らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

日本人と箸

2019-05-31 | 雑学

近年の和食ブームから日本を訪れる外国人も箸を上手に使います。
言うまでもなく、私たち日本人は毎日三度の食事に箸を使用しており、箸は日本の食事には欠かせないものです。
でも、昔から箸を使用していた訳ではありません。
古代の日本人は手で食べていたのです。
では、いつ頃から箸を使用するようになったのでしょうか?

調べてみると、箸は中国から伝わったのですが、元々は神事に使うものとして伝来したため、儀式やごく一部の位の高い人だけが使用するものでした。
箸文化が始まる前の日本では、柏や椎などの葉に盛った食べ物を手で食べていたので、箸のような面倒な道具は、歓迎されなかったようです。
そんな中、聖徳太子はあることをきっかけに箸の普及活動を行いました。
それは、小野妹子たちが向かった第1回遣隋使への答礼のために中国から使節団がやってくることになったことです。

聖徳太子と言えば、第1回遣隋使の一員である小野妹子に託して隋の皇帝に国書を送った方ですが、その国書の中に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という有名な文言があります。
この文言が隋の皇帝を怒らせることになるのですが、相手を怒らせるようなこの国書を送った手前、『何だ偉そうなことを言っているが、日本は手づかみで物を食べる野蛮国でなないか』と、見下されてはと危惧したのです。

そこで太子が使節団の歓迎会では全員箸を箸を使うことを決めたのです。
 この作戦は大成功し、当日の宴会では全員がキチンと箸を使って食事をしたということです。
しかし、この頃の一般庶民はまだまだ手づかみで食べていたのですが、この後、次第に箸文化が広まっていったようです。

・ウィキペディアより


(参考)
「聖徳太子が隋の帝を怒らせた『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや』について」
隋の王煬帝に宛てた国書に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されており、これを見た隋王は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたといいます。

なお、煬帝が立腹したのは、「天子」の文言です。
「天子」は中華思想では1人なのです。それなのに辺境の日本の首長が「天子」を名乗ったことに対して立腹したもので、「日出處」「日沒處」との記述に対してではありません。

 


2匹目のアナグマ捕獲

2019-05-29 | 家庭菜園

家庭菜園においてアライグマによる被害が発生すると、とても悔しく、腹立たしく、とっ捕まえて殺してやりたいという思いがむらむらと沸き起こってきます。
私が住まいしている熊取町内にはアライグマが相当数棲息しているようであり、町役場の担当者によれば、毎年70~80匹ほど捕獲しているとのことです。
これだけ捕獲しても一向に減らないのは、それ以上の子供を産んでいるからなのでしょう。

私は町役場から捕獲器を借りて畑に仕掛けています。
今年は3月にアライグマ1匹捕獲し、そして今月20日にアナグマを捕獲しました。
アナグマは初めての捕獲でしたが、その5日後には2匹目のアナグマを捕獲したのです。

猟友会の会長が”「アナグマ」は当地でも最近よく捕獲される”と話されていましたが、1週間に2匹も私の畑でアナグマが捕獲されるとは、会長の話通りであり、畑の傍にはいつの間にかアライグマの他にアナグマまでも棲息するようになったようです。

・2匹目のアナグマ捕獲です。


アナグマはアライグマと違って大人しく、傍に行っても暴れることはありません。
見ているととても可愛く、このまま逃がしてやりたい気持ちにかられます。
でも、アナグマも農作物に被害をもたらします。逃がすわけにはいきません。
可哀そうですが、一昨日、猟友会の人に引き渡しました。

・これが以前捕獲したアライグマです。




巨峰のジベレリン処理

2019-05-27 | 家庭果樹

先日、ブドウ(巨峰)のジベレリン処理をしました。
種なしブドウを栽培するにはジベレリン処理と言って、花後の房をジベレリン液に浸す必要があります。
今年は昨年までの方法と若干異なっていますのでご紹介したいと思います。

「ジベレリン液」
昨年まで使用していた「ジベレリン明治 液剤」です。
この液剤がなくなったので、農協に買いに行ったところ、ブドウにはこの液剤は不適格のようだと教えてくれました。
確かに、使用説明を読んでみると「ブドウを除く」と書いています。
そこで今年はジベレリン粒剤を使用することにしました。

