ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オークランド航空博物館~USSメイコンの二人の犠牲者

2013-08-16 | 軍艦

このオークランド航空博物館は、何度か言ったように、
ハンガーに飛行機をただ並べただけのぞんざいな展示なのですが、
そのそっけなさというか放置されたままの感じが、
よりここにある飛行機たちとの距離の近さを感じさせて、非常に印象深いものでした。

「Don't touch」と書いてあっても、見張っている人もいないし、
極限まで近寄って、心ゆくまで機体を眺めることができるのですから、
飛行機好きの人にはまさにサンクチュアリのようなところです。



下を見て歩いていないと翼にぶつかってしまうから、と言うことでこのように
目立つ色のシールをこれまたぞんざいにテープで貼ってあるだけ。
飛行機と飛行機の間も決して広くないので、うっかりしていると体が当たってしまいそうです。

キャッスル航空博物館の方はこんなことはなかったので、アメリカだからというより
こういった「おらが空港のミュージアム」ならではの大らかさなのでしょう。



Sparrowhawk Mk II

スパローホークで調べると、これとは全く違う形のカーチスの戦闘機が出てきます。

これはカナダのバンクーバーにあるエアロダイナミクス社の制作した
ツインブーム・テイルのナセル・コクピットデザインの飛行機。
こう見えて?非常にコントロールしやすいということです。

カーボンファイバーとケブラー樹脂の混合された素材は、軽量でかつ丈夫とのこと。



この機体はキットをオーナーが組み立てるというものです。
ドゥーイットユアセルフの飛行機ですね。

ツインブームのテールなので、



こんなところにプロペラがついているのですがこれがなんともかわいい。
プロペラのカバ‐を白と水色のストライプにするなど、オーナーのこだわりですね。



サイドバイサイドで二人乗り。
操縦するのは車と同じで左座席だけです。
しかし、この助手席に乗るのはご遠慮したいものです。

わたくし何を隠そう、グランドキャニオン行きのセスナで終始生きた心地がしなかったくらい、
こういう小さな飛行機に乗るのは怖いのです。

これは自分で操縦しないからで、車でも助手席に乗っていると高速などは怖くて仕方ありません。
相手を信用しているとかいう以前に助手席にいるより運転席が長いと、
どうしてもこうなってしまうように思われます。

たぶんですけど、こういう飛行機も自分が操縦するのなら平気なんですけどね。



North American Aviation T-39 Saberliner

ノースアメリカンと言えば、このブログ内で語ったT-6「テキサン」、F-86「セイバー」など、
傑作飛行機を作った航空機製造会社ですが、このNAが初のビジネスジェット機として
自費開発したのがこの「セイバーライナー」です。

NAで開発が始まったちょうどそのとき、米空軍に汎用練習機の試作計画が起きました。
Utility Trainers Experimental、つまりUTX計画です。

これに呼応したNA社に空軍が付けた注文が

「翼と尾翼は『セイバー』と類似性を持たせてほしい」

そこで、NAは、このジェット機に「セイバーライナー」と名付けたのでした。
この機種は空軍が1959年に配置した後、空軍と海軍どちらにも配備されました。

この機体の認識番号はCT-39A、60-3504

これは、輸送(Cargo)と人員輸送(Personal Transport)に従事するためにデザインされたもので、
1960年に就航した、という意味があります。


ところで、この写真を撮っていたエリス中尉の目は、ある物を見つけてきらりと光りました。
なんと、このセイバーライナー、ドアが開いているではありませんか。

もしかしたら、この日はこのセイバーライナーを公開する日だったのかもしれません。
単にドアが壊れて開きっぱなしだっただけなのかもしれませんが。

これは中に入ってもいいってことよね?
それでは、と中に入り込みました。
写真は撮りませんでしたが、搭乗口から三段ほどの階段が降ろされています。
これは機体に据え付けられたもので、少し高いですが、簡単に機内に入れます。



お邪魔します。
コクピットには二人、乗務員は一人、キャビンには6人が乗れます。
こうして写真にとると狭いように思えませんが、なにしろ狭いです。
頭をかがめないと歩けません。

ちゃんとカーテンがあったり、もう撤去されていましたが写真の左側には昔トイレがあった形跡が。
左に見えているのはシンクで、水道の蛇口のようなものも見えます。



コクピットはどちらも操縦桿付き。
当時使っていたヘッドフォンがそのまま置いてありました。
シートベルトは肩から回して股のところで留める三点式です。



そしてずいっと奥まで入ってみると・・・・・・。

窓が・・・外れたままになっている・・・・・ORZ

まあ、この辺は雨が降らないんですけどね。
でも、やっぱり外気にさらされっぱなしというのは保存の観点からいかがなものか。



その気になればここからも入れたわね。


それはどもかく、この右側のシートに、星が一つあるカバーが掛けられていますね。
これは、ここがアメリカ的に「上席」というやつで、ここに一度だけですが
彼女は空軍のお偉いさん、星ひとつのジェネラルつまり准将(Brigadier General)を
乗せて飛んだことがあるのだそうです。

言ってはなんだけど准将でもこうやって「記念」を残すんですね。




そして問題の・・・・・・これ。

これ、何なんでしょう。

デコイ・ミサイルを「子供用のレプリカ」などと勘違いしてしまったエリス中尉ですが、
説明を読んでもこれが何なのかさっぱりわかりません。



Multipurpose Servicing Unit RCPP

充電と空冷のサポートをする、と説明には書いてありました。

パイロットの耐圧スーツのためのホースとか予備燃料のためのアクセスとかありますから
航空機の非常電源とか、燃料とかが搭載された「便利グッズ」なんでしょうけど、
これはマルチ・パーパスになった現代の増槽?

こういうものの通称、どうやって使うかご存知の方おられますか?
 



これも説明板が見つからず、なにか正確にはわかりませんでした。
ただ、形からどうもメイコン飛行船のモックアップのようなものではないかと考える。

もしこれがUSS Maconだとしたら、これは偵察任務に使用することを目的に
アメリカ海軍によって建造され、使用された硬式(公式ではない)飛行船のことです。

実は「スパローホーク」で画像を検索したら、このメイコンが出てきたのですが、
メイコンは空中母艦として軽いスパローホークを5機まで牽引できたそうです。

機体が金属にもかかわらずヘリウムガスで揚力を得ていたという、
素人目に見てもいかにも危なっかしい機構のものですが、
案の定というか予想通りというか、二年も経たないうちに、強風に煽られて
モントレー湾(今いるところの近く)に沈んでしまいました。

比較的天候の穏やかなカリフォルニアだからこそ、2年もの間無事故だったとも言えますね。

この時の事故で、メイコンの機体は海上には非常にゆっくり落下したため、
乗員乗客のの70人はライフジャケットとボートで生還することができました。

この事故における犠牲者は二人。
一人は何を思ったか、事故発生直後に高高度から海面に飛び降りて即死、
もう一人は一旦脱出できたのに、私物を取りに船体に近づき、沈没に巻き込まれて死亡。
どちらも本人次第で防げた犠牲です。


先日のアシアナ事故で、乗客の何人もがカートまで持って脱出していましたね。
これはすべてたまたま延焼が遅かったからできたことで、ただ、運が良かったのです。
このような恣意的な行動は、本来脱出の手助けをする乗務員によって全て制御されるべきで、
もし事故機がガソリンが少ない状態で墜落したのでなければ、
この乗客たちのエゴによって死傷者は倍増していたものと思われます。

東北の大震災でも、自宅に貴重品を取りに帰って津波に巻き込まれた人が多くいたといいますが、
お金も大事なものも命に代えられるものではありません。

昔読んだ「大事故、自然大災害から生還した人々」という本の一節に、
たとえば常日頃瞑想をするなど、精神統一を欠かさない人はこういう時に
結果的に生還する確率が高い、という印象深い報告がありました。
このようなひとたちは一般的に精神性を重んじ、物欲を排除しようとする傾向にあるので、
いざとなったときにそういった欲に支配されることもなく、
過たず判断し、かつ行動することができるということなのかもしれません。

また、逆に大災害を経験した者は物に執着しなくなる、という話もあります。
いずれにしても物への執着や過った状況判断によって命を失うほど虚しいことはありません。

せいぜいいざというときのために、この二人がなぜ犠牲になったかを肝に銘じたいと思います。



メイコンはモントレー湾の海底深く、ダイバーも到達できない場所に沈みました。
最近調査委員会によって機体の一部が引き揚げられたりしましたが、
自然保護区であるため、これ以上の引き揚げは今のところ不可能であり、
メイコンの眠るこの海の底は「アメリカ海軍の墓場」の一つとなっています。

http://www.sanctuaries.noaa.gov/missions/2006macon/welcome.html









目黒・防衛省見学~「天空海闊」鈴木貫太郎

2013-08-15 | 海軍人物伝

防衛省エリアにある海自幹部学校所蔵の書、
鈴木貫太郎の

「天 空 海 闊」

これは、心が広々として度量が大きく 何のわだかまりもないことという意味です。
「海闊」は大海が広々としていることで、「天空」は空がからりと晴れ上がってどこまでも広いこと。
「闊」は「濶」とも書き、「海闊天空かいかつてんくう」とも言います。

鈴木貫太郎の書、というとわたしとしては思い出さずにはいられない話があります。


「鈴木貫太郎と安藤大尉」というエントリで扱った話で、
鈴木の居にしばしの対話を求めて訪れた2・26事件の首魁である安藤輝三大尉が、
鈴木の人格に触れこれに私淑し、所望した鈴木の揮毫を事件の日まで自宅に掛けていた、
というエピソードです。


このときに、鈴木はどのような書を揮毫し安藤大尉に与えたのでしょうか。

それはどこにも伝わっていませんが、安藤大尉が鈴木との面会後に同行者に言ったという

「鈴木閣下は、話に聞いたのと会って見たのとでは、大変な違いだ。
今日は実に愉快に、頭がサッパリした。ちょうど風呂に入って出たときのようだ」
「あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」
(ウィキペディア)

という人物評は、鈴木がこの揮毫の表す文字そのものの人物であったということでもあります。



ところで、鈴木貫太郎についてのウィキペディア記事で、
鈴木が蜂起した陸軍の反乱軍にもう少しで暗殺されそうになった2・26事件の項に、
わたしは決定的な間違い(と思われる記述)を見つけてしまいました。

鈴木は午前5時頃に陸軍大尉・安藤輝三の指揮する一隊に襲撃される。
はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。
鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。

1、血の海になった八畳間に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。

2、安藤が軍刀を抜くと

部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが

「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。

3、どうしても必要というならわたくしが致します


と気丈に言い放った。

4、安藤はうなずいて軍刀を収めると、

「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。
そしてたかの前に進み、
「まことにお気の毒なことをいたしました。
われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、
国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、
女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。

以上がウィキペディアの記述です。


わたしがかつてアップしたエントリによると

1.倒れた鈴木の生死の確認をしたのは下士官で、とどめをさしましょうか、
というのも下士官同士の会話である。

2.安藤は全く鈴木の前に姿を見せず、部下が鈴木を襲撃している間女中部屋にいた。

3.たかの証言によると、たかが命乞いをしたのは下士官に対してであって安藤ではない。
 次の間で拘束されていたたかは、その場から「止めはやめてください」と懇願し、
 これを聴いた下士官は対応に困って、初めて安藤を呼びに行っている。

4.安藤大尉は一度も鈴木に向かって刀を抜いていない。
 女中部屋にいて、部下に呼ばれて初めて鈴木の前に立ち、ただ
 「止めは残酷だからやめよ」といって捧げ銃を命じた。


ということになっています。

え?

ウィキペディアより自分のエントリを正しいと言い切るのか、って?
言い切りますともさ。
いや、それどころかどうしてウィキがこのように記述しているのかがまったくわかりません。
わたしは、自分のエントリに書いたこの時系列にかなり自信を持っています。

なぜなら、わたしが参考にした、この事件の模様は、ほかならぬ
鈴木貫太郎自身が、事件後水交会の講演で語ったことそのものであり、
これを文章に聞き書きしたのは、そのときに講演を聴いていた海軍軍人だからです

この文章はそのまま水交会が発行した「海軍の記録」という著書(一般書ではない)として、
図書館などでは見ることもできるはずなのですが・・・。


鈴木に私淑していた安藤大尉が、心ならずもその鈴木の命を取ることになったとき、
いかに逡巡し苦悩したかについてはもう余人の知るところではありません。
しかし、このとき、鈴木の前に姿を見せず、殺戮を部下に任せて自分は女中部屋にいたことを、
わたしはこの苦悩に因果付けて推理をしてみました。


もしウィキに書かれている

「中隊長殿、とどめを」

と下士官が言い、妻が命乞いをしたので安藤は鞘を納めた、というのが本当なら
たかが聞いたという、

「止めは残酷だからやめよ」

という安藤の言葉の意味が全く通らなくなってしまいます。
わたしはやはり、安藤大尉は最後まで鈴木と対峙するのを避けて
最後まで刀を抜くことが無かったとするこの記述が正しいと信じます。

鈴木は事件後、生死の境をさまよいましたが、治癒してこの講演を行うにあたり、
妻のたかからその時の状況を詳しくあらためて聞きだしたでしょう。
「止めは残酷だからやめよ」
という言葉が、間違って妻から伝えられる可能性は全くないのではないでしょうか。


そもそも、下士官たちが最後に安藤にとどめをさせようとした、となっていますが、
実際にそのような立場に追い込まれた安藤が、決行隊の指揮官として
止めをさすことを止めることなど、いくら妻が懇願したからと言ってできるものでしょうか。

実はわたしはこんな推理をしています。

安藤大尉の腹心の部下である下士官が安藤の苦悩を慮って、
自分たちだけで全てを行い安藤大尉の手を汚させまいと決めて決行に臨んだのではないか。
しかし、すべてを済ませたつもりが、とどめをさす段階で妻の命乞いがあった。
このため下士官だけではその後を決定できなくなり、
そこで初めて安藤大尉が呼ばれたのではなかったか。


というようなことですが、もし、ウィキペディアの記述が正しい、という資料をもしご存知の方がいたら、
ぜひご一報いただければ幸いに存じます。



さて。

鈴木はこの襲撃のあと、生死の境を彷徨いました。
タクシーで日本医大に運ばれた鈴木は出血多量で顔面蒼白となり、
意識を喪失し、心臓も一時停止しています。
総力を挙げて蘇生術が施され、その間妻のたかは枕元で鈴木に呼びかけ続けました。
腰、胸、肩(かすっただけ)そして頭に4発の銃弾を受けて、
しかもその頭への一発は頭蓋を貫通して耳の後ろから出ています。
これで死ななかったというのは奇跡以外の何物でもないでしょう。

頭部貫通した銃弾が脳をそれたこと、胸部も銃弾も心臓をわずかに逸れたこと、
このことと、たかの命乞いにより安藤が止めをささなかったことが鈴木を救いました。

ちなみに鈴木の命を救った夫人のたかですが、病死した前妻の後添えで、
乞われて昭和天皇、秩父宮、高松宮の皇孫御用掛(養育係)をしていたという女性です。
鈴木が何より昭和天皇の御信任篤かったのは、このこともあったと言われています。


鈴木貫太郎という人は、その生涯、2・26を含め二回の暗殺から九死に一生を得ています。
二回目が終戦の日、8月15日朝の宮城事件で、陸軍大尉・佐々木武雄を中心とする
国粋主義者達に総理官邸及び小石川の私邸を襲撃され、警護官に間一髪救い出されています。

このほかにも、3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、
海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたり。

もしかしたら、八百万の神はこの人物に、戦争の泥沼に陥った日本国を終戦に導く
役割を与えるために試練を与えては救いたもうたのではないかと思われるほどです。

事実、鈴木は何度も死の淵から帰ってきた自分の人生の最後の奉公として
終戦時の総理大臣を引き受けたと言われ、その就任の辞は

今日(こんにち)、私に大命が降下いたしました以上、
私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、
まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。
国民諸君は、私の屍を踏み越えて、
国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、
謹んで拝受いたしたのであります。

というものでした。

そして国運の打開のために鈴木が選んだ道は「終戦」だったのです。


最後の仕事を終えた鈴木は、戦後公職追放される形で表舞台から姿を消し、
終戦後3年目の昭和23年4月17日、肝臓がんで82歳の生涯を終えています。

日本を終戦に導き、もう戦火にまみえることもなくなった祖国を見届け、
人生最後の瞬間、鈴木の心は、信条たる「天空海闊」の境地にあることができたでしょうか。


死後荼毘にふされた鈴木の遺灰からは、2・26のときに受けた弾丸が出て来たということです。







オークランド航空博物館~ショート・ソレントとインディアナ・ジョーンズ

2013-08-14 | 航空機


Short Solent Mk. III Flying Boat

このオークランド・アビエーション・ミュージアムは、アメリカのそこここにある
ハンガーを利用した小さな航空博物館の一つですが、そのなかでも
いくつかの「ウリ」というのがあります。

女性飛行家のアメリア・イヤハートが最後の飛行に飛び立ったのが
ここオークランド飛行場であったということから、彼女のトランクなどいくつかの資料があったり
(イヤハート機と同型のロッキード・エレクトラが何年か前まで展示されていた模様)
アラメダ海軍基地が近いことから流れてきた?いくつかの軍用機があったり。

しかし、「目玉」展示となっているのは、なんといってもこの「ショート・ソレント」です。

ハンガーから外に一歩出ると、最も巨大な機体がどおおお~ん、と擬音付きで現れ、
その威容にまず目を奪われるのですが、はっと気づけばこれがなんと飛行艇。

当ブログにおいて一時二式大艇とその子孫であるUS-2までの系譜について熱く()
語ったエリス中尉としては、思わず「おお」と声が出てしまいましたよ。

鹿屋基地で見た エミリーこと二式大艇も大きかったけど、こちらはさらに一回り巨大。
今まで見たことも聞いたこともないこの飛行艇の正体は?



