吉祥の象徴とされるものに「松・竹・梅」があります。
今日はこの由来について調べました。
松・竹・梅の由来は中国の「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」が日本に伝わったものと言われていますが、中国では日本のように目出度いものの象徴と言った意味はないそうです。
歳寒三友とは、宋代より始まった、中国の文人画で好まれる画題のひとつであり、具体的には松・竹・梅の三つを指します。
三つ一緒に描かれることも多いようですが、単体でも好んで描かれるということです。
・歳寒三友図です(ウィキペディアより)
日本で「松・竹・梅」が目出度い者の象徴とされるようになったのは、
「松」が冬も青々としていることから不老長寿の象徴として平安時代から、
「竹」は冬でも緑を保ち、雪にも折れることがないので無事を表わすとして室町時代から、
そして「梅」は雪の中でも美しい花をつけることから、勢いと美しさを表すものとされて江戸時代からと言われています。
「松・竹・梅」が、料理などで「特上、上、並」を表すようになったのは江戸時代以降のようです。
これは、江戸っ子は見栄っ張りだったことから、お金がなくても「並」とは言いたくなかったようであり、「並」と言わなくても安い料理が選べるように、「特上」「上」「並」に「松」「竹」「梅」を割り振ったといわれています。
また、「松」が特上の理由は時代順からという説や、単に「松・竹・梅」と呼ぶ順番からと言う説などがあるようです。
一昨日、所用で神戸に行ってきました。
そのついでに、南京町を散策したのでご紹介します。
「南京町」
南京町の誕生は明治元年(1868年)の神戸開港の年と言われており、横浜中華街、長崎新地中華街と共に日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西270m、南北110mの範囲に100余りの店舗が軒を連ねています。
当時の清国は日本と条約非締結国であったため、外国人居留地に住むことが出来ず、その西側に隣接する現在の南京町のあたりに居を構えて、雑貨商、豚肉商、飲食店などを始めたことから、中国人が多く住む町として「南京町(なんきんまち)」「南京街(なんきんがい)」と呼ばれるようになったのだそうです。
「中央通り」
南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「南楼門」という名称の門があり、北は元町商店街につながっています。
「長安門」
南京町のシンボルである長安門(楼門)は、日中両国の平和と友好を願って、中国政府が海外に輸出することを許可した第一号の“漢白玉楼門”だそうです。
北京の少し南に位置する河北省石家荘で産出される大理石を“漢白玉”と呼びますが、楼門の柱型には、この大理石を用いて、無数の龍と雲の彫刻が施されており、約100名の工程師が一年半の歳月をかけて制作したのだそうです。
屋根は黄色い瓦葺きで太陽に照らされると金色に輝いて見えるそうです。
「南京町広場」
南京町の中央通りは、十字路になっていて南京町の中心となる広場の「南京町広場」には「あずまや」があり、春節祭、中秋節のイベントはここで行われます。
広場にある小財神像の「財財(サイサイ)」ちゃんと、「来来(ライライ)」ちゃんに触ると、幸せになれると言われています。
「西安門」
南京町には、昭和57年にメリケンロード側に最初の楼門として南楼門が、さらに昭和60年には長安門(東楼門)が建設され、そして平成17年1月に西側入り口に西安門が完成したそうです。
西安門は、中国で商業が最も栄えたとされる約1000年前の北宋時代の門がモデルだそうで、南京町の門では最も絵に艶やかさがあるとのことです。
高さ9m、幅5m、瓦や装飾物などは北宋時代に世界的大都市として栄えた中国河南省開封市から取り寄せたものを使用しているそうです。
秋の夜長
秋のお彼岸は23日が中日で、26日が彼岸明けでした。
彼岸の中日は、一般的に昼と夜の長さが同じと言われていますが、大阪では昨日27日が昼と夜の長さが同じ12時間でした。
そして今日からは夜の時間が昼間の時間より長くなり、所謂、「秋の夜長」が始まることになります。
国立天文台のHPで日の出、日の入り時刻を調べたところ、今日28日は日の出時刻が5時50分、日の入り時刻は17時47分で、日中の時間が11時間57分となり、昨日よりも3分昼間の時間が短くなりました。
参考までに29日は昼間の時間が11時間55分、30日は11時間53分となっており、明後日以降、日に2分~3分くらいずつ短くなるようです。
“暑さ寒さも彼岸まで”と言いますが、彼岸前後から夜の気温も20度前後まで下がり、過ごしやすくなりました。
秋の夜長を皆さまはどのようにお過ごしされるのでしょうか?
