安倍元総理が凶弾に倒れたり、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、それに伴う世界経済の混乱など、波乱に満ちた2022年(令和4年)も今日1日となりました。
大晦日の今夜は各ご家庭では今年を振り返りながら、年越しそばを食べらることでしょう。
でも、大晦日に何故「年越しそば」を食べるのでしょうか?
今日はその由来と意味について調べました。
「年越しそばの由来」
年越しそばの歴史は、鎌倉時代に遡ります。
当時、博多のお寺で年を越せない程貧しい人々に、「蕎麦餅」と呼ばれる蕎麦粉で作った餅を振舞いました。
すると翌年から、蕎麦餅を食べた人々の運気が上がり、「蕎麦餅を食べればいいことがある」という噂が広がったのです。
それから毎年、蕎麦餅が食べられるようになったのですが、それが現在の年越し蕎麦のルーツとなっているという事です。
「大晦日にそばを食べる理由」
江戸時代になると、年越しそばは大晦日の夜に食べる祝膳の一つだったようです。
そして、その蕎麦には以下のような意味が込められています。
1.長生きできるように
蕎麦のように、細く長く過ごせることを願って食べられます。
2.今年の不運を切り捨て、来年を幸運で迎えられるように
蕎麦は切れやすいため、今年の苦労や不運を綺麗に切り捨てて、新しい年を迎えるためと言われています。
3.金運が上がりますように
昔の金銀細工師は、細工で散らかった金や銀を集めるために、蕎麦粉を使っていたと言われています。
そのため、蕎麦で金を集めることから、金運が上がるとされました。
4.来年も無病息災でありますように
蕎麦は風雨にさらされても、日光を浴びると再び元気になります。
そのため蕎麦のように、何度も元気に蘇るようにという願いが込められています。
以上のような意味合いが込められている年越し蕎麦ですが、そのご利益は兎も角、家族全員が元気にそばを食べて、新しい年を迎えられることは何にも増して幸せなことです。
今日はその事に感謝しながら年越しそばを食べて、新年を迎えようではありませんか。
「御礼」
今年一年、拙い弊ブログにご訪問いただきありがとうございました。
3年ぶりに行動制限のない年末年始となりますが、コロナ感染者は全国的に増加傾向にあります。
コロナ感染には引き続き十分ご留意いただき、ご家族揃ってよいお年をお迎えくださいますよう、心からお祈り申し上げます。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
年の瀬が押し迫り、令和4年も今日と明日を残すのみとなりました。
年末になればベートーベンの『交響曲第9番』第4楽章で歌われる「歓喜の歌」がよく聴かれるようになります。
この歌は聴いているだけで寒さを吹き飛ばし、気持ちを明るくしてくれる名曲ですが、今年のウクライナを想うと、果たして心から歓びを表せるのでしょうか?
「日本における“第九”の初演奏」
ベートーベンの「第九」が日本で初めて公演されたのは、第1次世界大戦中の1918年(大正7年)6月1日で、徳島の捕虜収容所に収容されていたドイツ兵による演奏でした。
第1次世界大戦(1914年~1918年)では、日本はドイツと中国の青島で交戦していましたが、その戦いで降伏してきたドイツ人将兵たちの一部は徳島県鳴門市の「板東俘虜収容所」に収容されました。
・板東俘虜収容所の門です。(画像はいずれもネットから)
この収容所の所長を務めた会津出身の陸軍大佐・松江豊寿の「博愛の精神と武士の情けをもって」との方針のもとに、収容所ではスポーツ、演劇、新聞発行などの文化活動が盛んに繰り広げられました。
殊に音楽は複数のオーケストラ、吹奏楽団、合唱団、マンドリン楽団が結成される程の隆盛をみたそうです。
そして、1918年(大正7年)6月1日に演奏された『交響曲第9番』は、「トクシマ・オルケスター」と80名ほどの男性合唱、4人の男性ソロ歌手によって全曲演奏されたそうです。
これが日本における『第九』の初演奏と言われています。
・収容所内で行われたコンサートです。
「日本での年末演奏の背景」
日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、戦後まもない1940年代後半、オーケストラの収入が少なく、楽団員の人たちは年末・年始の生活の困窮状態を改善するため、当時、必ず客が入る曲目であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端と言われています。
1960年代以降は、年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在では師走になるとプロ・アマを問わず、『第九』の公演が開かれるのが当たり前の光景となっています。
「大阪城ホール1万人の第九」
今年も大阪城ホールでは12月4日に「サントリー1万人の第九」が開催されました。
しかし、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻で、当事者国では多くの生命が失われています。
ウクライナの国民のうち、子どもや民間人を含む624万人以上が国内で避難を強いられており、1500万人以上が、安全を求めて国境を越えて国外へ避難しています。
日本にも2220名の方が避難してきています。
このような状況では、いくら年末の恒例行事とは言え、素直に「歓びの歌」を歌えなかったのではないでしょうか?
