◎天津祝詞
(2010-05-19)
古神道には、窮極も悟りもないだろうと思っていたが、それは身近なものにあった。天津祝詞にあったのである。一厘の仕組は、結局のところニルヴァーナと悟りである。
○出口王仁三郎の天津祝詞
【高天原に神留坐す、神魯岐神魯美の命以て、皇御祖神伊邪那岐命、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓ひ給ふ時に生坐せる祓戸の大神達、諸々の枉事罪穢を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、天の斑駒の耳振立て聞食せと恐み恐みも申す。】
字義どおり読めば、伊邪那岐命が九州の阿波岐原で禊ぎをなさったときにできた祓戸の神たちにまが事や罪穢れを祓い清めて下さいと奏上したという、個人の都合のいいようにはからって下さいという、とりたてて特筆すべき内容のないものに見える。
これが、出口王仁三郎の解釈では、全く異なるものに仕上がる。
「全宇宙(高天原)に陰陽二元がたっぷりと充実している。
陰陽二系を司る神々の言霊(神魯岐神魯美の命)によって、連綿として継承さるべき万世一系の大主宰者の神伊邪那岐命が、窮極(筑紫)の光明遍照(日向)の五大父音の言霊(橘の小戸)によってできた大宇宙(阿波岐原)にあって、身体の大修祓をなさった時に発生した祓戸四柱神よ(瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売)、
諸々のまが事や罪穢(つみけがれ)を払ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神達共に、霊力体すべて(天の斑駒の)、活動を開始したまえ(耳振立て聞食せ)、と恐み恐みも申す。」
まず窮極・ニルヴァーナとは、「筑紫の日向」。「筑紫の日向」は、福岡県、宮崎県のことではなかった。ましてや昨日今日しでかしたチョンボを祓い清めてもらうことを願うというご都合主義の願文でもなかった。全体として個人の願望成就サポートではなく、宇宙全体の矯正を諸神ともに祈るというもの。
下の大意でわかるように、大体がアオウエイの五大父音が鳴り響く阿波岐原にいるということ自体、相当に修業を積まないとなかなかそこまではいかないレベル。そこでもって、言霊を駆使して、天地全体の禊祓を行いましょうというものであるから、これぞ古神道の窮極であって、その他のものではない。
また、ほとんど説明がないが、注目ポイントは、(大)伊邪那岐命に対して、小伊邪那岐命。小伊邪那岐命は、我々人間を差しているのであるが、伊邪那岐命に大小あるを示しているところは、神人和合を暗示すると見える。
ただし、帰神自体が、神に対して自分をなかなか捨てにくい技であるようなので、全体として神と自分は別であるという考え方を余り逸脱しない筆致であるところには注意が必要だと思う。
『大意
宇宙天地万有一切の大修祓は、霊系の御祖神の御分担に属する。現在『地の世界』に於て執行されつつある国祖の神の大掃除大洗濯も詰まり宇宙全体としては伊邪那岐命の御仕事である。幾千万年来山積した罪穢があるので、今度『地の世界』では非常な荒療治が必要であるが、これが済んだ暁には刻々小掃除小洗濯を行へば宜しいので、大体に於ては嬉し嬉しの善一ツの世の中に成るのである。即ち伊邪那岐命の御禊祓は何時の世如何なる場合にも必要あるものである。これがなければ後の大立直し、大建設は到底出来ない訳である。
さて此修祓は何によりて執行さるるかと云ふに、外でもない宇宙根本の大原動力なる霊体二系の言霊である。天地の間(即ち阿波岐原)は至善至美、光明遍照、根本の五大言霊(アイウエオ)が鳴り亘つて居るが、いざ罪穢が発生したと成ると、言霊でそれを訂正除去して行かねばならぬ。人は宇宙経綸の重大任務を帯びたるものであるから、先頭第一に身霊を磨き、そして正しき言霊を駆使すれば、天地も之に呼応し、宇宙の大修祓も決行される。
其際にありて吾々五尺の肉体は小伊邪那岐命の御活用となるのである。雨を呼べば土砂降りの大雨が降り、地震を呼べば振天動地の大地震が揺り始まる。これが即ち『御禊祓給ふ時に生坐せる祓戸の大神達』である。
かくして一切の枉事罪穢は払ひ清めらるる事になるが、かかる際に活動すべき責務を帯びたるは、八百万の天津神、国津神達でこれ以上の晴れの仕事はない。何卒確り御活動を願ひますといふのが、大要の意義である。何人も日夕之を奏上して先づ一身一家の修祓を完全にし、そして一大事の場合には、天下を祓清むるの覚悟がなくてはならぬのであります。』
(霊界物語30巻海洋万里巳 附記天津祝詞解から引用)