今日は金剛峯寺の大伽藍の一部をご紹介します。
「根本大塔」
高野山真言宗総本山金剛峯寺の壇上にある仏塔で、空海が816年(弘仁7年)7月に高野山開創の勅許を得たのち建立に着手し、没後半世紀を経て完成しました。
現在の建物は1932年(昭和7年)に着工し、1938年に完成したもので、16間四面、高さ16丈(約50メートル)の2層の多宝塔様式の塔です。
主尊は胎蔵界大日如来で、これに金剛界の阿(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・無量寿(むりょうじゅ)・不空成就(ふくうじょうじゅ)の四仏を配し、内陣の16本の柱には堂本印象(どうもといんしょう)の描いた金剛界十六大菩薩(ぼさつ)の仏画があるということです。
「大塔の鐘・高野四郎」
弘法大師が鋳造を発願し、弘法大師の甥にあたり、高野山第二世として弘法大師の意思を受け継いだ真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。
火災などで度々鐘楼が焼失し、三度ほど改鋳され、現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したものです。
梵鐘は直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから「高野四郎(こうやしろう)」と呼ばれるようになりました。
総本堂「金堂」
御本尊は薬師如来です。
金堂は弘仁7年(816年)、弘法大師が根本大塔と共に鎮護、国家、済世、利民を目的に建立された堂舎であり一宗の総本堂で、高野山の重要な法会の大半が行われています。
幾度かの祝融(火災)再建を繰り返し現在のものは昭和9年(1934年)に再建されたものです。
「三鈷の松」
弘法大師が唐より帰国する折に、日本で真言密教を広めるための場所を求める為に中国・明州の浜よりさ三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ日本へ向かい飛んでいきました。
帰国後に弘法大師が高野山近くへ訪れた際に狩人より毎晩光を放つ松があるとの話を聞き、その場所へ行ってみると唐より投げた三鈷杵が松に引っかかっていたと伝わる松の木です。
この事がきっかけで高野山で密教を広める事を決められ、それから約1200年間もの長い間、この地が真言密教の聖地として続いているということです。
「三鈷の松伝説」
延暦23年5月に入唐したお大師様が、その2年後、帰朝する際、明州の浜で、「私の学んだ密教を教え広める根本道場として、伽藍を建立しようと思う。願わくば伽藍建立に適した地を示したまえ」、という誓願を立てて、空に向けて密教法具の三鈷杵(さんこしょう)を投げられますと、それは紫雲に包まれ東の空へ飛び去りました。
お大師様が帰朝の後、伽藍建立の地を紀伊の国、紀の川のほとりまでやってくると、そこで身の丈八尺ばかりもある、白黒二匹の犬を連れた狩人と出会いました。
お大師様が、この地へ来た訳を説明しますと、狩人はこう言いました。
「そういえば、この近くの山に、昼には瑞雲たなびき、夜には瑞光を放つところがございます。もしかしたら、お探しの三鈷杵はそこかもしれません。そこまでこの二匹の犬に案内させますので、後についてお行き下さい。」
お大師様は二匹の犬に導かれて、川の上流の山へ登りますと、そこで一人の女性と出会いました。
「あなたがお探しの三鈷杵は、この先の松の枝に掛かっております。私は、この山の主の丹生都比売といいます。途中であなたが出会った狩人は、私の弟です。 この山は、あなたにさしあげましょう」
丹生都比売はそう言うと、いつの間にか姿を消してしまいました。
確かに松の枝に、明州の浜から投げられた三鈷杵が、光を放ちながら掛かっており、お大師様はこの地に伽藍を建立する事となりました。
・三鈷の松です。樹齢1200年にしては細いような気がしますが・・・。
「徳川家霊台」
高野山にある徳川家霊台は3代将軍家光が1643年に建立したもので、徳川家康と秀忠の霊が慰められています。
嘗て、大徳院の境内にあったそうですが、現在は霊台だけが残っています。
この霊台は、東の日光東照宮、西の高野山徳川家霊台と言われているのだそうです。
「女人堂」
高野山は古来より女人禁制の場所として知られており、この掟は明治5年(1872年)まで続き、女性は一歩たりとも入山を許されませんでした。
この為、高野山に通じる主要な道には女人堂が建てられ、女性はそのお堂から現在の「弘法大師御廟」へ向かって祈りを捧げたそうです。
「お竹地蔵」
この地蔵尊は安政年間の江戸の大地震でなくなられた人々のため、又、自分の父母の菩提のために自分の身を仏様に捧げて30年の年期奉公し、身を粉にして蓄えたお金で建てられたお地蔵様です。
