一昨日はエイプリルフールでした。
エイプリルフールは嘘を付いても許される日ですが、その由来は何なのでしょうか?
調べてみるとエイプリルフールの由来にはフランス説やインド説、イギリス説など、諸説ありますが、その内のフランス説をご紹介します。
「エイプリルフールのフランス説」
1564年、フランスの国王シャルル9世が「ルシヨンの勅令」を発令しました。
これは暦の改変で、当時は3月25日からが新年とされ、4月1日までお祝いをしていたのですが、発令以降は1月1日が新年になりました。
これに反発した国民が、4月1日を「嘘の新年」とし、騒動を起こしたところ、当然のことながら国王の怒りに触れ、多くの処罰者が出たそうです。
その日の悲劇を忘れないようにと、エイプリルフールが始まったということです。
「まんまと騙された」
私がエイプリルフールで「まんまと騙された」のは、2008年にイギリスのBBCが放送した「空飛ぶペンギン」でした。
この時、BBCはペンギンの一群が南極大陸を飛び立ち、南米のホーン岬まで飛ぶシーンを放送したのです。
羽がないペンギンが空を飛ぶことなど考えられませんでしたが、BBCは見事に偽の映像を作り上げていました。
BBCと言えばイギリスの公共放送で、日本ではNHKのようなものです。
そのような放送局が放送すれば、映像を観た人は信じてしまいます。
私もそのひとりで、「まんま」と騙されたという訳です。
「まんまの由来」
さて、この「まんまと騙された」の「まんま」はどのような由来で生まれた言葉なのでしょうか?
「まんま」とは、「上手にとか、ものの見事」にという意味ですが、この言葉の語源をたどると味覚の表現にたどりつきます。
この言葉は、実は「味が良いこと」をいう『うまい』に由来しいるようです。
即ち、「うまい」と同じ意味で「うまうまと」という言葉がありますが、これが「うまうま」から「んまんま」になり、そして、「まんま」に変化したということです。
しかし、なぜ本来「味が良い」という意味の言葉が「ものの見事に」という意味でも使われるようになったのでしょうか?
「うまい」や「うまうま」の「うま」は熟した果実の味をいう「熟(うむ)」が由来で、そこから味が良いことをいうようになりました。
味が良いと感じると、心が満たされます。
そして、味覚だけでなく他の出来事でも心が満たされるときに使われるようになり、その意味を広げていったようです。
何かが成功したり、巧みなやり方で思い通りに事が運んだりすると心が満たされますが、そこから、「ものの見事」の意味も加わったという事です。
エイプリルフールに限らず、現在ではAIによる偽画像が出回っています。
私たちには何が正確な情報なのか慎重に見極めることが求められています。
偽画像に「まんま」と引っかからないように気を付けたいですね。
今日から新しい年度が始まります。
新しい年度を迎える4月は心が弾む月ですが、でも何故4月1日が年度の始まりなのでしょうか?
「会計年度は何故4月始まり?」
調べてみると、私たちの生活に密接に関係ある「年度」は、明治時代の会計年度が元になっているようです。
年度は当初から4月始まりだったわけではありません。
・明治政府により会計年度が初めて制度化された明治2年(1869年)は10月始まりでした。
・続いて、西暦を採用した明治6年(1873年)からは1月始まりになり、暦年と年度の始まりが同じでした。
・明治8年(1875年)からは、地租の納期にあわせるという目的で7月始まりになりました。
・次に会計年度を変更したのは、明治17年(1884年)のことです。
その頃の日本は、国権強化策から軍事費が激増し、収支の悪化が顕著になっていました。
当時の大蔵卿である松方正義は、任期中の赤字を削減するために、次年度の予算の一部を今年度の収入に繰り上げる施策を実施したのです。
それに併せて予算繰り上げによるやりくりの破綻を防ぐため、松方は明治19年度の会計年度のスタートを7月始まりから4月始まりに法改正しました。
・この改正により、明治18年度は7月から翌年3月までの9ヶ月に短縮され、予算の辻褄をあわせると同時に赤字も削減されました。
こうして会計年度は4月始まりになりました。
この会計年度にあわせる形で学校などの新年度も4月開始になり、現在まで4月始まりの年度が続いているという事です。
昨日から23日までの1週間は春のお彼岸になります。
「彼岸とは」
お彼岸は仏教用語です。仏教では、私たちがいる煩悩に満ちた現世を「此岸(しがん)」と言い、悟りの境地であるあの世の世界を「彼岸(ひがん)」と呼びます。
此岸と彼岸の間には川が流れているとされており、この川がいわゆる「三途の川(さんずのかわ)」です。
仏教においては、お彼岸はこの世とあの世、つまり此岸と彼岸がもっとも近くなる期間とされており、お彼岸にご先祖様をしのび、供養することで、極楽浄土へ近づけると信じられていました。
お彼岸に墓参りや法要を行うのは、その風習の名残です。
「彼岸の供え物」
お彼岸のお供え物の定番といえば、お餅をあんこで包んだぼた餅やおはぎだと思いますが、何故ぼた餅なのでしょうか?