一日も早く元の平和な状態に戻り、心の底から「歓びの歌」を歌える日が来ることを祈願したいと思います。
一昨日、側溝の掃除を行いました。
側溝掃除では毎年1~2匹の「セアカゴケグモ」が見つかるのですが、今年は6匹見つかりました。
そこで、今日はセアカゴケグモについてご紹介します。
「側溝清掃」
側溝清掃では溝蓋を取り外して溝に溜まっている落ち葉や草などを取り除きます。
我が家では東側と南側に側溝があります。
東側の側溝の蓋の裏には2011年以降、毎年1~2匹のセアカゴケグモが見つかっていますが、南側からは見つかったことはありませんでした。
ところが、今年は東側から1匹と、南側から5匹のセアカゴケグモが見つかったのです。
毒を持ったセアカゴケグモですが、この時期には活動しておらず、蓋を開けても全く動きません。
捕殺するには好都合であり、見つけ次第ショベルで押しつぶしました。
セアカゴケグモの発見が1~2匹なら毎年のことなので驚きませんが、5匹も棲みついていたことにびっくりしました。
・白い卵のうを抱えたセアカゴケグモです。
「セアカゴケグモ」
セアカゴケグモは、ヒメグモ科に分類される有毒の小型のクモの一種です。
このクモは元々、日本国内には棲息していなかった外来種です。
「分布状況」
セアカゴケグモは平成7年(1995年)に大阪府高石市で発見されて以降、年々生息地域が広がり、2019年8月現在、青森県と秋田県を除く45都道府県で確認されています。
特に多いのは近畿地方と東海地方だそうです。
・セアカゴケグモが確認されていないのは青森県、秋田県の2県だけです。
「大阪府熊取町のセアカゴケグモ情報」(熊取町HPより)
熊取町ではほぼ全域で「セアカゴケグモ」の生息が確認されています。
性格はおとなしく攻撃性はないものの毒をもっており、かまれると大事にいたる場合があることから、つぎの点に注意するよう呼び掛けています。
特徴
全体に黒く、背中に赤い帯状の模様があり、体長はメスの場合、約1cmで脚を広げると約3cmとなり、腹が 大きくふくれている。
生息場所
・日当たりが良く、暖かいところ。
・昆虫や小動物などのえさが豊富にあるところ。
・巣を張る適当なすき間があるところ。
排水溝の側面や蓋の裏、花壇周りのくぼみや穴、プランターなどのすき間
墓石のすき間、クーラー室外機の裏、水道メーターボックス内、放置自転車など
見つけたら
・素手でさわらない。
・市販のスプレー式殺虫剤(ゴキブリ用)をかけるか、踏みつぶす。
かまれたら
・かまれたところを水でよく洗う。
・できるだけ早く、医療機関で治療を受けてください。
(かまれたクモを殺して持参してください。種類等が特定でき適正な治療につながります。)
・保健所等にも、かまれた旨の連絡をしてください。
セアカゴケグモは全国の殆どの地域で確認されています。
上記の生息場所では特にご注意ください。
高校生が都大路をを駆け抜ける全国高等学校駅伝競走大会が昨日行われました。
午前にスタートした女子は長野東高校が初優勝を飾り、午後から行われた男子は倉敷高校が4年ぶり3度目の優勝を果たしました。
近年のレースでは、アフリカからの留学生が頑張った学校が優勝、或いは順位を上げるという結果が顕著に表れています。
男子で優勝した倉敷高校も3区で留学生のキバティ選手がトップに躍り出て、そのまま優勝へ突っ走りました。
そんな中で長野の佐久長聖高校は日本人選手だけでレースに臨み、日本人だけのこれまでの記録を2秒短縮した2時間1分57秒の新記録を出して堂々と2位に入りました。
