モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

悲劇

2021-09-02 06:11:58 | 総大会
悲劇…がなかったら…謙遜になることはできなかっただろう
(憂いは喜びに変わるであろう パーマー長老)


福音に忠実に生きて、家庭でも、社会でも成功を収めている人があります。
羨ましく思います。

もしわたしが彼らのように成功を収めたなら…、すぐに高慢になると思います。
自分の力を自慢して、御霊に頼ることをやめ、
主から離れて行く姿を簡単に想像できるます。
たぶん実際に想像する通りになるでしょうね。
御霊の警告を感じます w


悲劇は嫌いです。
テレビドラマや映画、小説でも悲劇は見たくありません。
昔「おしん」というテレビドラマが大ヒットましたが、まったく見ませんでした。
人が苦しむ様を見るのが嫌で、「スパイダーマン」も好きになれません。
何も考えずに笑えるものがいいです w

でも、もしも悲劇があるおかげで主のもとにいられるのであれば、どうしましょうか。
わたしのように喜びがあるとすぐに浮かれて主を忘れてしまうような人間には…

悲劇に感謝できますか? 
難しいですね。
それでも悲劇によって謙遜になることができることは確かです。

悲劇に感謝する気にはなれません。
それでも、その結果には感謝しています。
「何とわがままな…」と思いますが、事実です。
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自己弁護

2021-09-02 05:59:28 | モルモン書
「彼は…自己弁護した」アルマ1:11


自己弁護とは‟自分に対する追及に対して、自身の正当性を主張し、
自分自身を守ろうとすること”とありました。

「教会に行っています」と話すと「どうして?」と聞かれることがあります。
福音を伝えるチャンスです。
‟福音”を伝える(証する)のと、‟自分の正しさ”を伝えようとすること(自己弁護)
その違いはどこにあるのでしょうか。


証するには御霊が必要です。
御霊の助けを求めることをせず、自分の言葉に頼るなら…
自分の正しさを主張する意識が垣間見えると…
恐れがあったり、力みや強制があると… 
自己弁護と受け取られるかもしれません。


信仰のある人と語り合うときに、‟淡々と真理を語っている”と感じることがあります。
そこにはほんの少したりとも自己弁護を感じることはありません。
そのように感じたことはありませんか?

ネルソン大管長が語るのを見るとき、恐れもなく、力みもなく、強制もなく、
主張するでもなく、ただ‟愛によって真理を語っている”と感じます。
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