唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淄青平盧軍節度使史5

2020-10-01 10:00:55 | Weblog
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中和元年[西暦881年]
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◎.旧紀では10月 青州軍亂,逐節度使安師儒,立其行營將王敬武為留後。
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中和二年
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◎.通鑑9月 平盧大將王敬武逐節度使安師儒,自為留後。
◎.通鑑10月 平盧大將王敬武を留後として認めた。敬武は当初黄巣に帰服したが、都統の王鐸は判官諫議大夫張濬を行かせて帰順させた。
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龍紀元年[西暦889年]
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◎.10月 平盧節度使王敬武が卒した。敬武はいつごろか平章事を加えられているらしい。子の師範は16歳だが継承した。しかし棣州刺史張蟾は従わず、唐朝に上申して太子少師崔安潛を兼侍中充平盧節度使として棣州に迎え入れ、師範と戦った。
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大順二年[西暦891年]
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◎.師範は都指揮使盧弘に張蟾を攻撃させたが、弘は従わず自立しようとした。師範は小校劉鄩に弘を殺害させ、自ら棣州を攻めて蟾を殺し、安潜を追い返した。師範は平盧節度使となった。
師範は学問・禮儀を好み、恭謙であった。
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乾寧二年[西暦895年]
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◎.方鎭表では齊州に武粛軍防御使を分置したとある。
これは齊州刺史朱瓊が州を以って朱全忠についたことからだが、瓊は泰寧朱瑾の從父兄であり、このこのろ齊州は天平か泰寧の管轄であっのではないだろうか。瓊はすぐ瑾に殺害され、弟の玭が齊州防御使となった。
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乾寧五年/光化元年[西暦898年]
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◎.正月、師範に加同平章事
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光化二年
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◎.10月 朱瑾麾下の沂・密州が朱全忠に附いた。危機感を感じた師範は淮南楊行密に支援を求め、行密は台濛、王綰を派して密州を陥し、沂州を攻めた。
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光化四年/天復元年[西暦901年]
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◎.この歳、齊州防御使が廃止されたが、淄青に返還されたようではないようだ。天復三年に師範の弟師魯が齊州を包囲したが敗れている。
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天復二年[西暦902年]
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◎.3月 淮南楊行密の所に亡命してきた前泰寧軍節度使朱瑾が領淄青節度使なる。単なる形式である。
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天復三年
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◎.正月 師範は好学の徒で、唐朝への忠誠心を持っていた。朱全忠により昭宗が鳳翔[李茂貞]に包囲され危機にあることを憂い、諸將を偽装させ汴、徐、兗、鄆、齊、沂、河南、孟、滑、河中、陝、虢、華等州で蜂起させた。大半は失敗したが行軍司馬劉鄩は兗州を奪取した。
◎.朱全忠は大きく動揺したが、この時点では既に鳳翔は落城寸前であり、全忠は茂貞を滅ぼさず、赦して昭宗を引き渡させるだけで反転することになった。
◎.3月 師範は弟師魯に齊州を囲ませていたが、全忠將朱友寧は撃退し、葛従周と共に兗州を囲んだ。
友寧はさらに青州を攻め、全忠は自ら兵十萬を率いて来攻した。
◎.4月 楊行密將王茂章が七千で来援してきた。別に宿州を攻めたが撃退された。
◎.5月 朱友寧は博昌・臨淄を陥し、青、登、萊州を攻撃した。
◎.6月 淮南將王茂章と師範弟萊州刺史師誨は密州を陥した。
◎.6月 淄青淮南軍は全忠の嫡子友寧を敗死させた。驚愕した全忠は兵二十萬を率いて急行してきた。
◎.7月 王茂章は全忠軍と激戦するが撤退。全忠軍は密州を回復する。
◎.9月 全忠將楊師厚が臨朐で師範軍を大破する。
◎.10月 全忠將劉重霸が棣州を陥す。
◎.9月 師範は全忠に降る。全忠は李茂貞軍が京師奪回に迫っているためこれを赦し、師範を權淄青留後とするが全州は諸将を分置し抑えた。
◎.10月 兗州を占拠していた師範將劉鄩が命を受けて降る。全忠は鄩を元從都押牙/元帥府都押衙權知鄜州留後事として用いる。
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天復四年/天祐元年[西暦904年]
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◎.? 福建節度使王審知の一族廷/延彬が領淄青節度使となる。形式である。
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天祐二年
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◎.正月 全忠麾下李振が知青州事→留後となり王師範は大梁に移される。
◎.3月 前平盧軍節度使檢校太傅同平章事兼青州刺史琅邪郡公食邑二千五百戸王師範を孟州刺史河陽三城懷孟節度觀察等使に移す。
◎.? 全忠將検校司空潁州刺史王重師が検校司徒淄青節度使/留後となる。
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天祐三年[西暦906年]
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◎.6月 朱全忠は元京師=長安が茂貞との境界にあるため、信用の出来ない降將京兆尹佑國節度使韓建を淄青節度使へ,親將淄青節度使王重師を京兆尹佑國節度使同平章事とし交代させる。
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天祐四年
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◎.唐は滅亡し、淄青は後梁[朱全忠]の領土となりました。

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