◎ふたつのものを同時に見ることはできない
OSHOバグワンは、見神と言いながら神人合一を説いている。
『あなたのなかに神を見はじめるというのは間違っている。――――もはやあなたを見なくなるのだ。聖なるものだけを見るようになる。木のなかに神を見るのではない。もはや木を見るのではなく、聖なるものだけを見る。
あらゆる原子のひとつひとつのなかに神が存在するという人がいたら、その人は完全に間違っている。原子と神の両方を見ているのだから。
ふたつのものを同時に見ることはできない。この場合の真理は、「あらゆる原子のひとつひとつがまさに神だ」であって、「あらゆる原子のひとつひとつのなかに神がいる」ではない。原子のなかに閉じこめられて神が坐しているのではない。何であれ在るもの、それが神だ。
神とは〈在るもの〉への愛ゆえに与えられた名前。〈在るもの〉、それが真実だ。愛のうちにあって、われわれはそれを神と呼ぶ。だが、どんな名前で呼ぼうと違いはない。したがって、わたしはあらゆる人のなかに神を見はじめることを求めているのではない。内に目を向けはじめるようにといっているのだ。内側を見たとたん、あなたは消える。あなたの消滅とともに見るもの、それが神だ。』
(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社P124-125から引用)
『ふたつのものを同時に見ることはできない』(上掲書から引用)
これは、読み流す人も多いかもしれないが、同時に二者でいられないことを示し、それは、山本常朝の葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』で感じとれる。これは見ている自分を残しているわけではない。
『内側を見たとたん、あなたは消える。あなたの消滅とともに見るもの、それが神だ。』(上掲書から引用)
あなたが消えることこそ、大逆転であり、倒立であり、神人合一であって、見神ではない。