それまでの話とは関係のないこと。だしぬけのこと。突飛なこと。をいう言葉に『つかぬこと』があります。
今日はその語源を調べました。
「つかぬこと」は一説には、「思いつかない事」、「考えつかない事」ということを《思いつかぬ》と言いますが、それの上の部分を略した《つかぬ》と言う言い方が江戸時代には使われていたそうで、その言葉から、会話をしていてそこまでの話と違う話題に持っていく際に《つかぬことを話しますが》と断りを入れたという説です。
もう一つは、《付く》という意味の否定形で《付かない》と言ってたものが基本になって、そこまでの話とは繋がらないのですが、というものです。
現在では、こちらの説の方が有力と言われています。
「付く」には様々な意味があって、その一つに「話に付いていく」などというように【話などを理解してあとに続く】という意味もあるそうで、「付かぬことを伺いますが…」といえば、その意味の否定で【話の流れに続いていませんが…】という枕ことばになるということだそうです。
昨日ご紹介した丹生都比売神社から高野山までは車で20分~30分で行けます。
K氏に運転していただいて連れて行って頂きましたので、今日は「高野山・奥の院」をご紹介します。
説明書によれば、高野山は、約1200年前の816年(弘仁7年)に弘法大師空海が開いた真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。
標高およそ900mの山上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があり、そこには様々なお堂や塔が立ち並び、仏像や曼荼羅が参拝者を迎えてくれます。
また、うっそうと老杉の茂る奥之院には、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで、二十万基超えるあらゆる時代の、あらゆる階層の人々のお墓が立ち並んでいます。
「一の橋」
この橋は弘法大師御廟に向かう参道入り口で最初に渡る橋なので一の橋と言われます。
正式には大渡橋(おおばし)と言われ、昔から大師様が人々をここまで送り迎えしてくれると言い伝えられ、今でもこの橋の前で合掌一礼してお参りします。
・奥の院への参道入口の「一の橋」です。
一の橋から奥の院までの約2㎞の参道両脇には樹齢数百年の杉の巨木と20万基を越すと言われる墓碑や石塔群が並んでいます。
「中の橋」
この橋は一の橋と御廟橋の中間にあるので中の橋と言われます。
正式には手水橋(ちょうずばし)と言われ、平安時代にはこの場所で身を清めていたそうです。
ここを流れる川は、昔から金の河と呼ばれ、金は死の隠語を表し、死の河、、つまり三途の川を表しているそうで、この橋を渡るとこれから先は死の世界に入ると言う意味になるそうです。
・三途の川を表していると言われる「中の橋」です。
「杉の巨木」
奥の院まで続く参道は樹齢数百年を越える杉木立が続き、数多くの歴史にゆかりのある人物の墓石や供養搭、祈念碑、慰霊碑が霊的な雰囲気をかもし出しています。
・このように三股や二股に分かれた杉の巨木がたくさんありました。
「御廟橋」
この橋を渡ると大師御廟への霊域に入ります。
この橋を渡る人は橋の前で服装を正し、礼拝し、清らかな気持ちで霊域に足を踏み入れます。
この橋は36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表していると言われ、橋板の裏には仏さまのシンボルの梵字が刻まれているそうです。
・この橋から先は霊域に入ります。
身なり、服装を整え、帽子は脱ぎ礼拝してから橋を渡るのが作法だそうで、もちろん、この先はカメラ等での撮影は一切禁止、飲食、喫煙も禁止です。
「燈籠堂」
燈籠堂は真然大徳(しんぜんだいとく)によって建立され、治安3年(1023年)に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられています。
堂内正面には千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」があります。
一つは祈親上人(きしんしょうにん)が献じた祈親燈(きしんとう)。もう一つが白河上皇が献じた白河燈です。
この祈親灯のことを、祈親上人のすすめで貧しい生活の中、自らの髪を切り売ってまで工面したお金で献灯したと伝わるお照の話に因んで、「貧女の一灯(ひんにょのいっとう)」と呼ばれ、それに合わせて白河灯の事を、「長者の万燈」呼び、貧女の一灯、長者の万燈の伝説が残るお堂です。
燈籠堂の後ろには弘法大師御廟があります。
「水向け地蔵」
多摩川の清流を背にして金仏の地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいます。