このソレント、イギリスはロチェスターにあるショート・ブラザーズ社が1940年代から開発を始めました。
当初は太平洋に配備するためという計画で、名前も「シーフォードS‐45」という軍用機の予定でしたが
戦争が終わってしまい、1946年から民間利用に転向したのです。

他のシーフォード5機と共にベルファストのショート・ブラザーズ工場で改装作業を受け、
この水上艇は34人乗りのソレント マークIIIに生まれ変わります。


イギリスが統治していた植民地への移動のために使うことが当初の目的で、
取りあえずロンドンと南アフリカのヨハネスブルグ線が就航しました。

飛行するのは昼間だけ。
夜にはオーガスタ(シシリー)、カイロ(エジプト)そしてアフリカのヴィクトリア湖に
アンカーを下しながら5600マイル(9千km)のフライトを行いました。

旅客費は一人250ポンド。現在の1500ドル(15万円)であったそうです。
でもこれ、そんなに高いですか?
9千キロの距離を三泊して移動して15万円。

しかも、

  

こんな優雅な飛行機、いまどきの国際線のファーストクラス以上じゃないですか。
飛行機の中にこんな階段(しかも螺旋状)があるなんて。
外側も大きいけど、内部もとても広くゆったりし、しかも動揺も無いので
フライトは非常に快適だったと言われていますし。




しかし時代というのか、航空機の発達とともに、こういった図体のでかいものは
運用コストが合わないという理由で、生産そのものが中止になります。

その後、ソレントは1951年にオーストラリアのトランスオーシャン航空に売却され、
スター・オブ・パプア」という名前でフィジーと南洋諸島をつなぐ路線に利用されましたが、
一度事故があって、それ以来トランスオーシャンは手を引いてしまいました。

ここにある飛行艇は、1953年にサウス・パシフィック航空に売却され、名を「アイル・オブ・タヒチ」と変え、
ホノルルとタヒチ間の連絡船(機?)として利用されていたものです。

就航中たまたまオーバーホールとメンテナンスのためにここオークランドに飛行してきたのですが、
ちょうどそのころボーイング707旅客機が出現したため、タヒチ行きそのものが廃れてしまいました。
そのまま彼女は行き先を失ってしまったというわけです。

というわけで彼女の最後のフライトは、サンフランシスコベイを飛び立った1958年になりました。
その後ハワード・ヒューズ協会がこれらの機体を購入し、彼女と二人の姉妹はその管理下に置かれたため、
それ以来一度も空を飛んでいません。




飛行艇のお腹。
川西航空機が開発した「波消し装置」のようなものは全く見えません。
軍用機ではないので重量の点やスピードを出さないことが前提となり、
従ってそのような対処もそう必要ではなかったということでしょうか。



人の命を乗せている割には作りが雑な気が。
フロートのアップ写真を撮らなかったのが悔やまれます。
どうして上部にこれだけ穴が開いているのでしょうか。



飛行艇を支えている台車?
飛行艇の機体の端が、これにめり込んで潰れています(-_-)

世界でたった二機しか現存していないこの貴重な機体をこんなにぞんざいに・・・・・・・。
歴史的に貴重な機体であるからもっと大事に保存しろ!と折あらば
鹿屋の二式大艇保存方法の向上を訴えているエリス中尉ですが、
このようなものを見せられては、「航空機先進国のアメリカではどうこう」
などと口が裂けても言えなくなってしまうじゃないですかー。

さて、ハワード・ヒューズの所有として、どこかにしまいこまれていたこの飛行艇三姉妹。
10年ほど経った1969年に、三機まとめて1500ドル(かつての一人分の片道料金!)で売却され、
サンフランシスコとリッチモンドのあいだのはしけ(船代わり)として運行していました。

リッチモンドはサンフランシスコの半島太平洋側の地域で、
現在は中華系に乗っ取られて悲惨な眺めになっている地域ですがそれはともかく、
昔はともかくこの時代に、車で行った方が早そうなルートを
わざわざ海から行く意味が少しわたしにはわからないのですが・・・。

1973年には三姉妹のうち二機がスクラップにされ、一番状態の良かったこの機が生き残ります。

その後飛行機雑誌の広告に使われたりして、リッチモンドからオークランドまで
「トウイング(牽引)」され、このソレントは、1990年からここ、

ウェスタン・エアロスペース・ミュージアム(ここの正式名称)

に展示されているというわけです。

ところで、インディアナ・ジョーンズシリーズの「レイダーズ・オブ・ロスト・アーク」
この飛行艇が撮影に使われました。
インディがネパールに向けて出発するシーンです。

 

どうしてこんなにキレイなのかと思った。
これは、映画のロケのためにパラマウントが改装したのだそうです。
写真はインディの座った席。


このミュージアムのお知らせによると、なんと予約すればここでディナーが食べられるとのこと。
メインが2皿のフルコースでおひとりさま夏の特別価格125ドル。
これがお値打ちかどうかはディナーの内容にもよりますが、
万が一予約したのがたった一組で、サーブする給仕に一挙一動見守られながらの食事になっても
決してプレッシャーを感じない方であればぜひお試しください。
英語ですが、メニューを貼っておきます。

Poached Fresh Salmon
(layered with Dill & Baby Leek wrapped in Smoked Salmon 
served with a Fresh and Peppery Watercress Sauce)

Roasted Marinated Chicken Breast
(with Garlic and Herbs) 

Panache of Seasonal Vegetables 

Whole Minted Baby New Potatoes

Traditional Apple and Blackberry Crumble 
with Sauce Anglaise

Coffee & Mints

Selection of Continental Breads and Butter






現在、このソレント飛行艇は世界に二機が現存しています。
その一機が、ここ、アメリカのオークランド。
もう一機は、なんとニュージーランドのオークランドなのです。

しかし「同じじゃないか!」と思うのは我々日本人だけ。
なぜならここアメリカのオークランドは

OAKLAND

対してニュージーランドの方は

AUCKLAND

ええ、英語だとスペルはもちろん発音の違いは歴然なんですって。
日本では同じ表記&発音になってしまうので、区別のため、前者を
US オークランド、後者をNZ オークランドとするのだとか。

我々にとっては「偶然同じ!」だけど、イングリッシュピーポーには、
「え?何が同じなの?」と言われてしまうんですね。



ところで、この飛行艇。
ロンドンからちんたら飛んで、ナイルではワニなどを見たり、
途中ではヴィクトリア湖に浮かんでライオンの雄叫びを遠くに聞いたり・・・・。
ロンドンーケープタウン就航の際は一度も事故を起こしていないみたいですし。

インディアナ・ジョーンズも、さぞエキゾチックでゴージャスな飛行艇の旅を
楽しむことができたんじゃないでしょうか。


・・・あれ?

インディーの時代って、まだソレントってできてなかったんじゃなかったっけ。





「マリリン 七日間の恋」~砂糖菓子に恋した青年

2013-08-13 | 映画



最近軍事ネタばかり続いたので、今日は少し趣を変えてお送りします。

高校生のとき、「砂糖菓子が壊れるとき」という小説を学校の図書室で借りました。
舞台を日本の映画界に、お菓子のように甘く、傷つきやすい無垢な女優「京子」が、
スターとして輝き、時代を風靡してある日突然「砂糖菓子が壊れるように」消えてしまう。
たった一人、ベッドに横たわり、受話器を握りしめたままで。

マリリン・モンローをモデルとした、曾野綾子の意欲作でした。

本を返却したとき司書のお姉さんが 「砂糖菓子はどんな風に壊れたの?」
と悪戯っぽく訪ねてきたのが、昨日のことのように思い出されます。

この映画は、「モデル上がりの躰だけの女優」として売り出し、有名になり、
演技派を目指していたころのマリリンが、撮影のため訪れたイギリスで、
「サード」と呼ばれる撮影所の雑用係の青年、コリンと一週間だけの恋をする話。



コリン・クラークは実在で、ドキュメンタリー映像の分野で成功した人物ですが、
これは彼が二四歳のとき、実際に撮影所で雑用係をしていたときにあった実話です。

このときマリリンは三〇歳。

名門イートン校出のお坊ちゃまが映画の世界にあこがれ、
何とか潜り込んだ雑用のバイトで間近に見たあの大スター、マリリン・モンロー。
彼は一目で実際のマリリンに恋をします。

この映画のテーマは、実はこの青年の「初恋」なのですが、
このコリン役(エディ・レッドメイン)が、非常によろしい。
何がいいと言って、スクリーンのマリリンを見つめる彼の顔です。
銀幕上のスターをうっとりと眺めるその表情は、
恋をしたことのある人ならわかる 内側から光り輝くような喜びにあふれ、
それを見るものを思わず微笑ませます。

そして、この映画にさらに深みを与えている、脇役二人の演技。
サー・ローレンス・オリヴィエを演じるケネス・ブラナー
大女優デイム・シビル・ソーンダイクを演じる、ジュディ・デンチ



自己評価の低さに苦しみ、いつも皆から疎まれている、
という強迫観念に苛まれていたというその実像を余すところなく表現しながらも、
実は周りの人間は、彼女を扱い兼ねながらも何らかの形で見守っていた、 という解釈で、
この映画は非常に「後味のいい」マリリン・モンロー像を描くことに成功しています。

もうこういった役にはこの人しかいない、
と思われるジュディ・デンチ演じる大女優が、
マリリンを母のようなまなざしで見つめ、彼女の「味方」をしたり、
演技に対する理念の違いから、対立しているかに見えるローレンス・オリヴィエですら、
彼女の魅力に実は惹かれ、何より最終的には天性の才能を認めていた、
というストーリー運びは、 女優マリリンモンローに対する監督サイモン・カーティスの愛情であり、
若くして逝った、彼女へのはなむけであるかのように思われます。
というわけで、映画そのものは「大変よくできました」と言ってもよいのではないでしょうか。


だがしかし。(笑)


決定的に、どうしようもなく、わたしが受け入れられない点があります。
マリリンの造形です。

マリリンを演じるミシェル・ウィリアムズが、全然似ていません。

映画で演じる俳優が、造形的に酷似していなくても、
それなりの説得力を持つ例はいくらでもあります。

たとえば東条英機を演じた津川雅彦、ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツ
リヒトホーフェンを演じたマティアス・シュバイクヘーファーは、
実在の撃墜王をさらに魅力的に演じたし、
「キャッチミー・イフ・ユーキャン」のフランク・アバグネイルも、
レオナルド・ディカプリオが演じることで光があたったようなものです。

しかしながら、マリリン・モンローだけは、だめです。


わたしは「マリリン・モンローの顔」とはすなわち
「神様の生した傑作の一つ」であると思っています。
造作の整っていることは当たり前としても、この顔には美以上の何かがあるのです。
無垢な無邪気さ、大胆さと、清廉さ、高貴さが、絶妙のバランスで同居している顔です。

「世紀のセックス・シンボル」として讃えられ、実際も三度の結婚のほか、
無名時代、スターになってからも幾多の恋―おそらくワンナイト・スタンドも含め―
を渡り歩いてきたにもかかわらず、マリリンはどこまでいっても、
まるでダイアモンドであるかのように傷つかない清純さに守られているのです。

後世、口と目を半開きにし、ポーズをとる「マリリンの真似」をする女優もモデルも、
マリリンの二番煎じの「セクシーアイドル」も、
そこに性的な演出を感じこそすれ、例外なく皆下品でした。

マリリンは、マリリンにしか演じることはできないのです。


ミシェル・ウィリアムスは確かに美人でないことはありませんが、
彼女が演技で巧みにマリリンを演じれば演じようとするほど、
観ているものは 、

「ああ、この台詞をこの状況でもし『あの』マリリンが言ったとしたら、
コリンもこんな風に感じるのだろうな」

といった風に、いつの間にか彼女を「マリリン」に
翻訳しながら観ていることに気づくでしょう。

(これは断言してもいいですが、わたしだけではないと思います)

特に、わたしは、実はこのミッシェルのアップをみるたびに、
知り合いの 「フセさん」という女性を思い出してしまって・・・・・。

(フセさんという女性が全くフツーの、ちょい太めの日本人女性であるところがミソ)


彼女とスタッフの「マリリン作り」にかける努力と熱意は十分評価できますが、
フセさんにバスタブから振り向いてニッコリ笑われてもなあ、 って感じで、
全くこのマリリンに感情移入できないのですよ。

それがトレードマークの、投げやりな、物憂いものの言い方も
「フセさんのくせにでれでれしゃべるんじゃない!」
ってつい突っ込んでしまいましたし。

今後、いかにマリリンそっくりといわれる顔の女優さんが出てくることがあっても、
あの天使のような天真爛漫な、なにより可愛らしさは、
絶対に演技でどうにかなる問題ではないと、わたしはここで断言いたします。


ただ、アップでなければ、ときおり彼女は成功していました。
マリリンが台詞のない、ダンスのような動きだけを撮影するシーン、
ローレンス・オリヴィエがかわいくて仕方がない、といった表情で見守るのですが、
この遠景でのシーンは、純粋にミシェルはかわいかったです。
オリヴィエの好々爺のような相好を崩した様子がまたかわいくて(笑)


イギリスでの一週間は終わり、同時にマリリンとコリンの恋も終わりました。
コリンのように、マリリンを愛し、そのときにマリリンが必要としたが故に愛された男性は、
たとえマリリンが自分のことなどすぐに忘れてしまっても、
この砂糖菓子のような女性との甘くてはかない恋を、
心の隅にしまったまま、一生大切にし続けたのに違いありません。

たとえ、アーサー・ミラーや、ジョー・ディマジオのように、
いったん彼女を手に入れて、その後自分から離れていくことを選んだのであっても。


それから、この映画は挿入曲としてシナトラの「枯葉」などが使われるなど、
音楽がとても効果的です。
ラストシーンでマリリンが歌う 「That's Old Black Magic」
そして、最後に挿入されているピアノ曲が美しくて、ほろりとさせられました。






USS「パンパニート」乗艦記(おまけ・フィッシャーマンズワーフ)

2013-08-12 | 軍艦

次から次へ、ブログネタが増えていく今回のアメリカ滞在です。

インターネットで調べていて、観光地であるフィッシャーマンワーフで、
なんと第二次世界大戦に就役し日本と戦った、

PANPANITO SS383


の艦内ツァーができることを知りました。
航空博物館、ホーネットに続き潜水艦です。

潜水艦と言えば、呉にあるてつのくじら「あきしお」で、自衛隊の潜水艦を
垣間見ただけで、あとは映画だけでしか知らなかった
(でもそのわりには、さんざんこの世界についてお話ししている)エリス中尉としては、
これは万難を排してでも行って、見て、撮って(以下略)

ちょうど日本からTOが来ていたので、久しぶりのフィッシャーマンワーフ観光を兼ね、
行って参りました。



ここから見ると、なぜかこのビルしかないような角度。
「サンフランシスコ」というと出てくる摩天楼群の一つで、最も象徴的な
「トランスアメリカ・ピラミッド」。48階建て。

フィッシャーマンズワーフというのはサンフランシスコの「おのぼりさんスポット」なので、
まず車を停めるのが大変であるという印象が強く、住んでいたわりにはあまり行ったことがありません。

最近では3年前にアルカトラズ島観光をしたときが最後です。
今回は、いわゆる一律25ドルの観光客用パーキングではなく、スーパーマーケットや
ちょっとした店が入っているモールの駐車場に入れました。