読書をするもよし、ネットを見るのもよし、テレビや趣味の時間に費やす方もおられることでしょう。
いずれにしても充実した時間にしていただきたいですね。
なお、各地の日の出、日の入り時刻は国立天文台のHPにリンクしておきますのでご参照ください。
ホルモン
嘗て、もつ鍋が大流行したことがありました。
「もつ」とは、鳥獣肉の臓物(内臓)のことで、牛または豚の「もつ(小腸や大腸などの内臓肉、別名ホルモン)」を主材料とするなべ料理のことで、ホルモン鍋とも言います。
当時は何回か食べましたが、最近は全く食していません。
今日はホルモン焼きやホルモン鍋など、ホルモンの語源について調べました。
ホルモン焼のホルモンの語源については、一般的に戦前、日本人があまり利用せず捨ててしまっていた内臓部分を料理として使えるように工夫したものだと伝えられており、大阪弁の「放る物」→「ほるもん」→「ホルモン」になったと思っていましたが、これは俗説のようです。
真実は、医学用語であるドイツ語のHormon(ホルモン)、所謂、内分泌線など動物体内の特定の組織や器官から分泌され、体内を循環し、活動を調節する生理的物質のホルモンからで、栄養豊富な内臓を食べると活力がつくとして名付けられたそうです。
ホルモンという言葉は大阪の洋食レストランによって商標登録されているそうですが、同社によれば、捨てられてしまう内臓で、おいしく料理が作れないものだろうかと試行錯誤した結果、グラタンや煮込み料理が出来上がり、これをメニューに加えたところ、爆発的な人気を博したため、「ホルモン料理」と命名して、昭和15年(1940年)に商標登録したということです。
・ホルモン焼きです(ネットより)
大きな油揚げがのったそば、大阪では「たぬきそば」と言いますが、東京では「きつねそば」と言うそうです。
同じメニューが何故大阪と東京で違うのでしょうか?
一般に関東では油揚げがのったそば・うどんを「きつね」、天かすをのせたものを「たぬき」と呼ぶのに対して、大阪では「きつね」といえば油揚げの入ったうどんを言い、「たぬき」は油揚げが入ったそばのことで、きつねそば、たぬきうどんは基本的にありません。
きつねうどんの発祥は大阪の船場にあるうさみ亭マツバヤだそうです。
同社のHPによれば、船場でうどん屋「本舗松葉家」を開店した「うさみ亭マツバヤ」の創業者の宇佐美要太郎さんは、寿司屋で働いていた経験から、いなり寿司の揚げを出してみようと考え、ある日うどんを注文したお客さんに揚げを別皿に入れてサービスで出してみたそうです。
もちろん、うどんと揚げは別々に食べるものとして出したのだそうですが、あるお客さんは揚げをうどんの上にのせて食べたのだそうです。
それが、うどんの上に揚げがのった「きつねうどん」の始まりだそうです。
その食べ方がすごく美味しかったということで、そのうち、お客さんが油揚げをうどんに直接のせて食べるようになり、商人の街・船場で大ヒットし、いつの間にか「きつねうどん」と呼ばれて、全国に広がっていったということです。
・きつねうどんです。(ネットより)
一方「たぬきが生まれたのは江戸時代の終わりで、関西より関東が先だったようです。
最初はイカのかき揚げをそばにのせていたようですが、関東ではごま油で揚げるので衣が黒っぽくなり、茶色がかった濃い色がたぬきを連想させることから、それが名前の由来になったようです。
ところが関東発のたぬきそばは、なぜか関西で広まらなかったそうです。
そのうち「きつねがうどんなら、たぬきはそばのことだろう」との発想で、油揚げがのったそばを「たぬき」と呼ぶようになった、ということです。
・たぬきそばです。(ネットより)
また、東京でたぬきそばと呼ばれている天かすが入ったソバは関西では「ハイカラ」と呼んでいますが、これは、関西人は「捨ててもいいような天かすをいれるなんて、関東の人はハイカラやなあ」と皮肉をいっていたことから、その名残で天かす入りのそば・うどんを「ハイカラ」と呼ぶようになったようです。
・大阪では「ハイカラ」、東京ではたぬきそばだそうです。(ネットより)
「きつねとたぬき東西の違い」
きつね たぬき
大阪 甘い油揚げののったうどん 甘い油揚げののったそば
きつねそばは基本的に存在しない たぬきうどんは基本的に存在しない
天かすがのっているものは
大阪では「ハイカラ」と呼ぶ
東京 きつねうどんときつねそばがあり たぬきうどんとたぬきそばがあり
いずれも油揚げがのっている いずれも天かすがのっている
皆さんは家電や家具などを購入する際、値引き交渉をしませんか?