・昨年まで使用していました「ジベレリン明治 液剤」です。
 使用説明に「ブドウを除く」となっていたので今年は使用しないことにしました。


「ジベラ錠5」
ブドウに適したジベレリンを尋ねたところ、「ジベラ錠5」を教えてくれたので、これを試すことにしました。
この「ジベラ錠5」には、ブドウの無種子化にとして”農林水産省登録 第21319号 ジベレリン水溶剤”の表記があります。
内容物は錠剤5錠と使用説明書です。

・今年使用する「ジベラ錠5」粒剤です。


「巨峰に対する使用方法」
使用説明によると、”ジベレリン濃度25ppm”を満開の10日~20日後に1回使用する。
となっています。



「濃度」
濃度については、1錠ごとに希釈倍率が書かれています。
25ppmのジベレリン濃度の希釈液の作り方は”200ml の水にジベラ錠1粒”を溶かすだけです。
水溶液が少ないようであれば”2粒を400mlの水に”溶かせば十分です。



我が家では、400ml までのブドウ専用容器があるのでこれを使用してジベレリン溶液をつくりました。
そして、開花後2週間ほどしてジベレリン処理をしました。
満開後10日~20日の間に、しかも1回処理するだけなので、昨年までと違って作業が軽減されました。
今年のブドウの結果を確認したいと思います。



一般的な 「種無し処理(ジベレリン処理)」の方法
種無しブドウを栽培するためには「ジベレリン処理」を2回行う必要があります。
・1回目 全ての蕾が開花した日から3日以内に行います。濃度は25ppm(25㎎/1ℓ)
・2回目 1回目の処理から10日~15日後に、濃度は1回目と同じ25ppm(25㎎/1ℓ)で行います。
      この時点で房の長さを6~7㎝になるように切り詰めます。
      更に、大きなブドウの粒を栽培するためには次の作業を行います。
      「果粒の制限」 ・巨峰の場合、1房に30~35粒位に制限します。 「摘果(果房の制限)」
・結実の状況を見ながら果粒が付いていない果房や、形が悪い果房を切り取ります。
 一般的に、葉が10枚以上の新梢は2房残し、葉が6~7枚の弱い新梢は1房とするとなっていますが、私の場合は長い新梢でも1房にしています。


紀州のドンファン

2019-05-25 | 時事

「紀州のドンファン」と、マスコミに取り上げられた和歌山県田辺市の酒類販売会社社長 野崎幸助の急死から昨日で1年となりました。
昨年の今頃は、テレビのワイドショーではこの事件が話題を占めていましたが、1年が経過するとすっかり報道がなくなりました。
事件の真相はどうなっているのでしょうね。

ところで「ドンファン」とはどのような人物なのでしょうか?
今日はこのドンファンについて調べてみました。

「ドンファン」
ドン・ファンは、プレイボーイの代名詞としても使われる言葉で、17世紀のスペインにおける伝説上の放蕩児を指す言葉です。
このもとになった伝説は次のように伝えられています。

「伝説」
ドン・ファンはプレイボーイの貴族で、女性を騙し誘惑する日々を送っていました。
そんなドン・ファンはある日、娘を手篭めにしようとしているところを父親(ドン・フェルナンド)に見つかってしまい、彼(父)を殺してしまいます。 その後、墓場のドン・フェルナンドの石像の傍を通りかかったとき、戯れにその石像を宴会に招待したところ、本当に石像の姿をした幽霊が宴会にやってきたのです。
石像はお返しにドン・ファンを自分の宴会へと誘います。
誘いに乗ったドン・ファンは、ドン・フェルナンドにふるまわれた料理を食べて死んでしまい、地獄へと引き込まれてしまいます。
彼に騙されていた女性たちはみんな「未亡人」として元の婚約者のもとへと戻ったと言うお話です。

・ドンファン(ウィキペディアより)


「紀州のドンファン」
翻って紀州のドンファンこと、「野崎幸助氏の急死事件」を思い出してみましょう。
和歌山県田辺市の酒類販売会社社長 野崎幸助氏は昨年5月24日夜、自宅2階の寝室のソファで意識を失っているのを妻が見つけ、死亡が確認されました。
行政解剖で、血液や胃、肝臓などから覚醒剤成分を検出したことから、死因は急性覚醒剤中毒と判明しました。

