モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

言葉を信じた

2021-07-29 05:40:56 | モルモン書
「彼らはあなたが…語った言葉だけを深く信じたので幸いである」モーサヤ26:15


初めて宣教師に出会ったときに聞いた
「神は存在し、キリストは救い主です」という言葉を今も信じています。
その時には何も知らなかったのに信じることができたのが不思議です。

わたしの信仰生活の基は彼らから聞いた言葉
「神は存在し、キリストは救い主です」にあります。
信仰生活の中で疑問が生じたこともありますが、‟神の存在”という基は消えませんでした。
(揺らいだこともありますが、結局否定できませんでした)

考えてみると不思議ですよね。
この基は‟信じる心”です。
どうして信じることができるのでしょうか。

確かなのはそれが‟御霊によってもたらされている”ことです。
それだから「御霊は主の岩である」と感じます。
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福音によって変わる

2021-07-28 06:20:26 | 総大会
バプテスマを受けると…福音のおかげで…ライフスタイルは徐々に変わっていきました。
(あなた方は自由な者となるであろう ムトンボ長老)


バプテスマを受ける前日、
それまでの悪友と集まり「今日で終わり」と言って騒いでいました。
翌日、バプテスマを受けてから生活を変えました。

それはそれでよいことだと思いますが、
これは‟福音による変化”と言えるものでしょうか?


御霊は‟神が存在すること”を教えてくれました。
神について知るにつれ、自分の思いに心を向けるようになりました。
神が人の心を見ることを知ったからです。

自分の心の状態を見るようになると、思いをコントロールしたいと望むようになりました。
思いが変わると行動が変わります。
これは‟福音による変化”と言えるものでしょうか?


福音への理解が深まるほどに過去の自分を悔いるようになり、
変わりたいと望むようになりました。
「どうすれば変わることができますか」と祈るようになりました。

福音によって生活が変わるとは、
‟自分の思いで変える”のではなく‟御霊によって変わる”ことだと思えます。
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理解

2021-07-28 05:58:56 | モルモン書
「彼らは自分の不信仰のために神の言葉を理解できなかった」モーサヤ25:3


「キリストを信じながら…問うならば、神は…真実…を…明らかにしてくださる」モロナイ10:4

‟人を信じる”ならその人の言葉を信じるでしょう。
そしてその言葉を理解しようと努めます。

信じていなければ、理解する以前に心に留めようとさえしないかもしれません。


イエス・キリストへの信仰とその教えを理解することにおいて、キリストを信じる心はすべての原点です。
「心に善い教えだから…、この教えによって幸せになれたから…」
それはよいことです。

たとえそうであっても、キリストに対する信仰がなければ、どこかで限界が訪れると思えます。
「あらゆる点であなた方を試すことを、わたしは心の内に定めた」教義と聖約98:14


‟キリストを信じることでしか前に進めない”ときが来るようです。
それは‟信仰によらなければ理解できない”という意味ではないでしょうか。
もしかすると‟信仰によって前に進んだときに初めて理解できる”のかもしれません。

皆さんはどう思いますか?
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小さなこと

2021-07-27 06:13:15 | 福音について
小さなことを大切にするためにはどうすればいいですか?


大好きな夏になって、暇があればプールに行きます。
(無料だから泳ぎ放題です)

プールに入ったら先ず、息継ぎなしで25mを潜水で行きます。
次からはちゃんと息継ぎしながら泳ぎます。
当たり前ですが、息継ぎしなければ泳ぎ続けられません。

普段の生活では呼吸の仕方なんてまったく意識していませんが、
泳いでみるとその必要性を改めて認識します。


健康も大切ですが、健康に恵まれた人ほど健康管理を気にかけない傾向があるそうです。
普段の挨拶も大切だし、それと一緒に笑顔もあった方がいいですよね。
イエス・キリストへの信仰も、信じない人にとっては取るに足りないもののようです。

気にかけない人にとってはどれも‟小さなこと”かもしれません。
でもそれが‟どれだけの恩恵を与えてくれているか”を知れば、大切なものとなるはずです。

「そんなことはどうでもいい」と考える人を説得するつもりはありませんが。
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欲望

2021-07-27 06:07:35 | モルモン書
「主は彼らに…御霊を注がれ、彼らは祝福され…栄えた」モーサヤ25:24


欲望には次の三つの特徴があるそうです。
・ 自己中心的
・ 満足を知らない
・ 欲しいものと必要なものを区別できない

欲望は仏教でいう煩悩の中の三毒と呼ばれるものひとつです。
(欲望、怒り、愚痴)
祝福され栄えても、欲望(三毒)をコントロールできなければ
喜びは見失われるかもしれません。

御霊が注がれることは喜びです。
でもそれは‟この世にある喜び”のように歓喜するようなものではなく、
心の内に静かに湧き上がるものです。

周りで見ている人には見えないかもしれません。
この世にあるような喜び(欲望を満足させること)を求めているなら、
物足りなく思えるかもしれません。

そのような祝福に満足できるなら、喜びは心を満たしてくれることでしょう。
‟自分の内にある望みが主の御心と一致しているか”
振り返ってみることも大切かもしれませんね。
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