◎衆生本来仏なり
禅メディテーションをやろうと思う人ならば、一度は禅の教義を知りたいと思うものだ。ところが、基本書である信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀を見ても、ぶっ飛び過ぎて何のことかわからなかったり、十牛図に至っては説明が簡略過ぎてこれまたわからなかったりする。
あるいは、達磨の語録や禅語録、国宝になっている雪舟の慧可断臂図を見ても、師はその理由を説明しないのがエチケットみたいなところがあり、ますます面食らうものだ。
ところが白隠禅師坐禅和讃は、平易世俗の語り口の中に禅のエッセンスが置いてあり、これだけでも悟れるというような代物だ。
『白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず』
まず『衆生本来仏なり』とは、自分も他人も善人も悪人も生物も無生物も、すべて仏であるということ。これは、第六身体で自分が神となれば、この実感になるので、無と有ということで言えば、有の悟りである。
つまり『衆生本来仏なり』を実感するには、仏人合一せねばならないということ。禅を坐れば、仏人合一があるということ。
これについて、OSHOバグワンは、これは、始まりであり、中間であり、終わりであって、アルファにしてオメガであると言う。
自分も他者もすべて仏であって、一瞬たりともそれ以外のものであることはできない。それは、過去もなく未来もなくただ現在だけがあるが、それは、敏感で目覚めていて、まばゆいばかりに輝いている。
OSHOバグワンは、白隠禅師坐禅和讃は、冒頭の『衆生本来仏なり』この一句で決着をつけられているとする。後はこれの繰り返しのようなもの。
さらに
『水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし』
これは、選り好みをせよと言っているのではなく、悟りと迷い、ニルヴァーナとマーヤ、真理と現象は、二つそろって必要なものだと言っている。悟りだけでは、この世とあの世のドラマは展開しない。迷いと悟りがあって初めて展開する。
だがそんな深遠な現実の説明を坐り始めたばかりの人の誰が必要とするのだろうか。
それでも彼は、仏だからである。