この2校以外の各学校の選手の皆さんも頑張りました。
時折、粉雪が舞い散る寒い師走の都大路を選手たちは全力で駆け抜けていました。
観ていてとても清々しい気持ちになりました。
選手の皆さんありがとうございました。
そして、お疲れさまでした。
さて、駅伝はこの後、1月1日に第67回 全日本実業団対抗駅伝「ニューイヤー駅伝」が群馬県庁発着の7区間100.0kmで開催され、更に2日~3日には「東京箱根間往復大学駅伝競走」所謂「箱根駅伝」が行われます。
マラソン好きの小生には新年早々、楽しみな番組が続くことになります。
このように、すっかり日本の伝統競技となっている駅伝ですが、いつ頃から始まったのでしょうか?
今日はその発祥について調べました。
「駅伝」
駅伝とは、数名の選手がチームを作り、長距離をリレー形式で走ってその時間を競う陸上競技です。
大きな特徴は、区間を走り終えるごとに前の走者から受け継いだ「襷」を次の走者に託すことにあります。
このことから別名「タスキリレー」とも言われています。
駅伝という言葉の根源は古く、「日本書紀」にもその痕跡を見ることができ、律令時代に唐の制度にならい取り入れられた「伝馬」や「駅馬」の制度がそれにあたるということです。
この制度では馬を使って、中継所となる駅を行き来し、各地と情報のやり取りをしていました。
鎌倉時代から整備をされている現在の郵便制度にあたる「飛脚」の制度などはその名残りといえるようです。
・駅伝発祥の地の石碑です。
「競技としての駅伝の発祥」
日本で最初に競技として行われた駅伝は、1917年(大正6年)に行われた「東京奠都(てんと)記念東海道駅伝徒歩競走」で、京都・三条大橋から東京上野の不忍池までの516㎞を23区間に分け、3日間かけてタスキをつないで走りました。
この「駅伝競走」が駅伝の始まりとされており、この時はじめて「駅伝」と名づけられました。
なお、この大会は当初「マラソン・リレー」として告知されていましたが、開催前に「駅伝競走」に変更されました。
その理由は、マラソンを意識した名称から、東海道五十三次の「駅」を伝うという日本的な名称に変えたのです。
命名したのは神宮皇學館(現皇學館大學)の館長だった武田千代三郎氏と言われています。
日本で初めて開催されたこの駅伝競走のスタート地点になった京都・ 三条大橋の左岸東詰北側の交差点に、「駅伝発祥の地」と記された茶色の石碑が建っています。
余談ですが、この大会が評判となって、その3年後の大正9年に、今ではすっかりお馴染となっている正月恒例の大学駅伝「箱根駅伝」が始まっています。
令和4年もいよいよ押し迫ってきました。
各ご家庭では正月準備にお忙しいことと思います。
私も小さな書斎に溜めておいた文書類などを「なし崩し」に処理しようと思っていますが、未だ手つかずのままです。
世間には片付けなどをする「断捨離」という言葉がありますが、私にはなかなか馴染めない言葉です。
皆さまは如何でしょうか?
ところで、この「なし崩し」という言葉についてですが、以前、文化庁の世論調査がありました。
そこで、今日は「なし崩し」の意味について調べました。
「世論調査の結果」
文化庁の国語に関する世論調査では「借金をなし崩しにする」という慣用句について、その意味を尋ねていました。
世論調査の質問と結果は次のとおりです。
質問・・・「借金をなし崩しにする」は、下記のどちらの意味だと思うか?
