唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

復讐 [専殺は不可]

2025-03-19 10:00:00 | Weblog

復讐 [専殺は不可]
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「ならんと言われるのか!!」
河東節度使李載義は怒りに震えて喚いた。

三年前の太和五年正月、幽州節度使であった載義は、信用していた後院副兵馬使楊志誠の突然の裏切りによって逐われた。

それだけならよくあることである。しかし志誠は載義の妻を犯し、部下やその家族を虐殺したのであった。

京師に逃げた載義は、朝廷にはそれまで忠義を尽くしていたので山西節度使として拾われ、その後河東節度使へ転任してきた。

自立した志誠は朝廷に対して不遜な態度を示していたが、
今。志誠もまた軍乱に逐われて京師へ逃亡して来るという。

載義はその途次を襲い怨みをはらそうとしていたのだ。
「志誠は不忠とはいえ朝臣です。法の裁きがなければ殺してはなりません」と使者が言う。
「きゃつがしたことへの復讐だ。このままでは武人として俺の面目が立たない」
「たとえ免官となろうとも、怨みをはらさねば、部下達にあわせる顔があろうか」
とはいいつつもも、載義は朝廷の恩との間で迷っていた。

使者は「勅命をよくお読みください、志誠を殺すことはまかりならんと」と繰り返した。
「志誠を・・・・・か」
やがて載義はにっこりして言った。「臣、確かに勅を奉じます」

そして部下達に命じた「徹底的に襲え、だが絶対志誠を殺してはならん」
襲撃が実行され、志誠の財産は奪われ、家族や部下のほとんどは虐殺された。

ただ数人の部下とともに志誠はほうほうの体で京師にたどりつくことができた。
その後志誠は有罪とされ嶺南に流され、途次に誰かに殺された。

*******背景*******
寶暦二年九月、兵馬使李載義は唐朝に反抗的だった幽州節度使朱克融の子延嗣を殺し自立しい、朝廷へよしみを通じた。

そして反乱した横海李同捷を北邊から圧迫し、征討をなんとか成功させた。その功績により太保平章事を加えられていた。
河東節度使としては横暴な回紇の使者に毅然とした態度を示し敬服させた。

唐朝では「専殺」と称して、勅命のない殺害、特に官吏への殺害は表面上厳しく禁じていた。志誠の場合も朝廷としては殺すことには異議はなかったが、裁判も無く、載義の専殺は認めるわけにはいけなかったわけである。判決後に密かに殺害することは黙認されていた。

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切り捨て [宋申錫と文宗皇帝]

2025-03-18 10:00:00 | Weblog

切り捨て [宋申錫と文宗皇帝]
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太和五年二月、神策都虞候豆盧著は左神策軍中尉王守澄[宦官]に、宰相宋申錫が文宗皇帝の弟漳王湊を奉じ、即位させようとしていると告発した。

