らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

神戸を歩く(4)南京町

2017-03-31 | 趣味

神戸の南京町は横浜中華街、長崎新地中華街とともに日本三大チャイナタウンの一つに数えられており、中華食材、雑貨、料理など多彩な店舗が軒を連ねる人気の観光エリアとなっています。

「南京町」
南京町の誕生は、明治元年(1867年)の神戸港開港からといわれています。
当時の清国は日本と条約非締結国であったため、外国人居留地に住むことが出来ず、その西側に隣接する現在の「南京町」のあたりに居を構え、雑貨商、豚肉商、飲食店などを始めたことから、中国人が多く住む町として「南京町」「南京街」と呼ばれるようになったそうです。
南京町は東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店舗が軒を連ね、店頭の路上で点心(正食の前の簡単な食物)、スイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は地元の買い物客や観光客で賑わうということです。

「長安門」
南京町の東の入口に建つ長安門(楼門)は、日中両国の平和と友好を願って、中国政府が海外に輸出することを許可した第一号の“漢白玉楼門”だそうです。
北京の少し南に位置する河北省石家荘で産出される大理石を“漢白玉”と呼びますが、楼門の柱型には、この大理石を用いて、無数の龍と雲の彫刻が施されており、約100名の工程師が一年半の歳月をかけて制作したのだそうです。
屋根は黄色い瓦葺きで太陽に照らされると金色に輝いて見えるそうです。

・東の長安門です。


「南京町」という用語はかつて中国人街を指す一般名称でしたが、横浜中華街、長崎新地中華街のようにそのほとんどは戦後に改称したため、現在では事実上神戸のこの地区のみを指す固有名詞となっています。

・観光客で賑わう東西の通りです


「 あづまや」
南京町の中央通りは、十字路になっていて南京町の中心となる広場、「南京町広場」には「あずまや」があります。
この「あづまや」は昭和58年(1983年)4月29日に建てられた、高さ6.8m、直径3mの建物で、春節祭、中秋節のイベントはここで行われるそうです。
広場にある小財神像の「財財(サイサイ)」ちゃんと、「来来(ライライ)」ちゃんに触ると、幸せになれると言われています。

・中央広場の「あづまや」です。


「西安門」
南京町には、昭和57年にメリケンロード側に最初の楼門として南楼門が、さらに昭和60年には長安門(東楼門)が建設され、そして平成17年1月には西側入り口に西安門が完成したそうです。
西安門は、中国で商業が最も栄えたとされる約1000年前の北宋時代の門がモデルだそうで、南京町の門では最も絵に艶やかさがあるとのことです。
高さ9m、幅5m、瓦や装飾物などは北宋時代に世界的大都市として栄えた中国河南省開封市から取り寄せたものを使用しているということです。

・西の入り口に建つ西安門です。




神戸を歩く(3)生田の森

2017-03-30 | 趣味

生田神社の後方には「生田の森」が広がっています。
この森は古来名勝の地として歌に詠まれ、また平氏の根拠地であった一ノ谷城の東の木戸口にあたり、源平合戦や足利尊氏と新田義貞が戦った古戦場でした。

「史跡 生田の森」
ここは治承4年(1180年)福原遷都のとき,東の大手門が建てられた地と言われています。
1184年(元暦1年)の源平合戦、一ノ谷の戦いの古戦場であり、また1336年(延元1:建武3)に九州から東上して京都を目ざした足利尊氏が、新田義貞の軍を破った古戦場としても知られています。



「折鳥居」
立てられている案内によれば、この石柱は往古より生田神社表参道桜並木の入口、西国街道際に建てられし石鳥居の柱なり。この鳥居は安政の大地震の際、両脚の基部を残して倒壊せし為、その一部は移されて諏訪山金星台の碑となり、この石柱は原位置にありて、所謂、生田の折れ鳥居として市民の間に幾多の伝説と信仰を生みつつ親しまるること今に至れり。
と記されています。