(a)なかったことにする言葉 65.6%
(b)少しずつ返していくこと 19.5% (本来の意味)
(c)(a)と(b)の両方 1.3%
(d)(a)と(b)と全く別の意味 5.0%
(e)分からない 8.5%
正解は(b)の「少しずつ返していくこと」なのですが、平成29年度の国語に関する世論調査によると、65.6%の人が(a)の「なかったことにする言葉」と回答しており、多くの人が誤解していました。
「年代別の回答比率」
これを年齢別にみると、本来の意味とされる(b)の「少しずつ返していくこと」と回答した人の割合は、すべての年代で(a)の「なかったことにする」と回答した人の割合を下回っています。
その中でも20代は25.2%、70歳代以上では24.5%と、本来の意味の(b)と回答した人の割合が他の年代より高くなっています。
反対に、50代では(a)と回答した人(誤用している)の割合が他の年代より高く72.8%となっていました。
・年代別の回答割合(赤色が本来の意味)
「なし崩しの意味」
「なし崩し」の「なし」は、漢字では「済し」と書き、「済す」は借りたもの、特に借金を返す、少しずつ返済して借金を減らすという意味なのです。
そして、「崩し」は砕いて壊すこと、つまり、少しずつ返して、借金をこわす、なくすという意味に なります。
そこから転じて、物事を徐々に片づけていくことを「なし崩し」と言うようになりました。
広辞苑にも
1.借金を少しずつ返却すること。
2.物事を少しずつすましていくこと。
と説明しています。
「なし崩し」は多くの人が「なかったことにする」というネガティブな意味でとらえていますが、辞書が示すように、「なし崩し」にはそのような意味はありません。
「誤用される要因」
どうして「なかったことにする」という意味で使われるようになったのでしょうか?
その要因の一つは、「なし」の部分を「済し」ではなく「無し」と捉えて、「何もないように崩してしまう」から「なかったことにする」という事が考えられるということです。
本来、前向きの意味で使われる「なし崩し」という言葉を6割以上の人が誤解しています。
本来の意味を再確認し、誤用しないように気を付けたいですね。
畑に居ると日暮れがよくわかります。
最近は今月初め頃と比べて日暮が少し遅くなったような気がします。
今日は冬至で、一年のうちで最も昼間が短い日です。
しかし、今日が最も昼間が短い日であるならば、日暮れが遅くなった時間か、それ以上に日の出が遅くなったという事になります。
そこで「日の入り」と「日の出」の時間を調べてみました。
「12月22日の大阪の日の出、日の入り時刻」
先ず、12月22日(冬至)の大阪の日の出時刻と日の入り時刻を調べました。
12月22日の大阪の日の出時刻は・・・7時01分
日の入り時刻・・・16時51分です。
この時間は11月30日から12月2日までの一番早い日の入り時刻の16時47分から4分遅くなっています。
反対に日の出時刻は7時01分で、11月30日の日の出時刻の6時45分より16分遅くなっています。
以上のことから、12月の初めから今日までは、昼間の時間が12分短くなったことになります。
日の出時刻はこの後、更に遅くなります。
一番遅い「日の出」時刻は来年1月5日から11日までの7時06分であり、今日以降、更に5分遅くなります。
一方、1月11日の「日の入り」時刻は17時06分で現在より15分遅くなることから、昼間の時間は10分長くなります。
このように一番早い「日の入り」時刻と一番遅い「日の出時刻」にずれがあることから、日の出時刻の一番遅い日が昼間時間の一番短い日ではなく、今日の冬至の昼間時間が9時間50分で一番短い昼間という事になります。
「日の出が最も遅い日と冬至が異なる理由」
国立天文台HPによれば、次のように説明しています。
昼間の長さは、太陽の高さで決まります。
つまり、太陽が空の高いところを通過すれば、それだけ、空を横切る時間が長くなるわけです。
太陽が空のもっとも高いところを通過するのは夏至の日です。逆に、冬至の日にもっとも低くなります。