実は文宗が宋申錫と謀議して、宦官達の勢力を削り、特に王守澄を除こうとしたことへの先制攻撃であった。謀議は京兆尹王璠が守澄に寝返ったことからバレていたのだ。

宦官達は謀臣鄭注の案に従い、直接文宗は攻撃せずに、申錫の罪として作り上げたのだ。

守澄はなにもかも知った上で「我々があなたを立てたように、申錫は漳王を立てようとしているのです」と詰め寄ると。

若い文宗はたちまち動揺し「朕はなにも知らぬ、申錫はなにを考えているのか」としらをきった。

守澄はただちに神策軍を派遣し申錫一族を誅殺してしまおうとした。

ところが右軍の幹部飛龍使馬存亮は「他の宰相と協議もしないでは」と同調しなかった。

召された宰相牛僧孺達は逡巡していたが、ろくに証拠のない告発には懐疑的であった。

崔玄亮など諌官達は冤罪を訴え、情勢が不利になってきた守澄達は、申錫の解任と配流
で手を打つことに変更した。

申錫は文宗に裏切られ、解任され流されてやがて死んだ。

*******背景*******
陋劣な敬宗皇帝が遊び仲間に殺されたあと、愚行に辟易した王守澄達幹部宦官は、まともな皇帝を求めて真面目な江王[穆宗次男、敬宗の異母弟]を擁立した。

即位した文宗が真面目に政務をとると、宦官達の横暴が気に入らなかった。
そこで信任する翰林学士宋申錫を宰相とし、宦官を抑えようとした。
ところが申錫が仲間と思っていた京兆尹王璠が守澄と通じていた。
守澄は文宗の忘恩を怒ったが、直接皇帝を攻撃することは憚った。
鄭注の提案により、「俺達はお前以外でも擁立できるのだぞ」と脅しをかける意味から、賢明と言われていた漳王[穆宗の六子.文宗の弟]を持ち出してきた。

文宗は申錫の謀叛などは信じていなかったが、自分達の謀議が宦官達に漏れているのを知って脅え、すべての責任を申錫に押しつけることにした。

宦官達も派閥があり、守澄達は神策軍でも左軍に属しています。馬存亮など非主流の右軍は殺害に同調しなかったわけです。

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復位    [崔胤のクーデーター]

2025-03-17 10:00:00 | Weblog

復位    [崔胤のクーデーター]
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「くそ! おもしろくもねえ」
「宦官どもが正統な帝を幽閉するなんて許せるのか!!」
場末の飲み屋で左神策指揮使の孫徳昭が今夜も喚いていた。

時は光化の末、唐朝もすっかり衰えて京師付近にしか勢力が及ばない。
それでも昔の余光のおかげで地方の節度使からの献納はまだまだ馬鹿にならない。
政府が混乱しているのに乗じて、徳昭も甘い汁をすこしは吸ってきた。

「多少の余得がないと、兵隊業なんてバカバカしくてやってられねえ」

もともとは鹽州地方からの出稼兵ぎである徳昭は禁軍の將の誇りや、忠義心などはさらさらないのだ。

ところが先頃、宦官劉季述達が酒乱の昭宗皇帝を幽閉し、太子を立てて政権を握った。
それだけなら、徳昭達にはどうでもいいのだが、一味の宦官王仲先が規律を締め、勝手に官物を流用できなくしてしまったのだ。

急に忠誠心を起こした徳昭、今日も飲み屋で酔っぱらってわめいていた。

「その気持ちは本当かい?」暗いところにいた小男から声がかかった。
ギクッとした徳昭がそちらをみると、宰相崔胤の家臣石晉であった。

「本気ならうまい話があるんだが」なと晉。
崔胤は宣武節度使朱全忠と結ぶ反宦官派の有力者であったが、今回の変で失脚していた。

警戒した徳昭だが「ああ、本気だぜ」「でもな小物の俺達がなにを喚いてもなんもできん、なにをしたらいいのかもわからん」と囁いた。

「宰相様には頭があるが兵が無いんだ」
「やってくれるなら、富貴が欲しいままなんだがな」と晉。

天復元年正月、崔胤の指示を受けた徳昭達が、劉季述達を斬り昭宗皇帝を復位させた。
そして徳昭は李繼昭と賜名され、節度使同平章事となった。

*******背景*******

唐朝はすっかり衰亡し、各地に李克用・朱全忠・王建・楊行密などの勢力が割拠し、近くは鳳翔李茂貞や華州韓建に脅かされる地方政権に没落していた。
光化三年には朱全忠と通じた宰相崔胤が専権していた。
魯鈍で宦官の傀儡であった僖宗とは違い、普通であった昭宗だが、なすことが全てうまくいかず苦悩し、それが昂じて酒乱となり、狂乱しては宦官や女官を殺害する事があった。
そこで幹部宦官の左右神策軍中尉劉季述、王仲先等は昭宗を押込め、皇太子裕を即位させた。
また宰相崔胤を殺そうとしたが、朱全忠との関係を憚り、度支鹽鐵の権限を削るにとどめた。
崔胤は全忠に救援を求めたが、全忠は逡巡していたため、孫德昭、周承誨、董彥弼等を糾合し、季述・仲先を殺して昭宗を復位させた。