建立した人は横山竹さんという女性で江戸(もと飯田町)の方だそうです。
このお地蔵さんは女人堂前の「お竹地蔵さん」と崇められ、今なお多くの参拝者で線香の煙が絶えることがないそうです。
縁談、神学、子授、水子供養等にご利益があると言うことです。
高野山シリーズの3回目は「金剛峯寺です。
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
「金剛峯寺」
総本山金剛峯寺のHPによれば、総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのだそうです。
高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になり、高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)です。
塔頭寺院とは、お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ:総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた小院のことです。
現在では117ヶ寺が存在し、その内52ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。
・正面奥に正門があります。
「正門」
金剛峯寺前駐車場より境内に入って来るとき、最初にくぐる門を正門といい、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日に至っています。
昔はこの門を正面から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけで、一般の僧侶は右のほうの小さなくぐり戸を使用していたそうで、高野山では門の出入り一つでも、厳しいルールが存在したのだそうです。
「二つの寺紋」
寺紋は一般的には一つですが、金剛峯寺には二つあります。
正門に吊るされている提灯で分かるように、左が豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋「五三の桐」、右が高野山の鎮守・丹生都比売(にうつひめ)神社の寺紋「三頭右巴」です。
「大玄関」と「小玄関」
金剛峯寺の中央が表玄関にあたるところで大玄関といいます。
ここも正門と同じく天皇・皇族や高野山重職だけが出入りしました。
其の右側にももう一つの玄関があります。
これは小玄関と呼ばれ、高野山では上綱職(じょうこうしょく:学道成満者)の方々がもっぱら使用し、一般の僧侶は昔は裏口より出入りましたが、現在は一般参詣入口を利用しているそうです。
また、ここは豊臣秀吉に関白の座を追われた豊臣秀次が自刃して最後を迎えた場所として有名です。
400年以上前にその事件があった場所は「柳の間」として現存しており、「秀次自刃(じじん)の間」ともいわれています。
・右が「小玄関」、その隣り(建物中央部)が「大玄関」です。
「金剛峯寺主殿」
金剛峯寺の屋根は檜皮葺といい、何枚も檜を重ね合わせた構造になっています。
屋根の上に桶がありますが、これは天水桶とよばれるもので、普段から雨水を溜めておいて、火災が発生したときに延焼を少しでも食い止める役割を果たしているそうです。
「鐘楼」
門をくぐって右手にある鐘楼は、金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼です。
その構造形式から万延元年(1860年)に大火で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたものと考えられています。
桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造りの形式で、県指定文化財となっています。
「東塔」
白河法皇の御願いにより大治2年(1127年)に落慶しました。
中尊は尊勝仏頂で脇仏は不動と降三世両明王です。
江戸時代再建の塔が天保14年(1843年)に焼失後、140年を経て、昭和58年「1983年)に現在の塔が再建されました。
昨日、奥の院の弘法大師御廟にお参りした私たち一行は、戦国大名や有名人の墓・供養塔が約2㎞に亘って並ぶ参道を通って、一の橋口(参道入口)まで戻りました。
今日はその中から数墓をご紹介します。
「上杉謙信霊屋(たまや)」
上杉謙信・景勝の廟墓(びょうぼ)です。
謙信の名は西暦1574年(天正2年)、45歳で上洛した時、高野山を訪れ、その折贈られた法名であると言われています。