日の出・日の入の早さ・遅さもだいたいは昼間の長さで決まります。
昼間が長いと、それだけ日の出は早く、日の入は遅くなります。
しかし、夏至(冬至)の日をはさんで前後約1週間にわたっては、そうならずに、日の出・日の入ともに日々遅くなっていきます。
日の出・日の入りの早さ・遅さを決めているもう一つの要因は太陽の動き方です。
地球から見ると、太陽が空を動いているように見えますが、この動き方が年間を通して一定であれば、日の出・日の入りの早さ・遅さは昼間の長さだけで決まります。
しかし、実際には、太陽は季節によって動く速度が違うのです。
これは、以下の理由によるものです。
・太陽の通り道である黄道と天の赤道が23.4度傾いているため、太陽が天の赤道に対して動く速度が一定ではないこと。
・地球の公転軌道が楕円形であるため、太陽の日々の進みが一定ではないこと。
簡単に言えば、地球が23.4度傾いていることと、地球の公転軌道が楕円形であることからのようです。
詳しくは「国立天文台」HPにリンクしておきますのでご参照ください。
本格的な冬になりました。
大陸から寒気団が流れ込んで、列島各地はこの冬一番の寒さになっているようです。
当地でも18日の未明には初雪が降って植木鉢やカーポートの屋根が白くなっていたし、昨日は最低気温が1.6度と真冬の寒さとなりました。
寒さは野鳥にも厳しく、寒さが到来する前に渡り鳥たちは南に帰っていきました。
反対に日本に渡ってくる野鳥もいます。
その一種が雁です。
雁については次のような「雁風呂」の俗説があるでご紹介します。
「俗説・雁風呂」
秋に、サオ(竿)になりカギ(鍵)になって渡ってくる雁は、小さな枝をくわえて海の上を飛びます。
疲れてくると海上に小枝を浮かべてその上で休み、再び飛んで陸につくと浜辺に落としていきます。
翌年の春、北へ帰るときに再びその木の枝をくわえて飛んでいきます。
木の枝が残っていれば、そのぶんだけ雁が死んで帰れなくなったものだと考え、村人はその雁をあわれんで木を拾い、風呂をわかして供養したといいます。
これが、津軽に残る「雁風呂」の伝説です。
「雁」
雁は繁殖地であるロシアからはるばる日本にやってきます。
雁の繁殖地は北極圏に近いため、夏が短く、8月下旬になれば雪が降り出します。
夜を過ごす湖沼が雪や氷に覆われてしまうと、生きていけないので南に渡っていきます。
「雁の渡り経路」
渡り経路は、繁殖地(ペクルニイ湖)からカムチャッカ半島⇒北海道⇒秋田県⇒宮城県と渡ってきて越冬します。
その距離は実に4000㎞にも及びますが、この長い距離を渡るために雁たちは飛行にある工夫をしているのです。
「雁のV字飛行」
雁の仲間はV字に編隊を組み、長距離を移動します。
その理由は、鳥が空を飛ぶ時、羽をパタパタと上下させますが、この時、上昇気流が生まれます。
斜め後ろを飛ぶ鳥がこの上昇気流にうまくのると、体を持ち上げる力が発生するため、少ないエネルギーで飛ぶことができます。
先頭はかなり体力を使うため、ずっと同じ雁が担当するのではなく、時折交代します。
そうすることで1匹で飛ぶよりも遥かに長い距離の飛行を可能にしているのです。
雁は夜が明けるころ、数万羽が一斉にはばたいて飛び立ちます。
群れになって飛ぶときにつくる隊列を「雁行(がんこう)」と言い、冬の風物詩になっています。
「渡り鳥はなぜ迷わない?」
でも渡り鳥は何故方向を間違わないのでしょうか?
渡り鳥は太陽の 位置で方角を知ることができるんだそうです。
太陽は東からのぼって西に沈みます。
鳥たちは体のなかに「太陽コンパス」と言われる時計をもっていて、日の出から何時間たったかを知り、時間とその時の太陽の位置で東西南北の方向がわかるのだそうです。
だから渡り鳥は毎年同じ場所にやって来れるのですね。
渡り鳥は凄い能力を持っていますね。
吾亦紅(吾亦紅)という花をご存知ですよね。
日本や朝鮮半島、中国に分布するバラ科、ワレモコウ属の植物です。
この花によく似た言葉に「吾無口(われむこう)」がありますが、お聞きになったことがありますか?