奥の院に参詣する人々は、御供所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、水を手向けて御先祖の冥福を祈ります。
今日は「世界遺産・丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)」をご紹介します。
この神社は、大阪南部の熊取から和泉山脈を超えて紀ノ川より紀伊山地に入り、標高450mの天野盆地に鎮座しており、2007年4月に『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。
先日、懇意にして頂いているご近所のK氏ご夫妻に、この神社と高野山・奥の院を案内して頂きましたので、早速ブログにアップすることにしました。
丹生都比売神社は今から1700年前の創建と伝えられており、全国に108社、摂末社を加えると180社余を数える丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)を祀る神社の総本山です。
丹生都比売大神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹御神様で、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨され、紀州・大和を巡られて農耕を広め、天野の地に鎮座されたそうです。
・丹生都比売神社の全体図です。
中央手前から「外鳥居」、「輪橋」、「中鳥居」、「楼門」、「本殿(右から第1殿、第2殿、第3殿、第4殿、若宮)」です。
「輪橋(りんきょう)」
神様が渡られるための神橋で、反り橋の形状になったのは淀君が寄進したと言われています。
また、手前の池は「鏡池」で、不老長寿になった八百比丘尼(やおびくに)という尼僧が池にその姿を映し、年老わない自分を嘆き鏡を投げ入れたと伝わっています。
「外鳥居」
両部鳥居の形式となっており、鳥居に屋根と台輪・前後の稚児脚が付属し、神仏習合の特色を表しています。
「中鳥居(なかとりい)」
大正6年に焼失したものが、平成22年10月16日に再建されました。
神仏習合の神社の鳥居形式「両部鳥居」で軒高7mを超える朱塗りの鳥居です。
・中鳥居とその奥は楼門です。
「楼門」
室町時代の1499年建立で入母屋造、檜皮葺、室町中期の三間一戸の代表的な楼門形式で、国の重要文化財に指定されています。
「本殿」
楼門の奥に第一殿から若宮まで、五殿の本殿が並んでいます。
第一殿に丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)を、祀っています。
御神徳は、諸々の禍を祓い退け、一切のものを守り育てる女神で、不老長寿、農業・養蚕の守り神です。
第二殿に高野御子大神(たかのみこのおおかみ)を、祀っています。
弘法大師を高野山に導いた、人生の幸福への導きの神です。
第三殿に大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)を、祀っています。
あらゆる食物に関する守り神、食べ物を司る神です。
第四殿に市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)を祀っています。
財運と芸能の神、七福神の弁天さまです。
そして、若宮には行勝(ぎょうしょう)上人を祀っています。
これらは室町時代に再建されたもので、屋根は檜皮葺、一間社春日造りでは国内最大級の規模を誇っています。国の重要文化財に指定されています。
・楼門から奥には入れないので、楼門を通じて撮影しました。奥に本殿が並んでいます。
(参考)
[神仏習合(しんぶつしゅうごう)]
6世紀に伝来した仏教は日本古来からの神道との融和をはかり、神道も仏教との融和をはかるようになり、その中で生まれた「神の本体は仏」という思想です。
神は人々を救うために仮に現れている姿で、仮に現れた神のことを権現(ごんげん)、本体である仏を本地といい、仮に神になって現れることを垂迹ということから「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」思想ともいいます。
鉢植のストレプトカーパスが咲いているのでご紹介します。
ストレプトカーパスはイワタバコ科ストレプトカーパス属の多年草です。
原産地はアフリカ南東部で、日本には昭和初期にイギリスから伝わったそうです。
和名はウシノシタ(牛の舌)と言い、その由来は、葉の形を牛の舌に見立てたことによるものです。
・鉢いっぱいに咲いているストレプトカーパスです。
・アップするとこのような花です。
ストレプトカーパスの名称は、ギリシア語のストレプトス(streptos:ねじれた)とカルポス(karpos:果実)の合成語で「ねじれた果実」の意味ですが、これは果実がらせん状にねじれた姿をしているところに由来するそうです。
