皆様は「頭ごなし」に叱ったり、叱られたりしたことはありませんか?
また、「頭越し」に物事を進めたり、進められたことはありませんか?
「頭ごなし」と「頭越し」よく似た言葉ですが、この違いはどこにあるのでしょうか?
「頭越し」
「頭越し」とは、先ず相談すべき人や、そのことに利害関係のある人などを差し置いて、直接相手に働きかけることです。
例えばA氏とC氏という2人の人物がいて、通常その間の連絡をB氏という人物が取り持っている時に、B氏を差し置いてA氏がC氏に対し直接連絡しようとすることが、「頭越し」にあたります。
B氏は当然のことながら「頭越し」の交渉に怒りますよね。
このように「人の頭上を越して何かの動作をすること」を「頭越し」と言います。
「頭ごなし」
一方「頭ごなし」とは、相手の言い分を聞かず、初めから一方的に物事を決めつけて言うときの言葉です。
ある結果について、当事者の弁明などを全く聞こうとしないまま、その人に対し一方的なふるまいに出ることを言います。
例えば、「頭ごなしに反対する」「頭ごなしに叱りつける」などのように使われます。
広辞苑を調べると「熟し(こなし)」の説明に4項目あって、その④に次のように説明しています。
④ひどくやっつけること。けなすこと。『頭ごなし』
使用例としては、「上司は僕のミスだと頭ごなしに決めつけた」とか「頭ごなしに叱りつける」などのように使われます。
「頭越し」との違いは、「一方的な態度に出る」という意味合いに主眼が置かれているところにあります。
「頭越し」と「頭ごなし」どちらもよく似た言葉ですが、いずれの場合も相手方を大きく傷つけます。
そのように場面が訪れたときには十分気を付けたい言葉ですね。
春の到来と共に、寝床から起きるのがつらくなります。
特に、ここ数日は戻り寒波による冷え込みから、朝方の気温が一桁台になっているため、布団の温もりから離れられず、いつまでも寝ていたい気分です。
このような情景を詠んだ詩が1300年ほど前の中国・唐の時代にあります。
その詩とは?
そうです。
皆さんよくご存じの中国唐代の代表的な詩人・孟浩然の「春暁(しゅんぎょう)」です。
この詩は恐らく、孟浩然の詩の中で日本人に最もよく知られている詩ではないでしょうか?
「春暁」
1300年前に孟浩然(もうこうねん 689~740)が詠んだ「春暁」です。
春暁 読み
春眠不覺暁 (春眠暁を覚えず)(しゅんみんあかつきをおぼえず)
處處聞啼鳥 (処処啼鳥を聞く)(しょしょていちょうをきく)
夜来風雨聲 (夜来風雨の声) (やらいふうのこえ)
花落知多少 (花落つること知る多少ぞ)
「現代語訳」
春の夜は誠に眠り心地がいいので夜が明けるのも気がつかなかった
あちらこちらで鳥のさえずる声が聞こえる
そういえば、昨夜は一晩中風雨の音がしていたが
折角咲いた花はどれほど散ってしまっただろうか
「詩の背景」
この詩を書いたのは、1300年ほど前の中国の詩人、孟浩然です。
彼は各地を旅したり、山にこもったり、自由気ままに生きました。
役人になろうと頑張ったこともありましたが、結局うまくいきません。
でも、出世はしなくとも、思う存分に朝ねぼうできる。
そんな生活から生まれたのが、この詩です。
「暁、東雲、曙の違い」
ところで、この詩では「暁を覚えず」と「暁」が出てきますが、夜明け前の表現にはこの他にも「東雲」「曙」があります。
皆さんはこの違いをご存じでしょうか?
