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体育の日スペシャル「棒倒し」

2010-10-11 | 海軍

今日は体育の日。
雨が降っていなければ運動会が行われている学校も多いのではないでしょうか。
さて、日本で最初に運動会が行われたのが海軍兵学校だった、というのをご存知ですか?

明治7年、1874年3月21日、海軍兵学校で、英語教師イギリス人フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われた競闘遊戯会が、最初の運動会と言われています。

ストレンジは後に、異動先の東京大学予備門でも運動会を開催しているので、いわば
「日本運動会の父」だったりするのですが、そのへんは全く評価されていません。
ただし海軍兵学校の運動会は単発的なイベントであり、継続的かつ全国に普及し、
今のように季節の行事として行われるようになったのは文部省が音頭を取って以降のことです。

その日本初の運動会のプログラムに本日画像の棒倒しはあったのか?
という話なのですが、実はありませんでした。

ニワトリやブタを追いかけるゲームならあったそうです。
当時兵学校は移転前で築地にありましたが、その頃は築地でも簡単にニワトリやブタが調達できたんですね
・・・・・・って、何に感心してんだか。

近代オリンピックも、最初の頃は土管くぐりをして一着が金メダル、なんて
運動会みたいな種目があったそうですが、当時はスポーツというより
秋晴れの空の下、気持ちよく体を動かしませう、というのが主目的だったようですね。

当時兵学校には鹿児島出身者が多かったといいます。
そのぼっけもんで気性の激しい鹿児島出身者が兵学校に持ち込んだ荒っぽいゲーム、
「大将取り」が、本日話題の棒倒しの原型だそうです。

人垣を突破して中央の「大将」をやっつければ勝ち、というものでしたが、さすがにそれでは
けが人が出かねないので、いつの間にか棒の上に立った旗を取る、というルールに変わりました。

当時は分隊制は取られておらず、学年対抗だったため、「一号を殴るチャーンス」とばかりの
私怨を晴らす場になりがちでしたが(え?違います?)、江田島に移転後、
分隊対抗、奇数分隊対偶数分隊という体制になって、さらにこの「スポーツ度」は上がります。

海兵71期、江尻慎生徒は、実家への手紙に棒倒しについてこう書いています。
「棒倒しは江田島名物だけあって、打つ、蹴る、殴るの猛烈な乱闘ですが、
後は実にさっぱりしており、恨み合いというようなことは毛頭ありません」

この棒倒しはボリビアの青年士官の視察があり、彼らは「大いに驚いて感銘していた」とのこと。

文中「一、二分で勝負がつく」とありますが、このような激しい競技がそれ以上に及ぶと時として危険です。
あるとき、両軍の力が伯仲していて勝負が10分以上に及びました。
棒の真下に座り込んで支えていた生徒はかわいそうに力尽きて気絶しており、
そのうち一人は4時間目が覚めなかったとか。

あらためて、この棒倒しがどのように行われるのか、兵学校に英語教師としてイギリスから赴任しており、
帰国後江田島について本を書いたセシル・ブロック先生に説明していただきましょう。
(なんと、昭和十八年初版のブロック先生が書いた江田島についての本を手にしました!
戦中から水交会が所蔵していた本です。この本についてはまた別の日に)

紅白に分かれ、約百メートル離れて対峙した同人数の両軍は、
どちらも同数の攻撃隊と守備隊に分かれています。
そのときによって人数は変わりますが、いつも全校を二分したそうなので、生徒が多い時には
「おれ何にもしなかった」みたいな奴もいたかもしれません。

実際は何百人単位の戦いなので、今日画像のようなせいぜい何十人規模のものとは
大分迫力が違うのではないかと思われます。

防御隊は、高さ二メートル半、直径十五センチの丸い棒を中心に、
その周りを幾重かのスクラムを組んで固めています。
棒の周りには頑強な体格の者ばかりが選ばれます。

下級生たちの肩の上には一号が乗って、敵の攻撃隊と直接戦うのです。
そして、その棒のてっぺんに刺さっている旗を取るのですが、その棒の根元には、
二人の特に頑丈な生徒があぐらをかいて棒を支えています。
(それでも時には気絶・・・つらい役回りですね)