一説には、古来から赤という色には災難が降りかからないようにする魔除けの効果があるとされていたことによります。
赤い小豆は五穀豊穣を象徴する米と組み合わせて祭事に用いられてきました。
ぼた餅やおはぎ以外にも、小豆と米の組み合わせによる食べ物として赤飯が挙げられます。
邪気を払い、先祖の霊を慰めるために、お彼岸におはぎやぼた餅が捧げられてきました。
また、農作業が始まる春の彼岸にぼたもちを作り、収穫の時期に当たる秋の彼岸におはぎを作ることで、神様に感謝していたとも言われています。
「ぼた餅・おはぎの由来」
・ぼた餅
春のお彼岸にお供えするのはぼた餅です。
その由来は、春の花である牡丹からです。
・おはぎ
一方、秋のお彼岸にお供えするのはおはぎで、こちらも秋の七草の一つ、萩の花が由来となっています。
このようにお彼岸の季節に美しく咲く花になぞらえたものをお供えして、ご先祖様を供養しているのです。
お彼岸には、彼岸の入りの前までに仏壇仏具をきれいにし、お花や供物を供えます。
そして、彼岸の中日には彼岸団子(ぼた餅など)を備え線香をたきます。
また、出来るだけ僧侶を招き、読経をしてもらいますが、この行事は家族やごく親しい人で行い、それ以外の人は招待する必要はありません。
我が家では、まだ仏様がいませんので、実家の方角を向いて、ぼた餅を頂きます。
春になるとと、遠くの風景がぼんやりと見えることがあります。
この現象は春がすみと呼ばれますが、原因は花粉やほこり、煙や黄砂などの空気中に浮遊する微粒子が多くなったり、気温も高くなるので大気中の水蒸気の量も多くなって霞んで見える現象です。
このような現象を「霞」とか「朧(おぼろ)」と言いますが、この二つの表現の違いをご存じでしょうか?
「霞と朧の違い」
調べてみると、霞(かすみ)も朧(おぼろ)も、気象用語としては特に定義づけはなく、その違いは、現れる時間帯によるのだそうです。
即ち、
・霞 は 日中に現れるものを言い、
・朧は夜間に現れるものを言います。
季語は共に「春」です。
そこで、辞書にはどのように書かれているのか広辞苑を開いてみると、
「霞」① 微細な水滴が空中に浮遊するため、空がぼんやりして遠方がはっきり見えない現象。
古くは春、秋ともに霞とも霧とも言ったが、後世は、春のを霞、秋のを霧という。
②朝または夕、微細な水滴が日光を受けて、空の赤く見えること。朝焼け。夕焼け。
「朧」①はっきりしないさま。ほのかな様。薄く曇るさま。ぼんやり。ほんのり。
と説明しています。
辞書には時間については書かれていませんが、歳時記によると、薄い雲のように見える現象について、
・昼間は「かすみ」と言い、
・夜間を「おぼろ」
と呼んで区別しています。
結局、霞と朧の違いは現れる時間帯によって区別されているという事でした。
卒業式のシーズンとなりました。
嘗て、卒業式には意中の男子に告白して学生服の第2ボタンをもらったり、好きだった女子に贈ったりする習慣がありました。
この習慣は1980年代に大きなブームになりましたが、今でも続いているのでしょうか?