建物は江戸初期頃の建立と推測されており、小規模ながら霊屋としては古い方に属するもので、内部は格子天井を張り、須弥壇(しゅみだん:本尊を安置する場所)には二基の石碑を納めています。
「武田信玄・勝頼墓所」
上杉謙信をご紹介すれば、武田信玄を外すわけにはいきません。
武田信玄は好敵手上杉謙信とともに乱世を生きた戦国武将ですが、性格直情の中にも文を学び神仏に帰依し、その墓所を弘法大師空海の御傍(おんかたわら)、この奥の院の一隅に求めたそうです。
簡素な墓石は豪華を誇る上杉家の霊廟に比べ、性格直情な信玄らしさの表れかもしれません。
・向かって左が武田信玄、右がその子武田勝頼供養塔です。
「徳川吉宗の墓」
テレビドラマでお馴染みの暴れん坊将軍こと八代将軍徳川吉宗公の墓です。
「司馬遼太郎文学碑」
司馬遼太郎の代表的な著書に「空海の風景」が有ります。
自身の空海への探求心も深く、幾度となく高野山を訪れているそうです。
文学への業績を称えて、平成20年(2008年)9月に奥の院参道の一の橋から30m付近に文学碑が建立されました。
碑は、香川県産の庵治石(あじいし)を使用しており、碑文(横1.6メートル、高さ90センチ)は司馬さんの著作「高野山管見」の冒頭から抜粋しているそうです。
「碑文」
・石碑にはこのように書かれています。
「苅萱堂(かるかやどう)」
奥の院の入り口、一の橋より西に、朱色の鮮やかな外観の苅萱堂(かるかやどう)があります。
このお堂は石童丸物語の哀しい話で知られる苅萱道心(かりかやどうしん)と石童丸ゆかりのお堂です。
石童丸物語とは、
石童丸の父である加藤左衛門繁氏は、筑紫の国の領主でしたが、わが身の罪の深さに驚き、出家して後に高野山に入山し、苅萱道心と称して修業の生活に入りました。
父の出家直後に生まれた石童丸は十四歳のとき、父に会いたい一心で母千里とともに高野山へ旅に出ましたが、当時は女人禁制であった高野山の掟により、やむなく母を山麓の学文路(かむろ)の宿に残し、一人で父を捜し求めて山に登ったのです。
石童丸は、御廟の橋で一人の僧と出会いました。
この僧こそが石童丸の父、苅萱道心その人だったのですが、浮世を捨てて仏門に励んでいた繁氏にとっては、親と名乗ることもできず、「そなたの父はすでにこの世にはいない。」と偽り、石童丸を母のもとに帰したのです。
学文路に戻った石童丸を待っていたのは、母千里が急病で亡くなったという悲しい知らせでした。
石童丸は高野山に戻って出家し、実の父とは知らずに苅萱道心について厳しい修行を積んだと伝えられています。
・この苅萱堂には、父親・苅萱道心が出家した背景や息子石童丸の下山の理由、その後の二人などが絵と文章で詳しく説明されています。

「千里姫の墓」
父親探しで高野山への長旅に出た母と息子でしたが、当時、女人禁制であった高野山の掟により、母・千里姫は山麓の学文路(かむろ)の宿に残り、息子・石童丸が一人で父親探しに出かけました。
しかし、息子の帰りを待つことなく母千里姫は亡くなりました。
・苅萱堂前に建つ母・千里姫のお墓です。

一昨日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー12名と高野山を歩いてきました。
前回は和歌山県九度山町までだったので、今回は九度山町の慈尊院(丹生官省符神社)登山口から町石道を上って高野山に行く筈でしたが、なにぶん参加者全員が70歳過ぎのご老体ばかりなので、このコースは否決となり、電車とケーブルカー、そしてバスを利用して高野山奥の院口まで行くことになりました。
帰りはケーブルカーの登り口である極楽橋駅まで歩いて下山することにしました。
今日から数回に分けてご紹介します。
「極楽橋駅」
南海電鉄 極楽橋駅からケーブルカー乗車口までの連絡通路です。
夏には「風鈴トンネル」に変わるようであり、この日も風鈴がたくさん飾られていました。
ここから高野山駅までは約330メートルの標高差があり、日本有数の急勾配を約5分で一気に昇ります。
ケーブルカーの交差地点です。
極楽橋駅から標高867mにある高野山駅までを約5分で上る2両編成のケーブルカーです。
途中には最大傾斜29.2度とい急こう配もある鋼索鉄道です。
「高野山駅」
高野山駅はケーブルカーが開通した1930年に開業し、2005年に国の有形文化財として登録されました。
2015年にリニューアルし、丸窓や欄干など昭和5年の開業当時2階に取り付けられていた意匠を再現するとともに、駅舎の外観も可能な限り開業当時の意匠へ復元しました。
「奥の院」
和歌山県にある真言宗の総本山・高野山。
数多くの歴史上の人物や全国の藩主・大名の墓、珍しい形の墓や供養塔があるのが「奥の院」と呼ばれる場所で、戦国大名の6割以上の墓がここにあるとのことです。
