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海軍設営隊の大東亜戦争

2015-05-30 | 海軍


何回にも分けてお話をしてきた呉海軍墓地の碑にまつわる逸話シリーズ、最終回です。
そこで今日は呉海軍墓地の歴史についてお話ししておきたいと思います。

呉海軍墓地がここにできたのは明治23年。
呉鎮守府が開庁されたのが前年の明治22年ですから、海軍は戦没海軍軍人の霊を祀る、
人々の心の拠り所となる慰霊の場を何よりも優先して設けたということになります。

海軍はここ長迫に用地8,503坪を買収し、墓地の管理は呉鎮守府が行い、
開廟以来毎年秋季に慰霊祭を執り行ってきたのですが、昭和20年の終戦と同時に廃止されています。

終戦直前の7月24日、28日の呉軍港大空襲、次いで9月の枕崎台風による水害で、
海軍墓地は無残に荒れ果てたのですが、呉復員局が中心となって地元有志の力で復旧させました。

以降、心ある人々、団体、付近住民の奉仕によって清掃と供養が続けられてきましたが、
昭和43年になって「呉海軍墓地顕彰保存会」(のち財団法人化)が組織されました。
その後ここは呉市が維持管理を行い、環境整備と年一回の慰霊祭を行っています。



墓地の南端には、古い墓石ばかりが肩を寄せあうよう並べられていました。
苔むし遥か昔に建てられたと思しき墓石は、その文字すら判然としないのですが、
一番左の石にこの事情がわかる文字が刻まれていました。



といっても、こちらも文字が欠けたりしてろくに読めないのですが、

「本地域一在」「九基墓」「不明のため移転す」

そして昭和10年の日付並びに呉海軍の文字がなんとか読み取れます。
どうも、昭和10年ごろ、この墓地が再整備されたときに残されていた墓石を、
海軍墓地の隅にまとめて移転させたということを、わざわざ断っているようです。

もう手入れすることもない個人墓(しかも大きさから言って庶民のもの)であっても、
決して粗末に扱って廃棄してしまうなどということをせず、
こうやって説明のための石碑まで作って、ちゃんと場所を与えているのです。
海軍だったから、というより日本人であれば当然の行いであると思われます。


余談ですが、近年、日本の各地で神社に放火されたり、御神木が枯らされたり、
道祖神が盗まれたり、京都の神社仏閣に油が撒かれたりする事件が相次いで起こっていますね。
偏見でもなんでもなく、こういうことを行えるのは、まず日本人ではないとわたしは断言します。
日本人なら理屈抜きで、そんな行為には必ず祟りがあるとその血が信じている筈だからです。



墓地南端にはいつ整備されたかわからない、誰も通らなさそうな階段があり、

さらには何のために作られたかわからないテーブルと椅子がポツンとありました。
春にはきっとここには桜が花を咲かせるのでしょうけど、花見を楽しむような場所ではないし・・。

そしてこの石碑。

「皇太子殿下御降誕記念樹 昭和八年十二月廿三日健之」

とあり、今生陛下のお誕生を祝って植樹されたことがわかるのですが、
周りにはそれらしい樹は全く見当たらず、どうやらその木は戦災に焼けたか、
あるいは台風の時に倒れてしまったかで喪失し、碑だけが名残りをとどめているようです。




「第103海軍工作部 戦没者之碑」

工作艦というのがありましたが、工作部というのもそれと同じ、工廠の仕事をする部門で、
工作艦が「移動工廠」ならばこちらは「出張工廠」とでも言うべきでしょう。
艦船修理、小型艦船建造等の技術部隊である第103海軍工作部は、呉海軍工廠の人員を
部隊として、そのままフィリピンの軍港に派遣したものでした。


ちなみにこの「工作部」という名称は現在も自衛隊に引き継がれており、

「 横須賀地方総監部横須賀造修補給所工作部」

などが現存します。

艦船修造技術を習得する教育機関としては、かつて横須賀と沼津に

「海軍工作学校」

があり、船匠・鍛冶・溶接・潜水作業などの工作術を始め、ダメージコントロール、
築城術、設営術、航空機整備術の技官や職工を養成していました。
こういうところの出身者が海軍工廠、あるいは根拠地に工作部として派遣されたのですが、
この第103部隊は、昭和17年にフィリピンに進出してそこを根拠に修理などを行います。

しかし、戦況はますます厳しく、アメリカ軍がフィリピンにも進出してきたため、
工作部長早川海軍少将以下200名の本部隊員たちは、昭和20年、ルソンに転出を余儀なくされます。
艦艇修理ではなく、今や陸軍の後方部隊として生産・輸送に携わりますが、
米軍の進出にまたしても追い詰められたため、山岳地帯への移動を余儀なくされました。