ここだと、水のボトルでも一本買えば、1時間半無料なのです。



この日は水曜で平日ですが、このあたりに平日などと言う言葉はありません。
いつ来ても全米からの観光客であふれかえっています。

コダックの看板の後ろに見えるのは、ワックス・ミュージアム、蝋人形館の宣伝。
クリントン大統領やブラッドピット夫妻、マイケルジャクソンにモナリザ?など。



こちらに見えているのがサンフランシスコ名物ケーブルカーの線路。
混んでいるので利用するのは観光客だけですが、皆これでもかと外に乗り出して乗っています。

マイケル・ベイの映画「ザ・ロック」では、ショーン・コネリーの運転する車がこのケーブルカーを
なぎ倒し、ぶら下がっている人が道に投げ出されて、運転手のおじさんが怒っていましたっけ。



外に出たところでセグウェイ軍団に遭遇。
この一帯をこれで巡るために借りることができます。
ただし、どこにでも行けるわけではないらしく、いつみてもツァーのように団体で、
ガイドのような案内人が引率して移動しています。

面白そうだし一度やってみたいと思いつつ、今まで乗ったこともありません。

ところでセグウェイのオーナーって、グランドキャニオンだかどこだかに、
セグウェイのまま落ちて死んでしまったそうですね。

「自分のところの製品で死んだんだから本望だろう」

なんてアメリカ人が言っているのを聴いて、アメリカ人でも本望なんてこと言うんだ、
と驚いたものです。
だいたい、自分で発明したわけじゃないんだし、それって本望、かなあ。

おまけ:
自分の発明で死亡した発明家一覧←ちょっと楽しんで読んでしまった




こういうゴーカートを借りて移動することもできます。
お父さんの運転でうれしそうな息子。
こちらは普通免許がないとダメだったと思う。



大道芸人が今からパフォーマンスの準備。
「全く動かない人」の芸ですね。
こっちの「動かない人」は、写真を撮らせてお金を取るので、動いていない時間より
観光客を手招きして一緒に写真を撮ったりしていることが多く、なんというか
あまりありがたみがありません。

ミラノ街角に微動だにせず立って大理石像になりきっていた女の人はすごかったですけどね。



平日でもご覧の通りの混雑ぶり。



大道芸、と言えば、人だかりがしていたこのパフォーマンス、ペンキスプレーで
いろいろやっているうちに、



こんな「ペンキ絵」を仕上げるというパフォーマー。
大音量で音楽をかけて、一つ仕上げると皆から盛大な拍手をもらっていました。

しかしなんか、こうしてみるとあまり大したことはないような気も・・・・。
日本の切り絵大道芸の方がすごいと思うなあ。張り合うわけではありませんが。



この線路はもしかしたら昔の船の引き込み線?
ケーブルカーの線路かもしれませんが、わかりませんでした。



おなじみ、アルカトラズ島。
一度は行ってみるべきですが、一生に一度行けば十分だと思います。



専用のえさをもらっていたカモメ。



観光客の座るベンチの前はこの通り。
地面の糞から、ここがいつもの「餌場」であることがわかります。
だから、カモメにポプコーンとかやるんじゃねーよ観光客。



ここで問題が。

潜水艦パンパニートが停泊している、という情報だけを頼りに来て見たものの、
一体それがどこにあるのかわからない。
フィッシャーマンズワーフと一言で言っても結構広いんですよ。



そこで、水族館の切符を売っていたお兄さんに聞いてみました。

「この辺に潜水艦があるらしいんだけど、どこか知ってる?」
「うーん、そんなの聞いたことないから、無いんじゃない?
10分ほど歩いて行ったら船の博物館があるのは知っているけどなあ」

感じのいいお兄さんでしたが、にこやかにこんなことを言います。

「そうなのかな・・・・博物館の中にあるとか?」
「でも、あれだけきっぱり無いって言っているんだから、とりあえず行ってみよう」

そう言いながら歩き出すこと3分。
岸壁沿いに見えてきたものがあります。



あのー。

お兄さん。
あなたのいらっしゃる場所から三分行ったところにこんなものが見えてるんですが。

「しかしはっきりと言い切っていましたなあ。ありません!って」
「アメリカ人と言うのはどうして自分が知らないととりあえず『ない』ことにするかね」
「あの根拠のない前向きな自信だけは見習うべきかもしれん」

文句を言いつつ近づいてみました。



舳先を住処にしているらしいカモメ。
長年代々カモメのおうちになっていたらしい痕跡が錆を残しています。



かわいい。



胴体部分にはいたるところにこのような「水抜き」の窓が開いています。
昔の潜水艦と言うのは、完全密閉された機体ではなかったんですね。
しかしこれだと潜水に時間を食いそうだけどなあ・・。



「パンパニート」という妙な名前は、「ポンパノ」という魚から取られているそうです。
1943年の3月に、まさに対日戦争のために建造された潜水艦です。

うーん、この艦体が、日本の潜水艦と戦い・・・・そして6隻を沈めたのか・・・・。



この銃で日本機を狙ったこともあるんだろうな。
いちいち日本を絡めてこのように考えてしまうのも、わたしが日本人だからですね。
原爆資料館を見たわたしの友人は「泣いた」といってましたが、
自国がかかわっているもの(どちらが被害を受けたとか関係なしに)を
何の感慨もなく見ることはたいていの人間にはできないのかもしれません。



とにかく乗艦してみることにしました。

見学料は一人15ドル。
決して安くはありませんが、こういった観光名所にあるからには、入場料がタダだったり
1ドル2ドルの安価だと物見遊山の客が押し掛け小さな潜水艦が大混雑してしまいます。

この周りでは観光客が岸壁から写真を撮っていましたが、やはり15ドル出してまで
中に入ってみようとは思わないらしく、外の人手の割に見学している人はほんの少しでした。
おかげで中をゆっくりと写真を撮りつつ進むことができたというわけです。

それはともかく、この窓口の係員がやる気なくってさ・・・。
エクスキューズミーを5回くらい言うまで客が来ているのに気付かないのよ。
あんたはいったい何のために一日そこに座っているのかと。
表にはパンパニートのパンフレットが売っていると書いているのに、
尋ねても「ない」の一言だし。

アメリカの、とくに、大型量販店とかこういうところで一日をとりあえず過ごしている風の店員って、
特に男は、軒並みやる気が無くて、実にレベルが低いです。
同じ職場なら、絶対女性の方が優秀。

女性も同じ職種なら断然日本の方が優秀ですがね。



艦上には、細い一方通行のはしけを渡っていきます。





昔はなかったに違いない(あったのかな?)手すり付きの通路(滑り止め加工済み)を、
後ろの入口に向かって歩いていきます。
一人しか通れないので、後戻り禁止。逆行も勿論禁止です。



向こうに停泊しているのは「ジェレミア・オブライエン」。

この船も乗れるみたいなんですが、今年は時間がなく断念。
ところで、何気なく艦橋?部分をアップしてみたのですが



人がいる。

で、その下の、爆撃機のノーズペイントのノリだと思うのですが、
女性の半裸を描いたつもりのこの絵の壮絶な下手さは、なんだあああああっ(笑)

たくさん船員がいたんだろうに、どうしてよりによってこの絵を描かせたのか。
よほど絵心のある人間に不足していたのか。
それとも艦長クラスの「誰も文句の言えないような偉い人」が描いたのか。
これを見て誰も「へたー」とか思わなかったのか。
いろんなことを瞬時に考えさせられるペイントです。



写真をアップして初めて知ったことで、この時にはまったく気づいていませんでしたが。

そしてようやく中に入っていくわけですが、この扉、

こんなもので海水の流入が防げるのか?

防げたからこそ、2年間もの間太平洋を偵察に行ったり来たりしていたんですけどね。
なんだか見たところまったく防水性がなってないという気が・・・・。
昔はゴムのパッキンでも挟んであったんでしょうか。

というわけで例によってこの先からは次回のお楽しみ。(おい)



因みにパンパニートのスペックが書かれた掲示板。
パンパニートはガトー級にさらに改良を加えて潜水進度を90から120mにした、
パラオ級潜水艦です。

パンパニート、と言う名前に憶えがあると思ったら、昔書いた

「北京原人の化石」

というエントリで、この北京原人の骨を運んでいた(らしい)勝鬨丸を、
米国潜水艦が撃沈してしまった、というストーリーでした。
この時の潜水艦というのがこのパンパニートだったのです。

そうか・・・・・・こいつか。

人類の遺産を「元イギリス船」であった勝鬨丸と一緒に海の藻屑にしてしまったのは。




見学を終えて、外に出たら、妙にレトロなゲームコーナーがありました。
外から見ても異様なその雰囲気に、思わずふらふらと入っていくと・・・。



おおお、なんだかレトロすぎるゲーム機が。
ゲームと言うより、ダイムを入れると人形が動くというものですね。



腕相撲機に挑戦する彼氏とそれを見守る彼女、周りの野次馬。
挑戦するのはかなりの力自慢と見た。

「ビル、素敵よ~~(はーと)」



おそらくコインを入れるとビールを自分でついで飲むのかな。
江戸時代の日本のからくり人形の方が凝っていると思うがどうか。



「雨に歌えば」ですか。
ランプの周りをぐるぐるまわるだけ?

うーん、何が面白いのだろう。



メキシカンラブストーリー(たぶん)。
どうなるのかすこし見てみたい。



港だから水兵さんもいます。
もしかしたら、何かしゃべるのかもしれません。
機械下に開いたところから声が出てくると見た。



なかなか美人な方。
こういってはなんですが変な人形に囲まれて美貌が引き立っています。



今日の不気味大賞(次点)。

おそらくこのフラ人形がぐるぐる回るのだと思われ。
もう少しちゃんとした、せめて耳のある人形を作ってくれよ(-"-)



フィッシャーマンズワーフは昔から観光地なので、サーカスが来たり、
フェアグランドアトラクション(移動遊園地)が来たりしていたようです。



往年の雰囲気を伝える写真と、その頃のフィッシャーマンズワーフ。
上のモノレールみたいな乗り物ですが、このサークルを一周して帰ってくると。
これもいったい何が面白いのだろう。

それにしても、こうやって写真を撮っているからには「別嬪さん」を集めたのでしょうが、
なんだか全体的にかなり今のアメリカ人より胴長脚太のような気が・・・。

スタイルって人類が「美しい」と思う方向に進化するってことなんですかね。
これじゃ今の日本の若い人の方がずっとスタイルが進化しているという気もします。



ジェットコースターかと思ったのですが、どうやら初期のケーブルカーらしい。



皆思わず食い入るように眺めている、不気味大賞堂々の一位。
物凄く巨大な、歯の欠けた醜い女性が、お金を入れると体を揺らして
「どわっはっはっはっは」と笑う、それだけです。

しかし、あまりのそのシュールさに、夢に出てきそうな軽いショックを受け、
昔の純朴な子供なら怖がって泣き叫んだであろうことは間違いありません。

いやはや、こんな「見世物小屋」のノリで係留されているとは、
さすがのパンパニート乗員たちも草葉の陰で泣いているのではないか。

あ、まだご存命の方もいるかもしれませんが。


というわけで、この「The観光地」フィッシャーマンズワーフの潜水艦。

「オークランド航空博物館」「ホーネット」「キャッスル航空博物館」「幹部学校」

と並んで見たことをご報告していこうと思います。
よく話が混乱してごちゃごちゃにならないなって?

ええ、さすがにこれだけ話題を並行して進行させるとなると、
いかに記憶力に自信を持つエリス中尉といえども心配になって来ていますとも。

不安を感じつつ、続く。








目黒・防衛省~野村吉三郎 開戦を止められなかった外交官

2013-08-11 | 海軍人物伝

目黒の防衛省区域内にある海上自衛隊幹部学校所有の、
野村吉三郎海軍大将の書です。

「無遠慮必 有近憂」

(遠い慮りなかりせば必ず近き憂いあり)

遠い将来のことを考えなければ、必近い将来に何か問題が起きる。


揮毫を所望されたときに、どんな文言を記すか、それは即ち書き手がどんな人間であるかを
その筆跡と共に露わにするものです。

前回述べた秋山真之も、永野修身も、自然の風景あたかも切り取るようにさらりと詠み、
なかなかの通人ぶりを見せているわけですが、野村吉三郎、直球です。

こういった教訓めいたことを書く軍人は、基本的に謹厳という印象がありますが、
ところがどっこい、有名レスのエスさん(芸者)などは、
「ひざまくらしてもらった」
なんて暴露してしまってます。
野村大将が、じゃなくて、酔いつぶれた芸者さんをひざまくらしていた、という意味ですよ。

とこのように海軍さんらしくしっかりと遊んでおられます。
因みに野村大将、若き日はかなりのいい男。



ちょっと孫文に似ていますか。

野村吉三郎は1877年(明治10年)、和歌山県の生まれ。
海軍兵学校は26期です。

卒業時のハンモックナンバーは、当ブログ過去ログによると2番。
入学前は海軍兵学校への予備校である「海軍予備校」に通いました。
この予備校は、まさに当時のエリート中のエリートたる兵学校への入学のために
万全の体制で敷設された「プレップ・スクール」で、
現在は名門校「海城中・高校」として存在しています。

恩賜の短剣で海兵卒業を果たした野村は、その後海兵教官、「千歳」航海長を経て、
1901年には完成した戦艦「三笠」の回航員としてイギリスに渡っています。

その後、出世コースまっしぐら、オーストリア、ドイツ、アメリカの駐在武官を経験。
アメリカ在任中にはFDRことルーズベルト(当時は海軍次官)とも同じ海軍同士のよしみか、
親交があったということです。

最初の任務地がドイツ語圏であったため、野村の英語は達者ではなかったという話もあります。
確かに今日残る野村の英語の発音は、とんでもなく生硬で、
これほどの秀才がもしかしたらカタカナの振り仮名でも打って発音しているのではないか、
を思わず疑ってしまうほどです。

野村吉三郎の英語

この人物を語るとき、そこには「開戦」と「終戦後」における日本の動きに
大きく足跡を残していたことを避けるわけにはいきません。

日米開戦時、野村は駐在大使としてアメリカにいました。

アメリカとの関係が悪化したとき、この「英語が得意でない大使」では心もとないと思ったのか、
日本政府はアメリカにもう一人の大使を送る決定をします。

これが来栖三郎大使で、確かにアリスというアメリカ人の夫人もいる知米派でしたが、
ドイツ大使として三国同盟を調印している来栖に対し、ルーズベルトは不信感を隠さず、
決してこの人事はうまくいったとは言えなかったようです。

「海軍同士」という理屈抜きの「仲間意識」がFDRには強くあったようで、
信頼関係というものは言葉を流暢に繰れることとは無関係である、
という一つの例がここにあると言えましょう。


因みに、この来栖大使とアリス夫人との間には、良、という名前の息子がいました。
彼は陸軍の航技大尉で、邀撃に上がるために愛機「疾風」に向かおうとして、
急発進した「隼」のプロペラに刎ねられ即死し、戦死扱いとなりました。

現在、靖国神社の遊就館にある戦死された命の方々のなかに、
ひときわ目立つ眉目秀麗の来栖大尉の遺影を見ることができます。


アメリカとの交渉は難航しました。
この間、野村は何度も大使を辞職したい旨の要請をしましたが、
その都度退けられ、

「アメリカが日本を挑発しない限り、日本は戦争を起こさない」

と公言していた野村は、コーデル・ハル長官から
「あのようなものを突きつけられたら、どんな小国も武器を取って闘うであろう」
と後世に評価されるアメリカの「挑発の極み」、あの「ハルノート」を突きつけられることになります。

この頃、野村からアメリカから日本国民に向かって語りかけた
「映像レター」が残されています。

「あるいは近いうちに参戦するかとも言われております」
「日本が枢軸国の一員である以上、アメリカから相当風当たりが強い」

などといった発言が聞かれます。

野村大使「開戦前夜」

去年の12月8日に、ジョン・フォード監督作品

Hawaii,December 7, 1941

という映画について書いたとき、

「英語が達者で愛想のいい野村・来栖両大使は
ハル氏に平然と長い『最後通牒』を手渡した」

「この裏切りの瞬間、200機の死の使者が楽園に襲いかかった」
「地獄が始まった。日本製の(メイド・イン・ジャパン)」

というこのプロパガンダ映画で野村大使たちについて語っている部分を
抜き出してみました。

この悪意のある文章にも覗えるように、アメリカは挑発しておいて
開戦に踏み切った日本だけを悪者にすることに挙国一致の宣伝に努めましたから、
野村大使は当然のように大使引き揚げとなるまで、

