唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

背信  [太宗と李勣]

2025-04-11 10:00:00 | Weblog

背信  [太宗と李勣]
------------------------
貞觀二十三年五月

「疉州都督を命じる、ただちに赴任せよ」

突然の左遷命令に宰相李勣は愕然とした。なんの原因も思い当たらない。

竇建徳や王世充と戦っている頃からの太宗を戦友と信じ、

困難な高久麗遠征にも全力で忠誠を尽くしていた勣である。

「たよりない皇太子をしっかり補佐してくれよ」
と病身の太宗から涙とともに頼まれ、感激して拝受したばかりであった。

「本当は、陛下は俺など信じてなどくれてはいなかった。すぐ裏切る盗賊上がりとみていたんだ。俺はまんまと騙されていたんだ」

家にも立ち寄らず疉州へ赴任する道で勣はどんどん覚めていった。
「皇帝など信用出来ない、二度とだまされない」

死期が迫った太宗は、皇太子治を呼んで言った

「勣は名将だ、俺は重恩を与え奴を使いこなせた。しかしお前からはなんの恩もうけていないのだ。使いこなすのは難しい」
「勣がぐずくずして赴任しないようであれば殺してしまえ。すぐ赴任するようなら、またお前が登用して恩を与えればよい」

即位した太子[高宗]は勣を再び任用して宰相とした。
しかし恩を謝する勣の内心は冷え切っていた。

*******背景*******

李勣は東都征圧や竇建徳と太宗とともに戦い、党項や吐谷渾の征討、太宗の大失策であった対高麗戦などにも勇戦し、厚い信頼を受けていたはずだった。

太宗には大きな功績をあげた将軍を、弾劾させてから赦すという悪癖がああったが、ここまで勣は免れてきた。

対高麗敗戦以降、太宗の精神状態はおかしくなり、張亮や劉洎のように冤罪のために誅殺されることが増えてきて、勣も不安であったが、太宗は厚い信任を示していた。

李勣は宰相の一員であったが、武人であるため行政には関与していなかった。

疉州は辺境隴右道の小さな州でそれまで都督府などは置かれていなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僞勅  [監軍王定遠の横暴]

2025-04-10 10:00:00 | Weblog

僞勅  [監軍王定遠の横暴]
--------------------------
貞元十一年七月の河東節度使府である。
「ついては節度使李說を解任し、行軍司馬李景略を留後という勅命がくだった」
監軍の王定遠(宦官)は壇上で甲高い声をあげていた。

壇下の諸将は不満げにざわめき、お互いに顔をみあわせていた。
說は節度使として有能ではないが、けっして嫌われてはいない。

定遠は說を無視して専権を振るい、軍内の評判は極めて悪い。

先日も逆らった軍人をひそかに殺して馬糞の下に埋めさせていた。
なぜかそのことは諸将にも知れ渡ってしまっていた。

說にそのことを責められ逆恨みし、朝廷に報告されないうちにと、勝手に解任しようとしていたのだ。

諸将が納得していないのを見て取った定遠はさらにいった。
「おまえ達の昇進の命令もここにたくさん来ている」
そして横においてある書類箱を指さした。
さすがに諸将は関心をもって命を奉じようとした。

その時、定遠の背後にいた大将馬良輔は叫んだ
「こいつは大嘘つきだ、箱の中は古い告示文だけだぞ」

定遠は自分の嘘がばれたことをしり逃げだした。
そして塔にこもって部下を呼んだが、誰も応じようとはしなかった。
やがて身を投げて自殺しようとしたが死にきれなかった。

処罰が降り崖州に流された。

*******背景*******
貞元十一年五月河東節度使李自良が卒した。後任の節度使を決める時、監軍王定遠は行軍司馬の李說を熱心に推薦した。そのおかげで說は節度使に昇進した。

說はお礼に初めて「河東監軍印」を作り定遠に大きな権限を与えた。
監軍印は他鎭にも急速に広がり宦官監軍の権限が強くなる端緒となった。

定遠は說を無視して軍政を壟断するようになり、気に入らないと殺してしまった。
さすがに說が定遠を叱ると、抜刀して說を刺し殺そうとした。
そして廃位しようとして騒ぎを起こしたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受忍  [婁師德の生きる知恵]