「大海神社(おおわたつみ)」
説明によれば、御祭神は猿田彦大神で、神戸の地主神として最も古くこの地に祀られた神です。
その昔、文禄元年、豊臣秀吉公の海外遠征の時、海上安全を守らせたもう神として船内に御祀りになったという故事が伝えられています。
古来、庶民に大層尊崇をうけ、特に魚人、舵子(かじこ)、楫取(かじとり)の信仰が厚く、生田の浦を往来する船舶は帆を巻き下ろして遥かに敬意を表したと言われています。
近時は、水先案内の神・海上安全・開運隆昌に御加護のある神として祈願され、開運関係の企業の方々に深く信仰されています。



「さざれ石」
さざれ石(細石)は、もともと小さな石の意味ですが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指します。

日本の国歌である「君が代」の歌詞に歌われることで、その名が知られています。
歌詞中のさざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い年月を表す比喩として用いられているのですが、その歌詞の由来となった「さざれ石」は岐阜県揖斐川町春日にあるそうです。

♪ 君が代は 千代に八千代に さざれ石の
  いわおとなりて こけのむすまで



「かまぼこの発祥地」
かまぼこの起源は諸説ありますが、3世紀ごろ、神功皇后が「生田の森」に立ち寄り、すりつぶした魚肉を刀の先につけて焼いて食べたのが始まりとされています。
文献上では、1115年(永久3年)、関白右大臣藤原忠実の祝宴の膳の図で初めて登場したとされています。




神戸を歩く(2)生田神社

2017-03-29 | 趣味

 東遊園地を通り過ぎ、京橋のNTTドコモ神戸ビル近くに神戸海軍操練所があります。

「神戸海軍操練所跡」
神戸海軍操練所は1864年5月、海軍奉行であった勝海舟の提言で設立されました。
勝海舟は1860年に遣米使節の一員として咸臨丸で太平洋を横断し、アメリカに渡った時代の先覚者です。
もともとは低禄の幕臣でしたが、黒船来港後に海防意見書を提出したことをきっかけに頭角をあらわし、軍艦奉行並に抜擢されました。
その頃は攘夷論が盛んでしたが、海外情勢を見聞してきた勝海舟は、単純な攘夷論を強く批判し、欧米列強に対抗するためには海軍創設と開国が必要であるとの持論を持っていました。

「龍馬と勝海舟の出会い」
1862年10月、坂本龍馬は千葉道場師範代の千葉重太郎とともに、赤坂氷川にある勝海舟の屋敷を訪問しました。
この時、勝海舟は40歳、龍馬はまだ28歳でした。
龍馬の目的は攘夷に反対する勝海舟の成敗にあったとされています。
しかし、勝は龍馬たちを見ると開口一番、「そなたら、俺を斬りに来たのだろう。隠してもわかる。顔に殺気がみえる」といきなり図星をついたと言います。
龍馬が驚いて沈黙していると、勝は世界情勢と攘夷論の愚かしさを説明し、海軍の創設とその費用を生み出す貿易の必要性を論じました。
龍馬はその話を聞いているうちに、勝海舟の見識の広さ、人物の大きさに感服し、目的とは逆に弟子入りを決意したそうです。



「錨の前に広げられている本型石碑」
碑文は次のように記されています。
万延元年〈1860)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
 文久三年(1863)4月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材を輩出したのである。
 元治元年(1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。
今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
 ここに当時を偲び郷土を愛する人々にこの記念の碑を捧げる。



「生田神社」
生田神社は1800年以上の歴史を有する古社で、ご祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)です。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂(にぎみたま)であるともいわれている。



生田神社は当初は現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山:いさごやま)に鎮座していました。
しかし、延暦18年(西暦799年)に洪水で布引の渓流が氾濫して砂山西端が崩壊し、社殿が傾斜する被害が発生したことから、生田村の刀禰七太夫なる者がご神体を背負い、8日間鎮座地を探し巡りました。
生田の森に至った時、突然背負ったご神体が重くなりこれ以上歩けなくなったことから、これはご神意であろうと現在の生田の森に移転したと言われています。

「神戸の名称の由来」
神戸の名称は、大同元年(西暦806年)朝廷より当社の為にお供えする家、世話をする家、守る家である神戸(かんべ)44戸を頂いたとあり、この「かんべ」が「こんべ」となり現在の「こうべ」となったと伝わっています。



