モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

些細なこと

2021-07-26 06:06:08 | わたしに従って…
些細なことに思えるかもしれませんが、それは重要な真理を暗示しています。
(わたしに従ってきなさい 7月25日)


毎日モルモン書を読むのは些細なことでしょうか?
たぶん些細なことだと思います。
祈ることも、主を忘れないことも、些細なことだと思います。

気を付けないとすぐに忘れてしまうし、
忘れたからといってすぐに何かに差し支えるわけでもありません。
気付いたとき、思い出したときに行えばいい… その程度のものかもしれません。


それらは重要なことでしょうか。
たぶん重要なことです。
(そう教えられていますから)
でも、生活の中の様々なことと見比べると些細なことに思えるかもしれません。

重要なことなのに些細に思えてしまうのはなぜでしょうか?
切羽詰まっていないからかもしれません。
きっと後回しになる理由が色々とあるのでしょうね。


「わたしたちは…福音の中の小さな簡単なことを数多く教えられています。小さく思えることを積み重ね、時を経ることで大いなることが成し遂げられるということを…思い起こす必要があります。」
(2018年4月「小さな簡単なこと」オークス管長)
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主の御名を受ける

2021-07-26 05:57:27 | モルモン書
「キリスト…の御名を受けることを望んだ者は誰でも皆、神の教会に加わった」モーサヤ25:23


「キリストの御名を受ける…とは、神がご覧になるように人を見るよう…努力する…ことを意味します。…主の業を行い、主がなさったように奉仕しなければなりません。…主を信頼しければならないとわたしは信じています。」
(2018年10月「イエス・キリストの御名を受ける」ゲイ長老)


わたしには無理そうです。
でもそうでありたいと望んでいます。

完全に従うことは無理でも努力することはできます。
諦めずに努力することは、望みを持っていれば誰にでもできることです。


ある男性が大きな岩を押すようにと主から命じられました。
男性は力の限りを尽くして押しましたが、岩はビクともしません。
やがて男性は諦めました。

主が来て、男性に尋ねました。
「あなたはどうして岩を押し続けないのですか?」
 「あの岩は大きく重くてわたしの力ではビクともしません」
「わたしは‟押すように”と言ったのです。
あなたが押し続けるなら、時が来たらわたしが岩を動かします。」


それが‟イエス・キリストを信じる”ということかもしれません。
わたしたちはキリストの御名を受けることができるでしょうか?
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実現する希望

2021-07-25 06:29:41 | 総大会
キリストに希望を抱くとは単なる希望的観測ではありません…期待していることが将来実現されるという意味です。
(キリストに希望を抱く バラード長老)


「もしキリストがよみがえらなかったとすれば…信仰は空虚なものとなり…」1コリント15:17

こんな質問をされたことがります。
「もしこの信仰がウソだったらどうするの?」
この質問は今も心に強く残っており、時々そのことについて考えます。

ある人がこう言いました。
「キリストを証明する材料ならいくらでもあるが、
キリストを否定できる材料はひとつも見つけることができない」

キリストの福音について‟否定できるもの”を一つでも見つけることができますか?
(教会に対する批判を聞くことがありますが、
そのほとんど(すべて?)は人の弱さに対するものです)

もしも福音を否定するとしたら、それは‟キリストを証する御霊”を否定しています。
御霊を否定する人に説明する力はわたしにはありません。
すべての証は御霊に頼っているからです。


「永遠の命を得られるように…神の証人になることを望んでいる」モーサヤ18:9

希望的観測で神の証人になることができるのでしょうか。
神の証人は、‟キリストの約束が将来実現される”という確信を得ています。

その確信はどこから、どのようにしてもたらされるものでしょうか。
キリストの羊(キリストに属する者)に与えられる聖霊の証(確信)に頼るなら、
それは明白な事実です。

神の羊、神の子ども、神の子孫、キリストに属する者、聖徒…  
(呼び名は他にもありますか?)
神に、キリストに、主の教会に、帰属意識を感じているなら、
その呼び名にふさわしいと思いますが、どうでしょうか?
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悔い改めと信仰

2021-07-25 06:18:38 | モルモン書
「悔い改めと…信仰以外にどのようなことも説かれなかった」モーサヤ25:22


‟悔い改めと神を信じる信仰”は福音の第一原則です。
主の教えは必ず‟悔い改めと信仰”に導きます。

聖典や預言者の教えをいくら熱く語ったとしても、
それが‟悔い改めと信仰”に導くものでなければ、福音とは呼べないかもしれません。
(いわゆる‟うんざりするお説教”はそれに当てはまるかもしれませんね)

たとえキリストや信仰、贖い、救い、御霊などの言葉がなくても、
人を‟悔い改めと信仰”に導くものであれば、福音と言えるかもしれません。

親(特に母親)が幼い子どもを悔い改めに導くために
教え聞かせようとする場面を見ることがあります。
それは福音に通じるもの、もしかすると福音と呼べるものかもしれません。


わたしは幼い頃、母親から「悔い改めるように」といつも教えられました。
彼女はクリスチャンではありません。
もちろん、‟キリストを信じる信仰”がなければ信仰に導くことはできませんが…

皆さんはどう思いますか?
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神の羊の群れ

2021-07-24 05:59:11 | 総大会
すべての人がキリストにさらなる希望を抱き、帰属意識を感じられるようになることを願っています。
(キリストに希望を抱く バラード長老)


「あなた方は神の羊の群れに入って、神の民と呼ばれたいと願っており」モーサヤ18:8
神の羊の群れに入るとはどういうことでしょうか?

毎週教会集う
もちろん大切です。
でも週に一度教会に集うだけで満足できるでしょうか?

毎日モルモン書を読む
それも大切です。
それで充分ですか?

いつも祈る
大きな力となると思います。
祈る目的は何でしょうか?

教会に集うのも、聖典を読んで学ぶのも、祈るのも、
その目的は御霊を受けるためです。
神の羊の群れに入って希望を得て‟帰属意識”を感じているとすれば、
そこには必ず御霊があります。
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