◎その心を捜しているがみつからない
さらにOSHOバグワンは、空虚について説明するが、そのおおよそは以下。
- 瞑想の中で、時に一種の空虚が感じられることがあるが、それは、本物の空虚ではない。それは、数秒の間の思考の停止である。だがそれも新たな思考である。よってそれが起こっても、何もせず、ただ待つ。
- 最初のうち、それはどうしても発生するが、何もせずただ待つ。
- このことについて、OSHOバグワンは、禅語録無門関第41則の次の話を例として挙げる。
(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)/OSHO P292-295)
洞窟の中で、達磨は、面壁で坐禅していた。しんしんと雪の降る中、後に最初の弟子になる慧可が切断した臂を持ってやってきた。
慧可「私の心は安心していません。師匠、私の心を安心させてください。」
達磨「お前の心をここに持って来なさい。そうしたら安心させてやろう。」
慧可「その心を捜しているが全然みつかりません。」
達磨「お前は既に安心した。」
さて、雪の降る中自分の臂を切ってマスターに見せに来るというのは、いかにも凄惨な狂気の図ではある。だが、生死を越えるとか逆立ちしてブリザードを耳で見るとかという次元であれば、そういう話は出てくるものだ。
またグロな話が嫌いな人向けには、そもそも慧可は他の弟子と修行中に強盗に臂を斬られてしまっていたという話もある(無臂林)。
さて「私の心」が、OSHOバグワンの言うところの本物ではない「一種の空虚」にあたる。達磨は、慧可に対して「一種の空虚」をも棄てなさいと示して、慧可は、本物の空虚を得たのだ。
その機微がわかる雪舟とそれを国宝として伝承してきた日本の禅者の系譜に対してはただリスペクトあるのみである。そしてそれを例として引いて来るOSHOバグワンも禅マスターである。
【雪舟 慧可断臂図】:達磨も慧可も眼球が上を向いている。