復讐 [専殺は不可]
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「ならんと言われるのか!!」
河東節度使李載義は怒りに震えて喚いた。
三年前の太和五年正月、幽州節度使であった載義は、信用していた後院副兵馬使楊志誠の突然の裏切りによって逐われた。
それだけならよくあることである。しかし志誠は載義の妻を犯し、部下やその家族を虐殺したのであった。
京師に逃げた載義は、朝廷にはそれまで忠義を尽くしていたので山西節度使として拾われ、その後河東節度使へ転任してきた。
自立した志誠は朝廷に対して不遜な態度を示していたが、
今。志誠もまた軍乱に逐われて京師へ逃亡して来るという。
載義はその途次を襲い怨みをはらそうとしていたのだ。
「志誠は不忠とはいえ朝臣です。法の裁きがなければ殺してはなりません」と使者が言う。
「きゃつがしたことへの復讐だ。このままでは武人として俺の面目が立たない」
「たとえ免官となろうとも、怨みをはらさねば、部下達にあわせる顔があろうか」
とはいいつつもも、載義は朝廷の恩との間で迷っていた。
使者は「勅命をよくお読みください、志誠を殺すことはまかりならんと」と繰り返した。
「志誠を・・・・・か」
やがて載義はにっこりして言った。「臣、確かに勅を奉じます」
そして部下達に命じた「徹底的に襲え、だが絶対志誠を殺してはならん」
襲撃が実行され、志誠の財産は奪われ、家族や部下のほとんどは虐殺された。
ただ数人の部下とともに志誠はほうほうの体で京師にたどりつくことができた。
その後志誠は有罪とされ嶺南に流され、途次に誰かに殺された。
*******背景*******
寶暦二年九月、兵馬使李載義は唐朝に反抗的だった幽州節度使朱克融の子延嗣を殺し自立しい、朝廷へよしみを通じた。
そして反乱した横海李同捷を北邊から圧迫し、征討をなんとか成功させた。その功績により太保平章事を加えられていた。
河東節度使としては横暴な回紇の使者に毅然とした態度を示し敬服させた。
唐朝では「専殺」と称して、勅命のない殺害、特に官吏への殺害は表面上厳しく禁じていた。志誠の場合も朝廷としては殺すことには異議はなかったが、裁判も無く、載義の専殺は認めるわけにはいけなかったわけである。判決後に密かに殺害することは黙認されていた。