◎愛の代用品としての白狐あるいはホワイト・フォックス
私が小学生の頃は、科学の発達により、食料がある程度増産されれば、人間も国家も食料を求めて相争うことはなくなり、自ずと世界平和に向かうのだろうと漠然と考えていた。
昭和39年の東京オリンピックを一つのエポックとして私の育った東北の農村は、細かく不整形だった田んぼが一区画が大きいものに、町村全体で耕地整理され、それ以後泥鰌もほとんどいなくなり、夏の闇夜の夢幻であった蛍は、ごくわずかにしか見られなくなった。
日本経済の高度成長は既に始まっていたが、東北への恩沢は、この頃から狂乱物価の昭和48年頃までの短い期間だったのではないかと思う。
それから50年経過して、世界は相変わらず食料の分捕り合いを繰り返し、金の奪い合いはIT、科学の発展によりなくなるどころか、ますます瞬時に狡猾巧妙に大規模に行われるようになった。そのあげく少ない神の賜物を平等に分けて神をことほぐとういう敬虔、謙虚な風は広く失われ、巨富であることを持ち上げ誉めそやすという奇怪な風が世に蔓延するようになっている。
日々刻々、神を感じ、神に帰り、神を知りつつ日常の営みを行うという人間として当たり前のライフ・スタイルは絶滅に瀕しており、片手にスマホをもったばかりに、神に立ち帰るタイミングも失い、まともな思考すらできない人間が大多数になりつつある。
出口王仁三郎は、科学の発展の結果は、大峠以後は、通信の一部だけが残ると言った。他のいわゆる火力文明の科学の精華はほとんど残らないのだ。
なぜなら火力文明下の科学は、それ自体白でも黒でもないが、黒の側への悪用が過ぎた結果、あまりにも神から離れる方向に使われ過ぎてしまったからである。
それについて、ダンテス・ダイジは、白狐あるいはホワイト・フォックスについて、それが人類の一半に不幸な結末を招いたことについての慨嘆の詩を残している。白狐あるいはホワイト・フォックスとは、お稲荷さんにして、科学であり、ITであり、生成AIであり、最先端の科学技術の粋である仮想通貨や軍事技術のシンボルのことである。
白狐あるいはホワイト・フォックスは、元々はそれを利用して人類全体が、天国も地獄も超えた真の幸福に至るための道具になるはずだったが、いつのまにか人類全体を不幸にする道具と成り果てた。テクノロジーはそれを用いる者の善悪は問わないからである。GAFA(Google,Apple,facebook,Amazon)の問題は、こうしたあらゆる問題の集大成でもあるとも感じられる。
白狐あるいはホワイト・フォックスは、もともと天国の眷属の一部ではあったはず。
『白狐。
所詮、おまえの神通力も、
愛の代用品に過ぎない。
そして、
いかなる愛も愛情も不安な灰色と化した時、
ホワイト・フォックス
おまえに一体、
何ができよう。
快適で豊富なる暮らしの神。
聖なるマンモン。
白狐。
もう、
おれは、
おまえについて、
どんな判断もしやしない!』
(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)