参道が作られたのは平安時代後期から鎌倉時代と言われ、 「一の橋」の入口から、空海が今も瞑想を続ける「御廟(ごびょう)」まで続く参道は約1.9kmで、参道の両脇には20万もの墓や供養塔が立ち並んでいます。
「奥の院燈籠堂」
手前の橋は御廟橋です。これから先は霊域になるので撮影禁止となります。
正面奥に見えるのが燈籠堂です。
燈籠堂は真然大徳(しんぜんだいとく)が初めて建立し、その後、藤原道長によって西暦1023年(治安3年)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立されました。
堂内正面には、千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」があります。
一つは、祈親上人(きしんしょうにん)が献じた祈親灯(きしんとう)で、もう一つが、白河上皇が献じた白河灯(しらかわとう)です。
この祈親灯の事を、祈親上人のすすめで貧しい生活の中、自らの髪を切り売ってまで工面したお金で、献灯したと伝わるお照(おてる)の話に因んで貧女の一灯(ひんにょのいっとう)と呼ぶ説もあります。
それにあわせて白河灯の事を、長者の万灯と呼び、貧女の一灯、長者の万灯の伝説が残るお堂です。
なお、弘法大師空海御廟は燈籠堂の中に入り左手から参拝経路を回り込んだところ、ちょうど燈籠堂裏側にあります。
「水向地蔵」
金仏の地藏菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいます。
奥の院に参詣する人々は、御供所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、水を手向けてご先祖の冥福を祈ります。
「豊臣家墓所」
この墓所の正面には豊臣秀吉公とその母公、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓があります。
織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は、高野山の興山応其(こうざんおうご)上人の説得により高野攻めを取り止め、以後、応其上人の言葉に耳を傾け、高野山を庇護するとともに復興興隆に努めました。
「汗かき地蔵」
奥の院の中間地点、中の橋を渡るとすぐの地蔵堂の中には汗かき地蔵をお祀りしています。
この汗かき地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになり、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。
「姿見の井戸」
高野七不思議のひとつ、汗かき地蔵をお祀りしているお堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているそうです。
さらに、昔の人はこの水で目を洗えばどんな眼病も治ったと言われています。
秋味
秋刀魚が美味しい季節となりましたね。
今年のサンマの値段は、東京築地市場に初入荷した7月頃は1匹あたり3300円という過去最高値がつき、秋刀魚はもはや庶民の魚ではなく、高級魚になったと言われていました。
しかし、ここにきて水揚げ量も戻り、値段もようやく落ち着いてきたようで、私たち庶民の口にも入るようになりました。
ところで、サンマと言えば秋の味を代表する魚で、所謂、「秋味」と思っていましたが、秋味はサンマではありませんでした。
そこで今日は「秋味(あきあじ)」について調べました。
サンマは秋の味覚の一つではあっても「秋味」ではありません。
秋味とは、サンマや栗のことではなく鮭(塩ザケ)のことを言うのだそうです。
俳句の世界で「花」といえば「桜」のことを指すように、秋味とは鮭(サケ)を意味しており、秋の産卵の頃に日本の川を上る鮭(=白鮭)のことを秋味と言うようです。
私は、「秋味」は「秋の味覚」と同じ意味と理解していましたが、これは間違いでした。
「秋味=秋の味覚」ではありません。
「秋味」とは鮭(塩ザケ)のことなのでご留意ください。
飲食店で会計をするとき、店員さんに「お愛想をお願いします」と言うことはありませんか?
この言葉は本来、客が使うと失礼になるようです。
何故なのでしょうか?
そこで今日はこの表現の本来の意味を調べました。
「お愛想」という言葉は、会計時に店側がいう言葉で、その意味するところは、
『今日はわざわざお越しいただきましてありがとうございます。こちら、色々と不手際などございましたかもしれませんが、それなのに、会計のことを申し上げるなど愛想のないことで恐縮です。大変失礼いたしました。どうぞまた、これに懲りずにお越しくださいませ』という意味が含まれているのだそうです。
では、「お愛想をお願いします」を客が言うと何故失礼になるのでしょうか?