艦船修理という元々の任務など、ここでは全くお呼びではありません。

山中を逃げ回り、食べ物を探すのがやっとの毎日の中で、工作部員たちは次々と飢餓に倒れ、
マラリアに伝染し、 終戦後、山から下りることのできたのはごくわずかだったのです。

また別の第103工作部の部員1500名も、隊長である技術中佐の指揮のもと、
マニラで武器製作に携わっていましたが、 やはり陥落寸前に街から脱出して陸軍とともに
山岳地帯を転戦し、果ては食料欠乏のため部隊を解散するに至ります。

四散した隊員たちはやはり飢えと病気、ゲリラの襲撃に次々と斃れてゆき、
終戦のときに生き残っていたのは、わずか数名であったそうです。

技術者の集団で、武器を扱う訓練も満足にしていなかった工作部が
山中に逃れてゲリラと戦っても、生き残る見込みはまず無きに等しかったでしょう。
彼らの多くは昭和20年6月20日に死亡が認定されており、これはおそらく
大規模なゲリラとの戦闘がこのときに行われたからではないかと思われます。 



慰霊碑の傍らには施錠された名簿を収納するボックスが設置されていました。
関係者だけが鍵を開けて名簿を閲覧することができるようです。

このようなツールが備えられている墓は少なくとも見た中ではこれだけで、
いかにも技術者の慰霊碑だなあと思わされました。

おそらく生き残った元工作部隊員が考案して設置したものに違いありません。 



さて、そこで冒頭写真の慰霊碑です。

 呉海軍設営隊 顕彰慰霊碑

長迫公園の海軍墓地の説明を見て、

この慰霊碑が海軍設営隊、27部隊の大合同慰霊碑だったことを知りました。

割り振られた番号はすべて地域ごとであり、パラオ、ラバウル、ペリリュー、香港、バリ、
ブーゲンビル、鎮海、マニラ、カビエン、ブカ、タラワ、バリクパパン、昭南島、宮古・・。

大東亜戦争における激戦地をほとんどすべて網羅するかのように地名が記されています。

わたしは海軍設営隊についてを知るために、海軍技術大尉だった予備士官(日大土木工学科卒)
佐用泰司氏の著書、

「海軍設営隊の太平洋戦争」

という本を読んでみました。
技術下士官としてニューギニアに転進した部隊の指揮官をしていた人で、
その体験記は、簡単に言うと、先ほどの工作部と全く同じ。
すなわち、

進出→戦況悪化→転進・餓えやマラリアとの戦い→転進・自活生活のノウハウ→敗戦

といった現地での悲惨な思い出がほとんどすべてといっていい内容でした。



海軍といえば、誰しも艦隊、航空隊考えるのが常です。
戦争映画というとこれら兵科の戦いが描かれ、ごくまれに陸戦隊が加わります。
次にはこれらの艦艇、砲、飛行機を製造する工廠や航廠について目がいきます。
近年零戦などの名機を作った技術者に目を向けた作品も増えてきましたが、
これらの膨大な施設を建設管理する組織について関心が払われたことはかつてありません。

しかし、すべての基礎である施設の建設がなくては何も行うことはできないのであり、
設営部隊の存在は(現代でもそうですが)大変大きなものなのです。

大東亜戦争は補給戦でもありました。
補給の防衛は海洋築城の重要性を必要とし、その急激な発展を見たのです。
太平洋の要所に多数の築城施設を整備し、邀撃決戦を行おうとする考えです。

敵国であるアメリカの設営隊は略称シービーズ(C.B's)と言いましたが、
設営隊員は自らを「See-bees」(海のハチ)と誇りを込めて自称していました。
ハチのように勤勉に、島伝いに基地を設営しながら進撃するという意味です。
国力の違いはここでも重機機器の装備となってあらわれました。

シービーズたちは新型のキャリーオール・スクレーパーなどを駆使して、

超スピードで航空基地もあっという間に造ってしまいます。

対して日本海軍では、国産機械を装備した設営隊が前線に出動したのは昭和18年の後半。
しかしその国産機械の多くはアメリカ軍の鹵獲品の模造にすぎず、
操作技術の未熟もあって、故障が頻発するという始末です。 

設営隊の段階で、すでに日本は圧倒的に負けていたのです。


そして米軍設営隊が自らの任務に誇りを持っていたのと違い、ありがちな話ですが、
大砲や軍艦ではなく、ブルドーザやパワーショベルで戦う部隊は軍隊扱いされず、
海軍技師が指揮官、幹部は文官、隊員は土工、鳶工、大工などの軍属部隊だったので、
いくら上層部が、