県警は、野崎さんの自宅や経営していた同市の会社、東京にある家族らの関係先などを捜索しました。
野崎さん急死の18日前に死んだ愛犬の死骸からも覚醒剤成分の有無を調べましたが、検出されなかったと報道されています。

なぜ捜査が難航しているのでしょうか?
報道によると、ある捜査関係者の話として、「快楽を得るために使われるはずの覚醒剤が直接の死因であることが、事案をより複雑にしている」と説明しているそうです。

いずれにしても、事件から1年が経過しました。
一日も早く真相解明がなされるといいですね。


うすいえんどうの由来

2019-05-23 | 家庭菜園

我が家のエンドウマメの収穫が終わりました。

エンドウマメには色々な種類がありますが、実を食するエンドウマメには「グリーンピース」や「碓井(うすい)エンドウ」があります。
「碓井エンドウ」は和歌山県を中心に生産されており、関西では実を食べるエンドウマメと言えば「碓井エンドウ」が主となっています。
主生産地の和歌山県では品種改良された「紀州うすい」等も生まれており、人気があるようです。

でも、この「碓井エンドウ」、その由来は和歌山県ではなく、大阪府羽曳野市の碓井地区と言うことをご存知でしょうか?
今日は「碓井エンドウ」の由来について調べました。

・収穫が終わった「碓井エンドウ」の畝です。


「碓井エンドウの由来」
「碓井エンドウ」は、明治時代にアメリカから入ってきた「Black Eyed Marrowfat(大粒のエンドウ)」という名のむきみ用えんどうの品種を、大阪府羽曳野市碓井の農業研究者が導入したのが始まりだとされています。
その後、羽曳野市碓井地区で栽培されていたことから地名の「碓井町」に因んで「うすいえんどう」の名称になったようです。

碓井エンドウは、さやと豆は淡い緑色であり、甘味が強いのが特徴的ですが、収穫時期が短く、4月下旬~5月下旬の時期が旬となります。
実エンドウの中でも、碓井エンドウの出荷先は主に関西が中心で、関東ではより糖度が高くて甘いグリーンピースなどが昔から好まれてきたようです。

「歴史」
えんどうの歴史は非常に古く、3000年ほど前の古代エジプトのツタンカーメン王の王陵を発掘した際に、その副葬品の中からエンドウマメが発見されたと言われています。
また、日本への渡来は奈良時代の頃に穀物として持ち込まれたのが最初とされています。


アナグマ捕獲

2019-05-21 | 家庭菜園

アナグマをご存知でしょうか?
慣用句の「同じ穴の狢(むじな)」との関連についてもご紹介します。

先日、畑に仕掛けているアライグマの捕獲檻にアナグマが入っていました。
”2ヶ月ぶりにアライグマの捕獲ができたぁ” と嬉しくなってよく見ると、アライグマではなく初めて見る動物でした。
狸かと思いましたがタヌキにしてはおとなしいような気がするし、いずれにしても役場に連絡して猟友会の人に来てもらったところ、これは「アナグマ」ですとのこと。
当地でも最近よく捕獲されるとのことでした。

「アナグマ」
アナグマはイタチ科に属する動物で、日本の固有種であるニホンアナグマのことを指します。
頭胴長は約40~60センチ程度、体重は10kg前後、基本的に夜行性で、日中は巣穴で休息しています。
性格は温厚で、 警戒心も強くないので、人間が近づいても逃げないことがあるようです。
捕獲した時、私が傍に行っても動くことをせず、顔だけを私に向けていました。



「同じ穴の狢(むじな)」
「狢(ムジナ)」という言葉を聞いたことがあると思いますが、これはアナグマの異称です。
アナグマの分布は九州や四国、本州などで、おもに里山の森林域で土中にトンネル状の巣穴を掘って生活します。
巣穴は地下で複雑につながっており、出入口が複数あります。