客である私たちが店の人に「お愛想!」と言えば、「このような愛想のない店からはもう出たいので、精算してくれ」というニュアンスになってしまうのだそうです。
従って、飲食代を支払う時は普通に「お会計お願いします」とか「お勘定お願いします」という言い方にした方が無難なのだそうです。
言葉の本来の意味するところを理解して、失礼のないようにしたいものですね。
9月21日から30日まで「秋の全国交通安全運動」が行われています。
警察庁の発表では、去年1年間に道路を横断中の歩行者が車両にはねられて死亡するなどした事故718件について、歩行者から見て左から走ってきた車両にはねられるなどした事故が486件と、車両が右から走ってきた214件の事故に比べおよそ2.2倍、特に歩行者が65歳以上で夜間の場合には3倍近くになっているということです。
この為、秋の全国交通安全運動では、早めのライトの点灯や反射材の着用を呼びかけるとともに、お年寄りに年齢による身体能力の低下を自覚してもらう催しを開くなどして事故防止を呼びかけることにしているということです。
当ブログも交通事故防止を願って、今日は「秋の全国交通安全運動」について、その実施内容を内閣府のHPよりご紹介します。
【運動の期間】
・平成28年9月21日(水)から30日(金)までの10日間
・交通事故死ゼロを目指す日 9月30日(金)
【運動重点】
1.運動の基本
秋の交通安全運動では、次代を担う子供のかけがえのない命を社会全体で交通事故から守ることが重要であるにもかかわらず、通学中の児童が死傷する交通事故が発生するなど依然として道路において子供が危険にさらされていること。
また、高齢者の交通事故死者数が交通事故死者数全体の半数以上を占め、その減少が強く求められていることから、これらの交通事故情勢に的確に対処するため「子供と高齢者の交通事故防止」を運動の基本としています。
2.全国重点
次の3点を全国重点としています。
(1) 夕暮れ時と夜間の歩行中・自転車乗用中の交通事故防止(特に反射材用品等の着用の推進及び自転車前照灯の点灯の徹底)
(2) 後部座席を含めた全ての座席のシートベルトとチャイルドシートの正しい着用の徹底
(3) 飲酒運転の根絶
大阪では次のスローガンを掲げて秋の交通安全運動を展開しています。
・シニアこそ ジュニアのお手本 交通安全
・こんばんは 早めのライトで ごあいさつ
・その酒で 失う信頼 家族の未来
交通事故は事故を起こした本人は勿論、その家族や事故に遭われた被害者並びにその家族に至るまで、悲惨な状況に陥ります。
あなたやあなたの大事な家族の生活を守るために、歩行者の時も車両運転者になった時も、日頃から交通ルールの遵守と正しい交通マナーを実践して、交通事故防止に努めていただきたいと思います。
小池東京都知事が11月7日に予定されていた築地市場の豊洲新市場への移転延期を表明し、パンドラの箱を開けました。
その理由は都民ファーストを主張していることから、この移転が本当に都民にとって納得できるものであるのかどうか、そして納得できるべきと考えたことによると説明しています。
当初は、11月の移転に向けて順調に準備が進んでいたことから、この小池発言は都民や市場関係者からは否定的に受け止められて大混乱の様相を呈していました。
ところが、小池都知事が開けた「パンドラの箱」からは都民は勿論、これに関わった移転検討会議のメンバーの人たちや市場関係者等が知らない事実が次々出てきたのです。
「パンドラの箱」とは、ご存知のように、ゼウスがすべての「悪」を封入した箱を地上最初の女性であるパンドラに贈り、決して開けてはならないと命じて地上に送りますが、パンドラは地上で好奇心から箱を開けてしまったのです。
すると箱の中からあらゆる災禍が外へ飛び出したので、彼女はあわてて蓋をしましたが、箱の中にはまだ残っていたものがありました。
それは「希望」だと言われています。
小池都知事が開けた豊洲市場移転問題のパンドラの箱、色々な不可解なことが出てきていますが、どのような経緯でこのようなことになったのか一向に明らかになりません。
神話のパンドラの箱は、最後に残ったのは希望と言われていることから、小池都知事が開けたパンドラの箱も希望が出てくるといいのですが。
この豊洲市場への移転問題、元大阪市長の「橋下改革」によく似ています。
彼は議会で涙を流しながらも変革を訴えてやり遂げました。
そして彼が立ちあげた地域政党「大阪維新の会」は現在も大阪府民に支持され続けています。
今回、小池都知事が開けた「パンドラの箱」問題、大阪の地から「小池がんばれ!」とエールを送りたいと思います。
参考のため、パンドラの箱の神話を記しておきます。
「神話」
プロメーテウス(ギリシャ神話に登場する男神)が天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウス(ギリシャ神話の主神)は、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るよう神々に命令しました。
ヘーシオドス(古代ギリシャの叙事詩人)の『仕事と日』(47-105)によれば、ヘーパイストス(ギリシャ神話の神)は泥から彼女の形をつくり、神々はあらゆる贈り物を彼女に与えました。