2025-04-09 10:00:00 | Weblog

受忍  [婁師德の生きる知恵]
----------------------------------
長壽二年正月

寛厚で清廉で知られた宰相婁師德は、才智あふれる敏腕の同僚李昭德とともに入朝していた。
広大な宮庭を肥満体の師德はのろのろと歩んでいく、
若く元気な昭德は進んでは待ち、また進むの繰り返しであった。

いらいらした昭德は思わず「田舎者めが」と吐き捨てた。

師德は笑って「私が田舎者じゃなかったら、誰が田舎者なんでしょう」と言った。

さすがの昭德もことばが出なかった。

また師德の弟が代州刺史に昇進した。

兄弟揃っての栄進に師德は弟を呼び出して戒めた。

「私が宰相、お前が刺史となれば、人の妬む所だ。いかなる誣告があるやもしれない、どうすれば逃れられるかお前の心構えはどうかな」

弟「たとえ顔に唾を吐きかけられても拭うだけでがまんします」

師德「それだから心配だ。拭うと言うことは逆らうということだ。そのまま笑って乾くのをまつのがよいのだ」

---------背 景------------

則天時代は多数の酷吏が暗躍し、讒言・誣告が横行し、則天はそれを使って宰相・高官を殺害・配流・罷免するという恐怖政治の世界であった。

自分がいつ告発されて陥れられるかわからない緊張の中で師德等は生きて来たのだ。

没落しない爲には則天の寵愛を受け続けるか、誰かに憎まれたり妬まれたりしないことが必要であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厚遇   [河北三鎭の分裂]

2025-04-08 10:00:00 | Weblog

厚遇   [河北三鎭の分裂]
--------------------------

「魏博で軍乱がおきたようだの」と憲宗
「幼少のものでは牙軍は抑えられませんからな」と李吉甫

そこへ宰相李絳がやってきて言った。
「新たに推された田興は魏博六州を朝廷の管轄に戻すと上奏してきています」

「まさか、そんなことはあるはずがない」
「いや本当です。官吏の任免も求めてきました」
「興は田家の傍流です。そのため朝廷の早期の承認が必要なのです」

「魏博が味方になれば、成徳の王承宗や平盧の李師道を分断できる」
「田興を留後として認めてやろうか」

河北三鎭等の半独立の節度使は、まず自立した者が任命を願い出て留後となり、牙軍が節度使として推薦してそれを朝廷が認めるという方式をとってきたのだ。

李絳が言った。
「留後では牙軍のおかげで昇進したということになります」
「一気に節度使に任命しましょう。彼は帝恩に感泣し、牙軍をはばかる必要がありません」
「そうだな名前も与えてやろう、”弘正”はどうか」と帝も乗り気になった。
「将兵への恩賞もはずみましょう。牙軍も不平を言わなくなります」と絳

前例のない速さで、興は節度使に任命された。
將士も莫大な賜物を与えられ、文句なく忠誠を誓い、弘正の地位は安定した。

*******背景*******

魏博の位置は成德・淄青の中間にあり、魏博が唐に帰属すると反唐地域は分断され弱体化する。当時、幽州・義武・横海は唐よりであり情勢は大きく好転するのだ。

傍系より牙軍の推しで立った田興[弘正]の立場は不安定であったが、憲宗の果断で迅速な任命と支援はその立場を強化した。

弘正は成德帰服の仲介をなし、淄青征討に大きな貢献をした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

擁立される [田興の悩み]

2025-04-07 10:00:00 | Weblog

擁立される [田興の悩み]
--------------------------
元和七年魏博節度使田季安が32才で卒した。

河北三鎭の一つ魏博節度も承嗣.悅.緒.季安と4代続いていた。

承嗣・悅は反唐姿勢が明白だったが、唐より嘉誠公主を降嫁してもらった緒の代よりあいまいになった。
公主を義母とした季安は若くして継承し、反唐の成德王承宗を陰で支援したりしたが、成德・淄青・淮西の反唐同盟には属さず、両端を持していた。