「交渉をしながら裏で開戦準備を着々と進めていた」

という白眼視に曝されながら針のむしろの半年間を過ごすことになります。


まさに、日米開戦そのときにアメリカにいて、開戦を止められなかった大使。

「悲運の大使」
「日米開戦を回避できなかった男たち」

野村について書かれた書物は彼をしてこのように称します。


そこで、もう一度、冒頭の書に立ち返ってみましょう。

「無遠慮必 有近憂」。

そもそも、この書がいつ書かれたのかはわかりません。
しかし、日米開戦後、9か月後に抑留者交換船で帰国し、枢密院顧問官として、
表舞台に出ないまま、戦争の成り行きを見守っていた頃に書かれたものでないことだけは
確かなことに思われます。

野村にとって開戦前の交渉も、それに対するアメリカの「裏切り」によって
決して望まない結果に帰してしまいました。
それは、いかに個人が「遠くを慮ろうとも」、巨大な国家単位の欲望の前には
いかなる努力も全く無力であったということでもあります。


むしろ、皮相的にはこんな皮肉な見方もあります。
つまり、この東洋の小国の潜在的能力に恐れをなした欧米大国は、
この国を追いこんで挑発し、開戦に踏み切らせて潰そうとしました。
「遠くを慮って憂いの近づかぬようにその芽を摘んだ」のは、
野村が交渉していた当の相手であるアメリカの方だったということです。


野村は戦後長らく公職追放に甘んじていましたが、大使時代を知るアメリカ側から
臨まれる形で再び表舞台に引き上げられ、吉田茂のもとで海上警備隊の創設に関わります。

日本の再軍備、そして海軍の再建のために奔走した末、
昭和27年、海上警備隊は帝国海軍の末裔として不死鳥のように甦りました。
この年日米間で締結した船舶貸借協定に基づき、翌二十八年、
米海軍が横須賀基地で正式に計十隻の船舶を警備隊に引き渡したとき、
野村の目には涙があったと伝えられます。

かつて個人の果たせる力の虚しさを、相手から突きつけられる形で思い知ったこの元提督は、
自分が創設に尽力した海上警備隊が、まさに日本国の「遠く」すなわち「将来を慮る」ために
真に必要な組織、海上自衛隊となることを、このときどのくらい認識していたでしょうか。





キャッスル航空博物館

2013-08-10 | 航空機

その気になれば、いたるところにそれなりの航空博物館がある、
それがアメリカ。

航空機の生産にかけては車なぞと違い世界の独走状態ですし、
ふんだんに生産してきた歴史があるうえに、土地が有り余っているから
展示する場所には事欠かない。

今回少し検索しただけで、ここから行ける範囲だけでも結構な数の
航空博物館があることを知ったのですが、その中でも特に興味を惹いたのが、
ここ、

CATSLE AIR MUSEUM(キャッスル航空博物館)。

ここはかつてキャッスル空軍基地があっただけあって、軍用機が充実しているとのこと。
これは行かずばなるまい。
しかし、ここパロアルトから、キャッスル航空博物館のあるアトウォーター市まで、
片道2時間あまりかかるというではありませんか。

休暇を取ってこちらに来ていたTOと、息子を学校に送った後すぐに出発・・・・・・



する前に、まず朝ごはんを食べることにしました。
二時間のドライブなので、まずは腹ごしらえからです。



ディナーに何回か来たことのあるスタンフォードのベーカリーレストラン。
クロワッサンが本当においしい。



スタンフォード大学の関係者と思しき雰囲気の客多数。
隣は中国系の学生と朝ごはんを食べていた教授らしく、
「うん、君の意見は面白いね。今度うちのゼミで話してみよう」
などといいながら、テーブルクロス代わりの紙にグラフを書いていましたし、
この写真の左に写っている男性はユダヤ系で、ノーベル賞くらい取っていそうな
いかにも知的な風貌をしていました。

そんな雰囲気とともに朝食を楽しみ、10時に現地出発。



アトウォーターはカリフォルニアのちょうど真ん中に位置する町で、
そこに行くのは内陸にめぐらされた高速をひた走るわけですが、途中には
このような風力発電地帯があります。



巨大な風車が小さく見える広大な丘陵地。
本当にアメリカって広いなあと思います。



我が家は、免許保持者がわたし一人しかいません。
つまり、TOは免許を持っていません。

車の移動はすべて妻であるところのわたしが一手に引き受けています。
何時間かかる移動であろうが、運転を代わることはできません。
というわけで、ここへも当然わたしの運転で(TOは後ろで爆睡)。

国内ではあまり使わないクルーズコントロールのままずっと走れるほど道がまっすぐです。
高速を二回乗り換えて、休みなしの2時間10分くらいで到着しました。

昔空軍基地だった名残りで、鉄条網が貼られたフェンス。



オークランドの航空博物館に比べると段違いに立派な施設です。
やはり空軍の関係だからでしょうか。



駐車場は広大です。
平日であるせいか、おそらくスタッフの車の方がおおいのではないかという状態。

この右手を見やると・・・・・



空軍基地だった名残りのプレート各種と国旗空軍旗掲揚ポール。
そしてうしろに控えるのはハスラーポッド。
B-58ハスラーが搭載していた爆弾です。



第93爆撃航空隊がかつてここにいたということですが、1995年に閉鎖しました。
そのあと、非営利団体によってこの博物館が立ち上がったのです。
「キャッスル」というのはフレデリック・F・キャッスル准将にちなんでいるそうです。

この隊章の横には・・・・・



さりげなくブラックバードが。

うちのTOはそんなに軍用機好きと言うわけではありませんが、その彼ですら
「うわー!すごい!ブラックバードだ!」と興奮気味。

いきなり駐車場に(つまり博物館に入ることなく見られる)ステルス。
これは期待できそうですね。オークランドと違って本来の意味で(笑)

そして駐車場に立ってもう一方を眺めやると・・・・



うわー、いるわいるわ、貴重な歴史的航空機が。
コンソリデーテッドの爆撃機、レベレーターですね。

それでは中に入ってみることにしましょう。
車を停めて奥の建物に。



入口のわきにあった子供用。

扉をあけるとそこは売店とちょっとした食堂。
食堂は平日はやっていないようでした。



ただの食堂と違うのは、壁に所狭しと隊章部隊章が飾られているところ。
「ダイナー」と言う言葉がぴったりなレトロな雰囲気です。

この受付で、入場料を一人10ドル支払います。
パンフレットは無料ですが、63機もある展示航空機の解説パンフは1ドル50で購入しました。

広大な展示場は左回りに順路通りに行くように、と言われたのですが、
このパンフはその順番に航空機が写真付きで解説されていて、とても便利。
特にわたしのようにあとからいろいろをチェックする目的があると助かります。

それではいよいよ展示フィールドへ。



アトウォーターは内陸なので、同じカリフォルニアと言ってもサンフランシスコのような涼しさはありません。
まるで砂漠のような強烈な日差しが遠慮会釈なく照りつける過酷な天気で、
浜松の航空祭ですっかり懲りたエリス中尉は、長袖のパーカに手の甲を隠す布手袋、
勿論長いトレーニング用のパンツにウォーキングシューズ、
腰にはカメラが使えるようにウェストポーチ、そして斜め掛けしたニコン1、
サングラスに肩まで覆う巨大な日よけ帽という怪しいいでたち。

確かに日焼けはしませんでしたが、あまりにも暑くて帰ってきたら汗だくでした。



入るなり謎のミサイル。



AMMOって何かしら。
さらに
IYAAYAってもっと何かしら。

「いやああやあー!」

って読むのかしら。

今日はさわりと言うか予告編なので、航空機のあれこれはまた今後、
少しずつでれでれとお送りしていくつもりです。

見学通路にはガイドとして点々とこのようなマークが。



ところどころわけのわからない展示物(というか置いてあるだけ?)も。



なぜ半分に切って、ここに据え付けてあるか、なのですが・・・・。
空軍基地時代これは灰皿として使われていた、に1ドル50セント。



柵の向こうにはメンテ中?
放置されているように見える飛行機が。
これは・・・・・・・・艦載機ですね。(誰でもわかるって)



当時使われていたと思しきレトロな雰囲気の車両もさりげなく。
消防車・・・・・ですよね?



これも見る人が見たら、なんか曰くのありげなトラック。

というわけで一回りしてきて元の処に戻ってきました。



カートで移動する人もいるのかもしれません。
何しろ広大なので。

黄色いのはボーイングのB‐17フライングフォートレス。
まさに飛ぶ要塞。でかいです。

そして外を全部観終わったら、室内展示の部屋へ。



セスナが飾ってある中庭を挟んで、ギフトショップと室内展示室があります。
入っていくと、三人のおじいちゃんが解説のボランティアで来ていました。

「ここに名前書いて」

と言われて、入館名簿みたいなのに名前を書いていると、興味深げにおじその1が、

「どこから来たの?」
「東京です」

TOが答えるとおじさんその2が

「なんと。それはようこそ。もし何か質問があったら遠慮なく聞いてくんな」
「はーい」



館内はこの航空基地にまつわる伝説的な人物の遺品や、ここを舞台にした映画
「B52爆撃隊」で登場人物が着用した衣装、そしてこのような壁画やプラモ、
写真多数、そういったものが展示されていました。

こういうプラモですが、だいたいはボランティア、たいてい退役軍人が趣味で作ったりしたのを
飾っているようです。
各種展示はレトロながらになかなか凝っていて、



外から見るとこんな感じなのですが、これ実は本物のB52のノーズ。



これがその内側。
退役した飛行機を惜しげもなく使いまくっている感じですね。


無料のパンフレット。



やっぱりブラックバードが「目玉」なんですかね。



上空から見るとこんな感じです。
すごいでしょう。
そうたくさんの航空博物館に行ったわけではありませんが、
文句なしに今まででここが数ではナンバーワンです。

売店にはエアフォースが出している無料の「エアフォース・マガジン」があったので
ありがたくいただいてきました。
その筋のマニアの方にはきっと垂涎の内容です。

各種お知らせや職場紹介、歴史や世界の名機など。

今月号の特集は「コンバットにおける女性の役割」



最後に、艦内を取るふりをしておじさんの写真を撮りました。
でも、これを見たらおじさんしっかりカメラ目線ですね(笑)
気付いていたのか・・・・・。

もっとゆっくり見ていたかったのですが、帰る時間が来てしまったので、
入口にある「もしよろしかったら寄付を」と書かれたボックスに、
お札を何枚か入れました。

このおじさんたちはボランティアなので、おそらくこういうチップは
そのままおじさんたちのお小遣いになると思われたからです。
すると、彼らはニコニコして「来てくれてありがとうよ」(みたいな感じ)

そしてこのお知らせをくれて



「9月1日にコクピットデイがあって、飛行機に乗れるからいらっしゃい」

と言っていただきました。

残念。
そのころにはもうアメリカにはいません。
でも、いつかチャンスがあれば来てみたいな。


というわけで、ホーネット、オークランド、そしてこのキャッスルと、
三つの見学した場所の報告を並行してお送りしていきます。
目黒防衛省で見学したもののお話もまだまだ続きます。

なんだか連載を何本も抱えた売れっ子作家の気分(笑)





 


オークランド航空博物館~スカイウォリアーの憂鬱

2013-08-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

Grumman KA-6D Intruder

タダのハンガー(格納庫)に航空機を並べただけ、のシンプルな航空博物館。
しかしだからこそ、本当に飛行機が好きな人しか来ないマニアの城とも言えます。

この展示のいい加減というかぞんざいなせいで、触りさえしなければ
まじまじと近づいて矯めつ眇めつしてもいいわけです。
まあ、そんなにまじまじと見るものも特にありませんが。

このグラマンの「イントルーダー」は、1963年から1997年までのなんと34年間、
艦上戦闘機として長い間運用された長寿シリーズです。

イントルーダー、というのは邪魔する人とか、出しゃばり、とか侵入者とか、
いずれにしてもあまりいい感じの響きではないのですが、敵にとって
嫌な感じのネーミングであるほうが効果的とも言えますね。

イントルーダーA-6は、それこそ雨が降っても晴れても、昼でも夜でも攻撃できる
全天候型戦闘機で、アメリカがかかわった戦争に全て何らかの形で参加しています。

派生型も多く、ここにあるKA‐6Dは、初期型を空中給油機に作り変えたものです。
給油するわけですから、電子機器や搭載武器の部分を全てタンクにしてしまい、
攻撃能力はありません。

そしてこのイントルーダーというと思いだす話。
以前も一度書きましたが、イントルーダーは、リムパックで標的曳航の役をしていて、
護衛艦「ゆうぎり」に撃墜されてしまったこともあります。



Mac Donnell ADM -20  QUAIL

部屋の隅に転がっているこれを見たときに、てっきり「子供用の玩具」
だと信じ切っていたのですが、違いました(笑)

これ、デコイミサイルなんです。
クワイルというのは「ウズラ」。
誰が付けたか、この小ささがいかにもウズラな感じで的を射ています。

このデコイは航空機から発射され自力で飛する空中発射式。
敵のレーダーに、ミサイルだと認識されるものです。
なぜ「ウズラ」なのかというと、ウズラは石の擬態をして敵を欺くから?



Douglas DC-6B

頭の部分だけ。




Hiller Ten99 (1099) Helicopter

サンフランシスコ空港を少しだけ南に下ったところに、サン・カルロスという市があり、
この高速道路に面して「ヒラー・航空博物館」があります。

このヒラーとはなんであるかと長年謎だったのですが、これを見て謎が解けました。
ヘリコプター開発者である、スタンレー・ヒラー・Jr.の名前から取っていたんですね。

このヒラー1099は、1942年から研究開発を始めたヒラーの初期作品で、
1961年に製造されています。



今でこそ当たり前の形ですが、当時このような後部に多人数のシートがある、
という形そのものが画期的だったのですね。

初期モデルと言いながら、基本の形は今とほとんど変わっていません。
それだけ完成度が高かったということでしょうか。



Douglas KA-3B Skywarrior

取りあえず大きいです(笑)

艦上戦闘機なのにどうしてこんなに大きいかというと、これが米海軍の
最初に作ったStrategic bomber、つまり戦略的核爆弾輸送戦闘機だったからなんですね。
当時は小さい核爆弾を造れなかったので、飛行機を大きくするしかなかったのです。

核を「爆撃」するのに、一応「戦闘機」となっていて、名前もそれらしいですが、
やはり搭乗員からは「クジラ」と呼ばれたり、爆撃機扱いされていたようです。

今後予期される核戦争の(!)ために、アメリカもこんなの作ってみました、というところですが、
核なんて基本地球の最後の日まで使う機会は訪れませんから、当然このスカイウォリアーも
「これが活躍するときには地球は終焉する」
という位置づけの戦闘機となってしまい、そのうち核運用の主役が何かと危険な(ですよね~)
航空機ではなく、空母から原潜へと移るにしたがって、存在する意味が無くなってしまいました。



誰もいないのをいいことに、こんなところの写真も撮ってみる。
意外と雑な作りのエアーインテーク内部。



こういうのも剥き出しのままなので、その気になれば(なりませんでしたけど)
ヒューズ一本くらいなら取って来れそうです。



このコクピット下の名前、Frank Brrows大尉ですが、「傑出したエアマンシップでクルーと機体を救った」
ということで殊勲飛行十字章を授与されて、この機体に名前が刻まれています。

(何をしたのか、博物館内に展示してあったそうですが、見落としましたorz)

ところで、この飛行機、三人乗りなのに、パイロットつまり操縦するのは一人。
核爆弾を輸送しようかという飛行機なら当然長距離飛行が予想されますが、
いったい生理現象とかそのあたりどうしてたんですかね。

しかも、この機体、脱出のための射出席もついていなかったので、
離艦着艦のときには必ずキャノピーを開けていたというのが泣けます。
海に落ちてしまったときにとりあえず溺れて死なないようにですね。

海軍は何を思ったか、こんな大きなものを空母で運用しようとしたわけですが、
その主な理由は、核攻撃用の戦略爆撃機を持っていたのが、

当時空軍だけだったので、それに対抗した

ということのようです。
どのくらい核搭載機が実用化されるかという予想より「空軍が持ってるのに」
という対抗意識が主な理由だったとしたら、搭乗員ははっきりいっていい迷惑だったと思います。

さて、結局前述の理由でこのスカイウォリアーは「失業」してしまいました。

一応その後、ベトナム戦争では機雷投下などの任務を行っています。
機雷投下程度でこんな大きい飛行機が必要あるのかって話ですけどね。

それにしてもいまさら驚くのが、核爆弾を積んだ飛行機を空母で離発着させようとしていたことで、
そもそもこの巨大な機体、これを艦上で運用するというのもすごいです。
繰り返しますが、核爆弾積んでるわけですからね?
素人が適当に言ってますが、もし着艦失敗でもしたら、
そこが爆心地になるかもしれなかったってことなんじゃないんでしょうか。


もし何かあったときのリスクはそれこそオスプレイどころではありません。
(オスプレイは元海幕長もおっしゃってましたが、安全ですよ。
次のエントリでお話ししますけど)


つまりそういう時代だった、ということなのでしょうが、
このスカイウォリアー、潰しがきいたというのか、大きさが幸いしたのか機体に汎用性があって、
その後結構長い間(1991年まで)運用された、というのが救いといえば救いでしょうか。






USS「ホーネット」探訪!

