本日もう一人ご紹介するソ連の女性飛行士マリナ・ラスコヴァとともに、
この人物はこのように描けと言われたような気がしたので、
今日はマンガ風肖像でお送りしております。
リディア・ヴラジミロブナ・リトヴァク。
ソ連邦の英雄で、ドイツ空軍からは「スターリングラードの白薔薇」
とあだ名されていたという戦闘機パイロットです。
やはりソ連のエカテリーナ・ブダノワとともに、史上ただ二人の女性エースの一人として、
とくに近年日本の萌界ではその名が有名になったリトヴァクですが、
このRytviaKは、どちらかというと「リトビャーク」という発音が近いのではないかと思います。
また、アメリカの博物館では彼女の名前はLilyaとなっているのですが、これは
ロシア文字を発音通りに表記した場合、こういう解釈をすることもあるということでしょう。
ここでは日本での通例通り、「リディア・リトヴァク」と表記することにします。
1912年、モスクワに生まれた彼女は11歳の時に「空に恋をした」といいます。
14歳で飛行クラブに在籍し、翌年には最初の単独飛行を果たしました。
Kherson(ヘルソン)の軍飛行学校を優秀な成績で卒業した彼女は
カリーニン飛行クラブで教官として働きだします。
14歳で希望すれば飛行機に乗れるというのもすごいですが、当時のソ連は共産主義革命後で
労働は美しい!額に汗して働く者がが報われる社会!みたいなことになってたせいでしょうか、
高校生くらいの若い女の子でも教官職にも就けたのですね。
彼女はそこで17歳までに旧式の複葉機を用いて、
45人ものソ連空軍パイロットを教官として指導しています。
1941年独ソ戦が勃発します。
もともと不倶戴天の敵同士であった両国の4年に亘る戦闘で、
共産主義革命を起こしたソ連と反共の尖峰であるドイツのあいだに
ポーランド分割を巡って利益が衝突した結果起きたものです。
ドイツ攻撃の報せを聴いた彼女は、軍航空隊に入隊することを希望しますが、
経験不足を理由にその志願は却下されてしまいます。
しかしおそらく優秀な彼女に活路を与えるために、上層部は意図的に100時間、
戦前の飛行時間を水増しして第586飛行部隊に配属されることになります。
これは、マリナ・ミハイロヴナ・ラスコワによって組織された女性だけの飛行部隊です。
宮崎駿監督には、もう一度(笑)引退を留まっていただいて、
ぜひこんなノリで架空女子飛行隊の映画など創っていただきたくなります。
余談ですが、このロシア名、女性形と男性形があって、
たとえば彼女の名前「ミヒャイロブナ・ラスコワ」であれば、男性形は
「ミヒャイロビッチ・ラスコフ」
と、同じ家族でも語尾が変わってくるんですね。
ラスコワも、ラスコフさんと結婚したのでこの名になったわけです。
わたしはロシア系アメリカ人で「スキー」のつく名前を持つ人物を知っていますが、
彼に、
「お母さんはやっぱり『スカヤ』なのか」と尋ねたところ、
「アメリカではそれは絶対にない」
という返事でした。ご参考までに。
ドイツ側には「東部戦線」、ソ連側では「大祖国戦争」と呼ばれた独ソ戦争勃発の時、
マリーナはすでに飛行士としてヨシフ・スターリンとの知己を得るほどの有名人で、
そのスターリンに頼んで女性ばかりの三つの飛行部隊を作らせます。
そのうち一つが戦闘機Yak-1を主力とする第586戦闘飛行連隊で、
リディアが入隊することができた部隊でした。
このマリーナですが、他のほとんどの女性飛行家のように小さい時から
飛行機に憧れていたわけではありません。
彼女は歌の教師であった父親の影響でオペラ歌手になることを夢みて育ち、
実際にも音楽の勉強をしていたのですが、父親が事故による障害で亡くなってからは
生活のために音楽をやめ、化学を勉強して染料工場で働きだします。
セルゲイ・ラスコフと結婚した彼女は女児を設けましたが、
図案工として、空軍のエアロナビゲーション研究所で仕事をするようになったことが
彼女の人生を変えます。
その後、彼女は爆撃機による長距離飛行記録を立て、パイロットとして、
そしてソ連初の女性ナヴィゲイターとしても国家的に有名な存在になります。
彼女の創設した女性だけの部隊、ことに夜戦専門の攻撃隊はきわめて成功し、
ドイツ軍は彼女らを
”ナハト・ヘクセン”(夜の魔女)