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殿上の食事    [張韶の乱]

2025-03-16 10:00:00 | Weblog

殿上の食事    [張韶の乱]
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「占いではお前と俺は殿上で食事をすることになっているんだ」
「よせやい、俺はしがない職工だぜ、お前もただの町の占い師じゃないか」
「いや、本当の話だ。俺の占いがよくあたるってことは知っているだろう」
長安の下町の一隅で、卜者蘇源明と染坊供人張韶の会話である。

当時若い敬宗皇帝は、ポロや狩猟だと騒ぎ、政務など放り出し遊び回っていた。
その馬鹿さ加減は長安中に広まっていた。

「殿上での食事といゃあ、まるで皇帝様じゃねいか」
「あんなうすのろ馬鹿に皇帝が勤まる時代だ」
「そういえば韶はちょっとした男だしな」
「韶が皇帝になるんじゃないのか」
と染工仲間や無頼達は無責任に騒いだ。

「いっちょう、世間を騒がしてやろうじやないか」
「韶が皇帝なら、俺たちも貴族ぐらいになれるんだ」
いつのまにか無責任に計画ができあがっていた。

丙申の日、武器を染料の紫草を積んだ荷車の下に隠し
百餘人の無頼達は宮門に向かった。
さすがに宮門では警備兵には疑われたが斬り捨てて突入した

若い皇帝はいつものように遊びほうけていたが、
急を聞いた宦官に抱きかかえられて左神策軍へ逃れようとした。
警備はお粗末で、兵もあわてふためくばかりであった。
「左軍へは行き着けません、近くの右軍へ」
「どこでもいいから安全なところへ」と右軍へ走り込んだ。
右軍中尉馬存亮も驚き走り出てきた。

「ママ=皇太后はどこにいるの、無事かな」と敬宗が騒ぐ。
「すぐ兵を派遣して警固させます。ご安心ください」と存亮。

そのころ宮殿では韶と玄明が食事を取っていた。
韶は「本当にあんたの言ったとおりになったぜ。これからどうする?」
玄明は驚き「先のことを考えていなかったのか?」
「先はどうなるだ?」と韶
玄明は首をふり「占いの結果はここまでだ!」
狼狽した韶らは御殿から走り出た。

一味は態勢を整えた存亮軍に殺された。

*******背景*******

凡庸な穆宗皇帝の頓死の後を継いだ不良少年敬宗は、政務を怠り、不良仲間と夜遊び、ポロ競技やレスリングにと遊び回っていた。
民間にもその醜態は知れ渡り呆れ果てられていた。
当時京師には無頼グループが横行し、染工の張韶もその一員であった。
彼らは貧しいが放埒な暮らしをして法の規制や権威などをものともしなかった。
一声かければ数百の無頼が集まり、治安は乱れていた。
また憲宗時代と違い平安が続き皇居の警備などもすっかり弛緩していた。

敬宗は擁立された左神策軍を贔屓にし、ポロ競技などでもそちらのチームを応援していたのだが、この事件では右神策軍に逃避するしかなく、鎮圧も右軍が担当した。
しかし中尉馬存亮は、左軍中尉王守澄達の疑惑を懼れて、このあと淮南監軍に逃避した。

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牽制  [宦官達と昭義節度使劉従諫]

2025-03-15 10:00:00 | Weblog

牽制  [宦官達と昭義節度使劉従諫]
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李訓が宦官幹部を除こうとした甘露の変で、宦官仇士良達は事件の責任がない王涯等を含め宰相五人をすべて殺害した。