そして乱行と深酒のため若死にしたのである。
継承すべき子の懐諫はまだ11才である。

当然藩鎭圧迫策を行う憲宗皇帝はなかなか継承を承認しない。
驕兵である牙軍もさすがに動揺している。

季安の卒後まもなく、いちおう懷諫を擁立はしたが、実務は家奴の蔣士則が取っていた。

「士則のやつ、奴隷のくせにえらそうに俺達に指示しおって」
「戦乱が続くこの時期、小僧に節度使がやれるのか」
「都指揮使の興様こそふさわしい」

数千の牙兵が、田興の屋敷を取り囲んで気勢を上げている。

「しかし俺は傍系だ、嫡流の懷諫を押しのけることなどできん」
と儒学を学んだ興は名聞にこだわる。

「そんなことでは牙軍に田一族が追い出されてしまいますよ」と側近

そこで興は出座して、説得しようとするが、牙兵達はいきり立ち、自立を要求する。

しかたなく興は言った。
「魏博六州を皇帝の支配下に移すつもりだ、それと懷諫様に危害をくわえるな」
「そのことを皆が承知するなら俺が節度使になる」

オーッと深く考えもせず牙兵達は歓声をあげ承認した。

興は自宅に帰り一人悩んだ。
「朝廷は継承をなかなか認めない、まして正統ではない俺を認めるだろうか?」

*******背景*******

田興は田一族であり、父庭玠は軍事を好まず文官として働いていた。興も儒学を学んだが、指揮使となった。將士に人望があり季安の疎まれ、外任に出されていたが、懷諫継承時に都指揮使として抑えの地位に就いていた。

季安は成德王承宗の反乱を指嗾し、憲宗の征討命令には従わなかったが、正面からの敵対行動にはでていなった。暴虐であり深酒もあり將士のうけはよくなかったが、代々の田氏の統治と、公主の養子であるということからなんとか地位を保っていた。

魏博の牙軍はこのころから専横さが強くなり、武寧軍と並んで非常に扱いにくい驕兵になっていく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出家  [幽州節度使劉總の苦悩]

2025-04-06 10:00:00 | Weblog

出家  [幽州節度使劉總の苦悩]
--------------------------
今日もたくさんの僧達が読経をつづけ、寺院ともおもいかねない節度使の邸。
僧達に混じって節度使の劉總もまた必死に読経を続けてきた。

夜が来るのが恐ろしい。
読経に疲れ果てて眠るわずかな睡眠だけが總の休養だ。
毒殺した父、暗殺した兄や弟の亡霊が次々に總を苦しめる。

「朝廷にお願いした件はどうなった」
「殿は天平節度使に御転任です。幽州には元宰相の張弘靖様が来られます」
「天平などは不要だ、ただ出家の許可が欲しいだけなのだ」
「殿の功績を考えると一挙に僧というのはと・・・」
「早く僧となって心の安静を得たい、地位や封爵などどうでもよい」