私は「ダメ元(ダメで元々)」で話をし、店員が価格を提示したら、更に、「もう少し勉強しなはれ!」などと言って値引き交渉をします。
勉強と言えば一時CMでよく流れていた「勉強しまっせ、引越しのサカイ」という会社があります。
堺市に本社を置くこの会社は、勉強のキャッチフレーズが当たったのかどうかわかりませんが、急成長して、今や北海道から沖縄までの全国に営業拠点を置く大企業となり、東証一部にも上場するまでになっています。
関西では商売する上で「勉強」が不可欠なのかもしれません。
この「勉強」という言葉は関西地方特有の言葉なのでしょうか?
今日は「勉強」について調べました。
関西地方で商売人がよく使う「勉強」という言葉は値引きするという意味のほかに、広辞苑には次のように載っています。
1.精を出してつとめること。
2.学問や技術を学ぶこと。様々な経験を積んで学ぶこと。
3.商品を安く売ること。
「勉強する」とは学問や技術を学ぶことのほかに、商品の値段を努めて安くすることを意味し、値引きが慣行的に行われている商人の町大阪地方で使われていると言われています。
「勉強」とは、強いて勉めると書く通り、困難なことに精を出して勉めることであり、儲けを削って安く売るということが本来の意味だそうです。
勉強が「学習」の意味で使われるようになったのは明治以降のことで、それまでは商人が無理をして値引きするという意味で主に使われていたということです。
ということは、大阪で今も使われている「勉強しまっせ」は、本来の意味で使われているということであり、商人の町であるからこそ大阪に古い形で残っている特有の言葉なのかもしれませんね。
今日は雲の話題です。
昨日、早朝ジョギングをしていた時、ふと空を見ると、晴れと曇りを分けるように、雲の端が一直線に広がっていました。
初めて見る光景を写真に収めたのでご紹介します。
・気象衛星からの停滞前線の画像です(日本気象協会HPより)
日の出前の午前5時40分くらいから約1時間にわたって見られたこの雲は、気象衛星画像を調べた結果、和歌山北部に架かっていた停滞前線の端であることが判明しました。
・東方面の写真です。(6時17分、2階ベランダから撮影)
雲は南北を区切るように東から西にかけ伸びており、南側は厚い雲に覆われた曇り空、北側は雲ひとつない青空でした。
それにしても見事に晴れと曇りの区分けができるものです。
・南方面です。(6時20分)
7時過ぎには雲の端から崩れ始め、11時ころには霞がかったような薄い雲となり、次第に消えていきました。
・西方面(6時17分)
NHKの連続テレビ小説「花子とアン」は今週末が最終回となります。
このドラマは平均視聴率が20%を超える人気ドラマで、私も毎朝観て感動しているところです。
ドラマの中では「ごきげんよう」の挨拶が繰り返しでてきますが、今日はこの言葉について調べました。
「ごきげんよう」とは、広辞苑によると「人と出会った時、または別れる時に健康を祝し、又は祈って言う挨拶言葉と説明しています。
もともとは、室町時代初期頃、宮中の女官が、上品で優雅な言葉として使い始めた女房ことばの一つと言われており、江戸時代になって庶民の間でも使われるようになったということです。
「ごきげんよう」は、「ご機嫌」+「よう」に分けられ、「機嫌」には【気分・様子・安否】の意味があり、これに「良く」が変化した【よう】という言葉が付いて、「ご機嫌良くお過ごしですか」「ご機嫌良くお過ごしください」という【相手の体調や健康を気遣う気持ち】を表わす言葉となっています。
ドラマでも演じられていましたが、村岡花子は1932年から9年間担当したラジオ番組「子供の時間」の中の「子供の新聞」というコーナーで、「また明日お話しましょうね。では皆さん、ごきげんよう さようなら」という挨拶を締めの定番にしていたことから、花子が語る「ごきげんよう さようなら」は流行語にもなって、広く国民に知れ渡ったのだそうです。