その後も麾下の禁軍を暴れ回らせ出動させ、文宗皇帝や官僚達を威嚇し専権を極めた。
新任の宰相李石・鄭覃らは武力をもたず制することができなかった。

開成元年三月、昭義軍節度使劉従諫は使者を送り文宗に問うた
「甘露の変に李訓等は責任があると聞いております。しかし王涯ら三相に罪ありとは聞いておりません。涯らがなぜ誅されたのか罪名をお伺いしたい」

従諫は王涯と親しく、恩義を感じていたため、その殺害に憤っていたのだ。

士良ら宦官達は日頃の威勢はどこへやら、まずいことになったと顔を見合わせていた。
「従諫は近隣の諸鎮とともに入朝して直接お伺いするつもりです」と使者

返答を翌日に延ばして宰相宦官達の会議がおこなわれた。
「従諫はどうやら本気のようだ」と士良。
「禁軍が京師を荒らし回っています。これではつけこまれても」と石
「禁軍は引き上げさせる、残党狩りもやめる」と士良
「政事も宰相府にもどすということでいいですね」と石が念を押した

従諫等が兵を率いて乗り込んでくれば、弛緩した神策軍では対抗できない、近隣の諸鎮は禁軍の横暴を妬みながらにがにがしく見ている。支援などしてくれない。

士良は憎々しげに石をにらんだがなにも言わなかった。

翌日、文宗より従諫に慰撫の詔があり、位階が進められた。

宦官達は表向きは遠慮するようになり、官僚達は息を吹き返した。

*******背景*******
宰相李訓等は文宗皇帝と組んで宦官達の軍權を奪おうとして失敗し、宦官達は関係のあるなしを無視して全宰相を殺し、神策軍を京師に放して掠奪をさせた。文宗は失敗に落ち込んで宦官のいいなりになり、李石や鄭覃などの新任宰相も制止することができなかった。
世襲の昭義節度使劉従諫は自ら忠義をもって任じ、入朝時には朝政の腐敗に慨嘆していた。また親しい宰相王涯が罪なく殺されたことに憤慨して上奏した。
宦官達も世評で批判され孤立しているとは感じており、従諫が本気で乗り込んでくれば大変なことになるので、憎い文宗皇帝に頼るしかなくなった。
宦官達の憎しみは、従諫没後の昭義節度使継承時に噴き出てくる。

 

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醜貌 [盧杞を懼れる郭子儀]

2025-03-14 10:00:00 | Weblog

醜貌 [盧杞を懼れる郭子儀]
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盧杞は宰相懐慎の孫、安史の乱の忠臣である奕の子である。

すこぶる有能であり德宗に認められ将来の宰相と目されていた。

建中年間のある日、杞は帝命をうけ病気の郭子儀を見舞った。

「杞が来る、準備はできておるか」
「はっ、殿様。料理も舞姫達も・・・万全です」
「女はすべて去らせよ、一人とて出してはならぬ」
「杞様は、女嫌いなのですか」
「バカな、あの顔をみて、もしも女達がクスリとでも笑ったらどうなる」
「奴は恐ろしく執念深く、誇り高いのだ」
「恥をかかされたと思ったら、徹底的に我家に仇をなすだろう」
「次代の宰相は奴なのだ。禍は避けなければならん」

杞の容貌は青鬼のようであり、服装はだらしないので有名であった。
子儀はただ独り、杞の来訪を受けた。

*******背景*******
祖懷愼は玄宗時の宰相、父奕は東都留守として安禄山に捕らえられ殺された。
杞は佞臣の典型で德宗皇帝に深く信任され、楊炎・張鎰・顔眞卿などを讒言して陥れ、奉天の役の原因を作り、李懷光に弾劾されて失脚した。しかし德宗はなおも杞の再登用を望み、群臣の反対により阻止された。
慎重な子儀は杞の性格を知り、禍を防ごうとしたのであるが、その死後には杞の策謀があったようである。

 

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郭琪の乱  [田令孜と陳敬瑄]