一方、アナグマに似たタヌキは自ら巣穴を掘ることはしませんが、アナグマが掘った巣穴の内部をタヌキが休息・繁殖のために利用することがあるそうです。
慣用句の「同じ穴の狢(ムジナ)」は、ここから生まれた言葉であると考えられています。
なお、この言葉の意味はよくご存知のように、一見別のように見えても、実は同類の悪党であることですよね。
昔、政治家の先生がよく比喩された事がありましたね。




台湾旅行(13)龍山寺

2019-05-19 | 旅行

JTB[旅物語]が主催する台湾旅行、「たっぷり10都市 はじめての台湾 5日間」のツアーは、今回の「龍山寺」の見学を以って最終となります。
龍山寺は"台北最強のパワースポット”と言われている観光名所です。
その龍山寺をご紹介して「台湾旅行」シリーズを終わりたいと思います。

「龍山寺」
龍山寺は清時代に建てられた台北最古のお寺で、故宮博物館や中正紀念堂などと並ぶ台北の一大観光名所となっています。
この寺院は清時代の乾隆3年(1738年)、大陸福建省泉州から渡ってきた漢民族の移民たちによって創建され、福建普江安海龍山寺の分霊を勧請しました。
その背景には、漢民族が台湾北部へ移民してきた当時、余りにも地の環境が悪く、「三在六亡一回頭」といって、移民してきた10人のうち3人が残り、6人が死亡し、そして1人は帰国すると言うような状態だったことがあるようです。
このようなことから、龍山寺には、「神様に保護していただけるように」という移民たちの切実な想いが込められているのだそうです。



龍山寺は創建以来、約280年経つ台北で最も歴史のあるお寺で、願い事をすればご利益があるとして地元の人からも厚い信頼を受けています。
拜拜の日(旧暦の1日と15日)やお正月は参拝者で境内が埋め尽くされ、身動きもとれないほどの盛況だそうです。

龍山寺の正式名称は「艋舺龍山寺(もうこうりゅうざんじ)」で、艋舺は現在の萬華地区の意味で台北発祥の地と言われています。
伝統的な中国の 四合院宮殿式を採用し、北を背に前殿、本殿、後殿、左右の鐘樓、鼓樓と回廊で「回」の形に構成されています。
道教や儒教の影響を受けていますが基本的には仏教寺院で、本尊には観音菩薩を祀っています。

第二次世界大戦中には、米軍の空襲により本殿が全焼する大惨事だったにもかかわらず、この観音菩薩像だけはまったくの無傷だった為、当時、観音様のお膝元は絶対安心だと信じられ、空襲の度に人々は龍山寺に集まったと言われています。
現在の伽藍(がらん)は1953年に再建されたもので、今も昔と変わらず龍山寺は台灣の人々の心の寄りどころとなっています。



龍山寺は、芸術的価値も高く国の二級古跡に指定されています。
そり返った屋根の上の龍や鳳凰(ほうおう)は色鮮やかな瑠璃細工でできていて、その精巧さは目を見張るものがあります。



「銅雕龍柱」
本殿前方の左右に配された一対の「銅雕龍柱」。
1920年代の作品で、台湾では石製の柱が一般的ですが、台湾唯一の銅製の龍柱だそうです。
立体感溢れる龍が見事に表現されています



「おみくじ」
台灣のお寺でよく目にする赤い三日月型のおみくじ(筊杯)、正確な引き方はちょっと複雑です。
①筊杯(ジャオベイ)を1セット胸の前に持ち、氏名、住所、生年月日、お願い事を神様に伝えます。
②筊杯を手中から地面に落とします。
③落ちた筊杯の表(平面)裏(ふくらみ)の組み合わせを見て、神様の心意を読みます。

  ・聖杯(裏と表)    > 願い事が聞き入れられました
  ・笑杯(両面とも表) > もう一度お願いしてください
  ・怒杯(両面とも裏) > もう一度お願いしてください

※聖杯(裏と表)が出るまで筊杯を落とし続けます。

⑤聖杯(裏と表)がでたらおみくじを引いて、番号を覚えます。
⑥その番号が正しい答えか確認するため、もう一度筊杯を落とします。
⑦聖杯(裏と表)が出たらそれが最終的な答えという意味です。横に設置してある木箱から同じ番号のおみくじを取ります。
⑧笑杯(両面とも表)、怒杯(両面とも裏)がでたら①からやり直します。