「第2ボタンを贈るルーツ」
第2ボタンを贈るのは次のような逸話からのようです。
太平洋戦争末期に大阪のある学生が学徒出陣で出征するときのことです。
その学生は既に戦地で戦っていた兄の妻に憧れを抱いていました。
秘めた思いを抱えたまま、やがて彼の元にも召集令状が届きます。
そして出征の日、せめて自分のことを忘れないでいてほしいとの願いから、最後に手渡したのが第2ボタンでした。
戦時中のあの頃は、金属が貴重であり、学生の自分が身につけているもので一番大事なものと言えば金属のボタンだったのでしょう。
この逸話が第2ボタンのルーツと言われています。
「何故第2ボタンなのか?」
ボタンの中でも第2ボタンは心臓に近い位置にあることから、自分の気持ちに近いという事もあったのではないかと言われています。
学徒出陣に際して、戦死してもう2度と逢えなくなるかも知れないという旅立ちの際、1番大切な人に想いを伝え、形見として渡したのが着ている服の第2ボタンだったのです。
「卒業式に第2ボタンを渡す習慣」
では卒業式の日に、女性が男性から第2ボタンを貰うようになったのはいつ頃からなのでしょうか?
これは1980年代の歌謡曲が影響しているようです。
・「春なのに」
1983年1月に発売された柏原芳恵の「春なのに」があり、この歌詞の中に、
♪春なのに お別れですか
春なのに 涙がこぼれます
春なのに 春なのに
ため息また一つ
記念にください ボタンを一つ
青い空に捨てます
と、ボタンが歌われており、更に1985年2月に発売されてた斉藤由貴の「卒業」では
・「卒業」
♪制服の 胸のボタンを
下級生たち にねだられ
頭を掻きながら 逃げるのね
本当は 嬉しいくせして
と、この曲にも胸のボタンが歌われています。
これらのヒット曲が、第2ボタンのことを幅広い人に認知させ、女性が第2ボタンをもらうことを定着させたのではないかという事です。
「最近の卒業式では」
時代と共に学校の制服は詰襟からブレザーに主流が変ってきており、これに伴って第2ボタンのやり取りが減りつつあるということです。
ただ、卒業式に大切な人に大切なものを贈るという文化は今も続いており、第2ボタンに代わって花束を贈っているようです。
これは5年ほど前に卒業式に花を贈る動画がSNSで話題になり、それ以来、大阪のフラワーショップでは注文が殺到するようになったということです。
花束は卒業式を終えた高校生の男性が母親にプレゼントしたり、彼女にプレゼントしているそうです。
今でも一部の学生の間では、ボタンに代わって花束を贈るという習慣が続いているようですね。
微笑ましいですね。
立春大吉
昨日は立春でした。
立春の日に『立春大吉』と書いた紙を玄関に貼ると厄除けのおまじないになるとの風習があります。
この風習は、元々は禅寺で新しい年の始まりの日に、1年の厄除けの願いを込めて、「立春大吉」の御札を貼ったことから、おまじないとして広まったといわれています。
「立春大吉の由来」
立春大吉という文字を縦に書いて中央に線を引くと左右対称の文字であることに気づくと思います。
この「立春大吉」という四字を和紙に墨で書き、玄関などに貼っておくと、万が一、悪い鬼が家に入ってきても、外から見えていた「立春大吉」と同じ文字が読めて、「まだ家の外だったのか」と勘違いして、外に出て行ってしまうという言い伝えから、「立春大吉」の文字が厄除けとして使われるようになったと言われています。
鬼を退治するのではなく、勘違いさせて出て行ってもらうという面白い風習です。
立春大吉のお札は禅寺から入手できますが、自分で用意することも可能です。
