アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

もっとも弱き者はかみとなって

2025-02-16 06:48:58 | ダンテス・ダイジの風光

◎永遠の旅に出る(老子狂言)

 

永遠の旅に出る

 

あらゆるものが 

そのままで 

絶対なのだ。

 

だから 

あらゆるものは 

夢として

相対し愛し合っている。

 

一つの雨だれの音声が

エメラルドの海と

完き解放の

太陽を誘そう。

 

バランスがパラノイアであれば

パラノイアは

この上ない甘美なバランス。

 

もっとも弱き者は

かみとなって

この地をつぐ。

 

複雑で不安な頭脳は

この上ないシンプル。

 

とうとう

私は

神になった。

 

あなたが神であれば

どうして

私が神でないことがありえよう。

 

さあ

すべてが終わった

私達は

永遠の旅に出る。

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【あらゆるものが 

そのままで 

絶対なのだ。

 

だから 

あらゆるものは 

夢として

相対し愛し合っている。】

これは、第六身体アートマン、すべてのすべてである神の視点。

 

【もっとも弱き者は

かみとなって

この地をつぐ。】

キリスト教では、神人合一を認めないので、キリスト者は、ここをどう思うんだろう?

 

【複雑で不安な頭脳は

この上ないシンプル。

 

とうとう

私は

神になった。】

人は、迷いと混乱と苦悩の果てに神となる。

 

【さあ

すべてが終わった

私達は

永遠の旅に出る。】

すべてが終わったとは、ニルヴァーナ、大悟覚醒だが、インドではニルヴァーナに至ったら、その後の再誕生はない。日本、中国(今の共産中国のことではない)では、一円相後にも人生という永遠の旅に出る。神あっての人、人あっての神。

 

老子狂言の目次&リンクス

ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

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だから果てしなきものに帰るがいい!

2025-02-16 06:31:17 | ダンテス・ダイジの風光

◎帰っておいで(老子狂言)

 

帰っておいで

 

自分が存在しているという世界の存在は 

結局あらゆるものに 

悪意をもっている

 

新宿駅で

飛び込み自殺があった 

係員がレールのあちこちに散った 

肉体のかけらをひろっていた

 

人間は無限なるもののかけらにすぎない・・・

これが最もごうまんなる人間の 

至高のセンチメンタル・エゴイズムだ

 

人間は無限なるものの一部にすぎない・・・ 

かけらと一部とは似たようなものだが

月とコカコーラ程の違いがある 

たいしたちがいじゃないけれどね・・・

 

人間は無限なるものの一部に過ぎない・・・

これが 

人間性の究極の深淵である

これが人間のたましいの基調音である 

これが人間性の最初にして最後の美、

あるいは人間性そのものという何ものか

 

君は果てしなきものの一部にすぎぬ

だから果てしなきものに帰るがいい!

もっとも、

その頃には、

君という人間性の夢も 

夢の中へあとかたもなく消え去っている

 

とにかく、

どういうわけか、

越えていくのさ 

越えていくんだ

石を越え 

山を越え 

彼女を越え 

いとしい娘子を越え 

スモッグを越え 

文明を越え

ニルヴァーナを越え 

越えることを越え・・・

そして 

帰っておいで  

ここに

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

まず冒頭のこれは読み飛ばす人が多いだろう。自分もそうだった。

【自分が存在しているという世界の存在は 

結局あらゆるものに 

悪意をもっている】

自分が存在しているからこそ起こる、悲劇と苦悩と不条理と新宿駅の飛び込み自殺。

 

【君は果てしなきものの一部にすぎぬ

だから果てしなきものに帰るがいい!

もっとも、

その頃には、

君という人間性の夢も 

夢の中へあとかたもなく消え去っている】

これは、神仏へのアプローチとドッキング後の忘却を繰り返す求道者の姿。

 

最後のこれは、おわりなき幾転生の果てに、何回もの人生を回顧して思う

【そして 

帰っておいで  

ここに】。

これはやさしい今ここ。

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なにもかもゆるすというところに

2025-02-16 06:06:40 | ダンテス・ダイジの風光

◎すべてがわかるっていいね(老子狂言)

 

すべてがわかるっていいね

 

なにもかも

ゆるすというところに

ただようことになるさ・・・

 

