◎自分自身のオリジナルな姿は何もかもなし
白隠禅師坐禅和讃の続き
『一座の功をなす人も
積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき
浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を
一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は
福を得る事限りなし
いわんや自ら回向して
直に自性を証すれば
自性即ち無性にて
既に戯論を離れたり』
『一座の功をなす人も
積し無量の罪ほろぶ』
一座とは、30~40分だが、実際に究極に到達しているタイムはわずか数秒なのではないかと考えられる。
また精神状態が坐相postureを決めるの法則から言えば、言ってみれば大死一番あるいは身心脱落してしまう姿勢があって、それにマッチした坐相になれば、悟りを開く(だからといって坐相固定マシーンで身体を押さえつけて坐相を決めてもそうはならないと、ダンテス・ダイジは言っている。)。よって白隠は、きちんと一坐座れれば、それまでの何生かで積んで来た無量の悪業は滅んでしまうのだと断言している。一人出家すれば九族昇天するの謂いである。
『自性即ち無性にて
既に戯論を離れたり』
自分自身に奥深く分け入って、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いでいくように、自分自身のオリジナルな姿を確認してみれば、そこは何もない“無性”だった。
さすれば、如何なる言葉を尽くした議論も意味がなくなる(戯論)。言葉では表現できないから一円相。