・らせん状にねじれているストレプトカーパスの果実です(ネットより)
この花は暑さには弱く、30度以上の高温が続くと株が傷んだり、腐ってダメになることがあるそうです。
我が家では、現在は南側の直射日光が当たる場所においていますが、梅雨が明けると木陰に移す予定です。
先日、知人から慈姑(くわい)の苗を頂きました。
発泡スチロールの箱でも栽培ができるとのことだったので挑戦することにしました。
慈姑の苗は小さな慈姑から新芽が15㎝~16㎝伸びたもので、全部で5本頂きました。
初めてのことなので、栽培方法をネットで調べると次のように書かれていました。
「慈姑(くわい)の栽培方法」
1.植え付けは通常3月末から遅くても5月のはじめまでが適当な時期であること。
2.肥料が直接塊茎に接触していると発芽しにくいため、有機肥料を容器の底に入れ、容器の1/5位迄の土でかき混ぜる。
3.追肥は必要ない。
ここまでは芽出し手順
4.次に土を容器の七分目位まで入れて塊茎の芽を上にして植えます。
5.土で3cm程覆い、深水にならないよう、土から1cm位水を入れます。
6.日当たりの良い場所に置き、水を絶やさないように注意すること。
今回は苗を頂いているので4~6までの作業で植え付けました。
・これがクワイの苗です。
慈姑(くわい)はオモダカ科の水生植物で、地下にできる塊茎(かいけい)という部分を食用にします。
大きな芽の出ることから「めでたい」とされ、お正月料理や祝い事に欠かせないものとなっています。
・この発泡スチロール箱に5本を植え付けました。
慈姑の呼び名の由来は諸説あります。
1.鍬芋(くわいも)説・・・・葉の形状が鍬に似る点から、鍬の刃の形をした植物のいも、「くわいも」が転化したという説。
2.河芋(かわいも)説・・・水中に生ずる植物が生産するいも、「かわいも」が転化したという説。
3.食われ蘭(い)説・・・・・烏芋(くろぐわい)は藺草(ゐぐさ)に似ているので"食える藺"という意味でクワイになったという説。
この中で「3」の説が有力のようです。
なお、漢字の"慈姑"は種球のまわりの地下茎の先端に芋のついた状態が、 慈悲深い姑が子供に乳をあげている姿に似ていることから来ていると言われているようです。
ラベンダー
昨日、懇意にして頂いているご近所のK氏ご夫妻と高野山へ出かけました。
その帰り、車の中からラベンダーの花が咲いているのを見つけ、その話題になった時、我が家にも鉢植のラベンダーが咲いていることを思いだし、早速アップすることにしました。
ラベンダーはシソ科バンデュラ属の常緑小低木で原産地は地中海沿岸です。
草丈は60㎝~100㎝で、香りには精神を和らげる効果や体のリズムを整える作用があるポピュラーなハーブです。
ラベンダーはハーブの中で代表的なもののひとつで、栽培や利用の起源は古代ローマ時代と言われています。
日本には19世紀の初めに渡来しましたがそのときはほとんど普及しなかったそうで、昭和12年にフランスから導入した種子を日本各地で栽培したころから普及し始めたと言われています。
ラベンダーの名前はラテン語のラヴァンド(洗う)からで、古代ローマにおいて入浴剤のように広く利用されていたところに因みます。
また、衣類を洗う際、香り付けにラベンダーが用いられたという説もあるようです。
ラベンダーをアップするとこのような花です。
昨日まで10回に亘ってご紹介してきた“熊野古道を歩く”シリーズは今日が最終回となります。
今日は「中川王子」から「小広王子」までの約2㎞余りをご紹介します。
「中川(なかのがわ)王子」
中川王子は継桜王子のある野中集落を出て、高尾隧道口を過ぎてまもなく、国道の側方の山中にあり、現在は旧址に紀州藩の緑泥片岩碑があるだけです。
ここの掲げられている案内には次のように書かれています。
天仁2年(1109年)に熊野に参詣した藤原宗忠は、10月25日に「仲野川王子」に奉幣し、建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は、10月14日に「中の河」の王子に参拝しています。
承元4年(1210年)に参詣した修明門院に随行した藤原頼資(よりすけ)の日記以降は「中川」と書くようになりました。
この王子は早くから荒廃したようで、江戸時代の享保7年(1722年)の『熊野道中記』には「社なし」と書かれていて、紀州藩がその翌年、緑泥片岩(りょくでいへんがん)の碑をたてたそうです。
明治末期にはこの碑だけの中川王子神社として金毘羅神社(現、近野神社)に合祀されました。
・中川王子跡の碑と説明板です。
歌人「日比野友子」の歌碑です。
「遠つ世の 蟻の詣でをしのびゆく 熊野古道は 若葉の盛り」 夕子
