唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦の軍乱12 田承嗣の反乱

2017-09-23 12:30:04 | Weblog
大暦10年正月
[旧]己酉,昭義牙將裴志清逐其帥薛崿,薛崿奔洺州,上章待罪。志清率衆歸田承嗣。
[新]丁酉,昭義軍兵馬使裴志清逐其節度使薛崿,叛附于田承嗣。
[通]丁酉,昭義兵馬使裴志清逐留後薛萼,帥其衆歸承嗣。承嗣聲言救援,引兵襲相州,取之。崿奔洺州,上表請入朝,許之。

[背景]
大暦8年正月、自立はしていても比較的唐朝に従順であった史朝義の降將相衛節度使薛嵩[領州相衛邢洺貝磁の六州]が卒します。子の平は12歳であり継承できません。叔父の薛崿に譲り郷里へ戻ります[後唐朝に仕え節度使を歴任します]。しかし崿は統治能力が低く、配下の諸将は動揺します。

隣国の同じく史朝義の降將魏博節度使田承嗣[領州魏博德滄瀛の5州]は唐朝に反抗的であり、過大な軍備を行いますが、経済的には苦しい状況に追い込まれ、領土の拡大を虎視眈々と狙っていました。しかし周囲の成德李寶臣・淄青李正巳・幽州朱泚などは強力であり手を出すことはできません。

そこで弱体化した相衛の驍將裴志淸達をそそのかし、相衛6州を併呑することを計画しました。

[結果]
軍乱は成功しました。田承嗣は相衛貝の3州を得ることが出来ましたが、周囲の藩鎭の包囲攻撃を受けて苦しみました。唐朝もこれを自力では征討する力がなく、周囲の藩鎭は自分の勢力拡大を図るのみであり、汴宋節度使の反乱もあって中途半端に赦宥しました。魏博も德滄瀛の3州は淄青・成德・幽州に奪われ勢力的にはあまり拡大できませんでした。この後田承嗣は老耄し消極的になります。この乱で最も利益を受けたのは領域が倍増[德州や汴宋の過半を得た]した淄青平盧の李正己です。裴志淸は田承嗣に仕えます。
邢洺磁の三州は唐朝の支配下に残り、澤潞二州と合わせて昭義軍節度使となります。李抱玉-李抱眞の指揮で強力な軍事力を持ち、河北の三鎭を牽制する力になりました。

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