本殿です。


境内には恋が叶うと評判の松尾神社や、愛妻家で知られる歌人・柿本人麻呂を祀る人丸社もあり、縁結びのパワースポットとしても名高いそうです。
当社では戦前より結婚式を行っているそうであり、当日も一組の結婚式が挙げられていました。





神戸を歩く(1)東遊園地

2017-03-28 | 趣味

先週土曜日に現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー10名と、神戸市の三ノ宮周辺を歩いてきました。
今回のコースは、案内では竜馬の足跡や神社仏閣などを巡る約10㎞と言う事でしたが、実際に歩いたのは三ノ宮からメリケン波止場へ下り、元町の南京町を歩いて山手の北野異人館を巡る気ままなコースでした。
今日から数回に分けてご紹介します。

「東遊園地」
東遊園地は、神戸市中央区の神戸市役所の南、フラワーロードの西に広がる都市公園で、神戸市が管理しています。
毎年1月17日には「阪神淡路大震災1.17のつどい」が開かれている事でも知られています。
この公園は1868年に外国人居留遊園の名称で開園した日本で最初の西洋式運動公園とされています。
開園当時は外国人専用であり、公園内には、「ボウリング発祥の地」の碑や「近代洋服発祥地」の碑など、各種の記念碑があります。



「日本マラソン発祥の地」
神戸市役所の南端のフラワーロード歩道上にの暗緑色の台石の上に 茶色の御影石に5人のランナーの姿をくり抜き、「日本マラソン発祥の地 神戸」と書かれてるモニュメントがありました。
日本で「マラソン」という言葉が使われた競技会は,1909年(明治42)年に 神戸・湊川埋立地(現・兵庫区新開地)から大阪・西成大橋(現淀川大橋)までの 31.7キロの「マラソン大競争」だそうです。
出場者は一般公募され 、400人を超える応募者から120人に絞られて予選会が行われ、その結果 20人が選ばれて走ったそうです。
1位は 岡山県の金子長之助さんと言う方で、タイムは2時間10分54秒、2着を5分近くも引き離して優勝したと言われています。

・日本マラソン発祥の地


「皇后陛下の歌碑」
神戸市役所南側の東遊園地で皇后陛下の歌碑を見つけました。
歌碑には、
     「笑み交わし やがて 涙のわきいづる 復興なりし 街を行きつつ」
と記されていました。
皇后陛下は天皇陛下と震災直後から数回にわたり被災地神戸を訪問されています。
この歌は、平成17年震災後の復興が進みつつある、被災地神戸を訪問されて現場を歩かれたとき、無数の笑みに会釈をされ、体育館の冷たい床に被災者と同じく膝をつかれてお言葉をかけられた、その時のお気持ちを歌に詠まれたそうで、平成18年の歌会始にも詠まれた歌だそうです。



「希望の灯り」
「1.17希望の灯り」は、被災10市10町を巡って運んだ種火と47都道府県から寄せられた種火を一つにした灯りだそうです。
この灯りは被災した市民のみなさんの精神的なよりどころとなり、毎月17日には、ボランティアのみなさんが自主的に清掃などを行っています。
そして、毎年1月17日には、ここから被災10市10町のみならず遠方の都市まで、震災や灯りが結ぶ絆に関連した行事に分灯され続けているということです。

「1.17希望の灯りの碑文」
1995年1月17日午前5時46分 阪神・淡路大震災
震災が奪ったもの  命 仕事 団欒 街並み 思い出
・・・たった1秒先が予知できない人間の限界・・・
震災が残してくれたもの  やさしさ  思いやり  絆  仲間
この灯りは 奪われた すべてのいのちと
生き残った わたしたちの思いを むすびつなぐ



「日本で一番短い国道174号」
国道174号は、神戸市中央区の神戸港から国道2号に至る一般国道です。
神戸港の新港地区に所在する神戸税関前(税関本庁前交差点)から、神戸市中央区内の国道2号交点(税関前交差点)とを結ぶ、延長187.1 mの一般国道の路線、いわゆる港国道と呼ばれている日本一短い国道です。



