◎闇路に闇路をさまよい歩いても真の幸福はない
白隠禅師坐禅和讃の続き。
『六趣輪廻の因縁は
己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて
いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は
称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜
念仏 懺悔 修行等
その品多き諸善行
皆この中に帰するなり』
『闇路に闇路を踏そえて
いつか生死を離るべき』
むさぼり、怒り、迷い、惑い、何もわからないまま暗黒の輪廻転生の道を繰り返していては、生も死も超え、天国も地獄も踏み越えて、最後には生死の違いを離れ、窮極の救いに至ることはできない。
『夫れ摩訶衍の禅定は
称歎するに余りあり』
白隠は、20歳の頃美濃加茂市の岩滝で1年9か月修行。後に白隠は41歳の時に、深山巌崖、人跡不到、清閑瀟洒の岩滝時代よりまさる遥かに優れた境地にあると自認し(壁生草-下15丁裏)、さらに42歳秋に大悟した。
白隠は、黙照枯坐の只管打坐を批判していたのだが、ここでいう摩訶衍の禅定とは、語義は大乗のメディテーションだが、実はかえって42歳の白隠は、清閑瀟洒なる黙照枯坐的な坐で大悟したのかもしれないと思う。
文意は、仏教の修行には、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・念仏・懺悔などいろいろあるが、大乗のメディテーションこそが最も優れているというニュアンス。