モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

強制

2021-09-08 06:25:03 | 福音について
愛があれば強制してもいいのですか?


学校の先生は生徒に命令(強制)します。
学校内で生徒に自由意思はあるでしょうか。
無いとは言いませんが、大きな制限があるようです。
子どもたちが学校に不満を持つ原因のほとんどはそこにあるそうです。

表現はよくありませんが、‟先生(教育)という権威”の下にそれが行われます。
その是非を論じるつもりはありません。

問題は‟生徒はその先生を人として慕うことができるか”ということです。
YESであれば、その先生には愛があると判断できるでしょう。


職場では上司の命令に従うことが求められ、部下はそれに従います。
上司という権威が取り去られたときに真の人望が見えてきます。


愛のゆえの強制、愛とは無関係の強制、
それは割と簡単に見分けられるものかもしれません。
子どもたちは素直に、敏感に反応しているように見えます。

神の罰を恐れて従うのであれば、自由意思は失われるかもしれません。
キリストの愛に従うのであれば、そこには自由意思があります。
コメント

教える者と学ぶ者

2021-09-08 06:05:34 | モルモン書
「教える者は学ぶ者よりも偉いわけではない」アルマ1:26


大管長(預言者)も日曜学校に出席します。
もちろん生徒としてです。


ある男性が支部を訪問してきました。
彼は当時、教会教育部で働いており、後に東京神殿長としても奉仕しました。
と言えば、「ぁ、あの人か」とピンと来る人もあると思います。

その日わたしは日曜学校の教師をしました。
福音に出会って半年ほどの頃でしたので、知識も理解もなく、
教えるなんてできるわけがありません。

そこで「ここにこう書いてあるのですが、これはどういう意味ですか」と尋ねます。
生徒として座っている人がそれを説明してくれます。
それを聞いたわたしはそこで感じた疑問をさらに尋ねます。

そんな日曜学校が終わった後、彼はこう言いました。
「良いクラスでした。‟教師は教えなくてはいけない”と誤解されることがありますが、
大切なのは互いに学び合うことです。」


教会のクラスで理想とすべき三つの原則があります。

「あなた方は互いに王国の教義を教え合わなければならない」教義と聖約88:77
学校の授業のように‟教師が一方的に教え、生徒が学ぶ”のではなく、‟互いに教え合い”ます。

「熱心に教えなさい、そうすれば…さらに完全に教えられる」教義と聖約88:78
‟教えられる”のは、教えを受ける側ではなく、教える側です。

「説く者と受ける者が互いに理解し合い、両者ともに教化されてともに喜ぶ」教義と聖約50:22
教師と生徒が‟共に学びを得て共に喜ぶ”のです。
コメント