「網屋吉兵衛顕彰碑」
碑文には次のように書かれています。
網屋吉兵衛は天明5年(1785年)摂津八部郡(やたべぐん)二ツ茶屋村(現 生田区元町4丁目付近)に生まる。
72才にして安永新田 (現 新港第一突堤付近)に船たで場(船底の貝殻や船虫などを焼く場所)の建造に着手。苦節3年大願成就す。
文久3年(1863年)時の将軍家茂が小野浜に上陸の際「この地は港に最適でございます。」と進言す。
後年この船蓼場は勝海舟の幕府海軍操練所となって神戸港の夜明けを迎え今日の繁栄の基礎となる。明治2年9月5日天寿85才





点字ブロック

2017-03-27 | 雑学

歩道や駅のホームには、黄色い突起状の『点字ブロック』がありますが、この正式名称は『視覚障害者誘導用ブロック』といいます。
足の裏の感覚でその存在や形状を確認できるようにするため、30センチ×30センチのブロックの表面に突起がついており、色は視力の弱い方でも識別しやすいように、黄色が推奨されているそうです。
この点字ブロックは、現在では世界の多くの国でも使用されているそうですが、実は、この点字ブロックを開発した人は日本人だそうです。

点字ブロックは、視覚障害者の安全かつ快適な移動を支援するための設備として、1965年(昭和40年)に三宅精一氏によって考案され、1967年(昭和42年)3月18日、岡山県立岡山盲学校に近い国道250号原尾島交差点周辺(現:岡山県岡山市中区)に世界で初めて敷設されました。
2010年(平成22年)には、点字ブロック発祥の地として同交差点に記念の石碑が建てられたそうです。



現在では、歩道・鉄道駅・公共施設だけでなく、民間の商店の出入り口近くなどにも広く設置が進んでおり、また、「エスコートゾーン」という、形状は異なりますが、車道の横断歩道部分にもブロックの設置が進んでいるそうです。

・中央がエスコートゾーンです。(ネットより)


しかし、さまざまなブロックが製造されて普及し、視覚障害者から統一してほしいとの要望が出されたため、日本工業規格(JIS)は、2001年(平成13年)に「覚障害者誘導用ブロック等の突起の形状・寸法及びその配列に関する規定」を定め、点字ブロックの形を規定しました。
現在、日本では、「視覚障害者誘導用ブロック設置指針」や「道路の移動円滑化整備ガイドライン」に基づき、各自治体の条例等にしたがって点字ブロックが設置されています。
そして2012年(平成24年)、点字ブロックの国際規格は、日本のJISを基に定められ、現在では多くの国に広がっています。

 


DMM.COMを装う架空請求

2017-03-26 | 消費者問題

動画配信などを手掛ける「DMM.COM]を装った業者から「有料動画の未払い料金」として身に覚えのない金銭を要求される架空請求が携帯電話のSMSで届き、金銭を騙し取られる被害が相次いでいるとして、消費者庁が注意を呼び掛けています。

同庁によると、「DMM.COM]やそれに類似した「DMMコンテンツ」などを名乗る業者が『サイト利用料が未払いになっています。今日中に支払えば訴訟手続きは取り下げます』と言った文章をSMSで送りつけてくるそうです。
一緒に書かれている問合せ先に電話をすると通販サイトなどのプリペイドギフト券を購入し、その番号を伝えるよう求められるそうです。

「手口」
まず、ユーザーの携帯電話のSMSに、発信者名が「DMM」と表示されるSMSが届き、「有料動画の閲覧履歴があり、登録解除をその日のうちにA社に連絡しないと身辺調査及び強制執行の法的措置に移行する」などと身に覚えのないことが記載されているようです。
不安を感じたユーザーがA社に連絡すると、A社はDMM.comをかたって「有料動画の閲覧履歴がある」と欺き、未払い料金などと称して金銭の支払いを要求します。
支払方法は、大手通販サイトのギフトカードをコンビニなどで購入し、カード番号を伝えることで支払うよう指定してくるようです。
ユーザーがカードを購入して支払うと、「延滞料金が残っている場合は追加の支払いがある」などとし、さらに追加料金を支払うよう求められるケースもあるようです。

このような相談が全国の消費生活センターなどに相次いでおり、昨年2月以降の約1年間で約2万4000件あったそうです。
この内617件に金銭被害があり、中には50代男性が1200万円を騙し取られたケースもあったそうで、被害総額は計約1億9000万円に上るということです。