ファイナルアンサーを得るまでに、何度も神箸を落とす人もいれば、不思議とすんなりと番号をゲットできる人まで様々なのが面白い台湾版おみくじです。


「鐘鼓樓」
龍山寺の境内の総面積約は1800坪で、御本尊を祀った本殿を中心にして、周囲に前殿、東側の鐘楼、後殿、西側の鼓楼が配置されています。



「龍山寺の神様」
龍山寺には、100以上の様々な神様が祀られいますが、そのためご利益を求めて集まる人が多く、特に旧暦の毎月1日と15日そして正月は指定参拝日となっており大変混みあいます。

龍山寺に祀られている神様の中で女性に人気があるのが安産と恋愛の神様です。
特に恋愛の神様である「月下老人」のところではおみくじを買うと赤い糸がもらえます。この赤い糸を大事にもっていれば結婚相手に巡り合えると言われています。

本殿に祀られているのはすべで仏教の神様です。
そして後殿には主に道教の神様が祀られています。こちらは学問や商売、子宝、恋愛などそれぞれの分野によって分かれています。

学問の神様「文昌帝君」
「文昌帝君」は学業と試験の神様です。
台湾の受験シーズンの5~6月になると、たくさんの受験生やその保護者が詰めかけます。
合格祈願は神様に名前と住所、生年月日を告げて、「○○に受かりますように!」と願い事をし、神様の前にある「准考證影本放置處」に受験票のコピーを投函します。



「關聖帝君」
商売繁盛の神様です。


「中華民国総統府」
ガイドさんが中華民国総統府(ちゅうかみんこくそうとうふ)を示してくれたので撮影しました。
中華民国総統府は、中華民国の元首および首脳である中華民国総統が執務をおこなう官邸です。
この建物は日本統治時代の1919年3月31日に完成した建物(設計:長野宇平治)で、台湾総督府として利用されていました。

第二次世界大戦末期の1945年5月31日、アメリカ軍による空襲によって内部が全焼し中にいた職員の多くが死傷、建物も大きく破損しました。
大戦終結後に台湾へ進駐した中華民国政府が接収し、1948年に蒋介石総統の生誕60周年を記念して修復し、「介寿館」と名を改めたそうです。
1963年、室内の大理石を補充したのに続いて1978年と2001年にも庁舎を大規模に修理をおこなっています。




台湾旅行(12)故宮博物院

2019-05-17 | 旅行

「初めての台湾5日間」の旅も、いよいよ最終日になりました。
この日は午前中に「故宮博物院」と「龍山寺」を見学し、午後ショッピングをした後、空路、関西空港に向けて帰国する日程となっています。
そこで今日は「故宮博物院」の素晴らしい文物の一部をご紹介することとし、「龍山寺」については次回に取り上げたいと思います。

「国立故宮博物院」は台北市にあって、中華民国(台湾)の有名な観光地であり、数多くの資料を所蔵しています。
この博物院はフランスの「ルーブル美術館」、アメリカの「メトロポリタン美術館」、ロシアの「エルミタージュ美術館」と並ぶ、「世界四大博物館」のひとつで、 古代から近代まで、約70万点の貴重な資料が収蔵されています。
ただし、常時展示されている文物は有名な宝物を含む、およそ6000~8000点であり、数ヶ月おきに入れ替えられているそうなので、すべての作品を見終わるまでには、最低10年程度は要するということです。

・故宮博物院の全景です。


「故宮博物院の歴史」
故宮博物院の歴史は、清(1644~1912年)の滅亡に始まります。
中華民国は、清朝最後の皇帝・溥儀を紫禁城から追放し、1925年に紫禁城を故宮博物院とします。
これにより人々は歴代皇室と宮廷が所蔵していた貴重な文物を見ることが可能になり、また博物院は中華の文化遺産を末永く後世に伝える施設になったのです。

しかし、1937年には、盧溝橋事件から日中戦争が勃発しました。
戦火を逃れるために博物院の文物は避難を余儀なくされましが。そして、さらに戦火が拡大すると、宝物も中国中を大移動することになり、重慶、明、楽山などを転々とし、四川省南渓の李荘に安置されました。