2025-03-13 10:00:00 | Weblog

郭琪の乱  [田令孜と陳敬瑄]
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黄巣が京師を陥し、宦官田令孜は傀儡の僖宗皇帝を奉じて西川節度使の使府成都に亡命してきました。令孜の兄敬瑄が節度使となっていたのです。

やがて成都に四方より貢献が集まるようになると、令孜は率いてきた親軍に惜しみなくばらまいていきましたが、地元軍にはあまり与えず、そのため地元軍は不満をつのらせていました。

中和元年七月令孜は地元の有力者・軍人を集めて宴会を開き、諸将に盃を与えましたが、黄頭軍使郭琪だけが受けず「賞賜は偏っています。親軍・地元軍平等に与えてください」と要求した。

ムッとした令孜は「お前になんの軍功があるのか」と問うと、
琪は「黨項と十七戰,契丹と十餘戰,吐谷渾との戦いでは重傷を負いました」と答えた。

令孜は面倒な奴だとみて別置してある毒酒を琪に賜い、琪は毒と知りながら強いて飲みました。
琪は帰営して血を飲み、黑汁數升を吐いて解毒しました。
そして部下と共に反し令孜を攻めました。

令孜は僖宗と共に東城に逃げ、諸軍に命じて討伐させました。
琪は敗れて帰営し、その後敬瑄軍の討伐を受け、従兵も潰走したため、下吏一人をつれて川岸へ逃れました。

琪はそこで吏に「俺は江を下って、淮南の高駢様の所へ行くつもりだ」
「最後まで忠義を尽くしてくれたお前にこの劍と印綬を授ける」
「明日、敬瑄様の所に印綬と劍を持っていけ」
「そして琪を河岸で切りつけると、死体は江を流れて行きました」と言え。
「そうすればお前は褒美がもらえるし、俺達の家族に累が及ぶことはないだろう」
「敬瑄様は俺が悪いとは思っていないし、地元軍の大半もそうだ、俺の死だけで早く事を収めたいはずだ」

翌日、吏が劍と印綬を献ずると、敬瑄はこれ幸いと琪や兵への追及を止め、事態を終わらせました。うしろめたい令孜も特に異議をとなえませんでした。

*******背景*******
宦官田令孜は本来陳氏であり、その兄敬瑄を神策軍大将軍に昇進させ、官僚の崔安潜のあとに劍南西川節度使に送り込んでいた。
廣明元年黄巣により京師は陥落し、宦官田令孜は傀儡皇帝僖宗を奉じて成都に逃亡した。
禁軍である神策軍はすっかり堕落しており黄巣を防ぐ力は無く、令孜が引率してきた禁軍も急募した雑軍でしか無かった。
そのため令孜は豊富な賞賜を与えて慰撫する必要があった。
幸い唐朝の権威はまだ残存しており各地からの貢納は細々続いていた。
西川軍は咸通年間の南詔の侵攻対策のために諸道より急遽集められた雑軍と、土團とよぶ地元の民兵組織からなっていた。琪も他地域から流れてきた軍人である。
西川は令孜率いる朝廷と、敬瑄の使府の二重構造になっており、敬瑄は統制に苦慮していた。
特に地元軍に不満が鬱積していたため、琪の反乱を早期に収拾する必要があった。

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愚帝    [敬宗の愚行と宰相李逢吉]

2025-03-12 10:10:00 | Weblog

愚帝    [敬宗皇帝の愚行と宦官]
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宮城の門横の金雞の下には大赦を受けた囚人達が並んでいます。
寶暦元年の正月のことです。
囚人達は最後にここで晒し者にされ、その後釈放されるのです。
前県令の崔發も並ばされていました。

その時、「ここにいやがったぞ」「こいつか發は」「ぶっ殺してしまえ」
50人もの宦官達が手に手に棒を持って集まってきました。

發は県令として、百姓に暴力を振るっていた宦官を捕らえただけだけです。
多少行き過ぎはあったとはいえ、不法なのは宦官のほうでした。
ところが敬宗皇帝は宦官達の告発を受けていきなり發を獄にぶちこんだのだのです。