ドラマの主人公・安藤はなのモデルである村岡花子は、東京・麻布の「東洋英和女学院」に通ってたそうですが、この女学院では現在でも朝の挨拶、授業の始めと終わり、そして礼拝に行く前などに「ごきげんよう」の挨拶をすることで有名なのだそうです。
一昨日は彼岸の入り、そして明日は彼岸の中日です。
朝晩はすっかり涼しくなり、いよいよ本格的な秋の到来となりました。
秋と言えば、「食欲の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」などと形容されるように、何事をするにしても最適な季節です。
特に、夏に運動不足だった人たちはそれを取り戻そうと、テニスやゴルフ、野球やジョギングなどのスポーツを張り切って始める人がいるかも知れません。
しかし、いきなり始めて、張り切り過ぎるとアキレス腱を断裂したり炎症を起こしたりします。
ストレッチを十分にしてから始めるようにしましょう。
さて、そのアキレス腱と言えば、比喩的に「強者が持つ急所」を指す言葉として用いられることが多いですが、正にその言葉通り、この腱は人体で最も強く最大の腱で、歩行や跳躍などの運動の際に必要で、もし断裂したら治るまでに3ヶ月以上はかかるそうです。
・アキレス腱です。(ウィキペディアより)
今日はこのアキレス腱の由来について調べてみました。
アキレスとは、ギリシャ神話の英雄アキレス(アキレウス)のことで、アキレス腱とは、彼のかかと部分の腱のことです。
アキレスは不死身を誇っていた勇者ですが、唯一の弱点はこのアキレス腱だったそうです。
これは彼の母親テティスが息子を不死身にするため、冥府を流れる川に赤ん坊であったアキレスを浸しましたが、かかと部分を握っていたためそこだけ水に触れず唯一の弱点となったということです。
不死身を誇っていたアキレスは戦闘中にその弱点である踵を射られて死にましたが、この逸話から「強者の唯一の致命的な弱点」の例えとして「アキレス腱」が用いられるようになったということです。
浮世
世間の常識からかけ離れた言動をすることを「浮世離れ」と言ったり、この世の煩悩や心の迷いを「浮世の闇」と言ったりする「浮世」とは、世間とかこの世の中のことを指しますが、何故、浮世なのでしょうか?
調べてみると、浮世の「浮」は「苦しい」、「辛い」を意味する「憂(う)し」の連用形「憂き」が本来の形で、平安時代には「辛(つら)いことが多い世の中」を言っていました。
それがやがて仏教的思想が定着し、その厭世感から、この世を「無情のもの」「仮の世」と考えるようになり、「憂き世」も「儚い世の中」の意味になりました。
「儚い世の中」を表すようになったため、漢語「浮世(ふせい)」を当てたほうが相応しくなり、「憂き世」は「浮世」と表記されるようになったようです。
江戸時代に入ると、「儚い世の中であれば浮かれて暮らそう」という、現世を肯定した享楽的世間観が生れ、男女の恋情や遊里で遊ぶことの意味となり、「浮世絵」や「浮世話」のように名詞の上について「当世の」「現代風の」「好色な」といった意味も表わすようになったそうです。
浮世を辞世に詠んだ武将の句をご紹介します。
・「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」 大石内蔵助の辞世
・「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」 秀吉の水攻めにあった備中高松城主・清水宗治の辞世
・「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」 伊達政宗の辞世