実は、この言葉は僧侶の「符丁」の一つなのです。
「僧侶の符丁って、何のことだ!」
何のことかわかりませんよね。
そこで、今日は僧侶の符丁について調べました。
「符丁」
符丁とは、なんのことでしょう。
広辞苑によれば、
①商品につけて値段を示す目印の符号。
②合図の隠語。あいことば。
③しるし。記号。符号。
と説明しています。
今日ご紹介する「僧侶の符丁」は、僧侶間における隠語のことなのです。
僧侶の間では、漢字を分解して一から十の数字を作る「字謎」と呼ばれるものがあって、それを「符丁」と呼んでいるそうです。
例えば、「大無人・だいむじん」と言えば、「大」の字から「人」無くす(取る)と、「一」になるので、数字の「一」表す符丁(隠語)と言う訳です。
このように考えると、冒頭の「吾無口」の符丁(隠語)は、「吾」から「口」を無くすと「五」になることから、僧侶の間では数字の「五」を表す符丁(隠語)となります。
「僧侶の符丁」
そこで、「一」から「十」までの僧侶の符丁(隠語)をご紹介すると以下のようになります。
「一」・・<大無人・だいむじん> (大から人を無くす)
「二」・・<天無人・てんむじん> (天から人を無くす)
「三」・・<王無中・おうむちゅう> (王の字の中の縦棒を取ると三になる)<王無棒・おうむぼう>とも言う。
「四」・・<罪無非・ざいむひ> (「罪」から「非」を無くす) <置無直(ちむちょく)>とも言う。
「五」・・<吾無口・われむこう> (「吾」の字から「口」を無くす)
「六」・・<交無人・こうむじん)>(交の字から人をを無くす) <立無一(りつむいち)>とも言う。
「七」・・<切無刀・せつむとう)>(切の字から刀を無くす)
「八」・・<分無刀・ぶんむとう)>(分の字から刀を無くす) <木無十(もくむじゅう)>とも言う。
「九」・・<丸無点・がんむてん)> (丸の字から点をを無くす) <鳩無鳥(はとむちょう)>とも言う。
「十」・・<千無点・せんむてん)> (千の字から点を無くす) <針無金(しんむきん)>とも言う。
流石お坊さんの符丁(隠語)です。
何となくお経の言葉のように読めるから不思議です。
「符丁の由来」
でも何故お坊さんの世界で符丁ができたのでしょうか?
その由来は分かっていませんが、一般的にお札を数える時の人の顔は、その人の地顔がでるといわれています。
「数える」という行為には、何か人間の本質をむき出しにしてしまう力があるようです。
僧侶の場合にも、お布施にほころぶ顔を見せないために、符丁が作られたのではないだろうか、と言われています。
こぼれ出てしまう本音を、仲間うちの符丁でかろうじて隠しているのかも知れませんね。
「コロナ禍ではむやみに出歩かないこと」とか、
「コロナが落ち着いた途端、やたらと人出が増えたね。」
等のように、「むやみ、やたら」という言葉があります。
よく使用する言葉ですがこの言葉の語源は何処なのでしょうか?
