となれば、古今はなくなり(時間のない世界で、過去現在未来が一体になった今ここだけとなる)、古今がなくなってその次に不死不生という死も生も区別がない世界に入る。』

(荘子 大宗師篇)

 

独存は、クンダリーニ・ヨーガのテクニカル・ターム。宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る状態があるが、この一体化の状態をカイヴァリヤ (唯我独存)という。

 

次に攖寧(えいねい)の説明が続く。

『生きている者を殺す者に死はないし、生き物を生む者に生はない。

道というものは、送らないものはなく、迎えないものはなく、破壊しないものはなく、作り上げないものもない。

その名を攖寧(えいねい)という。攖寧とは、攖(みだ)れて後に成るものである。』

(荘子 大宗師篇)

 

ここは、道(タオ)と自分が合一した立場であって、道は生きる者を殺すが死はなく、道は生きる者を生むが生はない。(生は死の一部であって、その意味で生は死と同じという、垂直の道の立場。)

これは、死の中に生が包含されるがゆえに、死と生を区別しない立場。

 

9.我は死に憩う

『大自然は、

我を大地に載せるために身体を与え、

我を労するために生を与え、

我を安んずるために老いを与え、

我を憩わせるために死を与える。』

(荘子 大宗師篇)

 

だから、こんなことも言う。

『古の真人は、生を喜ばないし、死をいやがらない。生から死に出ても喜ばないし、死から生に入っても拒まない。』

(荘子 大宗師篇)

 

詮ずるところ、荘子にとっては、生と死を比べると死の方が憩いを与えてくれるものであり、生より好もしい。そして何より生から死に入ったり、死から生に出たりするのも自由であるということ。

 

生より死の方がメインであって、道を中心に据えているのは、垂直の道の立場である。

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