2013-08-08 | 軍艦

というわけで(どういうわけだ)空母ホーネットを見てまいりました!

読者のM24さんから「サンディエゴのミッドウェーを見てきてはどうか」
というご提案を受けたわけですが、残念ながらここスタンフォードからは
サンディエゴまで行くには片道車で7時間かかってしまうことが同時に判明。
地図で見ると大した距離ではありませんが、カリフォルニアって日本全部より面積広いですから。
サンディエゴは、もうほとんどメキシコ国境近いんですよ。

それであきらめざるを得なかったのですが、よく考えたらここはアメリカ、
そのような展示物がきっとこのあたりにもあるはず。
そう思って探したら、ありました。

先日航空博物館を見に訪れたオークランドを少し南に下った「アラメダ」、
ここに昔海軍基地があったのですが、その名残りのように、ここにあの

USS HORNET

が係留されて博物館になっているということがわかったのです。



赤の部分ですね。
因みにサンフランシスコは左下の真っ直ぐな能登半島みたいな部分の先。
今住んでいるところは、その半島の右付け根部分です。

ところで、本日タイトルを見るなり、

「またまた~~エリス中尉ったら口から出まかせ言っちゃ困るなー。
空母ホーネットは海軍航空部隊の攻撃を受け、秋雲と巻雲が見守る中、
1942年の10月サンタクルーズ諸島沖に轟沈してしまったんだから~」

と思った方、あなたは正しい。

というかね。
不思議だったのですよ。わたくしとしては。

どうしてここにホーネットがあるのかが(爆)

それについておいおいお話ししていくとして、とにかくそういうものがあるとわかれば
万難を排しても行って、見て、撮って、書かねばならぬ。
これはもう「ネイビーブルーに恋をして」などという、いまにして思えば我ながら
よくぞこんなこっぱずかしいタイトルを付けたものだとしか言いようのないブログを
やっている者の使命であり、義務である。

とまあそこまで考えたわけではありませんが、とにかくすぐさまハンドルを握って
アラメダに車を向けたのでございます。



アラメダ寂しいよアラメダ。
昔この港湾部分に海軍がいたのですが、撤退して以降、
全ての地域がこのように放置されゴーストタウン化しているように人気がありません。
日本のドラマだったら、10回に8回くらいはラストシーンのアクションは
ここでロケを行うのではないかと思われます。

夜になったらヤクの売人とかがここで毎晩ブツの受け渡しをしている、
と言われてもちっとも驚きません。



実はここにはネイビーミュージアムもあるのです。
本当はここに先に行くつもりだったんですよ。
しかしナビの指示通りに現地に行ってみるとここも全く森閑として人気が無い。
不思議に思って車から降り、看板を見ると「開館は土日だけ」。

月月火水木金金と休みを取っている海軍博物館でした。


この・・・・・えーと、コルセアIIですか?が妙にちゃんとしているだけに
不思議でした。
昔、海軍基地があったときにはともかく、いまとなっては見学客があまりこないんでしょうね。

「軍事博物館にお客が来ないのはディズニーランドのように集客のための努力をしないからだ」

関係者がこのように政府の人間に言われたりすることは
さすがに民主党政府時代の日本じゃないので(←嫌味)無いのだとは思いますが、
なぜここまで閑古鳥が鳴いているのか、つまり民主党的にどう「努力が足りない」のかは
ぜひこの滞在中に確かめたいと思います。



昼間でも全く人の気配のないこの地域に、一部だけなぜか何台かの車が停まって、
(といても数台ですが)人が降りて見物していたのがこれ。
ルイ・ヴィトンカップに出場する、スゥエーデンチームのヨット。

いやー、初めて見ましたけど、競技ヨットって大きいんですね。
20メートルはありそうでしたよ。



このルイ・ヴィトン・カップは、アメリカズ・カップの出場を決めるものですが、
今年の5月9日、サンフランシスコ湾でアメリカズ・カップに向けたトレーニング中、
オリンピックにも出たヨット選手が死亡するという事故が起きています。

それがこのアンドリュー・”バート”・シンプソン選手。
転覆したカタマランの下から脱出することができず溺死してしまったとか。
合掌。

Andrew 'Bart' Simpson



海軍博物館がダメだったので、次の予定だったホーネットに向かいます。
この寒々しい廃墟をご覧ください・・。
ホッパーあたりが好んで描きそうな風景じゃないですか?



ナビの指定により、3分ほどで港に到着。
ここに・・・・・



USS ホーネットが。
大きい。さすがは空母、大きい。

ホーネットそのものは、実はこの間乗った護衛艦「ひゅうが」より排水量少し多め、
(1万9千に対して1万9千800トン)というスペックなのですが、ここでもう一度、

これって本当にホーネットなの?

そこで、USS HORNET MUSEUMのHPを見てみました。


「ホーネットCV-8の歴史」

(前略)

(中略)

Hornet slipped beneath the waves at 1:35am on October 27.
(ホーネットは10月27日午前1時35分波間に没した)


うーん。ここでもやっぱり沈んでいる。あたりまえか。
じゃ、ここにあるホーネットって、何?

日本語で調べても、この博物館に訪れた人のブログくらいしか出てきません。
しかも、どのブログも、

「第二次大戦を戦ったアメリカの空母に乗ってきた」

みたいなことしか書いていなくて、そんなはずないだろ、ともう少しHPを探索すると、

USS HORNET (CV-12) The eighth ship to bear the name.
ホーネット(CV-12)は名前を引き継いだ8番目のフネである。


なんと。

13 Jan 1943 - USS HORNET (CV-8) officially stricken from Navy record.

21 Jan 1943 - USS KEARSARGE, hull #395, renamed USS HORNET (CV- 12).


ホーネットが沈められた時、ルーズベルトはしばらくそれを公表せず隠していたそうですが、
そのせいなのか。
アメリカ海軍は元の「ホーネット」が除籍になるやいなや、(わずか8日後!!)
CV-12のキアサージを「ホーネット」と改名してしまいました


やっぱり、日本に空母を沈められたということを隠していたってのは本当なのね。
こういうのを本来の意味の「姑息」(その場しのぎ、というのが正しい語法なのよ、みなさん)
というのではあるまいか。姑息なりアメリカ軍。

この「キアサージ」という空母について調べると、1944年起工、とあります。

つまり、それまで「キアサージ」だったフネを「ホーネット」にし、次の年に新しく作った
空母にあらたに「キアサージ」と言う名前を回した、と言うことのようですね。

うーむ、やっぱり姑息なりアメリカ海軍。


米海軍がこういうわけのわからないロンダリングをするので、日本のインターネットサイトでは
キアサージというフネを検索しても、この一隻しか出てきません。

おかげで調べるのにいらん時間を使ってしまったぜっ。(怒)


とはいえ、英語で検索するとさすがにCV-12のキアサージ、つまりここにあるホーネット
についての記述が出てきます。
それを読んで、初めて理解したという次第です。

そもそも初代のホーネットというのは、1775年就役の、アメリカ独立戦争時のもの
アメリカ海軍では名前を受け継いでいく慣習があるんですね。
7代目のホーネットが沈んだとたん、(というか日本に沈められてしまったとたん)、
時期も時期だし、公にしたくないしで、あわててほかの艦に8代目ホーネットを命名にしたんでしょうね。



沈んだ7代目ホーネットはヨークタウン級空母でしたが、8代目はエセックス級。
満載時排水量は4万3千トンとなります。

下から見ながら歩いていくと、甲板に航空機も展示してある模様。
期待が募ります。



柵があるということは、ここを人が行き来したと・・。
高所恐怖症には決して務まらない世界。
高いところが苦手だからといって空軍をあきらめて海軍にしたひとは涙目だなあ。


ドック反対側に停泊していたフェリー。
ケープなんとか、と言う名前でした(忘れました)。



ウェルカム看板。
レトロな感じがよろしいですね。



たくさん突き出たこの釣り竿状のものはなんでしょうか。
一番右は直角に屹立しています。

もしかしたら、猫の髭のように、艦体が障害物に当るのを防ぐためのセンサーみたいなもの?
(たぶん違うと思います)



実際に見ると、その大きさに圧倒されます。

護衛艦「ひゅうが」でもわたしには結構なカルチャーショックですが、このエセックス級、
戦艦「大和」より少しだけ(7メートル)長いくらいです。
こちらは空母ですから、排水量だけで言うと「大和」の6割の規模くらいですが。

しかし、この大きさがほとんど「大和」級、と知って見ると、
いかに大和が大きなフネだったかということをあらためて感慨深く思います。

そうか・・・・・・大和ってこんなに大きかったのか・・・・。




空母ですので、砲座が甲板の外側に外付けされています。
この時に甲板にも上がったのですが、上からこの砲座の写真を撮るのを忘れました。



料金表や、もし車椅子で見学するなら入口はこちら、と言った案内が。



ちょ・・・・・・右側・・・・・・・・(笑)。

「醜行に生きたあの日」or
「不名誉に生きたあの日」

なんと、8月17日1時に、

パールハーバーの生き残りが体験を語る会

をここでなさるそうで・・・・・・・。
そういうこと、やっぱりこちらでもやってるんですね。

アメリカに住んでいると、本当に本当に稀なことですが、明らかに日本人に対して
あからさまな憎しみを向けるアメリカ人に会うことがあります。
わたしは一度、ボストン時代、楽譜を買いに行った小さな楽器屋で、店主の中年婦人に
いわれもない悪意を向けられて困惑したことがあるのですが、そういうことがあると
日本人であるわたしとしては、

「もしかしたら身内がパールハーバーで死んだんだろうか」

なんてことを、今ほど軍事や歴史に興味のない頃でもちらっと考えたものです。
まあ、その想像がその通りだったかどうかはともかく。

戦争を日本が始めた理由はどうあれ、そして真珠湾犠牲者の何万倍もの日本人が、
しかも民間人ががアメリカに殺されているという事実はどうあれ、
こういう人にとって日本という存在は決して許せないものなのだろうというのはわかります。

しかし、実際にパールハーバーにいた軍人たちというのはどうなんでしょうねえ。
日本人らしき人間を見ると、あのときの怒りがこみあげて
血圧が上がってしまうような人もいたりするんでしょうか。


17日の1時にホーネットを訪ねれば、もしかしたらそれがわかるかもしれません。
とてもわたしにはその勇気はありませんが・・・。




有名な「We need you」のポスターを、ホーネットの「各種人材募集」に使っています。
まず、ここのスタッフ募集。
そして、どういうわけか「車を寄付してください」
読まなかったのでなんで車が必要なのかわかりませんでした。




バックパック持ち込み禁止。

何しろ、入ってみると分かりますがこのホーネット、禁止区域があまりなく、
比較的どこにも出入りできます。
しかも広大なので、まったく一人っきりになる機会も多数。

ということは、そのへんの「マニア垂涎の何か」を取って、持って帰る不埒者もいる、
こういうことがあるのでバックパックのような大きなものの入るものは禁止されているのです。

実際に、知らずにバックパックで入っていくと「車に置いて来てください」と追い返されるそうです。



こうして見るとその巨大さがわかる、艦橋の一部。



それではいよいよ艦内に入っていきます。



夜にはこのとびらを閉めますが、外を伝って艦内に忍び込まないように
厳重に針金をめぐらしてあります。
この下は海ですから、まずそんなことをする人がいるとは思えませんが。
というか、この中に夜中入り込むのって、たいそう勇気のいることだと思います。

なぜなら。

出るんですよ。あれが。

この話はまたいずれ。



一歩踏み込んだ、これがホーネット内部。
ホーネットの「時鐘」が真正面に現れます。



彼女が「キアサージ」だったのは1940年の起工から3年間だったようです。
「改名」されただけなのに、「ドライドック」なんて言ったりするんですね。





八代目のホーネットであるということと、
ホーネットの名を受け継いでから戦争が終わるまでの任務が列記されています。
マリアナ沖での「七面鳥撃ち」に参加したということですね。
わたしの見たブログで「二次大戦に参加した空母」とありましたが、間違いではありませんでした。

因みに、ホームページの「戦果」の一番最後には

1 assist on super battle ship YAMATO

とありますが、わたくしこのときの戦闘でホーネットが何をしたのかわかりません。
なんですかね。
7代目のホーネットが沈められたから、8代目が大和を討ってその仇を取った、という構図?

ちょろっとアシストしたくらいでちゃっかり大和まで戦果にしてんじゃねーよ、と毒づいてみる。




このキャプテン・セイバーリッチと言う人は、
戦艦ミズーリに乗っていて日本軍の捕虜になっていたのですが、戦後、
このホーネットがアポロ11号が帰還してきたときに
宇宙飛行士の揚収を行う「花道」を経て引退した「最後の艦長」です。

この上に艦長室があるのですが、階段を上ることはできません。
ときどきはこういった部分も公開しているようです。



と言うわけで、ホーネットの見学シリーズ、これから順を追ってお話ししていきます。











オークランド航空博物館~サン・ダウナーズの旭日旗

2013-08-07 | 航空機


オークランド航空博物館のことを何日間か書いたところで、
例によってご指摘を何件かいただいておりますので、訂正エントリを作成することにしました。



この初期のバイプレーンですが、隣にオークランドの中国系アメリカ人
ファン・”ジョー”・グゥエイの胸像があり、てっきりこの人物が作ったのかと思ってそう書いたら、
実はこの機は第一次世界大戦当時のイギリス空軍で活躍したものだったそうで、この説明にも

「このモデルは、1903年飛行機が最初に飛んでから15年の間に進歩したものである」

「この15年に飛行機は原始的な翼と剥き出しの骨組みのものから、
閉じられた機体に各種コントロール装置のついたものとなり、軍に利用されるようになった」

などと書いてあり、中国人は全く関係なかったある、ということがわかりました。

この模型を寄贈したのが、レイモンド・ホングという中華系だったので、
勝手に結び付けてしまったんですね。

ちなみに、もう一度検索したら、このグゥエイさんは、1909年の時点で
自分の研究所で確かに飛行機を作り、それを飛行させることに成功してもいるのですが、
どうして無名なのかと言うと

「彼の功績の大部分は、彼の民族的出自がほとんどの理由で、
同時代の航空史に埋もれてしまっている」

ということなのだそうです。

因みにこの模型の戦闘機は、当時数千機も量産されています。



このライトR-3350サイクロンエンジンについては少々追加です。

エリス中尉、どうもこういう機械のカタマリを見せられても、あまりピンとこないので(おい)
ここの部分非常にあっさりと流してしまったのですが、言われて「うぃき」を見たら、
なんと!(何がなんと!だw)
こやつはあのにっくきB-29戦略爆撃機に搭載されていたものではないですか。
道理ででかいはずだわ。
まあ、自分で挙げた博物館の資料にもそうかいてあるんですがね。

そんなエリス中尉ですから、3350というネーミングにも全く疑問を持たなかったわけですが、
これは、3350馬力・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  • 離昇馬力 2,200HP/2,800RPM
  • 高度馬力 1,800HP/2,400RPM(高度4,267m)


全然関係ないじゃん。
この数字の意味の分かる方、ウィキでしか調べようとしないわたしに愛の手を。

さて、各種訂正追加の御意見の中で、エリス中尉的にもっともツボ?だったのが、
この、



トムキャットF-14についてのこと。



もうちょい後ろ。



あああ、それでもちらりとしか写ってはおらんではないか。
旭日旗模様が。

「イケてますよね」

などと超絶とぼけたコメントを苦笑して見ていた方はおそらく多数。
イケてるも何も、これ、VF-111、サンダウナーズのペイントぢゃーありあせんか。

コメントくださった方は

「もしや気づいていてのことでしょうか?」

と愛のあふれる気を遣った逃げ道を用意してくださったのですが、エリス中尉基本的に
知りもしなかったことを「知っていた」などと言うようなことだけはいたしません。
勿論初耳でしたともさ。

そこで冒頭のマークをご覧ください。
これがVF-111、第111戦闘機隊の部隊章。

これは、二機の航空機が、太陽に向かって攻撃を加えております。
太陽すなわち、ライジングサンの国ジャッパーンでございます。

この、通称「サンダウナーズ」は、まさに昇りゆく我が旭日を、
自然の大摂理に逆らってまでも「沈みゆく落日」にしてしまおうとする、
つまり「日本を沈めてしまえ隊」という名の航空隊で、1942年に結成されました。

でもね。

わたし思うんですけど、旭日旗を見るだけでショック症状を起こし、踏んだり破いたり、
旭日旗様の意匠に片っ端から文句をつけている「あの国」は、つまり、その旗の象徴する国、
日本を嫌悪しているわけで、だからこそ拒否反応を起こすわけです。

しかし、日本と戦争していて、その日本をやっつけてやる!という意味を持つこの部隊が、
その旭日旗そのものを機体にペイントするっていうのは、どうも不思議じゃありませんか。

これって、やっぱり、この模様自体が「イケてるから」という理由以外考えられませんよね?