消費者庁は「事業者が消費者に、ギフトカードを購入してカード番号等を教えてほしいなどと依頼するのは詐欺の手口」と注意喚起をしており、不審なSMSが届いても事業者には連絡せず、消費生活センターなどに相談するよう呼び掛けています。

それにしても次から次へと新手の特殊詐欺を考えつくものです。
大事なお金を渡す前に、住所地の消費生活センターや警察署に相談しましょう。
被害に遭わないよう、くれぐれもご注意ください。


仕切り直し47回

2017-03-25 | 雑学

大相撲春場所は12日まで新横綱の稀勢の里が全勝で優勝争いのトップを走っていましたが、昨日の横綱日馬富士戦に敗れて1敗となり、大関照ノ富士と並びました。
しかも運の悪いことに左の肩を痛めたようであり、今日からの相撲が取れるのかどうか危ぶまれるようです。
明日が千秋楽です。
痛みが引いて、再び優勝に向かって元気な相撲をとり、横綱としての初優勝を成し遂げて欲しいものです。

ところで相撲では取り組みの前に仕切り制限時間があります。
この制限時間は現在では幕下以下は2分以内、十両は3分、幕内は4分となっていますが、歴史を紐解くと驚くことに47回も仕切り直しをした力士がいました。
そこで今日はこの力士について調べました。

この力士は江戸時代の小兵力士山颪(やまおろし)です。
相撲史上最強力士として当時も現在でも筆頭格に名前が上がるのは江戸時代後期の雷電為右衛門で、彼の通算成績は254勝10敗だそうです。
この無敵の雷電を大坂相撲の小兵力士、山颪(やまおろし)源吾が誰も思いつかないような奇策で土俵に転がしたと言う逸話があります。

この頃の相撲は江戸で2回、大坂と京都で各1回の本場所があり、それぞれの興行団体が独自に番付を作成していました。
山颪は伯耆国(現鳥取県)米子の出身で雷電より6歳年長です。
大坂番付で幕内に当たる上段に名前が載ったのが34歳と言う遅咲きの力士です。

大坂場所で雷電との取り組みが決まった山颪は「普通の相撲では到底勝てない。どうすれば勝てるのか」と考えました。
そして考えついたのが仕切り直しで相手を疲れさせると言う奇策でした。

当日、山颪は立会のタイミングをずらして47回も仕切り直しをしたそうです。
そして、まいた塩で土俵が真っ白になる頃、巨漢雷電の右足が疲労のためけいれんを起こしました。
山颪はこの時を待っていたのです。
48回目の仕切りですかさず立ち上がり、相手の左足を取って倒しました。
これが小兵力士山颪が最強の巨漢力士雷電に勝つための奇策だったのです。

雷電の弟子たちの仕返しを恐れた山颪は九州へ逃れたそうです。
九州では指導者となって多くの力士を育てたと言う言い伝えが米子の釣船神社に残っているそうです。

それにしても仕切り直しで相手を疲れさすとはよく考えたものです。
現在では制限時間が決まっているので、5回も10回も仕切り直しをすることはできませんが、江戸時代の相撲は悠長だったようですね。


リンカーンの名言~自分の顔に責任を持つ~

2017-03-24 | 雑学

第16代アメリカ大統領リンカーンの有名な言葉に「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」があります。
今日はこの言葉について調べました。

この言葉の由来は次のように言われています。
閣僚を選任するにあたり、その後任の候補として、ある人物が推薦されました。
「その人は大変有能な人であり、是非に!」との強い思いが推薦人にはあったのだそうです。
ところが、彼と会ったリンカーンは採用しませんでした。
後日、なぜ彼を採用しないのか、と推薦人から詰問されたとき答えたのが今日のテーマ、「顔が悪すぎる。40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持ちなさい」という言葉なのだそうです。

人間、40歳も過ぎれば、その人の品性や知性、考え方がそっくり顔に表れるそうです。
どのような人生を歩んできたのか、つまり、日々の場面、場面で何を考え、どう行動してきたか、それらの積み重ねによって人の内面で育まれてきたものが、「顔」に滲み出てくる、ということのようです。