1945年、第二次世界大戦が終結すると、奥地に移されていた文物は南京へと戻されました。
しかし、国共内線で共産党軍が首都南京を脅かすようになり、蒋介石率いる国民党軍は1949年4月、宝物5万箱を台湾に移送したのです。
その年の10月に中華人民共和国が成立し、12月に国民党軍は台湾に移りました。

その後、台湾に移送された文物は17年間倉庫の中で保管されていましたが、1965年に現在地に故宮博物院が完成し、全面的に一般公開され現在に至っています。

「主な展示品」
「翠玉白菜」
翠玉白菜(すいぎょくはくさい)は、翠玉(翡翠)を、虫がとまったハクサイの形に彫刻した美術品で、故宮博物院を代表する名品の一つです。
翠玉白菜の大きさは高さ18.7センチメートル、幅9.1センチメートル、厚さ5.07センチメートルで、手のひらよりやや大きいくらいのサイズです。
原石は、半分が白、半分が緑のヒスイ輝石で、原産地は雲南からミャンマーだと推測されています。

原石には空洞などの欠陥箇所もありますが、この彫刻ではそれが白菜の茎や葉の形にうまく活かされているということです。
上部の緑色で白菜の色を再現していますが、これは人工着色ではなく、石に元から付いていた色を生かしたものだそうです。



「肉形石」
肉形石(にくがたいし)とは、清朝時代に作られたとされる長さ5.3センチメートル、幅6.6センチメートル、高さ5.7センチメートルの東坡肉(とんぽーろー;豚の角煮の一種)を模したとされる彫刻です。
素材は、粘土鉱物などを含んだ不透明な六面体の玉髄(ぎょくずい)で、含有物が層状に積み重なったことで生じる縞模様があります。
皮となる面には、豚肉の毛穴や粗い肌触りを表現するとともに、染料がとどまりやすくするため、びっしり小さな穴があけられています。
おいしそうな赤身と脂身の混じった「肉形石」は、「東坡肉(豚の角煮)」にそっくりです。



「毛公鼎」
毛公鼎(もうこうてい)とは権威を象徴する礼器として使用されていたものです。
刻まれている銘は32行、500文字で、世界で最も長い銘文と言われており、内容は、周王が周朝復興に功労があった毛公一族を称えたものになっています。
獣に似せた3本足に楕円形のカメ型という西周晩期の青銅器の特徴を表したこの形は、2800年以上も前のもので、もとは料理に使用したものでしたが、後に権威を象徴する礼器として使用されるようになりました。



「象牙(彫象牙透花雲龍紋套球)」
象牙作品の「彫象牙透花人物套球」は、19世紀に清代の象牙彫刻職人によって制作された直径約12センチの象牙球です。
透かし彫りで幾何学模様が施されており、24もの層からできています。
球体に整えた象牙に中心に向かって穴を開け、直角に曲がった鈎を用いて自在に動く球を一層ずつ掘り出し、さらに各種装飾を施すという、緻密で複雑な手法が用いられています。
受け皿となる象牙の台座にも、繊細な細工が施され、清代後期の象牙工芸品の代表作と言われています。
100年以上の歳月をかけ、親子3代に渡って制作された作品だそうで、その繊細な彫刻と存在感は館内でも群を抜いています。

・ピントが合ってなくて画像が不鮮明ですが、彫刻は素晴らしいものでした。

「翡翠の屏風」
翡翠でできている屏風です。
元々は中国から寄贈されたものであり、昭和天皇のもとにあったそうですが、終戦後に中国に返却されたようです。
48枚の翡翠でできていて、表裏の彫りがまったく同じとなっていますが、これは、裏も表もないということから誠実を表しているそうです。



「黄玉 髄三蓮章」
チェーン部分も含め、一つの石から作られているため、一切の継ぎ目がありません。

・これもピントがあっていなくて不鮮明ですが、見事な彫刻でした。
 

「藍地描金粉彩游魚文回転瓶」
魚が泳ぐ回転瓶です。
外瓶の深い藍地の窓から覗く内瓶のなめらかな白色は、無線七宝(むせんしっぽう)のぼかしによって、生き生きとした游漁の姿が際立ちます。内瓶を回転することで、游漁が4面の窓から遊泳する姿が見えるという仕組みとなっています。