半紙や和紙に、墨で「立春大吉」と書き、立春の2月4日から2月19日までに玄関や子どもの勉強部屋、大切な部屋の入り口などへ、のりや両面テープを使って貼りつけます。
外へ向けて、目より高い位置に貼るとよいようです。
「玄関に貼る場合」
立春大吉のお札は外から見たときに玄関に向かって右側もしくは玄関の真ん中に、目線から上の位置に貼るのがよいとされています。
玄関の内側に貼る時は、内側から玄関を見た場合は左側に貼ります。
真ん中に貼れる場合は真ん中でもOKです。
「貼る期間」
毎年立春の日から雨水までに貼ります。
今年は2月4日から2月19日の雨水の日までに貼るとよいとされています。
貼る期間は次の年の立春にその年のお札に貼り替えるまでずっと貼っておきます。
なお、立春以外に貼ってもよいのだそうです。
例えば新しい家に引っ越す場合や、新しいビジネスを開始する場合には立春の時期以外でも貼って良いとされています。
「鏡開き」
昨日は鏡開きでした。
鏡開きとは、1月11日(地域によって異なる)に年末から飾っていた正月の鏡餅を下ろし、神様が宿った鏡餅を食べることで、その年を無病息災で過ごせる力を分けていただくとされている行事です。
食べ方に決まりはありませんが、昔ながらの鏡開きでは、お雑煮やお汁粉など、餅を煮て食べることが多いようです。
鏡開きは正月に終わりを告げる正月行事のひとつです。
昔の人は鏡開きを行うことで平常モードに切り替えていきました。
この鏡開きの日は地域によって違うようです。
関東など多くの地域は1月11日のようですが、関西の鏡開きは1月15日もしくは1月20日に行われるのが一般的です。
その背景は、関西では正月飾りを飾っておく松の内の期間が1月15日になっているところが多く、松の内は神様がいらっしゃる時期でもあることから、このタイミングで鏡餅を片付けるのは神様に対して失礼な行為となることからです。
「大阪の雑煮」
ところでお正月にはお雑煮を食べられたことと思います。
私は半世紀以上大阪に住んでいるものの浪速っ子ではないので、雑煮の食べ方は故郷の岡山で一般的に食べられている食べ方で頂いていますが、大阪には伝統的なお雑煮の食べ方があるようです。
調べてみると、大阪のお雑煮は、元旦と二日目以降で変わるようです。
先ず、元旦のお雑煮は京風の白みそ仕立てです。
そして二日目以降は薄口しょうゆのすまし仕立てとなります。
元旦と二日目以降で異なる理由は、「飽きない(商い)ように」と、「商い」に掛けているからだと言われています。
大阪らしい洒落た言葉遊びの風習ですね。
大阪らしいと言えば、お雑煮に入れる具材も然りです。
お雑煮には、丸餅の他、子芋(里芋)、雑煮大根、金時人参などがありますが、いずれも丸く切って入れます。
これは「物事を丸く収める」とか「家族円満」に掛けているようです。
そして、飽きないための二日目以降のお雑煮は具材は実にシンプルに水菜だけという事です。
水菜は京都原産の野菜で京野菜です。
このような事から関西地域では京野菜の水菜が入れられているのかも知れません。
私の故郷、岡山県西部の笠岡ではホウレン草を入れていたので、今でもホウレン草でいただいています。
なお、雑煮大根って聞いたことがないかも知れませんが、これは太くなる前の細い大根のことです。
関西ではこのような細い大根が正月の時期は売り出されるので、スーパーにはたくさん並びます。
我の畑でも、毎年、一般の大根より少し遅れて種を蒔き、正月に合わせるように数本植えています。
正月行事の「鏡開き」にしても、「お雑煮」にしても、地域によって異なるものですね。
今年の干支は「辰」ですが、十二支の中では「辰」だけが空想の動物となっています。
空想の動物「辰」はどのようにして生まれたのでしょか?