日比野友子は、昭和50年度、和歌山県文化功労賞受賞者だそうです。
「小広(こびろ)王子」
案内板には次のように書かれています。
天仁2年(1109年)に熊野に参詣した藤原宗忠は、10月25日に「仲野川王子」に奉幣した後、「小平緒(こびらお)」「大平緒(おおびらお)」を経て、岩神峠にむかっています。
また、建保5年(1217年)に後鳥羽院と修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には、「大平尾(おおびらお)」「小平尾(こびらお)」と書かれています。
この王子社は、「小平緒」「小平尾」に由来すると考えられますが、江戸時代以前の記録に、王子としては登場しておらず、土地の人々が小広峠の上に祀った小祠が、いつの頃か小広王子といわれるようになったと推測されているそうです。
その跡地に紀州藩が享保8年(1723年)に緑泥片岩の碑を建て、明治末期には、この碑だけの小広王子神社として、金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。
もとの小広峠が道路建設で崩されたため、王子碑はここに移されていますが、石碑の上部が欠けて、「王子」の文字のみとなっています。
・石碑だけの小広王子跡です。
今回の予定は小広王子までです。
ここから国道に出ると、小広トンネルを抜けたところにバス停があります。
ここからバスに乗ってJR紀伊田辺駅まで約1時間、更にJRの電車で3時間前後を要して各自帰途につくことになります。
小広峠の由来については、次のように言われています。
ここ小広峠の辺は昔は昼なお暗い山道で、野獣や魔物が現れる不気味な場所だったそうですが、それらから旅人や村人を守ってくれる狼の群れがいたと言われています。
そこから「吼比狼(こびろう)峠」と呼ばれるようになり、「小広峠」となったとのことです。
・バス停で談笑するメンバーたちです。
今回歩いた中辺路コースは急坂が何か所もあるきつい古道でした。
1日目の上多和茶屋跡から大坂本王子への峠越えは、標高700mを超えるハードなコースで、メンバーの中には足がつって歩けなくなる者も出る始末でした。
現役時代のOBが集う「歴史探訪同好会」が、足掛け5年に亘って世界遺産“熊野古道”を歩いてきましたが、いよいよ残り9王子、約19㎞となり、次回(11月予定)には満願叶って熊野本宮大社にお参りできる予定です。
昨日ご紹介した「継桜王子社」の名称は「秀衡桜」に由来するそうです。
継桜は秀衡桜ともよばれ、奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡に因む次のような伝説が残っています。
「秀衡桜伝説」
藤原秀衡が熊野に詣でた際、山中で夫人が産気づき男児を出産しましたが、乳児を連れて参詣を続けるわけには行かず、熊野権現の夢のお告げを頼りに立願し、滝尻王子の裏手にある岩屋に赤子を残して参詣の旅を続けました。
しかし、野中のあたりに差し掛かったとき、やはり我が子のことが気になり、それまで使用していた桜の枝の杖を地面に突き刺し、置いてきた赤子が無事ならこの桜も育つだろう、それが叶わなければこの桜も枯れるだろうと祈り、旅を続けました。
帰路、ふたたび野中に着くと桜は育っており、喜んだ夫妻は道を急いで戻ると、赤子は山の狼たちに護られて無事に育っていました。
この子が後の和泉三朗忠衡です。(5月15日の当ブログ“乳岩”で簡記)
「秀衡桜」
秀衡桜(ひでひらざくら)は藤原秀衡が熊野詣の際に植えたと伝わるヤマザクラの4代目にあたるとされ、樹齢約150年で樹高約15m、幹回り3.2m、ありましたが、2011年11月1日朝、倒れているのが住民によって見つけられたそうです。
倒れた木は地元の森林組合が切断し、現在は切り株が残されていますが、その横に樹高8mに成長した5代目の秀衡桜が勢いよく育っています。
・切断された4代目の秀衡桜の株です。
・樹高8mに成長した5代目の秀衡桜です。
「虚子の句碑」
秀衡桜のそばに高浜虚子の次の句碑があります。
「鴬や御幸の輿もゆるめけん」
ウグイスが鳴いている。熊野詣の天皇も御輿を止めて聞き入ったであろう、その情景が浮かんでくるような句です。
「安部晴明腰かけ石」
秀衡桜から10分弱の民家の庭先に「安倍晴明(あべのせいめい)の腰掛け石」があります。
平安時代の陰陽道(おんみょうどう)の大家・安倍晴明が熊野を巡る途中でこの石に腰を下ろして休んでいるとき、上方の山が急に崩れそうになったが呪術(まじない)によって、崩壊を未然に防いだ伝えられています。
・これが安部晴明腰かけ石です。
近露王子から比曽原王子までは約2.7㎞です。
熊野古道散策マップでは所要時間は50分ほどですが、私たちロートル一行は1時間10分ほどを要して到着しました。
「比曾原(ひそはら)王子」