以前、「棒倒し服」の話をしましたが、あれはリバーシブルになっているそうです。
表は白で襟のラインが紺。
裏返すと、ラインなし。
リバーシブルってより単に「裏返して着ていただけ」にも思えますが。
これを敵味方に分かれて色分けします。
画像は映画「海兵四号生徒」の棒倒しシーンのスケッチですが、そこまで考証されていないためか、
みなラインなしの白いシャツでやっています。



攻撃隊は一号の指揮官を先頭に立て、その指示によって動きます。

「戦闘用意」のラッパがなると用意。
「撃ち方始め」のラストサウンドで発動。
一斉に「わーっ」と鬨(とき)の声を上げますが、叫んでいいのは一度だけ。
戦闘中一切声を出してはいけません。
もちろん「こんにゃろー」とか「やったな」「いてっ」は無しです。

攻撃隊指揮官は、防御隊指揮官と一対一で殴り合います。
駆けていく途中で敵の攻撃隊の中を通り抜けるので、時としてここですでに殴り合いが始まります。
咬んだり引っかいたりは禁止。

下級生は敵のスクラムに頭を突っ込み、次々とくっついて、
一号たちが背中を踏み越えて棒に到達するための踏み台となるのです。
ここでも下級生は出しゃばってはいけません。

そして、どちらかの軍が相手の棒を傾け、旗が取られると、「待て」のラッパ。
当直監事が「元の位置につけ」と令し、おしまいです。

勝った方は攻撃隊司令官の
「一、二、三!」の掛け声の後
「バンザーイ」と高らかに勝ち鬨の声をあげて棒倒しは終了。





以前「ポジションの関係で下級生はなかなか一号を殴れない」と書いたことがありますが、
下級生は一号の捨て石になることを要求されていますから攻撃で殴っている時間は無く、
さらに防御になると下級生はスクラム係。土台係。
さらに殴ることはできなさそうです。


しかし、そこはそれ、もし最初から「あいつぜってー殴ってやる」という強い意図をもっていたら、
もしかしたらどさくさに紛れて一発は殴れたかもしれませんね。
いや、別にそういうことがあって欲しいと思っているわけではないのですが。

(この記事を書いてから改行社図書館で重複図書をいただく機会があって、その中に豊田穣氏の
『海兵4号生徒』がありました。
『(一号の)島之内は平素恨まれていると見えて、(攻撃の途中で)
二人の二号に囲まれ、かなり殴られている』
という記述あり。
やっぱり・・・・)

上記江尻慎生徒は
「怪我はせいぜい鼻血か脳しんとう、最も海兵生活中愉快なもので、
今では週一回(土曜日)のこの行事が楽しみだ」

と書いています。
かれは写真を見る限り長身の繊細そうな二枚目ですが、なかなか勇猛果敢な生徒だったようですね。
 

ところで、海兵の運動会で行われたわけではないと言いながら、なぜ体育の日スペシャルなのか?

実はうちの中学、運動会でこれやってたんですよねー。
もちろん上級生男子だけでしたが。
女子は「すごーい」と目を丸くして見ていた記憶があります。
当時としても体育に力を入れる野趣あふれた?学校だったのかもしれませんが、
おそらく今はどこもこんな危険な競技、やらないでしょうね。

こういう荒っぽい運動でスカッと発散することって、今どきの子供にだって必要なんじゃないのかなあ。
一人二人怪我して鼻血が出るくらい、男ならたまにはいいじゃん、と思うんですが・・・。

今の学校って、駆けっこの順番もつけないっていうからなあ。
モンスターペアレンツなんかが出てきて、大変なことになるんだろうなあ。



参考:「英人の見た海軍兵学校」セシル・ブロック著 海軍報道部 飯野紀元訳
    (昭和十八年初板、内外書房刊)

   「蒼空の遺書 若き海軍士官の生と死 長谷川敏行著 戦死刊行会
   「海軍兵学校よもやま話」生出寿著 徳間書店
   「海兵四号生徒」豊田穣著 文藝春秋