天国は素適だし

地獄は嫌だし・・・

快楽はイイし

苦痛はいやだし・・・

 

なにかも

よかったんだと

味わう時よ

時でない時よ

 

すべてを

ゆるす時よ

完全敗北の時よ

 

すべてがわかるっていいね

・・・それさえ忘れ果てて・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

これは、降伏の詩。水平の悟りにあって老子の生き方を狂言するとは、このようなことなのだろうと思う。

降伏にはパワーと情熱が要る。

 

すべてがわかる無想三昧を経ても、それさえ忘れて生きる。

【すべてがわかるっていいね

・・・それさえ忘れ果てて・・・】

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クンダリーニの取扱-2

2025-02-16 03:59:58 | 開拓されるべき地平たち

◎原担山のような逸話

 

OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”の仮訳の続き。

 

ポイントは、以下。

  1. クンダリーニ・ヨーガの技法は、性的成熟以前に修錬するのがベターである。
  2. クンダリーニ・ヨーガの技法は、性的成熟以後にスタートする場合、大変困難となる。
  3. 間男された聖者の逸話は、禅僧原担山の境地の高さを傍証するもの。

 

「クンダリーニ・ヨーガの修錬は、思春期以前がベター」とOSHOバグワンは説くが、それを学校教育で行うのは、時期尚早と思う。

 

『(仮訳)

私に関する限り、全世界がセックスを自然現象として捉えない限り、直接的なクンダリーニ法に未来はありません。そして、性的成熟前に使用されるクンダリーニ・テクニックはありません。性的成熟前にクンダリーニの道があなたの中に作られない限り、たとえセックスが自然に捉えられたとしても、あなたが変態になることはないかもしれませんが、ただの動物になってしまう可能性は大いにあります。

 

ウパニシャッドからの物語をお話しましょう…。

 

ある聖者が妻と息子と一緒に座っていました。そこを通りかかった男が妻に恋をし、自分の家に一緒に来てほしいと頼みます。妻は男と一緒に行ってしまいます。聖者からは批判も反対もありませんでしたが、息子は怒って父親に言いました。「これはただの動物的行為だ。動物がすることと同じだ。こんなことは許されない。私が道徳律を作るときには、こんなことは許さない。これは動物がすることと同じだ。」

 

父親は言いました。「これは動物がすることと同じではない。逆に、あなたの激怒、あなたの怒りこそ、動物がすることと同じなのだ。それは動物のように、道徳的暴力の表れだ。実際、動物でさえ、今起こったことを許さないだろう。彼らは戦うだろう。動物は永遠に所有物に固執しない。」

 

この父親の態度、彼の態度は本当に高尚なものです。理解することは難しいかもしれません。彼は、あなたの態度は動物のようだと言っています。動物は自分の配偶者のために戦います。彼らは縄張り意識と所有欲を持っています。そして、あなたがそれを侵害すれば、彼らは戦うでしょう。しかし父親は言います。「私は人間だ。もし誰かがあなたの母親を見て恋をしたとしても、誰も悪くない。そしてもしあなたの母親がその気なら、私は何者だ?私も同じように彼女に恋をしたのだ。何も変わらない。ちょうどこのように私は彼女に恋をした。彼女は結婚することに同意し、私の妻になることに同意したが、私の所有物になることに同意したのではない。他の誰かが恋をした。私は人間の弱さを知っている、なぜなら私自身も恋をしたことがあるからだ。だから何も間違ったことは起こっていない。そして私は動物ではないから、このために戦うことはできない。私は彼が私と同じ人間であることを知っている。そしてあなたの母親は美しい。私も彼女に恋をしたのだ。」

 

しかし、これは非常に高度な道徳であり、もしあなたが訓練を受けていなければ、性的成熟前にそれを養うことしかできません。性的成熟後には、エネルギーを流すことができなくなり、非常に困難になります。しかし、もし性的成熟前に道筋ができていれば、エネルギーはセックスと同じくらい自然にその中を流れます。そして、この男、この父親、この聖者は、クンダリーニを知っていたに違いありません。そうでなければ、彼のような態度をとることはできなかったでしょう。それは不可能です。この聖者はクンダリーニの発達、つまりエネルギーが上昇している状態だったに違いありません。そうでなければ、このような態度は決して生まれないでしょう。』

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