さて、このサンダウナーズ、最初は1942年、F4Fワイルドキャットでを使用機体として

「その精神と戦術的な優位性を具現するために」(英語ウィキペディア)

この名と、冒頭のパッチが決定されました。
1943年に使用機がはF6Fヘルキャットとなってから、ガダルカナルなどで戦果を上げ、
(このあたりは不愉快なので省略)
そののちはF9F-2パンサージェットに移行しました。

因みに、「猫戦闘機」のエントリで、ヘルキャットが「零戦に対抗して作られた」と書きましたが、
ゼロに対抗するのがが目的というわけではない、というご指摘も入りました。

アクタンで捕獲された「アクタン・ゼロ」の研究結果がこのヘルキャットに生かされた、と言う説は、
厳密にいうと間違いで、なぜならF6Fの開発はアクタン捕獲より前だからですね。わかります。

言い訳するわけではないですが、当初零がアメリカ軍に脅威であったことは間違いのない事実で、
広義の意味で「零に勝つためだった」としてもいいんではないかなー、と思ったのでした。


というのは余談で、サン・ダウナーズに戻ります。

戦争が終わって、文字通り日本はサンダウンしてしまったわけですから、もうここで
サンダウナーズは役目終了、解散してもよかったのですが、朝鮮戦争が始まり、
そこに参加した「アイアンタイガース」という名の攻撃部隊第156隊が、ニックネームと
その部隊名を引き継ぎ、「二代目サンダウナーズ」として蘇ります。

ここで、「もう敵は日本じゃないんだから、この名前と部隊章はまずくね?」

と誰も言いださないのがアメリカン。
そんなことよりもかつてのサンダウナーが強くて敵をたくさん撃墜して、
国からもたくさん表彰されたということだけでイケイケだったんでしょうね。

そして1960年にはベトナム戦争に突入するアメリカ。
サンダウナーズはここにミラマー基地配属として投入され、F-8C クルセイダー
乗機とする同隊のトニー・ナージ大尉ミグ21と対決しこれを撃墜しています。

そして1970年代。

これまで名前だけで、さすがに旭日は遠慮していた(たぶん)サンダウナーズ、
F-4BファントムIIをレストアする際、さりげなく(でもないか)旭日ペイントを復活させます。
その後、1977年に艦載を経て再びミラマーに戻ったときから、このトムキャットF‐14
使いだしました。




それが、ここオークランド航空博物館にあった、これ。

うーん。

そうと知っていれば、もう少したくさん写真を撮っておくんだった(笑)

この時に「イケてるから」などと奇しくも感想として書いてしまったわけですが、
当初の目的とその意図はともかく、日本と戦うことを止め、戦後お互い
同盟国としてやってきながらこういった意匠にこだわり続けたのも、あるときから

「昔はこういう意味だったけど、今となっては『そういうこともあった』くらいに
軽く考えてくれるとこっちとしては助かるな。
だって、なんといってもこの旭日旗模様、イケてるだろ?
日本だって、決して悪い気はしないだろ?」

という理由に変遷していったということなんですよ。彼らの言い分は(たぶん)。
やはりこの感想はある意味当を得たものであった、ってことなんですよね。(←威張るな)


そして、改めて確信したのですが、某国が旭日旗に異常な執念を見せるのも、
つまるところ、旭日旗という優れたデザインがこういう感覚で受け止められていることへの
所詮「嫉妬」なんだろうなと。
そう思えばあの国の行動原理って、すべてこの「日本と日本的なものへの嫉妬」
であると思って見ると、すっきりわかりやすいんですよね。



さて、その後1993年、サンダウナーは、アメリカ軍がソマリア内戦に介入したとき、
史上最大の人道支援作戦である「オペレーション・レストア・ホープ」
(希望の修復作戦。ソマリアの難民達に食糧と医療援助を行った)
への参加を大がかりなものとしては最後に、1995年3月、解隊しました。


あ、それから、婆沙羅大将が「F9系列」である、とおっしゃった謎の残骸について。



これですね。

いただいたコメントによると

●機首にカメラ窓らしきものが複数見える
●エアインテークの形状が違う
●後部キャノピーが機体と一体構造に見える
●塗装が当時の米海軍旗のF9系列のグロス・シー・ブルーの退色したものに見えない

ということで、この正体をいろいろと推察していただきました。
そしてお答えもいただいているのですが、それを明かす前にぜひこのページを見てください。

Help identify this plane - Oakland Aviation Museum


「ランチのためにここに立ち寄ったら、ミュージアムのフェンス裏手にこんなものが。
機種が何かわかる人いる?
ミュージアムは休館日だったので聞ける人がいなかったんだよ」

20分以内に答えが寄せられています。

リパブリックRF-84 サンダーフラッシュに見える」



サンダージェットとか、サンダーストリークと呼ばれるF-84戦闘機の偵察機バージョン、
それがこの「残骸」の正体であったようですね。

このページを最後まで読んでいただくと分かりますが、

「こんな状態の航空機を見るといつも悲しくなる・・・・」

「でも、ここは博物館だろ。いまからレストアされる可能性もあるよ」

「胴体の周りに翼も見当たらなかったんだ。コクピットだけ展示するのかも」

「こういう小さな博物館は、他の博物館が調達するために
大きな基金から資金を得て
レストアやなんかをするんだよ。
もしこれが博物館なんだったら、どこかに(展示する)チャンスもあると思う。
これがおらがの街の博物館だ。駄目だなんて言うな!」

こんな飛行機を愛するアメリカ人たちの会話があって微笑ましいです。
このスレッドが立ったのがもう4年前。

しかしながらその後、アメリカおたくたちの願望も虚しく、
この機体は皆さんもご存知のように庭に放置されっぱなし。

しかし、わたしもいま一度言う。

裏手からとりあえず展示スペースに移動しているということは、今後
このRF-84、ちゃんと組み立てられて展示される可能性があるじゃないか。

NEVER SAY DIE!(駄目だなんて言うな!)






目黒・防衛省~高木惣吉と「東条英機暗殺計画」

2013-08-06 | 海軍

目黒、防衛省は幹部学校所蔵の海軍軍人揮毫の書についてお話ししています。

「一期一会」と書かれたこの書の揮毫者は高木惣吉

少し海軍に興味がある方はこの名前に非常に聞き覚えがあるでしょう。
たしかにここにある書の揮毫者が夭逝した秋山真之(中将)を除いては皆大将であるのに、
この揮毫者の高木は言っては終戦時、少将です。

言ってはなんですが、なぜここにたかが少将の揮毫が残されているのでしょうか。
いくさに働きを見せたというわけでもなく、大作戦で戦死したわけでもないこの軍人が
なぜ歴史に名を残しているのでしょうか。

それは一口で言って、この人物が行った工作が、実質日本を終戦に導いたからです。
高木は終戦時、米内光政、井上成美の密命を受け、終戦工作に中心的な働きをしました。


高木惣吉は1893年(明治26年)、熊本の生まれ。
通信教育と夜間学校から教育検定合格の末、兵学校43期に入学という変わり種です。
一式陸攻で(未確認ながら)敵艦に突入し、「実質特攻一号」とされた
有馬正文中将は同期で、有馬は高木を兄のように慕ったという話があります。

余談ですが、この有馬正文は兵や部下に向かっても「お疲れ様です」などといった具合に
丁寧語を使い、決して高圧的になることのない穏やかな人物で、その理由は彼が
非常に苦労人であった(在学中実家が倒産)と言われています。
有馬は、やはり苦労をしている高木に同じものを見ていたのかもしれません。


高木は入学時は勿論のこと、兵学校卒業時にも「普通の成績」でしたが、
海軍大学では優秀さを発揮し、首席で恩賜の短剣ならぬ長剣を授与されています。


海軍の悪しき傾向の一つに、いわゆる「ハンモックナンバー絶対」の人事があります。
兵学校時の卒業成績が海軍での昇進を決定し、よほどのことが無いと
それを挽回することができない、とも言われていました。


そのハンモックナンバー至上主義は実に歪んだ形でしばしば現れました。

たとえば高木のように兵学校でまあまあの成績であったものが、たとえ海大で首席になっても、
「海兵の恩賜でもなかったくせに」
「海兵で大したことなかったくせに」
と馬鹿にして蔑み、足を引っ張る者(主に同期)がいたというのです。


高木は昭和2年、海大を首席で卒業したことで、在フランス日本大使館付きの
駐在武官補佐官に任命されてフランスに行くことになりました。
「洋行」が栄達のような憧れの響きとして一般に捉えられていた頃です。

兵学校のクラスヘッドなら「仕方ない、恩賜の短剣だから」ですむのですが、
兵学校時代ぱっとしない男が、一年で終了する海大の首席(20人中)を取り、
駐在武官に選ばれるということを面白くないと思ったものもいたようです。

高木と同期の、兵学校でのクラスヘッドであった大尉が同様に駐在武官を任命され、
二人の壮行会が行われたときのこと。

「何とか大尉は海兵のクラスヘッドだから、別に海大に行かなくても洋行できる」

と大声で嫌味を言う者がいたというのです。
おそらくこういうことを言うやつに限って大した成績ではなかったに違いありません。
何しろどこにもこういう嫉妬深い人間はいるということです。

高木は体が弱かったため、戦艦勤務を希望するも、そのために諦めざるを得ず、
そのかわりといってはなんですが、軍政の分野で活躍するようになります。


シーメンス事件の影響で政界とは距離を取っていた海軍ですが、
日華事変をきっかけに海軍内でも政治体制への不満が表面化してきていたため、高木は

ブレーントラスト

という、各方面から構築された人材によるシンクタンクを提唱し、創設に携わりました。

このブレーントラストは、学者、思想家、新聞記者、作家、大学関係者、評論家、官僚、
そして実業家などからなる当時の錚々たる知識人たちで占められ、その中には

和辻哲郎(哲学者)、岸田国士(劇作家)、清水幾太郎(社会学者)

等も顔を見せていました。

このメンバーの中には、本日タイトルにした高木の「東条英機暗殺計画」
に賛同する者もいたという話です。


それでは、その、高木少将の終戦工作と「東条英機暗殺計画」の話をしましょう。

「えっ!海軍軍人が東条英機暗殺などを企てていたの?」

と驚いたそこのあなたのために、この計画について説明しますと、
大戦末期、神重徳大佐、小園安名大佐などの中堅どころに、
高松宮宜人親王、細川護貞などがメンバーに加わって、
当時内閣総理大臣だった東条英機を暗殺しようとする企てがあったのです。

戦況が悪化し、このままでは日本はだめになると憂えてその打開策として計画したもので
首相である東条を亡きものにし和平への道筋へなんとか続けようとしたのでした。


当時東条英機は本人の言によると
「戦争というのは大きな石のようなもので、一度山から転がりだしたら一人の力では止めることはできない」
という流れのなかで、突き進むかのように本土決戦へ舵を切り、
見方によっては独裁ともいえる采配を振るっていました。

「竹槍では戦えない」と新聞記事を書いた毎日新聞の記者をクビにさせて
激戦地に送ろうとして海軍と「身柄の取りあい」になった竹槍事件でも表面化したように、
航空機の配分を巡ってこの頃、陸海軍の間は最悪の状態に陥っていましたが、
この計画が立てられたのは、ちょうどこの竹槍事件が激化したころにあたります。


この頃の東条には、陸軍内で終戦を進言したものを尽く激戦地に飛ばすなどして
排除してしまうといった、独断専行、専横的な行動が見られます。

因みに進言者の一人、陸軍省の大佐は飛ばされたグアムで戦死しています。

陸軍でも、こういったことに危機感を覚えた一派によって、一度暗殺計画が立てられましたが、
これは陸軍内のことだったので、たちまち東条の知るところとなり、関係者は処分されています。



それにしても、倒閣を計画するより先にいきなり暗殺とは物騒な、と思われませんか?

この理由の一つに、海軍の嶋田繁太郎大将が東条と懇意であったことが挙げられます。
東条の男妾」などと陰口をたたかれるほどで、海軍内でもそれゆえ敵が多かったわけですが、
それだけに倒閣するには障害が多いとされたのです。


計画は5月から本格的に立てはじめられ、昭和19年の7月決行、と決まりました。

この内容がまた、

「東条がオープンカーで外出した時を見計らって車両で前を塞ぎ、海軍の機関銃で蜂の巣」

というこれまたダイレクトというか、ずさんと言うか、荒っぽいものでした。

おそらく高木らはとにかく東条さえいなくなれば後は米内や井上が何とかしてくれるから
自分は刑死も厭わずというつもりだったのではないかと思われます。



しかしこの計画は、直前に東条内閣が総辞職してしまったため、実行にうつされませんでした。

その総辞職の理由というのは、東条が進言者を尽く前線に送る処置をしたのを見て、
重臣たちが危機感を募らせ、不信任案を提出したからです。

昨今わが国の国会で出されている「不信任案」なるものは、
選挙前に足を引っ張りたいとかいう理由でやたらと提出されたり、
あるいは不信任案を出されても出されても「最高の布陣」とか「適材適所」と言い張って
まったくそれに対処しなかったり、やめるといってやめなかったりしても許されるようですが、
このころの不信任案はちゃんと機能していたようです。


ともあれ、これを受けて東条は首相を辞任したため、
高木らは暗殺計画を実行に移さずに済んだのでした。


ちなみにこの時に不信任案決議を発案したのは

近衛文麿、岡田啓介、若槻禮次郎、米内光政、広田弘毅、平沼騏一郎らです。



しかし、これが決行されていたら、どうなっていたでしょうか。
二つの可能性をを想定してみました。

(その1)

もし東条大将が海軍に殺されたとあったら、
陸軍側がまったくこれに反発しないなどということはありえません。
おそらく陸軍の血気盛んな大尉クラスが報復のための行動を起こし、これに呼応して戦闘がはじまり、
アメリカと戦争しながら、最悪の場合は陸軍対海軍の内戦が起こっていた可能性もあります。

計画した高木本人も、後年

「読みが浅かった。暗殺を実行したら陸海軍の対立が激化して終戦がやりにくくなった」

と反省していたそうです。

(その2)

そして、可能性は薄いですが、仮にこの後、すんなりと海軍の「和平派」が政治の実権を握っていたら?
その場合は終戦が早まったことだけは確かです。
日本が負けで終わることには変わりはありませんが。

ただ、可能性としてあるのは、その時期によってはアメリカは原子爆弾を落とす名目を失って
日本はその被害を受けずに済んだかもしれないということです。

しかし、この場合、敗戦後の日本ではこの件による陸海間の遺恨が根強く残り、
東京裁判の行方も多少は違っていたでしょうし(陸軍だけが咎を負うということになる意味で)
甚だしきはこれが元となって戦後の復興や独立にさえ大きな障害となったかもしれません。


「このとき、東条が死んでいたら、今の日本は今の姿だったか?」

歴史に「たられば」はない、ということはよくよくわかっていますが、
もし、このときに高木惣吉の計画が成功していたら・・・・・・・・?