「干支の始まり」
先ず、十二支の始まりは、紀元前1600年頃、中国最古の王朝である殷(いん)の時代とされています。
古代中国では、惑星のうちで、もっとも尊い星と考えられていた木星が、約12年で天球を一周することから、その位置を示すために天球を12の区画に分けてそれぞれに名前を付けたものが十二支の名前の由来といわれています。
元来「子」や「丑」などの字に「ねずみ」や「うし」といった意味はありませんが、民衆にも十二支を広めたいという思いから、動物の名前を当てはめるようになったそうです。
日本に十二支が伝わったのは6世紀半ばで、江戸時代に入ると民衆の間で年回りや時刻を動物で表現する習慣が浸透しました。
「三停九似説」
中国で龍のイメージができあがったのは後漢の王符という学者による「九似説」と宋の羅願曾の「三停説」を合わせた「三停九似説」に基づいているといわれています。
「三停」
「三停」とは龍のプロポーションについてを示しています。
首から腕の付け根までを上停、腕の付け根から腰までを中停、腰から尾までを下停と言い、この三つの部分の長さがそれぞれ等しいことを意味しており、これは、天上、海中、地底の三界に通じるとされています。
「九似」
「九似」とは、龍の九つの部位がそれぞれ他の動物に似ていることを言います。
・角は鹿、
・耳は牛
・頭は駝(らくだ)
・目は鬼
・鱗は鯉
・爪は鷹、
・掌(たなごころ=てのひら)は虎、
・腹は蜃(蛟:みずち)=(蛇に似て4脚を持ち、毒気を吐いて人を害するという)
・項(うなじ)は蛇
に似ていると記されており、龍を描く時にはこの「三停九似説」に則り描かれるという事です。
・龍の九似です。
「龍のかたちの特徴」
龍のかたちには下記の特徴があると言われています。
・背中に81枚の鱗があって、
・喉の下に1枚だけ逆さにはえている鱗がある。(逆鱗(げきりん)
・口の横には長い髭があり、
・声は銅盤(銅製のたらい)を打った時の音に似ている
・顎の下に輝く珠がある
・手には宝珠を持っているとされています。
三停九似説や龍の特徴は、人間の創造力からできたものですが、龍はあらゆる動物の祖であり、あらゆる動物の頂点に君臨するものとして最高の瑞祥と崇められているという事です。
「辰と龍の関係」
なお「辰」には「龍」という意味はありません。
「辰」は十二支の一つで「草木が成長して、形が整ってくること」を表す漢字で、「草木の整う時期」「草木が或る程度茂り、形になってくる時期」と言う事です。
十二支に動物が充てられた時に五番目の項目として「辰」に「龍」が充てはまめられ、それ以来、元々関係のない「辰」と「龍」は同じと考えられてきたという事です。
今日は辰年が明けて早や6日目ですが、皆様はお正月三が日に初詣に行かれたことと思います。
神社や寺院に参拝する時には基本的な参拝作法がありますが、私は今まで我流で行ってきました。
そこで今日は基本的な作法について調べてみました。
「初詣の起源」
先ず、初詣の起源は平安時代だそうです。
当時、大晦日から元旦にかけて、家長が徹夜で氏神神社にこもる「年籠(としごも)り」という風習がありました。これが初詣の起源のようです。
やがて、これが大晦日の夜の「除夜詣」と元日の「元日詣」とに分かれ、江戸時代には、氏神様に限らずその年の縁起の良い方角にある社寺に参る「恵方詣(えほうもうで)」や、崇敬する社寺や好みの社寺に参る人が増えました。
「初詣の名称の由来」
「初詣」という言葉は、明治時代に鉄道会社がつくったものといわれています。
閑散期の正月に利用客を増やすため、鉄道会社が「○○に初詣に行こう」という宣伝を行ったのが始まりということです。
明治になって鉄道網が充実すると元日や三が日を中心に思い思いの社寺に参詣する形へ変化してきましたが、その一例が1872年に日本で初めて鉄道が開通した新橋ー横浜間の川崎停車場(現在のJR川崎駅)近くにあった川崎大師です。
当初は縁日の1月21日に賑わいましたが、縁日が休日とは限らないため元日の参詣が増え、80年代後半には元日に臨時列車が運行されるほどだったそうです。
このように、明治時代に鉄道が開通し、遠方の社寺にも行けるようになったことで、鉄道会社が鉄道に乗って正月に参拝に出かけてもらうために「初詣」と名付けたと言われています。
「基本的な参拝作法」