アテーナー(ギリシャ神話の女神)からは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテー(愛と性と美を司る女神)からは男を苦悩させる魅力を、ヘルメース(ギリシャ神話に登場する青年神)からは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられました。
そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス((甕:貯蔵用のカメ)、後代に「箱」といわれるようになる)を持たせ、エピメーテウス(ギリシャ神話に登場する神)の元へ送り込んだのです。
美しいパンドラを見たエピメーテウスは、兄であるプロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚しました。
そして、ある日パンドラは好奇心に負けて甕(カメ)を開けてしまいます。
すると、そこから様々な災い(エリス(ギリシャ神話に登場する不和と争いの女神)やニュクス(ギリシャ神話に登場する夜の女神)の子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出しました。
こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになったのですが、パンドラが急いで箱を閉めてしまったことから、箱の底には希望だけが残ったと言われているのです。
沖縄県の尖閣諸島周辺では、中国による領海侵犯や排他的経済水域への侵入が毎日のようにあるようですが、その報道は次第に少なくなってきています。
恐らく中国はそれを狙っているのだと思います。国民の関心が薄まったところで、一気に尖閣諸島上陸ということも十分考えられます。
その事を危惧した沖縄の若き女性が孤軍奮闘しています。
「沖縄のジャンヌダルク」と呼ばれているその人は、我那覇真子さんと言う20代半ばの若き女性です。
当ブログでは、今年7月に彼女のニュースをアップしましたが、今日はその活動の第2弾をご紹介します。
彼女の演説は、先月17日に東京有楽町駅前で街行く人に訴えているものです。
その内容は、
・米軍基地移設反対に沖縄県民全員が反対している訳ではないこと。
・中国が尖閣諸島周辺への領海侵犯を繰り返えしていることの実態と、それについて翁長知事が中国に対してなんら抗議しないこと。
・移設反対運動の先頭に立っている人の多くは沖縄県民ではなく、本土の人や外国人であること。
など、沖縄の現状を本土の人に知ってもらいたいと訴えているものです。
13分余りの長いスピーチではありますが、時間が許せば是非お聴きいただき、沖縄の危機を彼女と共有したいと思います。
それでは、8月17日に有楽町駅前で訴えた我那覇真子さんの「沖縄への中国侵略の実態」(緊急国民行動)の模様をお聴きください。
論語
「志学(しがく)」、「而立(じりつ)」、「不惑(ふわく)」、「知命(ちめい)」、「耳順(じじゅん)」、「従心(じゅうしん)」。
この6つの言葉は論語の中の言葉ですが、何を表しているのかお分かりでしょうか?
今日は論語からご紹介します。
冒頭の6つの言葉は皆さまもお聞きになったことがあると思いますが、『論語』為政第二の第四節にある言葉で、孔子が晩年に振り返って言った言葉の一部と言われています。
その言葉とは、
『子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。』です。
この言葉の現代語訳は次の通りです。
先生が言われた。私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、人の道を踏みはずすことがなくなった、と言う意味です。
ここから、「志学(しがく)」、「而立(じりつ)」、「不惑(ふわく)」、「知命(ちめい)」、「耳順(じじゅん)」、「従心(じゅうしん)」の各言葉があるのですが、これらは各年齢を表している言葉なのです。
即ち、 ・「吾、十有五にして学に志す。」が「志学(しがく)」で15歳を、
・「三十にして立つ。」は「而立(じりつ)」で30歳を
・「四十にして惑わず。」は「不惑(ふわく)」の40歳を
・「五十にして天命を知る。」は「知命(ちめい)」で 50歳を
・「六十にして耳順(したが)う。」は「耳順(じじゅん)」で60歳を
・「七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」は「従心(じゅうしん)」で70歳を表わしており、これらの言葉は各年齢の異称として使われています。
この論語の一説は、孔子が自分の生涯を振り返って述べたこととされているのが一般的なようですが、実は、孔子が人生の理想像、つまり、こういう人生を送りたいという理想を述べた、とする説もあるということです。
省みて、既に「従心」を過ぎている小生はどうか?
確かに、子が曰っているように、「心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。」は、十分実感できるものです。