と呼んで恐れました。
さて、リディアの話に戻りましょう。
いったんは女性部隊に入ったリディアですが、
なんと初空戦一か月後に、男性ばかりの(ってこっちが普通ですが)飛行隊に配属されます。
このときに同時に移動になったのがもう一人の女性エース、カーチャ・ブダノワ、そして
マリア・M・クズネツォワとライサ・ヴァリァエワの計4人です。
女性部隊の中でも最も優秀な「四天王」(笑)というわけですね。
リディアは二回目の初空戦で戦果をあげ、隊長のボリス・エレーミン(のちの空将)をして
「非常に闘争精神に富む人物」
「戦闘機に乗るために生まれてきたような人物」
と激賞させています。
彼女はまた、リヒトフォーヘンの遠い親戚にあたる
ヴォルフラム・フライヒャー・フォン・リヒトフォーヘン将軍が司令を務める
第54戦闘航空団第2飛行隊のエース、鉄十字賞三回受賞の勇者、
アーヴィン・マイヤーの乗ったメッサーシュミットBf 109を撃墜しています。
パラシュートで脱出したマイヤーはロシア軍の捕虜になるのですが、そこで
「自分を撃墜した『ロシアのエース』に会わせてほしい」
と頼みます。
よっぽど悔しかったか、あるいはその腕に舌を巻いたんでしょうね。
ところが彼の前に現れたのは楚々とした二十歳そこそこの女の子。
「おいふざけんなよんなわけあるか!」
とは言わなかったとしても、マイヤー空曹はてっきり自分が馬鹿にされていると思い、
最初は全く信じませんでした。
しかし、彼女が空戦について当人しか知りえない経緯を説明したため
初めて自分を撃墜したのが目の前の女性であることを認めたそうです。
知らない方が幸せだったってことって・・・・・・・・ありますよね。
ちなみにドイツ空軍はスターリングラードで、それ以外のBf 109を失ったことはありません。
1943年にはレッドスター賞授与、そして中尉に昇進したリトヴァクは、ブダノワとともに
okhotniki(狩人)あるいはフリー・ハンターと呼ばれるエリート部隊に配属され、
熟練パイロットがペアで索敵するという戦法で空戦を行います。
このころ彼女は二度被撃墜を受け、負傷もしています。
リトヴァクの知人によると、彼女は
「ロマンチックで、かつ反抗的なキャラクター」
の持ち主で、戦果をあげた空戦から戻ってくると、基地上空で禁じられていたアクロバット飛行を、
しかも司令が激怒していることを知りながらやってのけるようなところがあったそうです。
さらに友人によると
「彼女は自分が無敵だなんて信じていませんでした。
パイロットの生死なんて所詮運だと思っていたわ。
彼女はもし最初の空戦から生きて帰れたとしたら、さらに飛んでさらに経験を積むことで
生き延びるチャンスがさらに増えるだけのことだと固く信じていたの。
ただ、運をいつも味方につけておくべきだとは言っていた」
彼女はそして戦闘機隊という荒々しい職場にあっても女性らしさを意識して保っていました。
今日残る写真の髪はブロンドに見えますが、これは病院に勤める女友達に頼んで
過酸化水素水を送ってもらい、それで染めた色です。
彼女はまたパラシュートの端切れをいろんな色に染めてそれを縫い合わせたスカーフを巻き、
お洒落を楽しんでいましたし、機会をとらえては花を摘みブーケを作ることが大好きでした。
特に赤いバラが。
そして彼女の搭乗した後の座席にはにはしばしば花束が置かれていて、
機を共有するほかの男性パイロットはそれをコクピットから捨てることになったようです。
前述のラスコヴァは若い時に結婚した相手と、空で活躍するようになってから離婚しています。
若い、そして「ロマンチックな」リトヴァクはやはり恋をしていたのでしょうか。
彼女の僚機であったアレクセイ・ソロマチン大尉は彼女の婚約者だったともいわれています。
彼は15機撃墜した同じエリート部隊のエースでしたが、ある日の空戦で戦死します。
ヴェルニス・ポレタという小説家の記述によると、ソロマチン大尉は弾薬を使い果たしたところを
BF109に撃墜され、その空戦の模様をリトヴァクは飛行場から目撃した、
ということになっているそうです。
しかし、同じ作者の別のバージョンでは
「新人パイロットの訓練中に事故で殉職」
となっていて、こちらは日本語のウィキペディアの記述に採用されているようです。
