ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

旅しながら淡々と写真を貼る 江田島

2011-10-31 | 海軍

「え~また行くのー」
「行く」
「行ったばかりなのに」
「今日は漢字の練習しなくていいから」
「なら行く」

という情けない会話の末、半年を待たずして再び江田島海軍兵学校跡探訪を果たすことになりました。
嗤わば嗤え、蔑まば蔑め。
新しく知ることなどなくとも、そこに身を置くこと、それのみが我が願い。

しかし、今回行くことで新たに知る事実が待ち受けていようとは、
このとき神ならぬ身のエリス中尉は知る由もなかった。

 

前回左画像の「古鷹」というフェリーで行きました。
これは、東北の震災のとき、現地に出動していたというニュースを見た覚えがありますが、
もう帰ってきているようでした。

しかし今回乗ったのはこれ。高速艇です。
車で通勤する人は大きいのしか乗れませんが、
こちらはフェリーで20分のところをわずか10分で小用まで行けてしまうので、とても楽でした。
江田島の人々はこれで呉まで通学通勤をしているのです。
 
そして着いた小用港と、バスで術科学校に向かう途中の景色。
ほとんど昔からかわっていない山道のようですが、
当然のように下級生のうちは港と学校の間を歩いて行き来したそうです。
これ、荷物を持って歩いたら結構大変ですよ。
しかし例えば東京まで帰る生徒の場合、学校から船、呉から電車で、広島に着くだけでも
軽く数時間かかってしまいます。
さらに広島から東京まではまる一日?
休みが短いと東北や北海道の生徒は帰れなかったくらいです。



前回は最初の訪問だったので紹介する部分が限られていましたが、今回は余裕(?)。
あまり一般の紹介に乗っていない部分の写真を中心にお送りします。
ここが昔も今もこの場所にあった「裏口」。
(ご存じと思いますが、卒業生が船出する港側が「正門」ですね)
ここで住所氏名、通行バッジをもらって手続きをします。

 

兵学校生徒が古鷹山になぜ登るか、と言うことについては解説の方(前回と同じ)が
「この山がこの辺で一番高いから」
だそうです。
この大講堂の裏口では、よく学生が団体写真(少人数の)撮っているのですが、
最近あるきっかけで兵学校出身の方がここで撮った写真を見たばかりでしたので、
その景色と全く変わっていないこの場所にその方の姿を当てはめて感無量でした。




毎日号令を聴いているから?まっすぐに伸びたと言われている松の木の林。
本当のところは「江田島に風が少ないから」ということのようですが、どうでしょう。
だって、植物って人の感情の影響を受けるって言うじゃないですか。
モーツアルトを聞かせたり褒めたりしていたらすくすく育つけど、
罵っていたら枯れてしまうという実験もありましたし。
兵学校の松だからまっすぐ説、かなり信憑性があると思うんですが・・・。



着いてすぐ食堂で遅いお昼を頂きました。
息子は昨日に続いて「海軍カレー」。
「昨日も食べたのに」「好きだからいいの」
「カレーってインドから来たのを海軍がアレンジしたんだよ」
「じゃわざわざ海軍ってつけなくてもカレーはみんな海軍カレー?」
「まあ、(心情的には)そうなんだけどね」

わたしは画像の茸と卵のカレーをいただきました。
この日は金曜で海軍的にはカレー曜日だったので、ランチがこれだったわけです。
息子をここに一人残してツアーに出発。

 

余裕をかまし過ぎて、写真がヘンに細かいところばかりです。
学生館前でパチパチやっているみんなを尻目に、床や植え込みばかり撮っているヘンな人一人。
左は大講堂のランプですが、アールデコですね。
右は大講堂の床です。
そう、110年前から、いろんな方々がその足元に踏みしめてきた、その石造りの床。
「この上を、あの方が・・・」(笹井中尉でも菅野大尉でもお好きなお名前をどうぞ)
と感慨にふける方は多いものと思われます。




大講堂横に埋められていた「完成記念」?
大正5年5月18日、とあります。



さて、ここでレンガの話。
前回来た時と今回でほとんど同じ説明をしていた解説の方が
「実は60日前に分かったことなのですが」
というショッキングな話をしてくれました。
その話をしたいのですが、残念ながらここからの宿泊先に電波が全く来ておりません。
wifiも届いていません。
なぜなら宿泊地は岡山県は倉敷の山の中。そこは「THE 田舎」。
ですので、その無線(実質的に)地帯から復活してから続きをアップします。

というわけで衝撃の真実とは?
(含みを持たせて続く)