魏博・成徳が帰順したあと、残った幽州も朝廷の支配下に戻ろうとしていた。

しかし總には今の朝廷のやり方ではすぐに破綻することは目に見えていた。

總の一族には中央で官爵をもらい、面倒な諸将は京師に赴かせて神策軍に組み込む
幽州も三分して統治すべきたなど数々の献策をおこなってきた。

しかしそんなことより今は一刻も早く安静が得たい・・・・。

長慶元年四月、義武節度使は奏した。
「總様は出家し、幽州を出ようとし、義武との境界に於いて亡くなられました」

總の献策は一族の処遇以外はあまり実行されなかった。
幽州から瀛莫二州は分割されただけ、朱克融のような不満の將達は登用されなかった。

七月幽州軍乱・八月成徳軍乱・二年正月魏博軍乱、河北三鎮はまたすべて失われた。

*******背景*******
元和年間、憲宗皇帝のもとに唐朝は藩鎭抑圧をすすめ、淮西・淄青を亡ぼし、義武・横海・魏博は帰服し、成德をも征圧した。あとは幽州のみとなったが、十五年憲宗は皇太子の策謀により宦官に殺された。太子は即位して穆宗となったが、遊び好きの無能であり、宰相達も戦略の無い凡庸なものが並び、急速に体制は弛緩していった。
しかし長慶元年、憲宗の余徳により残る幽州劉總も歸順を求め全国制覇が実現した。
ただまだまだ不安定な状況であるにも関わらず、無能な穆宗・宰相体制のため、河北三鎭は次々と反乱し唐朝の覇権は短期間にくずれていった。

幽州劉總は前節度使の濟の次子であったが、後継者の兄緄が謀反したと誣告し、狼狽した父濟を毒殺し、罪を緄になすりつけて殺し自立した。
その後、唐朝に協力姿勢を示し、節度使となり、成德征討で功績を上げていた。そして魏博・成德・淄青・淮西が鎮定されるのをみて、自家の保身を図って唐朝に帰服しようとしていた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

起死回生 [李義府の挑戦]

2025-04-05 10:00:00 | Weblog

起死回生 [李義府の挑戦]
-----------------------

「ああもうだめだ。俺の今までの努力はなんだったんだろう」

中書舎人李義府は門下省からきた人事案をみて落胆していた。
そこには義府を山西の壁州司馬に左遷すると書かれていた。

義府はそんな左遷されるほどの失態を犯したわけではない。ささいなミスだ。
しかし義府のような進士あがりの成り上がりを嫌悪する門閥派にとっては理由になるのだ。義府は太尉長孫無忌の己への冷たい視線を感じていた。

ど田舎よりひたすら学問に打ち込んで、少しずつ昇進してきたのに、これですべて元の木阿弥である。再チャレンジなどはありえない。

「どうした、そんな青い顔をして、どこか悪いのか?」と同僚の王德儉が心配して聞いてきた。

「俺はもう終わりだ。明日僻地へ左遷になるんだ」
「うーん、これはひどいな、ひどすぎるな」
「無忌様もひどいことをする」

「おまえ、危険を犯す気があるか、一発逆転をねらって」気の毒に思った德儉が聞く
義府は「なんでもする。その逆転策を教えてくれ」とすがった。
「失敗したら左遷どころではすまないぞ」
「失敗しても恨まないし、君の名も絶対出さない、教えてくれ」

「陛下は武貴妃を皇后にしたがっている。しかし宰相達は同意せず、無忌様を懼れる誰も上奏しようとはしない。君が率先して提案したら陛下は君を守るだろう。しかし無忌派の敵意はもろに受けるぞ」

「もう後が無い身だ。無忌にはもう憎まれている。怖いものはない、やる」

その夜の当直を代わってもらった義府は、夜間になると「緊急の上奏があります」と申し出た。

緊急と聞いてあわてて高宗皇帝は臨御し上奏文を読んだ。そしてすぐ宦官を派した。
まもなく背後の御簾の陰に女が立った。高宗はその女に上奏文を見せた。

なにやら高宗と女の間にやりとりがつづいた。

やがて高宗は「なぜ昼間に上奏せず、今夜なのだ」と下問した。

義府「貴妃立后の意見は多くの者がもっています。しかし無忌様達を懼れて誰も言い出しません。無忌様は私がこの意見なのを知り、僻地への左遷を決めました。明朝には陛下のもとに左遷人事案が参ります。私には今夜しか上奏する機会がないのです。」