神社と寺院の基本的な参拝方法は以下のようです。
・「神社の作法」
①鳥居をくぐる前に軽く会釈をしてから境内に入ります。
②参道の中央は神様が通るところなので、そこを避けて歩きます。
③手水舎(ちょうずや)で手水をとり、手を洗い、口をすすいで俗界の穢(けが)れを落とし、心身を清めてから神前に進みます。
(手水の作法)
1.右手で柄杓を持って水を汲み、左手にかけます。
2.柄杓を左手に持ち替え、右手にかけます。
3.再び柄杓を右手に持ち替え、左のてのひらに水を受けて口をすすぎます。(柄杓に直接口をつけないようにします )
4.もう一度、左手に水をかけます。
5.最後に、両手で柄杓を立てて柄杓の柄に水を流します。
6.柄杓置き場に柄杓を伏せて戻します。
④軽く会釈をして賽銭箱に賽銭を入れ、鈴を鳴らしたら「二礼二拍手一礼」の作法で拝礼し、軽く会釈して退きます。
(二礼二拍手一礼の作法)
1.軽く会釈をして賽銭箱に賽銭を入れます・・・賽銭(大事なものを捧げる)を入れることによって心の靄(もや)を払うという意味があります。
2.鈴を鳴らします・・・・・・・・・・・・・・鈴の音によって参拝者の邪念を払い神様の降下を願います。
3.二礼(2回お辞儀)をします・・・・・・・・神様への敬意を表します。
4.胸の高さで二拍手します・・・・・・・・・・二度手を打つことで神様を招き、その後、掌を合わせることで神と人が一体となり、願いを込めると神の力を体得できると言われています。
5.最後に一礼して神様を送ります。
⑤帰る時も中央を避けて参道を歩き、鳥居の前で中に向かって軽くお辞儀をして鳥居を出ます。
・「寺院の作法」
①寺院の入り口にある山門で本殿に向かって合掌して一礼します。
②手水舎や御手洗で身を清めます。(作法は神社と同じ)
③鐘を撞ける場合は撞き、ろうそくや線香が用意されている場合は献灯、献香を行います。
④本堂で礼拝をします。
(礼拝手順)
1.賽銭を納め、鰐口(わにぐち=吊るされた金鼓)などの鳴らしものがあれば鳴らします。
祀られている仏様に対し、参拝を告げる合図になります。
2.姿勢を正し、静かに合掌して一礼します。
数珠を持参している場合は、数珠を手にかけて合掌。(神社とちがい拍手はしません。)
3.通常は何も唱えず静かに礼拝するだけですが、唱える言葉が掲示されている場合には唱えます。
4.最後に軽く一礼して本堂を出ます。
⑤山門から出る際に、本堂に向かって合掌して一礼します。
あけましておめでとうございます。
読者の皆様には、
お健やかに新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
小生、今日が今年のブログ始めです。
昨年同様 今年もよろしくお願い いたします。
「辰巳天井」
さて、今年は辰年です。
「十干十二支」では「甲辰(きのえたつ)」に当たります。
「甲辰」の「甲」は十干では最初の文字で、物事の始まりや成長を意味し、「辰」は十二支では唯一の空想上の生き物の竜で、「強運」や「権力隆盛」などを表すとされています。
証券業界では「昇り竜のごとく、上昇相場への期待が高まる年」と言われており、1989年12月29日につけた日経平均株価の最高値3万8915円87銭を更新して、史上初めて4万円に乗せる可能性もあるとの強気の予想もあります。
しかし、元日の午後4時10分頃には、石川県能登地方を震源とするマグネチュード7.6、震度7の大地震が起こり、石川県輪島市では輪島朝市付近で約200棟が焼失する火災が発生し、珠洲市など能登地方各地で家屋倒壊が相次ぎました。
そして、人的被害も甚だしく、3日午後3時現在、石川県内での死者は65人、重軽傷者は323人が確認されていますが、倒壊家屋などで救出できていない場所も多くあることから更に増える可能性があります。
更に不幸なことに、能登地震の翌日2日には、羽田空港で日本航空の旅客機が着陸した直後に海上保安庁の航空機と滑走路上で衝突して炎上し、海上保安庁の乗組員5人が死亡するという事故が発生しました。
登り龍で「辰巳天井」と期待された新年の幕開け早々、なんとも不幸で不安なスタートとなってしまいました。
被災者の皆様にとっては、とても辛い新年になってしまいましたが、遠隔地にいる私たちは他人事と思わず、被災者に寄り添い、できる限りの支援をして支えていきたいと思います。