わたしはこのような「IF」を考えるのが大好きなのですが、
この「暗殺計画」ほど、想像をたくましくさせてくれる「もし」はありません。


そんなことを思ってみると、この「一期一会」という、運命の穏やかな享受を意味する茶道用語は、
「歴史の唯一性」の前に一人の人間として身を委ねる者の身の処し方であり、
穿ちすぎかもしれませんが、「為せなかった歴史」に対してこの人物が持っていた
一種の諦念からくる人生信条の「陽」の部分を述べたものであったようにも思えてきます。







オークランド航空博物館~トムキャットと「猫戦闘機の系譜」

2013-08-05 | 航空機


Grumman NF-14A Tomcat


グラマンという会社名のつづりがGrammanだとわりと最近まで思っていたエリス中尉です。
Uだったんですね。

戦時中、本土にやってきたグラマンは、たとえば大阪だと、
御堂筋沿いを低空飛行しながら逃げ惑う市民を掃射したり、校庭の小学生を狙って撃ち殺したり、
全くこうやって書いているだけで怒りがふつふつとわきあがってくるほどの狼藉三昧をしたため、
日本人にとってこの名前は大人は勿論子供にとってもにっくき「敵」の象徴だった時がありました。


というような陰鬱な話はさておいて、当時のグラマンと言う名の禍々しい響きとは裏腹に、
可愛らしい名前を持っていたこのF-14。
トムキャットとは「雄猫」の意味があります。

F-14
の最も大きな特徴の一つが、飛行中に主翼の後退角を変えられることでした。
最適な状態に翼の形が変えられるということなんですね。



別の機種ですが、可変翼の動き方の一例です。

この翼を動かすのを、初期には手動でやっていたのですが、このF‐14は、
コンピュータ制御で最適値を自動制御で決定できるのです。

なんかこれ、手動って、ハンドルみたいなのがあってぐるぐる回したんでしょうか。
映画「メンフィス・ベル」で、故障して片方出ない爆撃機の脚を手動で、
やはりぐるぐる回しながら出し、間に合うかどうか!がクライマックスだったりしましたが。
そういえば車の窓も昔はハンドルぐるぐるでしたよね。

とにかくこの動きがネコの耳の動きに似ているということで
愛称がトムキャットになった、ということに(公式には)なっているようです。

じゃ、他のグラマンの「ネコ戦闘機」はどうなるのっと。

可変翼の動きは後からこじつけた理由じゃないかなあ。
だいたい猫の耳こんな動き方しませんし。

というわけで、今日はこのネコシリーズを年代順に淡々とご紹介します。
「!」マークがついているのは「盛り上げ」と思ってください。

F4F ワイルドキャット!



日本軍の搭乗員には「ネコ」と呼ばれていた。そのままである。
ただし、零戦と比べると大幅に性能は劣っていて、サッチ・ウィーブ戦術の考案者サッチ少佐も、
ミッドウェーで零戦とのやりあって生きて帰って来れたのは奇跡、と言っている。
ずんぐりした機体は、ワイルドキャットというより肥満した家猫と呼ぶにふさわしい。

F6Fヘルキャット!!



零戦に勝つために作られた「地獄のネコ」。
名前に中二病が感じられるが、これは打倒ゼロファイターの意気込みを表したのであろう。
ゼロと戦闘をする際は、余分な装備は外し機体を出来るだけ軽くするように、と
ワイルドキャットの頃にパイロットに「三つのネバー」の一つとして通達がだされたが、
どういうわけかこのヘルキャットはワイルドキャットより体が大きい。
そのせいで重すぎて着艦時に脚が折れ、海に転落する事故が続出。
しかし、日本軍にとっては最も兵力を殲滅させられた「怖い猫」だった。

見た目通り装甲はむちゃくちゃ頑丈で、なかなか撃墜できなかったらしい。
戦争末期には爆装して本土で民間人を襲いまくり、日本人の言う「グラマン」とはこの6Fをさす。
まさに可愛げのない地獄のネコそのものであった。

ところで、当時の海軍では、猥談のことを「ヘル談」、そういう人を「ヘル」と言った。
これは「助平」の助を直訳した、海軍公認の隠語である。
この「ヘルキャット」が、おそらく海軍内では本来の意味とは
全く違う捉え方をされていた可能性は高いであろう。

F7Fタイガーキャット!!!



タイガーキャットというのはジャガーネコともいうネコ科の動物であるが、
タイガーキャットを直訳すると「トラネコ」になり、可愛い。
器量が悪かったヘルとワイルドより、若干スタイル良しになっている。

しかし、良かったのは器量だけで、重すぎる割に着陸速度が速すぎて、
あまり活用されなかった。

民間に払い下げられ、消防機としての余生を送るタイガーキャットは、
まさにジャガーネコというよりトラネコと呼ぶにふさわしいだろう。

消防機として生きるタイガーキャット

F8Fベアキャット!!!!




ベアキャットとは、クマネコ、英語名「ビントロング」というマイナーな動物。
おそらく付けたグラマンの関係者も、この動物を知らずにつけたと思われる。

ビントロング

これもあえて漢字に変換してみると、熊猫。
これは中国語で「シュンンマオ」と読み、何のことはないパンダのことである。
大熊猫でジャイアントパンダ、小熊猫でレッサーパンダ。
どちらも猫とは全く関係ない。

ベアキャットというのには「勇敢な闘士」という意味があるらしい。なんでやねん。

日本本土決戦に向けて開発されたが、これもあまり活躍せず、
日本軍とは全く戦わずに陳腐化してしまった。

F9F パンサー!!クーガー!!!

 


CATとつく動物に戦闘機に相応しいあまりかっこいいのがいないので、
困ったグラマンは、ネコ科の猛獣の名前を使うという卑怯な技に出た。
これがパンサーとクーガである。
しかし、CATとつかないものは「ネコ戦闘機」の仲間に入れてやらない、という説もある。



ちなみにこれもF9Fですって。
なぜわかるんだ・・・・・。



F14Fトムキャット!!!!!




ふう、やっと本日テーマに戻ってきた。

自衛隊が次世代支援戦闘機を装備するにあたって、世界の航空会社は熾烈な売り込みをかけ、
その結果、このグラマンのF-14と、マクドネル・ダグラスのF‐15が熾烈な売り込み合戦を行い、
その結果、F‐15が採用されたのだが、この売り込み計画をアメリカは「ピース・イーグル作戦」と称していた。

どちらが勝ってもアメリカが発注することは確かなので、つまり漁夫の利というやつである。少し違うか。
売り込みバトルのクライマックスは、1976年入間で行われた国際航空ショー。
ほぼ性能の点からF‐15に決まりかけていた劣勢を起死回生すべく、グラマンは、
西太平洋航行中の原子力空母「エンタープライズ」から、トムキャットを本土来襲させた。

今にして思えば、国内の左翼がこれに
「かつてのグラマン本土空襲が脳裏によみがえった。どうしてくれる」
と騒がなかったのはなぜか、不思議と言えば不思議である。

ともあれ、このかつての敵国に今は機体を買ってもらうための来襲は、いいところまでいったが、
やはり劣勢を挽回することは成らず、空自配備のF-15Jには、マクドネルダグラス社のF-15が
勝利を納めた。

この時にグラマンが勝っていたら、自衛隊に猫戦闘機が導入されていたのである。
この点だけが返す返すも残念である。(筆者の個人的感想であり、感想には個人差があります)



というわけで、一応「ネコ一族」をご紹介しました。
それにしてもこのペイントですが、猫というよりどう見ても鮫のつもりですよね。
ネコと言い張るならネコ耳が欲しかったかな。

ところで、この博物館、こういう展示がされていて、周りに囲いがあるわけでもなく、
しかも係員が見ているわけでもないので、その気になれば



こんな写真も、下に潜り込んで撮れたりします。
「触らないでください」
と書いてあるだけなので、触りさえしなければ何をしてもOK。

この下を匍匐前進して向こうに潜り抜けてもOK。

しませんでしたが。



トムキャットのエアインテークに頭を突っ込んで写真を撮るのもOKです。
昔mizukiさんが、空気を取り込むときに暴風雨だったらどうなるのか、という質問を
コメント欄でしておられたのを思い出しました。

その時にわたしの予想として、燃焼のメカニズムそのものが取り入れた空気を直接使用するのではなく、
赤い輪のところ、つまりインテークセクションで取り入れた空気を減速させ、
同時に圧力を増大させて圧力回復を行うのではないか、ということを書いてみました。

それが正解かどうかはいまだにわかりませんが、よく考えたらそもそも暴風雨のときに
超音速ジェット機を果たして飛ばすだろうか、という根本的な疑問が・・・・・・・。

この件、まだ質問をオープンにしておりますので、どなたかご存知でしたらぜひ教えていただきたく存じます。




あれ・・?

なぜかそこここに旭日旗様のペイントが見える気が・・・・。
やっぱり、これ、「イケてるもの」と認識されてますよね?
そうですよね?

ところで、グラマンの華麗なる「猫戦闘機の系譜」。

最後に、この猫を紹介します。

G-164 アグキャット!!!!!!!!



「アグ」とは、アグリカルチャーすなわち農業。
アグキャットは、アメリカの農家が広大な畑に肥料をまくための、
グラマンの製作した農薬肥料散布専用機。


なぜこの機種が「猫」でないといけなかったのか。
これは、グラマンの中の人が狙った壮大な「オチ」だと関係筋からは見られている。





海軍リス戦隊(西部方面軍)は女性軍かもしれないという話

2013-08-04 | すずめ食堂

おまたせしました。

きっと、ここ西海岸のリス画像を首を長くして待ってくださっていた
去年以来の読者の方も何人かはいるのではないかと勝手に決めつけ、
大量にリスフォルダーからの写真を放出いたします。

スズメ観察のために作ったタグ「すずめ食堂」は、
広く「動物観察」のジャンルとして使うことにしました。


去年と今年の違いは、カメラが少しバージョンアップ(デジカメからニコン1)したことで、
細部がなかなかうまく捉えられている写真もそこそこ撮れました。

それから、肩に斜め掛けしてシャッターチャンスのときはするりとカメラを構えられる
超便利もののカメラ用ベルトを購入したので、ウォーキングのときの撮影が快適です。



鰯雲ができるというのは上空には冷たい空気があるということですね。

リス撮影ポイントは、スタンフォードの人々のウォーキングスポットである
「ディッシュ・トレイル」。



トレイルというのはウォーキングやジョギングのできる舗道をいいますが、この「ディッシュ」、
今年になって気付いたのですが、



このコース山頂にある巨大な物体。
これも今年になって知ったのですが、これはく天文台なのだそうです。
これを「お皿」=ディッシュ、と称していることも今年になって気づきました。



ボストンのリスは「トウブハイイロリス」といって。樹上性ですが、ここのは「ジリス」。
地面に穴を掘ってモグラのように巣をつくります。

ハイイロリスには無い、白の水玉模様があるのが特徴です。



人がしょっちゅう通るので、彼らも慣れっこになっていますが、
写真を撮るために立ち止まり、注目すると、やはり逃げてしまいます。



しかしいざとなるとじっとしていた方が見つかりにくいと思うのか、
こちらが見ていると、じっと固まって様子をうかがうリスもいます。




この子は平気でご飯を食べていた豪傑さん。
ちなみに冒頭写真の大アップを撮らせてくれたのもこのリスです。

ボストンのトウブハイイロリスより、かわいいとおもうんですよね。



参考画像。これがボストンのトウブハイイロリス。

ちなみに、いままでボストンではこのタイプしか見たことが無い、と書いたことがあるのですが、



ボストンの最終日、いつもとは違うアッシュランドの州立公園に行ったら、
いつもの公園とはそう離れているわけではないのに、
ここには「トウブシマリス」がいました。
動きがハイイロリスより早くてなかなか写真が撮れなかったのですが、
この子はわたしにロックオンされたとたんぴたりと静止して息を殺していました。

シマリスがペットになるのは、リス類のなかでは順応力が比較的高いからで、
ジリスと樹上性リスの間の行動形態を取るのも順応力のなせるわざなのだとか。




木陰でうとうとしていた「絵になるリス」。
ときどきこのようになごんでいるリスを見ますが、じつに哲学的な表情をしています。



ここはできるだけ自然のままにしてあり、トレイル以外のところには決して踏み込んではいけない、
という規則があります。


これもアンテナですが、天然の木をそのまま使って電柱にしています。



両手を使って食べるのは、右と左で別の動きができないからなんですね。



お兄ちゃんまって~。



まるで置物。
どちらもカメラを向けたら固まってしまいました。



左の大きなリスはずっとこの「お祈りポーズ」のまま、眼だけこちらを覗っていました。
「なむ~見つかりませんように」





写真を撮ってみるとこちらを見ていた、というリス多数。
ところでリスってどうしてリスっていうか知ってます?
漢字で栗鼠と書くのですが、これ「リツ・ソ」ですよね。ちゃんと読むと。

これが「りっそ」→「りそ」→「りす」と変化していったのだそうです。



カリフォルニアジリスというのが正式名ですが、大きなものは50センチにもなります。
寿命は6年から8年と、小動物にしては長生きです。



ジリスの種類はほとんどが冬眠をするそうです。
このあたりも一応冬はそれらしく寒くなりますので、その間穴の中で寝ているのだと思っていたのですが、
実は衝撃の事実が・・・・!

続きはコマーシャルの後で・・・じゃなくて巻末に。



なかなか凛々しい。
このリス、リスとはいえなかなか闘争的な部分もあります。



立たされている小学生みたいな神妙な表情に思わず微笑んでしまいますが、
このリスは穴に戻ろうとしたときにわたしに見つかってしまい、
そのままの姿勢で固まっているのです。



地面にはこんな「リス穴」がいたるところに開いています。
リスの天敵は猛禽類とガラガラヘビですが、最も恐ろしいのがガラガラヘビで、
この穴の中に潜り込んでリスが飛び込んでくるのを待っているのだそうです。

不意を襲われてはリスもやられるしかないですが、バッタリ出会ってしまったら、
リス、何をすると思います?

何とリスは、尻尾の温度を5℃くらい上昇させて振り回すのです。
すると、ガラガラヘビは怖がったり、逃げてしまったりするのです。



これはなぜかというと、ガラガラヘビは目と鼻の間に左右一対の熱を感じるピットという器官を持っていて、
その働きで暗闇の中でも体温を持った鳥類や哺乳類を捕らえて食べることができるのですが、
このピット器官に高い熱を感知すると、とたんに食べる気がなくなるからだと言われています。

つまり、「食べても熱くてお腹壊すよ!」という警告、あるいは混乱させてしまう作戦なのだとか。





向こうに見えているのは、スタンフォード大学の「フーバータワー」です。



物凄く遠くに鳥が見えたので撮ってみたら、フクロウのようなそうでないような。



残念ながらこれ以上はっきりした写真は撮れませんでした。
何しろ肉眼では「白い点」くらいの感じでしたから・・・。



と思ったら目と鼻の先に山鳩が来ました。
真っ黒な目が実に愛らしい顔立ちの鳥。



全然怖がりません。



リスと鳥は基本喧嘩をしません。
こんなにちかくにいてもお互い全く干渉せず。



トレイルを一周すると1時間と少しかかります。
おしゃべりしながら歩くとあっという間なので、二人でウォーキングしている人が多い。
通りすがりに話を少し小耳にはさむと、大抵が人のうわさ話。

日本と同じですね。



こんなかわいい顔をして、ガラガラヘビを撃退するだけでなく、
晩年にはヘビの毒に対して免疫まで持つようになるそうです。
なぜ晩年にそうなるのかはわかりません。





ときどきこんな感じで柵の上にじっとしているリスがいます。





尻尾の大きさなど、実に個人(個リス)差があります。
このリスは体の割に尻尾が小さい。
ガラガラヘビと出会ったときちゃんと脅かすことができるのでしょうか。



このリスは喧嘩で耳をかじられていますね。





去年もこんな写真を撮りましたが、よく木の柵の下段でこうやって足としっぽを垂らしています。





この子も耳が切れています。
名誉の負傷ですか。



 

道を横切るときは基本全力疾走。
ニコン1のスピードシャッターで撮るとこの通り。



絵になる光景がそこここに。



月見草の種類でしょうか。



トレイル沿いに豪邸が何軒かあります。
最初に見たとき、なんて羨ましい、と思ったものです。
確かに環境はいいとは思いますが、



実はこの公園こんなものもいるという・・・。
犬や猫を飼っていたら、外には出せませんね。
ふと庭を見たら、コヨーテがいたとか、怖すぎる。



頬杖をついているように見えますね。



ところで、去年リスの喧嘩をカメラに納めたのですが、
今年も今のところ一度だけ、かなり遠く(50メートルくらい)でやっているのを撮りました。

遠くなので画質が荒いのが残念ですが・・・。







どうもリスたちはしょっちゅう喧嘩をしているようで、耳が桜の形をしたリスが
やたらたくさんいました。
可愛く見えて結構気性が荒いんですね。





珍しく片手使用。



仲良く餌を食べていましたが、くっつき過ぎると一触即発で喧嘩になってしまうようです。
こんなに広いんだし、喧嘩になるくらいならもう少し離れて餌を探せばいいのに。




ところで、今回カリフォルニアジリスについてショックなことを知ってしまいました。
このリス、冬眠する種類なのですが、なんと雄に限って

夏場冬眠じゃなくて夏眠する

というのです。
なぜ夏に寝る?

もしこの話が本当なら、これらのリスたち、もちろん去年のリス戦隊の皆さんは

皆メスだった

ということになってしまいます。
去年の喧嘩も、今年のこの喧嘩も、オスの縄張り争いとかではなく、

リスのキャットファイト(女性同士のけんかのこと)

であったということになってしまいます。
夏場はこの辺は「干ばつだから」という理由なのだそうですが、




本当かしら。


オークランド航空博物館~哀しきミグ15(人民軍仕様)

2013-08-03 | 航空機




Aeronca 7AC Champion


オレンジの機体が可愛いエアロンカ・チャンピオン
1946年当時、2000ドルくらいで販売されていました。
主に個人使用と、飛行訓練のためにデザインされた機体です。



これはエアロンカを使用したフライングスクールのパンフレット。
このスクールで学ぶとこのような道が開けますよ、という例として、
個人パイロット、商業パイロット、運送、テストパイロット、スチュワーデス、
運行管理者などなどが挙げられています。



Kittfox IV 1200

小池一夫・池上遼一大先生作、全く意味不明のアクションマンガ、
「クライング・フリーマン」の主人公を思い出してしまいました。

組み立てキットを購入して飛行機を自分で組み立てるホームビルト機です。
ロータス・セブンなど「キットカー」の飛行機版ですね。
その中でも定番キットのひとつがこの『Kitfox』。
エンジンも選べるし、もちろこのようなアーティスティックなペイントをして楽しんだり・・。



断言してもいいけど、これを描いたのは東洋人ではないでしょう。
ドラゴンには違いないですが、どことなく「記憶スケッチ」のような「それじゃない」感が・・・・。

因みにここの説明によるとこのキットフォックスは、
「このタイプで最もマーケティング上成功した」タイプなんだそうです。



Thorp/Paulic T3B-1

先ほどのボーイング飛行学校のためにデザインされたT3B-1。
Thorpは、デザインしたジョン・ソープの名前からきています。

安定性はありますが、なんだか寸胴でかっこ悪いシェイプですね。
アメリカの飛行学校はサイドバイサイドで指導することが多いらしく、
このタイプは皆横に並ぶツーシーター式です。



Rutan 33 VariEze

外にも展示してあった、ルタン・バリイージー
サクランボのような形状の脚が可愛らしい。
でも、こんな脚でちゃんと着地できるのだろうか、そう思って画像を検索すると、
着陸のときはノーズの下からもう一脚を出してくる仕組みのようです。

地面に駐機してある時もこの前脚は出さないのが基本のようで、
まるでお辞儀をしているように見えます。

エンジンが後部にあり、ほとんどの重さがそこに集中するので翼はやはり後ろに位置し、
ノーズについている補助翼でコントロールを補助するのだそうです。



Jurca MJ.77 Mustang

スピルバーグの「太陽の帝国」という映画で、日本軍の捕虜になっていた
飛行機オタクのジム少年が、「ナカジマゼロセン」の熱狂的なファンだったにもかかわらず、
日本が旗色が悪くなって米軍機が飛来するようになると、このマスタングを見て

「空のキャデラックだ!行け行け~!」

と手の平返し、つまりどこの国のものでもかっこよければ良し、なオタクぶりで笑わせてくれました。

この映画について一度エントリを書いたことがあります。
軍事考証が無茶苦茶で、「こんな日本軍は嫌だ」のオンパレードであるこの映画。
しかし、この映画の中でも好きなシーン、
それがジムが零戦に頬ずりしているところに三人の海軍搭乗員がやってきて、
振り向いたジムが敬礼すると三人は威儀を正して答礼する、というあの場面です。
(それをなぜか陸軍軍曹の伊武雅刀が涙を流してみていて、がっくりしてしまいましたが)

それはともかく、零戦ファンのジム少年が一目で心を奪われたのが、このマスタングです。
搭載エンジンはロールスロイスのものなので、ジムは車に譬えて「空のキャデラック」などと言ったのかな。

このB型は、初期型に最初のマーリンエンジンを搭載したタイプで、これが昇華して
D型になるとこのP-51は「決定版」と言われ、ノルマンディ作戦にも参加しています。

ちなみにこれは、4分の3スケールの「レッドテイルズ」、つまり!あの

タスキーギ・エアメンバージョン

ということになります。



あらあらうふふ、今気づいたわ。
ちゃんとレッドテイルではないの。

タスキーギ・エアメンについて書いたとき、P-51でも、C型かD型かという話を
読者の方に質問して少しお話ししてみたのですが、これはそれ以前のB型。
量産されていない頃なので、タスキーギが使った可能性はあまりないように思うのですが・・。

まあ、しょせんレプリカなので、史実はどうでも「タスキーギ仕様」にしちゃえ!
というところかもしれません。
もしそうなら、アメリカ人もかなりいい加減です。

これをわざわざレッドテイルにした理由は、この博物館に
「タスキーギ・エアメン記念室」があるからなんだと思ってみたりする。

この特別展示については別の日にお話しします。



Mikoyan Gurevich MiG-15bis

わたしの記憶に間違いがなければ、これソ連機ですよね?
なんだってここにこんな塗装をされて存在しているのか。



さらにさらに。

これ、たしか中国空軍のマークですよね?
漢字で八一って入っているし。

そう思って調べたら、面白い経歴がわかったのです。

1950年、中国が朝鮮戦争に投入したミグ15は、世界に衝撃を与えました。
西側諸国はそもそもソ連が戦闘機を作っていることを知らなかったからでもあります。

北朝鮮はろくな飛行機をもたず、最初の頃こそ制空権は連合軍が掌握していましたが、
中国軍がMig15で参戦するようになってくると、そうは簡単にいかなくなってしまいます。

ソ連はドイツのMe-262を捕獲してその技術で1940年代後半にはミグを飛ばしています。
ロシア人たちは、冷戦の果てには米軍の爆撃を受けることを想定していて、
B-29B-50を迎え撃つという目的でにミグ15を開発していたと言われています。

朝鮮戦争が始まってからは、F-86セイバーに対抗するために効果的な仕様を施されました。
当時の米軍発表によると、セーバーとミグ15の対戦勝率は、4対1であったそうです。

ソ連は中国にこのミグ15のライセンス生産を許可したようですが、
結局中国は自力では全くミグ15は作っていません。

しかも中国はその後、台湾軍との間で航空戦を行っていますが、この機体で
ほとんどと言っていいほど芳しい戦果を上げることができないままでした。
これは、中国国内で生産されたものでないのでメンテナンスがいい加減だったことと、
バイロットの練度が非常に低かったから、ということになっているようです。


ここに展示されている機体はソ連で54年に製作され、中国でJ-2 Mig15として運用されたもので、
この「J」とは、中国語の「戦」(jian、战)から取られました。

これをどういう経路かわかりませんが、手に入れたアメリカ人が、冷戦後国内に輸送し、
しばらくの間このミグ15人民軍仕様は、このペイントのままで航空ショーに出されていたそうです。

いわば、さらしものっていうか、見世物扱いされていたわけですね。(涙)


ミグ15のコンセプトは小型・軽量の単純な機体に大出力エンジンを搭載するというもので、
この発想に西側の飛行機制作者は衝撃を受け、アメリカはさっそく
F-104「スターファイター」を開発しますが、こちらは



結論として、この軽い戦闘機を爆撃機や全天候迎撃機として使うことはかなり無理があり、
そのせいで米軍での試用期間は非常に短かったようです。


因みに、金門橋で中国が台湾を砲撃したとき、
アメリカはここぞとこのスターファイターを、ミグと戦わせるため(たぶん)
台湾空軍に一個飛行隊分与えていますが、残念ながら交戦の機会はありませんでした。

スターファイターの開発者はきっと「ちっ」と舌打ちしたでしょう(たぶん)。


そして時は流れてベトナム戦争。

この戦争でミグが出現したのを認めたアメリカは「すわっ」と
ミグと戦わせるためスターファイターを投入しています。

ハブ退治にマングースを投入するみたいなもんですか。

違う?

しかし、このたびも北ベトナム軍とのあいだに交戦の機会はなく、
ただ中国の領空に入ってしまったスターファイターが撃墜されるだけに終わりました。

スターファイターの開発者はきっと「ちっ」と(略)


ミグの話をしているのに、このスターファイター、「最後の有人戦闘機」、
なかなか話題が多くてどうしても主役を乗っ取ってしまい恐縮ですが、あと一つだけ。

せっかく作ったからというわけでもないでしょうが、アメリカは
自分はろくに使わずに、日本や他の国には結構な数のこの機体を売りつけています。

ドイツも買わされた国のひとつでしたが、販売にあたって、まずドイツ人のパイロットは
アメリカでこの機体に習熟するための訓練を受け、本国で使用する準備をしました。
しかしながら、天候のいいアメリカで難なく操縦できても、天候不順なドイツでは
それが原因でパイロットの死亡事故が頻発し、ついには

未亡人製造機(Witwenmacher)
ウィドウメーカー(Widowmaker)←英語で
「空飛ぶ棺桶(fliegender Sarg)」、
「縁起の悪いジェット機」、
「アンカーボルト」(すぐ地面にめり込むから?)
「テントのペグ」(Erdnagel)」(これも地面にめりこむから?)

などという錚々たるネガティブなあだ名がついてしまったそうです。
ドイツ人、むっちゃ辛辣。


ブロンドの騎士とか黒い悪魔とか言われたドイツ空軍のエース、
エーリッヒ・ハルトマンは、このF-104の導入に最後まで反対していたということです。

もしかしたら、天候の決して温暖ではないソ連で開発されたミグなら
ドイツで運用しても問題は無かったのかもしれませんが。










シリコンバレーの鳥とジャックラビット

2013-08-02 | アメリカ

                                    

お断りしておきますが、このログに使用されている写真はすべて去年のアメリカ滞在で
撮った写真ばかりです。
エントリもずいぶん前に制作してあったのですが、いろいろと優先する話題にまぎれて
一年近く持ち越してしまいました。
いくらなんでもこの夏ここにいるときにアップしなくてはもうする機会が無いので今日挙げます。

それでは温めすぎたネタで申し訳ありませんが、どうぞ。
因みに使用カメラはソニーのRX100です。


冒頭写真は、月に雁、梅に鶯というくらい絶妙の組み合わせ、
「アルカトラズにカモメ」。



ゴールデンゲートブリッジ下にある「クリッシーフィールド」も、
ローカルバードがたくさん生息しています。
これはカモメの幼鳥だと思います。
なぜか眉毛があってきりりとしているような表情をしていますが、



同じ鳥。百面相のように顔が変わる鳥。



いつもこのカフェの電燈のところで模様になっている
Brewer's Blackbird(テリムクドリモドキ)
鳥類学者のBrewerさんの名前を付けたアメリカ名はともかく、
日本ではモドキ呼ばわりされているかわいそうな鳥です。

 

この辺ではスズメ並みによく見られます。
少し羽がブルーが買っているのが特徴。



Snowy Egret(ユキコサギ)

サギはサギでも、小型のサギ。



浅瀬や岸をこうやって歩いて、餌を探します。

先日ペリカンの稿でアップした池にもユキコサギがいました。





ここには、ユキコサギより大型の
Great Egret(ダイサギ)もいました。
しかし、この日本名・・・・「オオサギ」で何が悪かったのか。





非常に内またで歩くことが判明。
ダイサギは婚姻色を持つ鳥で、その時には
くちばしは黒、目は赤くなり、目の周りは青くなるそうです。



横顔を大アップしてみました。
目の周りが青くなりかけで、くちばしが少し黒い。
もしかしたら婚姻色が出かかっていますか?
ボタンのような目の付き方が面白いですね。
目は頭の側面についているのではなく、えぐれたくぼみの部分にあって、
くちばしの先、つまり正面もちゃんと見える仕様です。

このショアラインパークとは別の地域に、
ここもやはり保護区であるのですが、
「パロアルト・ダックポンド」という池があります。



こういう、うすら寂しい雰囲気の場所なのですが、
文字通りアヒルたちにとっては天国のような場所。
ちゃんと餌ももらえるので、たくさんの鳥が住み着いています。



誰が見てもガチョウです。
ここで「サンフランシスコとベイエリアの鳥」というガイドブックを買ったのですが、
それにはただのガチョウは載っていませんでした。
「ローカルバード」ではないということなんでしょうか。



その代わり載っていたのがこのSnow Goose
どうやらこれも幼鳥のようです。
後ろから忍び寄るのは海軍リス戦隊のリス。



地面に見える白い粒々が撒かれている餌。
ワイルド・グース(カナダガン)と仲良く餌を食べるリス。
頭にめり込んでいるのも餌のようです。


鳥のえさを当然のように食べるリスたち。
前にも書きましたが、このあたりのリスの大きさは通常の1,3倍。
どいつもこいつもまるまると太っています。



こちらがスノウ・グースの成鳥。
鳥の羽が散りまくっていますが、実はこの池、中央に噴水を作って
水を停滞させないようにしているにもかかわらず、猛烈に鳥臭かったです。
そのおかげであまり周りに人も来ないし、鳥にとっても絶好の住処となっているようでした。



何しろこんなかんじですから。



対岸にはパロアルト空港があります。
空港と言っても、ここは自家用機専用。
グーグルアースで見ると、ここに駐機しているのはおもちゃのような小型機のみ。
シリコンバレーのIT長者が、ここに飛行機を持っていたりするのでしょう。

スティーブ・ジョブズの飛行機もかつてここから離陸したに違いありません。



マガモ

知らなかったのですが、首が緑色のマガモはオスで、これはメス。びっくり。
しかし、この羽のワンポイント。
神様って、実に粋なことをしますよね。



これがマガモのメスなのですが、このマガモ、



追い掛け回されていました。モテ期?



このおっさん臭い鳥の名前はわかりませんでした。
Dark-eyed junco(黒い目のジュンコ)ではないかと思われます。

おっさんじゃなくて日本女性でしたか。



これも顔が見えずに特定できず。



さて、先日のショアラインパークには、ゴルフ場があります。
散歩していて紛れ込んでしまったのですが、これがコース。
ワイルドグースがいたるところで憩っています。
しかしここはゴルフコースですから、ゴルファーたちは遠慮なく、
ここに向かってガンガン球を打ち込みます。
鳥たちも、自分の横にボールが落ちても全く無関心。

「これ、絶対時々当たってるよね」

2オンで「鳥のように」グリーンに落ちた球をして
「Like a birdie!」
と一緒に回っていた人がお世辞を言ったのがゴルフ用語の
「バーディ」の始まり。
接待しながら一緒に回った人にお世辞を言ったりするのがゴルフの本領っちゃ本領ですから、
実にこれはありがちな話と思われます。
「イーグル」「アルバトロス」もその流れで生まれました。

ここでは鳥にボールが当たってやり直すことを「グース」と言います。(←嘘)

さて、このゴルフ場を人目を忍んで歩いていると(間違って入ってしまったので)
妙な動物のシルエットが。



ウサギはウサギなんだけど、妙に足が長い。
はっ、これが噂のジャックラビット



ゴルフボールの落ちているコースを駆けまわっていました。

ピータ・ーラビットではありません。「ジャック」です。
オグロジャックラビット、というのが日本での正式名。
俊足で、天敵の猛禽類からは走って逃げますが、
基本的には夜行性なのだとか。
どうしてこの時、真昼間にもかかわらず三匹がうろうろしていたのかはわかりません。

どちらかというとウサギというよりカンガルーのような雰囲気です。
後ろ足が長いですね。



もっと近くで撮りたかったのですが、カメラを向けていると警戒して、
どんどん遠くに行ってしまいました。
しかしこうして写真に撮ると実に妙な動きをする動物です。

ちなみに肉は大変美味しいそうです。
したがって、ハンターに狩られてしまうのだとか。

クジラを食べる日本人を外国人が見るように言うと、
なんだってわざわざこんなもの食べるかね、って話ですが、高級フランス料理店では
「ジャックラビットのシチュー煮込みフランボワーズソース添えでございます」
なんて感じでテーブルに乗せられてしまうんでしょうねえ。

ちなみに先ほどのピーターラビットですが、お父さんの肖像が見つかりました。



お父さん。(一番右)



合掌。



ところで、先ほどのダックポンド。
この日の天気もあってほとんどほかに人がおらず、
森閑としていたのですが、実は、こんな光景を見ました。



この二人が、決してアツアツとか新婚ほやほやとかでないのは、
二人の間に空いたきっちりひとり分のスペースが物語ります。
長年連れ添った夫婦のように見えるのに、ほとんど言葉も交わさず、
寒々としたこの風景の中でこの男女は何をしているのでしょう。