「陶製の童子枕」
「白瓷嬰兒枕」です。
これはパンフレット載ってる有名な枕です。




台湾旅行(11)台北圓山大飯店

2019-05-15 | 旅行

台湾旅行4日目の夜を迎えます。
今夜のホテルがこのツアー最後の宿泊となりますが、私たちの一行が宿泊するホテルは「福華大飯店台北」と「台北圓山大飯店」に分かれました。
このツアーを申し込む時には気が付かなかったのですが、最後の宿泊ホテルは前者の標準クラスと後者の豪華ホテルのオプションとなっていたようです。
私たち夫婦は気が付かなかったので標準ホテルだったのですが、ツアー参加者24名の内10名がオプションの豪華ホテルを申し込んでいました。
オプションを申し込んでいた10名を「台北圓山大飯店」まで送迎したことから、豪華ホテルのロビーなどを見学しました。
今日は豪華ホテルの一部をご紹介します。

「台北圓山大飯店」 の門
ここは戦前の日本統治時代には「台湾神社」があったところだそうで、戦後の国民党政権下で迎賓館へと変貌しました。

・豪華ホテル「台北圓山大飯店」の入口門です。


「台北圓山大飯店」
台北圓山大飯店は1952年に蒋介石夫人である宋美齡氏が建てた、台湾第1号の5つ星ホテルです。
ホテルの説明によれば、このホテルは圓山の中腹に高く聳え、前方は基隆河、後方は陽明山、東は松山、西は淡水が一望できるようです。
本館は中国宮殿様式を取り入れた14階建て建物で、赤い柱と金の瓦の堂々たる優雅な外観をしており、豪華絢爛な雰囲気が芸術的な美しさを際立たせており、台北市のランドマークの1つとなっています。



宿泊していないので内部施設などの豪華さは分かりませんが、ネットによると、居室、ロビー、レストランなど、いずれも古さは感じますが、豪華なだけでなく作りもメンテも行き届いており、欧米の「グランドホテル」以上の印象だと言うことです。

室内です(ネットより)


蒋介石夫人である宋美齡氏と言えば、宋家の三姉妹の中でもっとも長生きした方であり、この「台北圓山大飯店」はその宋美齢が建てた台湾の元迎賓館です。
かつては国際的なVIPだけが宿泊を許された特別な場所で、世界のトップホテルの栄誉に輝いたホテルなのだそうです。
VIP避難用の隠し地下通路等もあって事前に申し込めばそちらの見学もできるそうです。




「台北圓山大飯店」のエントランスです。


「ホテルのロビー」
ロビーには自由に入れるので入ってみました。
バイオリンやピアノの生演奏をしており、私たちが入った時には日本の曲「上を向いた歩こう」をバイオリンで奏でていました。



このホテルは1967年に、アメリカの「Fortune」誌において世界10大ホテルに選定されたそうです。
また翌年には、アメリカの「ホリデイ・マガジン」において「一流ホテル」に入選し、「都会の喧騒に佇むオアシス」と称されました。

圓山大飯店は当時から世界のホテル業界において屈指の存在であり、現在に至るまで各国元首、使節、政府要人、著名人など2000名以上を招待しているそうで、過去には、アメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領、タイのプミポン国王、韓国の朴正熙大統領、日本の佐藤栄作首相、シンガポールのリー・クアンユー首相なども当ホテルに宿泊されたそうです。

・ロビーの正面に掲げられている彫刻です。


更に、イランのパフラヴィー国王や、ヨルダンのフセイン国王、サウジアラビアのファイサル前国王が台湾に来訪の際もこの圓山大飯店に宿泊されたということです。

・ロビーの正面に掲げられている彫刻前からのロービーです。



台湾旅行(10)「十分」と「九份」

2019-05-13 | 旅行

台中観光で日月潭湖畔の文武廟を見学した後、バスで4時間ほど北上し、台北市の西に位置する新北市の「十分(じゅうふん)」へ行きました。
途中で、ガイドさんが説明されたポイントを車窓から撮影した画像を2枚ご紹介します。