どこの国の戦記小説にも創作はつきものですが、同じ作者が全く違うことを言っている、
というのはあまりない例かと思われます。
このポレタとかいう作家には、どちらが創作なのかはっきりとしていただきたいですね(怒)
しかし、動かぬ事実としてリトヴァクが彼の死後、母親にあてた手紙で
「お母さんも知ってるように、彼はわたしのタイプじゃありませんでした。
でも、彼がわたしを愛し、告白してくれたので、わたしも彼を愛していることを確信したの。
今言えることは、わたしはもう二度と彼のようなひとには会えないだろうということです」
という報告があり、これが彼女が結婚を申し込まれていたということの論拠になっているようです。
それにしてもソロマチン大尉の写真が出てこなかったので彼女の言う
「タイプじゃない」
というのがどういう顔かわからなかったのが残念です。
この部分も日本のウィキでは「死んでから初めて彼を愛していることに気づいた」
となっていますが、英語版の手紙を翻訳しても、そのような意味にはどうしてもなりません。
まあそのように多少の解釈の違いはありますが、
とにかく彼女は愛している人を失い、その後衝かれたように空戦にのめりこんでいき、
そして21歳のまだ咲き初めた花のような命を空に散らすことになるのです。
1943年、出撃した彼女はついに基地に戻ることはありませんでした。
一緒に出撃したイワン・ボリシェンコは
「リリーは(どうもこれが愛称だったらしい)ドイツの爆撃機援護のために飛んでいた
メッサーシュミットBF109に気づかなかったんだ。
ペアになったドイツ機が急降下してきて、それを彼女は迎え撃とうとした」
ボリシェンコはその後雲間に彼女の機を見失い、パラシュートも見ませんでした。
ドイツ軍の二人のパイロット、ハンス‐ヨルク・メルケル、そしてハンス・シュリーフの二人が
リトヴァクを撃墜したと今日では信じられています。
戦死したことが確定的になっても、すぐに彼女の戦功が称えられ英雄となったわけではありません。
彼女が捕虜になっていないこと、つまり完全に死んでしまったことを確かめるため、
ソ連は彼女の遺体を・・・・金属探知機まで動員して探しました。
そしてその結果、彼女らしい女性搭乗員がロシアのある小さな村に葬られており、
その搭乗員は頭部の損傷によって死亡していたらしいことが突き止められました。
これが1979年、彼女が死んでから実に36年後のことです。
捕虜になっていなかったことがわかり、ソ連政府のキャッチフレーズ呼ぶところの
「スターリングラードの白百合」、リディア・リトヴァクは、
初めてソ連の英雄として認められたというわけです。
ちなみに、敵だったドイツと英語圏では彼女を「スターリングラードの白薔薇」と呼んでいますが、
彼女が生前好きだった花を思えば、こちらの方がその名に相応しいといえるかもしれません。
彼女の短くドラマチックな生涯は内外の作家の手で様々な著書に記されていますが、
その中でも、わたしはロシアの作家による
「アハトゥング!アハトゥング!上空に『白い百合』」
(Achtungはドイツ語で『警戒』)
「 天空のディアナ リディア・リトヴァク」
(ディアナは狩りの女神)
が気に入りました。
どうしてもこの人物はこのように表現されるのですね。
同じエースだったブダノワが、三機のフォッケウルフと交戦し、二機撃墜するも
被弾し撃墜されるという壮絶な最期を遂げて国民的英雄になったにもかかわらず、
今日の両者の知名度に全くの差があるのも
リトヴァクが美少女だったからということは否定できません。
いや・・・・ブダノワさんだって、戦死したのは若干27歳の時で、
しかも、もっと若い時はかなりおきれいな方なんですがね。
ロシア女性というのは若い時は妖精のように美しいのに、
ある年齢を超えると全く別のものになってしまう生き物のようで・・・おっと。
不謹慎ですがリトヴァクももしあと5 、6年戦死するのが遅ければ
果たしてここまで信奉者を生んでいたかどうか。
マリーナ・ラスコヴァは、第125爆撃守備隊の司令であった1943年1月4日、
スターリングラード近くのヴォルガ川土手に不時着する際失敗して殉職しました。
彼女の死に対し、ソビエト連邦は独ソ戦始まって以来最初の国葬を行っています。
そのとき彼女は32歳でした。