幸い、大赦があり赦されることになったのですが。

「やっちまえ・・・」、宦官達は次々と發を殴打し、歯が折れ頭から血が噴き出した。
獄吏があわてて發を連れだし獄に戻しました。

さらに帝から發を釈放しないようにという命も下りました。
發は獄中で死んだように横たわりました。

諫官達は次々に、「悪いのは宦官であり、發に罪はない」と上奏したが
帝は頑なになるだけで赦そうとはしませんでした。

しかたなく「ガキにはガキ向きのやり方でいかねばな」と老獪な宰相李逢吉が乗り出しました。

「發は赦しがたい罪人でございますな」
「宰相もそう思うか」と帝
「諌官達は朕が間違っているとうるさいんだよ」
「いやいや、帝の権威を傷付けました。有罪です」
敬宗は満足そうな表情をした。

「ただ、發に八十を超えた老母がいて、血を吐くほど心配しております」
「母がか?」
「毎日寺参りをして帝のお赦しをひたすら願っているそうですよ」

母親思いというよりママボーイの帝は、それを聞くと深刻な顔になった。
「誰もそんな事は言わなかったぞ、法がどうのこうの言って・・・・」
「子を思わない母親はおりませんよ」と逢吉はとどめをさした。

「赦してやる。母を安心させてやらんとな」
發はやっと釈放されることになった。
母は中使[宦官]の前で發に杖四十を加え、それ以上の迫害を防いだ。

*******背景*******
長慶四年正月頓死した穆宗皇帝の後を、十六歳で継いだ敬宗は知能の遅れた不良少年で、皇帝としての自覚はまったくなく、政務を怠りポロ競技とレスリングに没頭する馬鹿でしかありませんでした。
せっかく憲宗皇帝が再統一した帝国も穆宗により崩壊しましたが、このころには内乱は小康状態を示していました。
宰相陣は牛僧孺・李程・竇易直と李逢吉でしたが、なかでも逢吉が無能で政務に関心のない敬宗を操っていました。
崔發の事件も宦官に非があるのですが、敬宗は宦官達の意見だけしかききません。
馬鹿さ加減に呆れた僧孺は節度使に転出してしまいました。
老獪な逢吉は低能の敬宗の母親思いを利用してとりなしたのですが、
官民は皇帝の馬鹿さ加減を知りいろいろな事件が起こっていくのです。

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取りなし  [武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]

2025-03-11 10:00:00 | Weblog

取りなし    [武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]
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河東節度使辛雲京の従弟京杲は勇敢で軍功があり湖南観察使となっていました。

しかし強暴で貪欲であり、しばしば現地の豪族ともめて争乱を起こしていました。

湖南は統治困難な地域なので代宗皇帝はおおめにみていましたが、京杲は贈賄・収賄を重ね、私的に部下を殺害する事件も起こしていました。

即位した德宗皇帝は目に余るとして死刑に処するつもりでいました。

建中元年のある朝、武将出身で宰相格の李忠臣が特に拝謁を求めてきました。

皇帝は忠臣が雲京と親しいことを知っていたので、さては助命を嘆願しにきたなと察していましたが、代宗時代の姑息さを引き締める方針を堅持しているのではねつけるつもりでした。
しかし忠臣はいかにも武臣らしく訥々と話し続け、いくらたっても京杲の事を持ち出す様子はありませんでした。

德宗のほうがじれてきて「京杲は許し難い奴である」と先制しました。

ところが忠臣は「そうです京杲は当然死刑。早く刑を執行すべきです」と答えたのです。

意外に思った德宗が黙まりこくると。

忠臣は続けて「京杲の父は安史の乱に忠誠をつくし戦死しました。兄弟達も多くは国事に死にました。雲京の功績はご存じの通りです。名誉ある辛家の中で、奴だけが生き残り恥をさらしています。はやく処刑して家を絶やしてしまうべきです」と言いました。