高宗は満面の笑みをみせ「わかった。左遷は絶対させない、昇進をさせてやろう」
「無忌を懼れる必要はないことを皆に示す」

義府が退出すると、高宗・貴妃より莫大な賜物が届いていた。

翌日義府は中書舎人から中書侍郎に昇進した。

*******背景*******

高宗は太尉長孫無忌や門閥貴族の傀儡でした。その要求する王皇后と皇太子忠を押しつけられ、宰相陣はすべて無忌の息がかかっているもので占められていました。

無忌は高宗が太宗の側女であった武氏にまで手をだしたのには呆れていました。しかし鮮卑族などの伝統では父の女を息子が引き継ぐことはあり、たかが女のことと大目にみていたのです。

そして武氏は貴妃となり皇后をねらいました。

それは無忌のゆるすところではありませんでした。
提案は宰相全員の反対をうけ高宗は撤回するしかありません。

その時この事件がおきたのです。永徽五年のことです。

官僚達の中に支持勢力[許敬宗.崔義玄、袁公瑜等]があると知った高宗は、貴妃とともに無忌排除を進めていきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廃太子その2 [長孫無忌の暗躍]

2025-04-04 10:00:00 | Weblog

廃太子その2 [長孫無忌の暗躍]
----------------------
貞觀十七年三月、目付役の長史權萬紀に追いつめられた齊王祐が齊州で反したがすぐ誅された。

その騒動がまだ収まらないうちに皇太子承乾の麾下紇干承基が太子が漢王元昌や宰相侯君集とともに謀叛を企んでいると告発した。

たしかに承乾は太宗に不満を持ち、その行状は蕃族の様態で、太宗のめざす漢化や文治にはほど遠い状況であった。
弟の魏王泰はしきりに太宗に誣告したため、承乾の泰への憎しみは強く兄弟相克の危機の兆しはあったが実際に謀叛が計画されていたかは不明である。

四月太宗は承乾を廃し、魏王泰を代わりに立てようとした。

無忌は焦った「泰が太子となり即位すれば、今のように重用されないだろう。あいつは傀儡となる男ではない」

「承乾と泰様の対立が今回の事件の根源です」
「泰様が即位されるということになれば、承乾やその子孫は無論、弟晉王・吳王様もご無事かどうか」
「泰様はもう自分が後継になるのは当然として、晉王様を威嚇されております」
などと無忌は太宗に吹き込んだ。

太宗は泰が自分によく似て果断なことを知っている。

太宗は建成や元吉の子をすべて根絶やしにしている。

「わが家は兄弟で殺し合うのが習いなのか・・・・」と太宗は嘆じた。

「国家の安定のためそのような習いは断ち切るべきでしょう」と無忌

「どうすればよいのだ。朕にはわからん」

「穏やかな晉王治様を皇太子にお立てになればよいのです」
「そうすれば承乾・泰・恪様達や御子孫も安泰でしょう」

「治か、あんなたよりない奴を」

「国家は安定し、羽翼は揃っています。次期皇帝は守成の方がよいのです」

結局、太宗は無忌の強い推薦により晉王治を立てることにした。

*******背景*******
現状に不満・不遇な者達は次代の継承者の周辺に集まります。
漢王は粗暴で太宗に嫌われ、君集はその大功にケチをつけられ不満でした。
承乾の素行は文治派からみれば問題だらけで、帝国の状況を考えれば廃立問題がでてくるのは時間の問題でした。しかし実際に謀叛が企画されていたかは疑問です。

魏王の周辺には次代での栄進をねらう、元宰相王珪・韋挺・杜楚客などの有能な者がとりまき次代を担う体制を作っていました。それが無忌や房玄齡・高士廉などの現在の重臣にとっては目障りでした。

無忌達は、凡庸でおとなしく、周囲に人材を持たない晉王治を推戴し、傀儡皇帝として地位の安泰をはかったのです。太宗としてもまだまだ引退する気はなく、泰の有能さは迷惑な所がありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廃太子その1 [長孫無忌の苦悩]

2025-04-03 10:00:00 | Weblog

廃太子その1 [長孫無忌の苦悩]
----------------------
「困ったものだ、あれでは皇帝は務まらん、鮮卑の可汗だよ」

太宗の重臣で皇后の兄長孫無忌は嘆じた。

皇太子承乾の行状である。

もともと唐の皇室李氏は鮮卑族であり、長孫氏も鮮卑拓抜系の蕃族である。
だから承乾が蕃族としての生活を好み、性格もそうなるのは当然だ。
しかも承乾は無能ではなく武藝に優れている。