比曾原王子は車道わきの山の斜面、杉の木のもとに緑泥片岩の碑のみが遺されています。
比曽原王子の名は『愚記』や『熊野縁起』には見られるそうですが、早い時期に退転したようであり、元文4年(1739年)の参詣記『熊野めぐり』には、近隣の住人に尋ねてもその由来を知る者がいなかった、と述べられているそうです。
この近くには手枕松というマツの名木があったと伝えられ、江戸時代の文人の紀行文の類では、こちらの方がむしろ関心を集めていたようです。
・比曽原王子の石碑です。祠もありませんでした。
「野中伝馬所跡」
中央の白い案内板が「野中伝馬所跡」です。
この伝馬所は、紀州藩が熊野街道に設けた役所で、官吏の通行の便をはかり、公用の文書や荷物を送るのが任務でした。
中辺路では、田辺と本宮の間に、上三栖、芝、高原、近露、野中、伏拝に伝馬所が設置され、野中には11頭の馬が常備され、人足はいつでも出られるように用意されていたそうです。
・ここが野中伝馬所跡です。
「継桜王子社の鳥居」
この王子社には皇太子殿下も行啓されています。
継桜王子は野中地区の氏神でもある王子社で、社殿は石段の上にあります。
社殿に向かう石段を挟んで杉の巨木が立ち並んでいますが、これらの杉の推定樹齢は800年だそうで、熊野古道「中辺路」沿いではこれほど大きな杉は他に見ることはできないそうです。
これらの巨杉群は野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)と呼ばれています。
「野中の一方杉」
野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)は、国史跡、県指定天然記念物の名木で、継桜王子の境内を覆うかのようにそびえる樹齢800年の杉の巨木群です。
杉のすべてが熊野那智大社のある那智山の方角にだけ枝を伸ばしているといわれるご神木です。
まるで那智を遥拝しているかのように見えると言われています。
・那智山の方角にだけ枝を伸ばしているといわれるご神木の「野中の一方杉」です。
「継桜(つぎざくら)王子」
「継桜王子」は比曾原王子から1.2キロmほどのところにあります。
明治末年の神社合併で、近野に合祀されていたご神体は昭和25年に戻り、復社を果たしました。
境内の斜面に一方杉の巨木があり、県指定の天然記念物となっています。
王子名のもとになった名木の継桜が早くから社前にあり、それが秀衡桜と呼ばれて植継がれてきましたが、今は東方100mの所にありります。
・継桜王子の社殿です。
牛馬童子の次は私たちが宿泊した民宿のすぐ近くにある「近露王子」を目指しました。
「近露(ちかつゆ)」
近露という地名は、花山法皇が尋ねた言葉が由来と言われています。
即ち、皇位を追われた花山法皇は、わずかな供を連れて熊野に向い、その途中、この峠(箸折峠)までやって来たとき、ちょうど昼時で、食事をしようとしたが、箸を忘れたことに気が付きました。
そこでやむなく供の者が茅を折って箸代わりに上皇に捧げたところ、茅の茎から血のようなものがしたたり落ちたそうです。
いぶかしく思った上皇は供の者に「これは血か、露か」と尋ね、 以来、その峠を「箸折峠(はしおりとうげ)」と呼び、峠を下ったところにある里を「近露(ちかつゆ)」と呼ぶようになったと言われています。
「近露王子」
牛馬童子が祀られている箸折峠を越え、近露の盆地を南流する日置川(ひきがわ)を東に渡れば左側に王子跡の森があります。
この王子は滝尻王子と同様、熊野に参詣する者のみそぎ場であり、心身を浄める水垢離を行った後、王子に参拝することが慣わしだったそうです。
近露王子は明治の末期まで小ぎれいな社殿があって上宮と呼ばれていたそうですが、明治41年、神社合祀で取り払われ、境内にあった十数本の杉の木も伐採されたそうです。
今ある碑は、元の社地に分祠された際に建立されたものだそうです。
「乙女の寝顔」
近露王子から25分~26分歩くと「乙女の寝顔」の標識が立っていました。
その方向を見ると確かに乙女が横たわっていました。
これがその「乙女の寝顔」です。
言われてみるとそのように見えるから不思議です。
昨年11月にご紹介した、一ノ瀬王子から鮎川王子へ向かう途中にも“乙女の寝顔”の山がありましたが、今回と合わせて、熊野古道沿いには二人の乙女たちが寝顔を見せてくれています。
紀州には“眠れる森の美女”ならぬ、“眠れる美女の森”があるようです。
・乙女の寝顔です。
難所の楠山坂を過ぎた、道しるべ「31」近くの古道です。
今朝8時のスタートからここまで約2時間要しましたが、次の比曾原王子まではあと僅かです。
この日も日照りが強く、天気予報では最高気温が28度まで上がるとのことでした。
スタートからずっと上り坂だったので、故障者が出ないように、途中何回も休憩と水分補給をしながらここまでやって来ました。