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友々呼びつつ死してゆくらん~黒木博司大尉

2012-09-27 | 海軍人物伝

               

黒木博司
大正10年9月11日、岐阜県出身
海軍機関学校51期卒
仁科関夫中尉と共に人間魚雷による必死作戦を考案
「天を回(めぐ)らし日本を窮地から救うべく戦局を好転させる」という意を込め
これを「回天」と名付ける
1944(昭和19)年9月6日、訓練中の事故により樋口孝大尉と共に殉職
死後少佐 亨年二十二

先日奇しくも黒木大尉殉職の9月6日に回天について書こうと思い立ったことを、
「何かの縁」と考えているエリス中尉です。

この事故の起きた9月6日、大津島の回天基地では訓練の二日目を迎えていました。
画像は、回天に乗り込む黒木博司大尉。
黒木大尉の写真はこの写真と正面からの写真が計二枚あるだけで、他の皆のように
基地での団体写真や出撃前の記念写真がありません。
この写真は、画像が不鮮明ですが、光の感じから晴天であるらしいことがわかります。
この9月6日は朝方は晴れ渡っていたのですが、午後から急に強風が吹き始めました。

この写真が撮られたのは、その前日の9月5日か、あるいはこの6日のことです。
どことなく険しい表情から、皆の反対を押し切って訓練を決行した9月6日、
つまり事故直前の黒木大尉の姿ではないかと思えてなりません。

それにしても、回天に乗り込むのになぜ酒瓶のようなものを持っているのでしょうか。

回天は一人乗りです。
この時はま二日目で、搭乗員を一人ずつ「適性検査」のような状態でチェックする段階でした。
座席は一つしかありませんから、指導官は、操縦席の左前方のわずかな隙間に、
体を折り曲げるようにして座ることになっていました。
そして、この指導官の重責が果たせるのは黒木大尉と仁科中尉二人だけです。

出航予定の4時、ますます風が強くなり、波浪は一段と高くなり、うねりさえ加わりました。
板倉光馬指揮官は危険と判断し、訓練の中止を告げます。
しかし、黒木大尉は語気も鋭く

「指揮官、どうして中止するのですか!」

と食ってかかりました。
波が高すぎて危険であることと、訓練予定の樋口孝大尉(兵70)が初めてであること、
板倉少佐は説得しますが、黒木大尉は一歩も引こうとしません。
それまで黙って横で聴いていた仁科中尉がこう言いました。

「今日はやめた方がいいでしょう。
私のときも湾口で波に叩かれ、潜入のとき20度近いダウンがかかって危なかった」

「黙れ!」

板倉司令官には見せなかった凄まじい形相で黒木大尉は仁科中尉に向かって怒鳴りました。

「天候が悪いからと言って、敵は待ってくれないぞ!」

この一喝で仁科中尉は押し黙りました。
そのとき、同乗予定の樋口大尉が

「指揮官、やらせてください。お願いします」

決然とした様子でこう言ったこと、そして、こと回天に関する限り板倉少佐は「素人」であること、
それらが板倉少佐に命令を翻させる理由となりました。
そして、板倉少佐は、そのことを生涯の痛恨として生きて行くことになります。

板倉指揮官の乗った追躡艇(ついじょうてい)はエンジン停止、仁科中尉の艇も的を見失いました。
そして、帰ってこない一号艇を求めて夜を徹した必死の捜索も叶わず、二人の命をつなぐ
酸素の無くなる予定時間―午前一時が過ぎました。

遺された黒木大尉の遺書によると、5時40分に発動、18時12分、つまり発信して30分後に鎮座。
7時40分ごろ、捜索のためと思われるスクリュー音を聞いたことが記されています。
黒木大尉は、事故直後の処置、経過、所見と仁科中尉に「後を頼む」と託すことば、
家族への遺言を手帳に書きつづりました。
中には、
「事故に備えて、用便器の準備を要す(特に筒内冷却のため)」
などという文もあります。

そして、艇内に
「天皇陛下万歳、大日本万歳、帝国海軍回天万歳」
などとしたためたのが夜の10時。

この間空気不足による思考力の低下を何とかしようと睡眠を取ろうともしたようですが、

〇四〇〇死ヲ決ス。心身爽快ナリ。心ヨリ樋口大尉ト 万歳ヲ三唱ス。

〇四四五、君ガ代斉唱。莞爾トシテユク。万歳。

基地では午前一時が酸素の限界としていたようですが、
実は二人はそれよりもう少し長く生存していたようです。

〇六〇〇猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。万歳(黒木大尉)

〇六・〇〇 猶二人生ク。行ヲ共ニセン。(樋口大尉)

と、全く同じことを同時に記しています。
これは、一体どういう状況だったのでしょうか。
もうろうとしながら、どちらともなく声を掛け合い、
「まだ生きていたか」
と、もしかしたら二人で微笑みを交わし合ったのかもしれません。

板倉光馬司令官が戦後著した「不沈潜水艦長の戦い」には、司令官から見たこの日の事故経過、
さらに黒木大尉死後、仁科大尉が「火となった」凄まじいその後の様子、そして、
この事故が大津島の島民の心を打ち、これ以降彼らは回天を見ると、歩みを止め、
深々と頭を下げるようになったことが記されています。

黒木大尉はなぜ回天を考案したのか。
それは、黒木大尉が仁科大尉に打ち明けたこの言葉に包括されるでしょう。

「回天が敵艦に体当たりを敢行して戦果を上げれば、必ず航空部隊は同調する。
俺が回天の戦力化を急ぐのはこのためだ」

元々黒木大尉は、飛行機を爆装して敵艦に体当たりする作戦を、昭和18年の8月に、
呉空の司令に対して提起していたのでした。
時期尚早であるとこのとき提案を退けられたのが、
黒木大尉が回天作戦を進める動機であったともされます。

その後日本の戦局はやむにやまれぬ状態に陥り、ついに大西瀧治郎長官の提言により、
一撃必死の特別攻撃を挙行することになりました。

1944年10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊がレイテ湾で最初の特攻作戦を敢行。

黒木大尉が殉職した次の月のことです。


黒木大尉は遺書にいくつかの句を遺していますが、比較的早い時間に「辞世」とかかれた
句のうちの一つはこのようなものでした。


国を思ひ
死ぬに死なれぬ益良雄が
友々よびつつ
死してゆくらん