しかし今は名君気取りの太宗が文治の徹底に励む世である。

「確実に衝突するなこれでは、代わりを考えておかないとな」

太宗にしても兄の皇太子建成を攻め殺したわけであり、承乾が父太宗を殺そうとするかもしれない。侯君集など不満派で武力を持つ取り巻きはいるのだ。

「しかしあいつもな、文人気取りが鼻につくわ」

太宗の一番のお気に入り四男魏王泰のことである。
名君ごっこの太宗に迎合し、有力な文臣を周囲に集め、括地志等を編纂して上納している。当然承乾と泰は犬猿の仲である。

「あいつが即位したら、俺には何も関与させない、お飾りにするだろうな」と無忌。

他に吳王恪もいるが、そうなったら長孫氏は外戚にはなれない。

悩みは深くなるばかりである。

*******背景*******

武德九年即位した太宗はすぐ長子承乾を皇太子とした。

唐朝の皇太子はなにも仕事はない、ひまな承乾は狩猟や武藝にのめりこんだ。
もともと騎馬民族である鮮卑の出身であり、周囲には蕃族出の武人がとりまいた。

侯君集は安西征討に大功をあげた名将だが、自分も武将である太宗はその功績を妬んで過失をあげつらうことが多く、不満を高めていた。

魏王泰は元宰相の王珪など多くの有能な文臣を集め、太宗が喜ぶ文治を推進していた。

長孫無忌の妹皇后は、承乾・泰・晉王治の三子がいるが、名門である隋煬帝の娘楊妃には吳王恪と蜀王愔がいて有能だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やり過ぎ   [武寧牙軍の横暴]

2025-04-02 10:00:00 | Weblog

やり過ぎ   [武寧牙軍の横暴]
--------------------------
「横暴な武寧軍の兵士を抑えるには・・・という方法で」
「単なる進士出身の者には・・・無理でしょうね」

先ほどより帝前では、大府卿崔珙が滔々と論じていた。

自立して節度使となった王智興が転じた後、彼がさんざん甘やかせた武寧軍の兵士達は、新任の節度使高瑀を追い出したのであった。

瑀は忠武軍節度使としては有能なほうであったが、無頼の武寧軍を抑えることはだきなかった。

「兵士の集団を扱うときは・・・」まだまだ珙は調子に乗って論じていた。

「三年勤めると大金持ち、五年勤めると孫の代まで」といわれる実入りの良い嶺南節度使を約束されて気持ちが高ぶっていたのだ。

文宗皇帝はすっかり感心してしまった。
「朕はそなたを武寧軍節度使にすることにした。嶺南は王茂元にでもやらせよう」

珙は愕然として己のやりすぎを悟った。
しかし今から引くことはできない。

「承知しました。武寧をしっかり抑えてみせましょう」

そしておのれのおしゃべりを悔いながら退出していった。

しかしなんとか任期中は強暴な武寧軍を抑えきって右金吾大将軍、京兆尹として出世していった。

*******背景*******

徐州武寧軍節度使は、自立した強大な淄青平盧軍節度使を抑えるために作られた方鎭で、憲宗によって淄青が解体された後も、その牙軍は自立心が高かった。

長慶二年その將王智興は節度使崔羣を逐って自立した。しかし自立を追認された後は、宣武軍・横海軍の反乱鎮定に功績をあげたが、同僚だった牙軍諸将を抑えかねて、太和六年には他鎭への転任を願い出た。

そのため忠武軍節度使高瑀との交代となったわけである。瑀は清廉で忠武軍を統制していたのだが、まもなく強暴な武寧牙軍は統制できなくなって交代を求めてきたのである。

崔珙はなんとか抑えきったが、後任の節度使達はしばしば軍乱に逐われ、ひたすら牙軍を甘やかすしかなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする