いつも博物館や展示には行って帰って来て、ここで書くために調べ、
「はえー」となることが多いのですが、今回は、この博物館が、
2002年に火災を起こし、一旦閉鎖していたということを知りました。
当時アメリカ、特にボストンは同時多発テロショックのさなかにあり、
そんな時にどういう理由にせよアメリカ独立の象徴的な出来事であった
ティーパーティ博物館が焼けてしまったというのは何か不思議な気がしますが、
ともかくもそのため10年くらいは博物館は休館していたのだそうです。
道理で毎年ボストンに行っているのに気がつかなかったはずです。
さて、この博物館は「ロールプレイ」が売り物になっていて、入場者に配役が課され、
サミュエル・アダムスの演説の時などにアドリブで、
イギリスの課税は許せない!お茶など飲まなくていいから送り返せ!
と朗々と演説をする、いわゆる「自由の息子」役の人が出現することもあるそうです。
わたしの参加した組は、キャストのお姉さんが前もって女の子にカードを渡し、
それを読むように仕込んでいました。
船に乗り込むと、そこだけ1773年な雰囲気にしているおじさんが。
ちなみに、この人たちを「キャスト」と呼び、常にHPで募集しています。
某ディズニー関係のランドでの「キャスト」という呼び方には違和感があったのですが、
ここのスタッフをそう呼ぶのは当然です。
キャスティングされてるわけですからね。
募集ページによると、演劇の経験は必要ないということではありますが、
みなさんの熱演ぶりを見ていると、劇団員のアルバイトではないかという気がしました。
「全員乗艦できるように、皆さんもっとこちらに詰めてくださーい」
「さて・・・」
というわけで、どうやら「自由の息子」の一人であるらしい彼の演説が始まります。
「自由貿易で入ってくるイギリスの輸入品が我々の生活を苦しめる!
このお茶を送り返せないのなら、今ここで茶を海に捨ててやろう!」
「ハザー!」
「自由か、さもなくば死を!」
「ハザー!」
えー・・・あの・・・・えーと?
茶箱を放り込む役目は、大抵子供たちなのですが、
大人の人垣の向こうでいつのまにかイベントは終わっていました。
しょぼい。
これではボストン湾はティーポットにはならないと思う。
ちなみに、この後案内された室内の展示には、流れ着いて保護された
本物の茶箱を、ガラスのチューブの中で全方位が見られるように、
くるくると回転させているというものがありました。
実際の茶箱は本当にこの大きさで、ほぼ四角。
表には花をあしらった模様が描かれたものでした。
あの大きさなら、放り込むのになんの苦労もいらなかったと思います。
茶箱を放り込んでしまうとイベントは終わってしまうので、皆は船内を見学します。
ルーシーさんが持っているのは海軍精神注入棒・・ではなく、
「ビレイピン」といってロープを八の字に巻き留めるものです。
穴から抜いて皆に見せてくれています。
この後は、甲板の下に皆が降りて中を見学。
樽と東インド会社のマークが入った茶箱が隅に積んであります。
船首の尖った部分に、ハの字状にベッドが4人分作り付けられています。
下の段では船員がお休み中。
左の階段から降りて、船内を一周すると右の階段から上がる一方通行。
しかし、こんな船でイギリスから苦労して大西洋を渡ってきたのに、
積み荷を捨てられてしまったイギリス人の気持ちも少しは考えてみよう。
「立ち止まらないで、自撮りや集団での写真撮影はご遠慮ください」
と言われて皆が一列になって進んでいくと、船尾部分に船長室がありました。
アメリカ人たちがこの「エレノア」号に忍び込み、茶箱を捨てているというのに、
イギリス人の船長は悠長に手紙を書いています。
「えー、アメリカ人が茶箱を海に捨ててしまいました、と・・・」
船尾部分は明るくスペースにも少し余裕があります。
船の上の階級差が大きく船長の権限が絶対だったのは、大航海時代からのしきたりです。
船長は水も比較的潤沢に使えたのでしょうか。
水差しと洗面用のボウルがあります。
小さい船室なのですぐに上に上がってきてしまいました。
しかし、しばらくの間下船せずに船上で過ごすことになります。
船首側にはアーチに鐘が。
帆船では時を知るために鐘は大事なツールでした。
30分毎に鳴らされる鐘の数によって時間を知るシステムですが、
1回打つ1点鐘から8回打つ8点鐘まであり、4時間で1サイクル。
例えば、正午が8点鐘になっているので、午後零時半は1点鐘に戻り、
以後30分毎に1打ずつ加えて行き、 午後4時はもう一度8点鐘になります。
ただし、午後6時の4点鐘、午後6時半の5点鐘の時には1点鐘を打つのが慣習です。
事故が起こりやすい「魔の刻」だから変化をつける、という説があります。
マストを見上げてみました。
現物通りに再現しているものとみられますが、そもそも博物館がオープンしたのは
1973年ということなので、この船そのものには歴史的価値はありません。
火事で失われたのは100年前からの建物で(東部では珍しいものではありませんが)
その原因というのは、コングレス(議会の意)ストリート沿いの橋の上の
工事現場で鋼梁を切断していた火花が飛んだからだったとか。
ボストンのローカルニュースに載った写真ですが、これによると
火災の起こったのは真昼間。
向かいで釣りをしていた人が
「あっという間に広がった。内部は地獄のようだった」
とか証言しているようですが、人的被害はなかったのでしょうか。
甲板には鶏を飼っておくケージがありました。
昔は冷蔵庫がないので、生きた鶏を乗せて海上で捌くしかありません。
冷蔵庫がなかった時代、帝国海軍の軍艦に牛を積んでいる絵が残されていますが、
鶏はともかく、牛をするのは技術も要るので誰もやりたがらなかったとか。
操舵は甲板で行ったんですね。
舵輪が回す軸に巻きつけたロープが舵に繋がっているということのようです。
鶏小屋の横にはなんとキッチンがありました。
時化の日には料理できなくなるんじゃないですかねこれ。
と言いたいところですが、ここは「マンガー」(Manger)といい、
船首部の水除け仕切りだそうでです。
イギリスからアメリカまで、何日でやってくることができたのかはわかりませんが、
野菜や果物などの生鮮食料品は一週間で底をついたはずです。
彼らの主食は「コンスティチューション」の時にもお話ししたように、
基本、塩漬けの肉と硬いビスケット(ネイビービスケット)でした。
ティーパーティ事件のあった1700年代後期は、食料事情が改善されて
砂糖や干しぶどう、チョコレートなどやコーヒー、紅茶など、
嗜好品が登場したものの、軍艦では士官しかありつくことができませんでした。
余談ですが、グルメの国でありイギリスと仲の悪かったフランス海軍では、
16世紀ごろでも、船上にしつらえたレンガの竈で温かい食事とパンが用意され、
腐りかけた肉や堅パンとは無縁であったといわれています。
さらに遠洋航海の場合、サラダ用の野菜をプランターで作っており、
将校の食事に関しては、イングランドよりはるかに条件は良かったとか。
この「エレノア」号は軍の船ではありませんが、商船なので幹部は
1日当たり
ビスケット 1-1/4ポンドまたは柔らかいパン1-1/2ポンド
酒 1/8パイント
砂糖 2オンス
チョコレート 1オンス
紅茶 1/4オンス
1週当たリ
オートミール 3オンス
からし 1/2オンス
こしょう 1/4オンス
酢 1/4パイント
1日当たり(それが入手出来るかぎり)
生肉 1ポンド
野菜 1/2ポンド
こんな感じの食事をしていたはずです。
壁には火を起こすためのフイゴがかかっていました。
木製の船で火を焚くというのはなんだか他人事ながら不安な気がします。
参加者は甲板でそれぞれ記念撮影に興じていました。
ルーシーさんと一緒に写真を撮りたがる人は多く、大人気です。
ちなみに彼女の瞳は淡いブルーだったのですが、そのため
同じ色であるこのドレスが大変よく似合っていました。
サイズもぴったりだし、もしかしたら彼女のために作ったのかもしれません。
同時期、フランスの貴族たちは巨大なパニエや奇抜なヘアスタイルを競い、
不満を持った民衆に革命を起こされてしまうわけですが(笑)
アメリカではそもそも貴族階級というのが存在せず、皆が
フランスの「市民」のような洋服を着ていたと思われます。
男性も、要職にある人間はバッハのようなカツラをつけていた頃で、
これはアメリカでも同じでした。
この男性は観光客の質問を受け付けていたのか、
ずっと周りに人が集まっていましたが、彼がこの時、
ずっとティーパーティー事件の時の「自由の息子」
として話をしていたのか、素に戻っていたのか、
それはわたしには最後までわかりませんでした。
多分、近くで話を聞いていたとしてもわからなかったと思われます(笑)
続く。