調べてみました。
いつものように広辞苑で意味を調べると次のように記されています。
「むやみ」
①前後を考えないさま。理非を分別しないさま。
②度を超すさま。
「やたら」
みだり。むやみ。「この小僧がうたった唄はやたらとはやるが」。「やたらな事は言えない」「やたらに忙しい」
と説明しています。
辞書が説明しているように、「むやみ」には、結果や是非を考えず、ものごとを進めることといった意味があります。
後先を考えずに何か物事を行うことが「むやみ」となります。
また、ものごとの状態が度を超えて甚だしい様子も意味します。
一方、「やたら」には、根拠や節度がない、筋が通らない、めちゃくちゃ、といった意味があります。
物事に対し、秩序や節度がないことが「やたら」となります。
この二つの言葉の違いは、
「むやみ」は、結果や是非を考えず、ものごとを進めることと。
「やたら」は、根拠や節度がない、筋が通らない、めちゃくちゃなこと。
といった意味の違いがあります。
「語源」
・「むやみ」
「むやみ」は漢字で「無闇」とか「無暗」とも書きますが、これらの漢字は全て当て字で、「無理彌無理(むりいやむり)」が語源だそうです。
「無理彌無理」を直訳すると「無理、ますます無理」ということです。
この「むりいやむり」の、「い」と後ろの「む」が省略されてできた言葉が「むりやり」で、更に、派生してできた言葉「むやむ」から「むやみ」に変化し、「後先を考えずに物事をする」「度を超えている」という意味として「むやみ」が使われるようになったようです。
・「やたら」
一方、「やたら」を「矢鱈」と漢字で書いているのを見ることがありますが、「鱈」とは関係なく、これも当て字だそうです。
その語源は、宮中で行われる雅楽の「夜多羅拍子(やたらびょうし)」からのようです。
雅楽では、二拍子と三拍子があわさって五拍子になる変形の拍子があり、この拍子を「夜多羅拍子」と言いますが、このやたら拍子は変形な拍子なのでとても演奏しづらく、テンポが乱れることもしばしばで、そこから秩序や節度がなく、乱れるさまを「やたら」というようになったということです。
なお、この2語をくっつけた「むやみやたら」と言う言葉がありますが、これは、結果の是非を考えないことを意味する「むやみ」を強めた言い方だそうです。
「湯湯婆」この漢字、何と読むのかご存じでしょうか?
「ゆゆば」ではありません。もちろん、豆乳を煮立ててつくる「ゆば」でもありません。
私は読めませんでしたが、実は「ゆたんぽ」と読みます。
湯たんぽ?
「湯」は分かりますが、「湯婆」を何故「たんぽ」と読むの?
と、思いますよね。
そこで調べてみました。
「湯たんぽ」
湯たんぽとは、中に湯を入れ、寝床などに入れて足や体を温めるのに用いる容器です。
湯たんぽの素材には金属製、陶製、ゴム製、プラスチック製があり、やかんなどで加熱した湯を注いで栓をし、就寝時に布団などへ入れて暖房とします。
体や足を暖めるほか、椅子の背もたれや膝・足先に置いて足や腰を温めることもできます。
「湯湯婆の由来」
中国では唐の時代から湯たんぽの存在が見られ、唐音読みで「湯婆(tangpo)」を「たんぽ」と読むようです。
そして、「婆」には「妻」や「母親」の意味があり、妻や母親の温かい体温を感じながら寝るように、お湯を入れた容器を代わりに抱いて寝ることから付いた呼称だという事です。
中国では「たんぽ(湯婆)」のみで「湯たんぽ」を表すようですが、日本では「たんぽ」のみでは意味が通じず、温める容器のことと解釈したことから、日本に伝わった際に「湯」が付け加えられ「湯湯婆」となったようです。
「日本への伝来」
日本には室町時代に中国から伝来しました。
そして現存する日本最古の湯たんぽは、岐阜県多治見市小名田で出土した「黄瀬戸織部流し湯婆」です。
また、日光市の輪王寺には徳川綱吉が使用したという犬型の湯たんぽが存在しているそうです。
湯たんぽが本格的に作られるようになったのは明治時代からで、大正時代になると波型のトタン製湯たんぽが普及するようになりました。
現在ではプラスチック製やポリ塩化ビニール製のものが湯たんぽの主流となっていますが、金属やプラスチック製と違い、陶器製は保温性が良く遠赤効果があるとされています。
「使用経験」
私が子供の頃は炬燵と共に湯たんぽも使用していましたが、現在では暖房器具が充実しているため無縁となりました。
現在、ウクライナではロシアが発電施設を狙った攻撃を行っています。
このため、ウクライナ国民は厳寒の冬を迎えて非常に厳しい状態に陥っています。
お湯なら屋外でも沸かせることから、湯たんぽをウクライナに提供してあげれば、少しでも暖が取れて喜ばれるかも知れませんね。