德宗は黙然とし、やがて「死刑はやめて左遷にしよう」と宣告しました。

忠臣は深く拝してゆっくりと退出していきました。

*******背景*******
湖南は蠻族の豪族達が割拠する難地で、大暦五年には観察使崔瓘が軍乱により殺害されてしまいました。軍乱を鎮圧するために派遣されたのが軍人の京杲です、鎮圧には成功しましたが、貪欲なため豪族達の私財を奪おうとして王國良の乱を引き起こしてしまいました。
李忠臣は平盧軍出身の軍人で、安史の乱に活躍し、その後も唐朝側に立って転戦しました。勇敢で威略があり淮西節度使となりました。
反面軍紀には甘く専横な所もありました。節度使としの統制も甘く、好色で部下の妻女達を姦したため族子の希烈に逐われ入朝しました。
しかし今までの功績を評価されて検校司空同平章事として宰相格に任ぜられています。宰相といっても執政はしない名誉職です。
德宗皇帝は前年の大暦十四年に即位し、代宗の弛緩した政治を引き締めるように施策をうっていた途次であつたのです。京杲は閑職の王傳に遷されました。

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酒法   [李景略の厳酷と任迪簡の寛容]

2025-03-10 10:00:00 | Weblog

酒法   [李景略の厳酷と任迪簡の寛容]
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酒がめぐり座はにぎやかになっていった。
辺境の豐州天徳軍防禦使の幕僚や將が集う宴会です。
厳酷で知られる軍使李景略も今日は機嫌は良いようでした。

「酒が切れたぞ」と景略の傍らの判官任迪簡がよぶと、係はあわてて新しい酒壷をもってきました。
迪簡は自分でなみなみと注ぐと一気に飲もうとしました。
「ウッ!」、ところが中身は酒ではなく醤醢(醤油の原型)であったのです。
「どうした」と景略がこちらを振り向きました。
「いやなんでもありません、急いで飲んだのでむせてしまいました」
迪簡はがまんしてなんとか杯を飲み干しました。

この宴会は軍法によって行われています、間違って醤醢を出したことなどがわかったら、係はすぐさま景略に殺されてしまうのです。

それがわかっているので迪簡はがまんして飲みほしたのです。
そして係を呼んで「この酒は薄い、もっと濃いものに替えよ」と命じました。
壷の残った中身をみて係はさっと青ざめました。
迪簡は「なにもいうな」と目配せをして持ち去らせました。

宴会後、迪簡は吐血しましたがなにも言いませんでした。
しかし周辺からウワサは広がり、「判官はまことに長者である」と軍士達は思いました。
景略の厳法に怯えていた軍士達にとっては心温まるできごとであったのです。

貞元二十年正月景略が任期中になくなりました。
將士は後継を寛厚な迪簡にすることを求めて騒ぎたてました。
監軍の宦官は迪簡を隠しましたが、將士は探し出して強いて擁立しました。
姑息な德宗皇帝はやむをえず後任として認めることしました。

*******背景*******

河東節度行軍司馬であった李景略は威望があり、横暴な回紇の使節でさえも敬意を払っていた。
節度使の李說は自分の地位にとって代わられるのではないかと懼れ、宦官竇文場に働きかけて北邊防御のためと称して豐州に都防御使を置き、景略を任用させるようにした。
景略は勤儉で、衆を率いて軍備を充実させたが極めて厳酷であった。
德宗皇帝は初期の藩鎭対策に失敗して京師を逐われたことから、方鎭の継承に対しては極めて姑息で、節度使の交代時には事前に後任の行軍司馬を送るか、現地軍の意向を伺って乱が起きないようにしていた。そのため將士は自分達で擁立する傾向があった。
また辺地の軍人達の状況は厳しく、将帥の良し悪しは生死に関わることであったのです。
任迪簡は有能で後に義武軍節度使の唐朝への帰服を成功させます。

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