・思いやりのある人は、やさしい顔に。
・明るく前向きの人は、ほがらかな顔に。
・意思の強い人は、しっかりとした顔に。
・性根の悪い人は、悪人顔に。
などです。

では、歳をとってからも顔は変わるのでしょうか?
変わるそうです。
その人の置かれている状況によって、「顔」付きが変わることはよくあることです。
例えば、過酷なビジネスの最前線で指揮を取っていたときは、鬼のような面相であった人が、引退が決まったとたんに好々爺のような優しい面持ちになる、などよくありますよね。
自分で自分の心持を変えることができれば、「顔」を変えることもできるのです。

皆さんは今の年相応のご自分のお顔に責任がもてますか?
失礼しました。当然もてますよね。


サクランボの開花

2017-03-23 | 

一昨日、全国で最も早く東京でサクラが開花したとの発表がありました。
東京のサクラの開花は、去年と同じで、平年より5日早いということです。また、全国で最も早く開花するのは平成20年以来、9年ぶりだそうです。
いよいよ待ちに待ったサクラ便りが聞かれるシーズンに突入しました。

ところで我が家では一足早くサクラが満開となりました。
といっても、我が家のサクラはソメイヨシノではなく、「暖地」という品種のサクランボです。
鉢植えしているこのサクランボが今月20日に昨年より4日ほど遅く満開となったものです。

このサクランボは、3月上旬には蕾が膨らみ始め、その後の暖かさに開花を促されるように蕾はピンク色に染まり、そして一気に咲いてきました。

・これは3月17日の開花状況です。


サクランボ「暖地」はバラ科サクラ属の落葉小高木で、別名を桜桃(おうとう)と言います。
原産地は西アジア、ヨーロッパ地方といわれ、正式名はセイヨウミザクラ(西洋実桜)というそうです。
サクランボの名前の由来は、桜の実を指す「桜ん坊」からきたといわれています。



・白色に薄いピンクが混じる桜の花はなんとなく温かみがあり、梅とは違う趣があります


サクランボ「暖地」の説明書きによると、小粒でたくさんの実を生らしますが、味は甘酸っぱく、ナポレオンや佐藤錦のような美味しさはないようです。
しかし、花がきれいなことや1本の木で結実することなど、家庭果樹として楽しむにはお奨めの品種だそうです。





同期の偉才ー渡辺画伯の個展ー

2017-03-22 | 地元紹介

大阪ミナミの名所・旧跡を取り上げてきましたが、最終回の今日は我の同期で画壇の偉才「渡辺画伯の個展」についてご紹介します。

今回の大阪市内行きの用向きは、現役時代の関西地区の同期会に出席するためでした。
毎年の恒例行事となっている今年の同期会は、体調を崩した人や亡くなった人もいたことから出席人数が昨年より少し減り28名でした。
それでも出席した面々は1年ぶりの再会を喜び合い、会場の予約時間の3時間を有効に使用して旧交を温め合ったのでした。

・「渡辺画伯の個展」を紹介している同期会ニュースの一面です。


同期会では例年、会員の近況を紹介してくれるのですが、その中には2年前にフランスのルーブル美術館に絵画を出展した渡辺画伯の紹介もありました。
今回の彼のニュースは、先月、大阪市中央区瓦町に個展をオープンしたというものです。
個展は約1年間常設しているので、同期の皆さんを始め多くの方に見に来ていただきたいということでした。
そこで、弊ブログの読者の皆様の中で絵画にご関心のある方、大阪にお出かけの節はぜひお立ち寄りいただければと思い取り上げさせていただきました。


・政経文化画人展・文部科学大臣賞受賞 「穂高初雪(30号)」です。(同期会ニュースより転載)


個展の開催場所などの詳細は下記に地図と共に記しております。
なお、彼の主な作品や受賞歴は、山岳絵画「克宏ギャラリー」にリンクしていますのでご参照ください。

・双樹展入選作品「春のハーモニー(100号)」です。(同期会ニュースより転載)


「個展開催場所」
住  所  大阪市中央区瓦町2-2-7 瓦路ビル 1階、3階(下記地図をご参照ください)
画廊名  かわらじ画廊
開催日  平成29年2月10日~ 約1年間常設しています。
時  間  午前9時~午後9時
休館日  土曜日、日曜日、祝祭日