最初は、1999年9月21日に発生した大地震で地滑りが起きたところです。
特に斜面沿いでは、隆起した軟弱な地面が低い方に崩れ、地滑りが多発して多くの建物や道路などが被害を受けたそうで、このような地滑りした所は20年経っても木が生えないと嘆かれていました。
地震国日本でも共感できるので撮影しました。

・地震で山崩れがあった個所です。


台北101
台北101(タイペイいちまるいち)は、台北市信義区にある超高層ビルで、「101」の名称は、地上101階建てと言うことでこれが由来となっています。高さは509.2m、地下は5階まであるそうです。
建設段階の名称は台北国際金融センター。7年間の工期を経て、2004年に世界一の超高層建築物として竣工しました。
設計は李祖原建築事務所、施工は熊谷組を中心としたJVにより行われた。総工費は約600億元(日本円では2400億円くらいでしょうか?)

・車窓からの「台北101」超高層ビルです。(升を8個重ねている形が特徴だそうです)


「十分(じゅうふん)の天燈上げ」
新北市十分の「天燈上げ」は観光客に人気のスポットです。
台湾ではランタン(天燈)に願い事を書き、空に飛ばすと願いが叶うとされており、十分駅はそのメッカとされている場所です。
十分駅は単線の平渓線が通っており、列車は日中約1時間毎に上下線1本がこの駅を行き交っていますが、列車がいない時間帯には駅から約300mの線路沿いに観光客の入場が許されており、この場所が写真撮影やランタン飛ばし(天燈上げ)を行うポイントになっています。

線路沿いには、飲食店・民芸品店・ランタン店は合わせて140軒あり、これらは線路すれすれの場所に位置しており、列車入線時には写真を撮る人や手を振る人で賑わいます。
ランタンは150元~、日本円にして約600円~(2017.8現在レート)であり、その色によって願い事の種類が分かれています。

・丁度列車が入ってきたので係員が記念撮影してくれました。(顔は隠しておきます)


4人一組でランタン(天燈)に願い事を書き「天燈上げ」を行います。
十分で何故、天燈を上げるのかというと、実は十分は神様の住んでいる場所に一番近い所と言われており、その神様に一番近い場所から天燈を上げると願いが叶うと信じられているのだそうです 。

・このように4人一組で四角いランタンの各面に願い事を書き、中のランプに火をつけて上昇させます。


大きなランタンの右側が私たちの組が上げたランタンです。


十分での「天燈上げ」の後、バスで1時間ほどの所にある「九份」の町へ行きました。

「九份」
九份(きゅうふん)は、台湾北部の港町基隆市の近郊、新北市瑞芳区に位置する山あいの町です。
この町は100年ほど炭坑で栄えた町ですが、現在は食堂や可愛い中華の雑貨やレトロな雰囲気が漂う町として観光客に人気がある観光スポットとなっています。

・このように狭いアーケード街となっており、観光客でごった返していました。


「阿妹茶楼(あめおちゃ)」
この茶房は「千と千尋の神隠し」のモデルとなったと言われている茶芸館です。
九份を代表する老舗茶芸館で豎崎路の階段道沿いに位置し、 瓦屋根に連なる赤提灯が魅せる独特な雰囲気を醸し出すお茶屋の「阿妹茶楼(阿妹茶酒館)」は、 かつての金鉱工場をリノベーションし再生しています。
こちらでは、お茶の時間を楽しむのはもちろんのこと、食事を楽しむことも可能です。
以前、宮崎駿
監督作品の「千と千尋の神隠し」の湯婆婆の油屋のモデルになったと噂され、 店側も全面的にそうPRしているため、常にジブリ映画ファンや日本人観光客に人気のお店となっているようです。



「阿妹茶樓」
湯婆婆の屋敷のモデルになったとも言われている阿妹茶樓(あめおちゃ)です。
阿妹茶樓(あめおちゃ)の入り口の横に飾ってあるこのお面は、カオナシのモデルになっているとか、いないとか。



湯婆婆の屋敷のモデルとなったと言われている「阿妹茶楼(あめおちゃ)」の建物です。



「阿妹茶楼(あめおちゃ)」から眺めた基隆港です。


炭坑に使われたトンネルです。
宮崎駿監督の千と千尋の神隠しにもトンネルが登場しますが、このトンネルがモデルとされているそうです。