モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

強制

2021-09-06 06:27:28 | 福音について
聖約を守ることは強制されないのですか?


親は子どもを叱ります。
それは強制でしょうか、そうかもしれません。
それは愛ゆえの強制でしょうか、そうであってほしいと思います。

子供の頃、強制的に教会に連れていかれた
なんて経験のある人もあるかもしれません。

モーセの時代、戒めを破った人は殺されました。
これは恐怖支配とはいえないでしょうか。

ノアの時代には箱舟に乗った人だけを除いて人々は洪水によって滅ぼされました。
善悪も分からない、自ら選ぶことのできない幼い子どもまで含めてです。

さて、そこに神の愛を見ることはできるでしょうか。
‟永遠の観点”から見なければ難しいかもしれません。
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犠牲を払う価値

2021-09-06 06:11:06 | モルモン書
「多くの者が自ら神の民のもとを去った」アルマ1:24


一万円を支払って何かを購入するとします。
購入したものに一万円以上の価値を確認するなら喜ぶでしょう。
価値がないと思ったらガッカリするでしょうし、もしかするとクレームになるかもしれません。
誰もが支払った犠牲に見合うものを求めるからであり、それは当然のことです。


「犠牲…を求めない宗教は、命と救いに至る…力を…持つことはない」ジョセフ・スミス
福音は‟祝福に至るための犠牲”を求めます。

福音には求められる犠牲を払うだけの価値があるでしょうか。
価値があると思えば犠牲を払うことは苦にならないでしょう。
求められる以上の犠牲を自らの意思で喜んで支払うかもしれません。

犠牲を払うだけの価値を見いだせないとしたらどうしますか。
それまでに支払った犠牲を後悔し、犠牲を払うことが愚かしく思えるようになります。
心は次第に福音から離れて行くことでしょう。
それは当然の結果です。

「バプテスマを受けた頃には大きな喜びがあったのになぜだろう」と感じるとしたら、
思い起こしてみてください。
その当時には祝福を喜んで、犠牲を払うことも喜んでいたのではないでしょうか。
いつの間にか祝福への喜びが小さくなり、
犠牲を払うことを惜しむようになってはいないでしょうか。

喜びがあった当時のように、
熱心に福音を学んでいますか
真心から熱心に祈っているでしょうか
喜びの伴う望みがありますか  ?
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