「工員に自覚と誇りを持たせよ。海軍工員は陸軍の工兵に相当する施設兵だ」

と強調しても、

「気持ちは兵隊でも身分上は工員」

という中途半端な時代が長らく続いていたといいます。

昭和19年5月、「技術下士官及び兵」の制度ができて「軍人設営隊」が編成され、
ようやくこの半端さが身分上は解消されたのですが、それはつまり、
南方の根拠地の防衛戦のために急速設営が必要だったから、という理由によるものでした。

加えて彼らは名目上の軍人であり戦闘部隊ではありませんから、自衛のために必要なわずかの小銃、
そして手榴弾の他は武器らしい武器などもたせてもらえず、そもそも戦う技術もありません。
しかし、太平洋の島々に配置され、敵と相見えることになった時、
彼ら設営隊は最後までこれと戦わなくてはなりませんでした。


そして最後の一員まで戦い抜くと悲壮な決意を持っていながら、戦う武器を持たぬ彼らは
多くの設営隊がサイパン、テニアン、グアム、硫黄島、沖縄などで玉砕することになります。

ここに合祀されている設営隊のうち、
第214設営隊(ペリリュー)と大318設営隊(グアム)はほぼ全滅、
第218設営隊(グアム)は玉砕つまり全滅しています。

太平洋で玉砕した設営部隊(ここに合祀されていない)は14部隊に上ります。


ところで、佐用氏の本にもブーゲンビルの戦記でも見られたことなのですが、
どういうわけか、陸軍部隊の自活は海軍に比べて常に遅れをとっていました。

海軍部隊が自活の必要性を見越して、耕地の開墾に身をやつしていた頃も、
陸軍は対空遮蔽を犠牲にしてまでも畑を作ることを頑としてしようとせず、
海軍の作った畑が収穫期を迎える頃、陸軍では皆が栄養失調になりかかっており、
全員の体力が失われて、層原始林を切り開くことなどできなくなってしまう悪循環。

見るに見かねて海軍側が貴重な甘藷の苗を割譲しましたが、三ヶ月後の収穫も待てず
植え付ける前に食べてしまったりして、さらに状態は悪くなるばかりです。

佐用氏は、サラワテにいた陸軍指揮官の指揮官が、

「開墾したくても道具がなく本土の師団からは何も送ってきてくれない」

と嘆くので、

「我々の使っている道具はトラックのスプリングやシャフトから鍛治で作ったものです。
陸軍も工夫して作って見られたらどうですか」

と提案すると、

「しかしふいごもないし石炭もない・・」

創意工夫というものを全く放棄して、ただ本土からの支援を待っているだけの指揮官に、

「ふいごも我々は自分たちで作ったのです」

と激励のつもりで言ったのですが、内心「絶対的な命令と服従」によって動かされてきた軍隊
(つまり陸軍)には将兵の間に唯々盲従と諦めが蔓延しているのではないか、
なぜ此の期に及んで忍耐強く命令と補給を待つのだ、と絶望したと回想しています。

しかし、前線の小部隊、つまり本土との連絡などもう全く当てにならなくなった部隊は、
陸軍であっても「背水の陣」の創意工夫を発揮し、自活への道を切り開いています。

彼らは「漁労班」を結成して(軍隊ですから)精米袋をほぐして漁労用の網を綯い、
敵機来襲の隙をみてはそれを引いて魚を獲りました。
そして海軍部隊の農作物と陸軍部隊の魚で体力を回復した一行は、
互いに競争するように工夫を出し合い、ボートを作り、鶏を養殖し製塩を行い、
「エビオス錠」から麹を取り出して醤油を作り、酒を製造し、石鹸を作り・・。

必要からは工夫が生まれるという言葉の通り、何もないジャングルで
彼らは知恵を出し合って生きる闘いを余儀なくされていたのでした。


戦争で多くの人命が失われましたが、南方に陸上部隊として前進した人々の多くは
戦闘でなく、自然との戦いに斃れていきました。
その際、上からの命令に対して比較的フレキシブルな体質だった海軍の方が、
命令系統が厳格で、従属を是としていた陸軍より、生存自活に長けていたというのは
なかなか興味深い傾向ではあります。


 
というところで、何回かに分けて語ってきた、「海軍墓地シリーズ」、終了です。

またいつか機会があったらここ長迫公園の海軍墓地を訪れて、今度はゆっくりと、
今までここで書くために調べて知ったことを思い返しながら、
海軍の英霊たちに慰霊を捧げたいと思っています。