実は、同じ夜明け前でも暁、東雲、曙は時間帯が違うのです。
そこで広辞苑を調べてみると以下のように説明していました。
・「暁」・・・夜を3つに分けた第3番目。宵、夜中に続く。現在ではやや明るくなってからを指すが、古くは暗いうち夜が明けようとするとき。太陽が昇る前のほの暗い頃。
暁は、夜半から空が明るくなる「前」の時間を指します。「あか」がつくので、夜明けの空が赤い状態のことなのだとつい勘違いしそうですが、空は真っ暗の時間帯を言います。
・「東雲」・・東の空が僅かに明るくなるころ。夜が明けようとして東の空が明るくなってきたころ。
東雲は「暁」と「曙」の間の、空が白んでいる段階のことをいいます。
・「曙」・・・夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始める頃。
曙はちょうど日が出る直前の頃で、東の空がほんのりと赤く染まっているような状態を言います。
以上の3つの表現は、夜明け前の数時間の微妙な自然の情景を日本では区分して表現しています。
日本人の感性って凄いですね。
「ネジバナ」という野草があります。
東アジア原産の多年草で、日本では北海道〜九州にかけて広く分布しています。
日当たりの良い平地を好み、ラン科の植物としては珍しく市街地でも見かけることができます。
名前の由来は、螺旋状に花を咲かせることからその名前が付けられました。
学名ではスピランテス(=螺旋の花)、英語ではscrew flower(=螺旋の花)とそれぞれ表記され、いずれも螺旋状の花を意味しており、その認識は世界共通のようです。
この花は別名を「モジズリ」といいますが、この名前は平安時代の陸奥信夫(みちのくしのぶ)地方(現:福島県中通り地方)で作られていた「山繭を紬いで織り、天然染料で後染めをする絹織物」に由来しています。
この捩(も)じり模様を詠んだ有名な和歌が百人一首にあるのでご紹介します。
・螺旋状に咲いているネジバナです。
「百人一首」
平安時代の歌人、河原左大臣・源融(みなもとのとおる)が詠んだ次の和歌が百人一首 第14番に撰ばれています。
「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」(河原左大臣)
・現代語訳:
陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣(すりごろも)の模様のように、乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。私のせいではないのに(あなたのせいですよ)。
・「評」
この歌は心に秘めた片思い、「忍ぶ恋」を詠んだ平安時代の恋の歌です。
恋しても叶うはずのない高貴な人や他人の妻への慕情に心を乱す男のことを歌った哀しい歌です。
・百人一首第14番、河原左大臣・源融の和歌です。
「河原左大臣(かわらのさだいじん--822~895)」
河原左大臣とは、嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)のことです。
成長して後、臣籍(しんせき=家臣となること)に下って源氏の姓を受け、左大臣従一位となりました。
後に荒れさびて歌の舞台となる京都・賀茂川の河原院を邸宅としていた人物です。
植物のネジバナは平安時代には既に和歌に詠まれていることから、古くから親しまれている花のようです。
恋に乱れた我が心を、そのネジバナに例えて詠むなど、平安時代の貴族は教養がありますね。
今年も先日、西瓜を植え付けました。
毎年、「夏武輝(かぶき)」という品種を植えているのですが、今年はその苗を売っていた苗屋さんが廃業したので他の数か所の苗屋さんに行ってみました。
しかし、同じ品種の苗が見つからず、止む無く、別品種の大玉スイカ、「紅まくら」「極丸」「黒皮極旨」「日章早生」を1株ずつ購入し、植え付けることにしました。
・今年植え付けた左から「紅まくら」、「極丸」「黒皮極旨」「日章早生」の株です。
「植え付け」
昨年のスイカ栽培は大成功だったので、基本的にその栽培方法を踏襲しています。
即ち、植え付ける畝の中央に溝施肥の溝を掘り、肥料として「ようりん」「配合肥料」「化成肥料」「バーク堆肥」を混和して少し高く作ります。
その両サイドには各1mほどの幅で蔓が伸びるスペースをやや低く作っています。
1週間ほど後に、溝施肥をした畝の中央に1.2㍍の間隔で4株を植え付けました。
植え付け後、寒さ対策のためビニールトンネルで保温しています。
この後、蔓が伸びてくる前に、両サイドのマルチをめくって「ようりん」「配合肥料」「化成肥料」散布して混和し、畝を平らに作り直します。
マルチを張り直し、その上に稲わらを敷きます。
5月中旬には気温も安定して暖かくなることからトンネルを撤去します。
5月末~6月の初め頃に花が咲き出し、それから40日後くらいに収穫ができると思います。
「昨年の収穫結果」
大成功だった昨年のスイカの収穫は以下の通りです。
・植え付け株数 4株
・全収穫個数 22個 内訳 1番成り 9個・・・内訳(・10㎏台 1個・8㎏台 1個、・7㎏台 4個、・6kg台 3個)
2番成り 13個・・・内訳(・6kg台 2個 ・4㎏台以下11個)
今年も昨年同様に豊作になるといいのですが・・・。
最近は旅行に行っていないのでお土産を買うことはないのですが、先日、菜園仲間からお土産をいただきました。
このお土産のルーツはお伊勢参りという説があるので調べました。
「お土産のルーツ」
土産のルーツは江戸時代の「お伊勢参り」だという説が有力だという事です。
当時は、伊勢神宮を参拝することは庶民にとって一生に一度の憧れでした。
その高額な旅費をねん出するために生まれた仕組みが「伊勢講」です。
庶民が金を出し合って順番に参詣に行くという仕組みで、お伊勢参りは大ブームとなりました。
国学者として有名な本居宣長の「玉勝間」には、50日間に362万人がお伊勢参りをしたと記されているそうです。
伊勢講の参拝者は旅費を受け取った代わりに神社からの授かり物を意味する「宮笥(みやげ)」を持って帰ることで、参拝の証明としました。
(参考)
なお、・「玉勝間」は江戸時代後期の国学者である本居宣長による随筆です。
・「宮笥(みやげ)」は盃やお札箱などでしたが、その後、持ち運びに便利で壊れにくい櫛などが売られるようになりました。
この「宮笥(みやげ)」が「土産(みやげ)」と呼ばれるようになり、語源の一つになったと考えられています。
・神宮のお神札「神宮大麻」です。(ウィキペディアより)
「磯田道史氏の伊勢神宮説」
歴史学者の磯田道史氏も「なぜ日本人はお土産を配るのか」を解説している中で、伊勢神宮説を取り上げ、“江戸時代の旅行”に注目する必要があると解説しています。
先生によれば、江戸時代の旅行とは、そもそも神様や仏様への“お参り”を意味したものです。
しかし、当時の旅行にはかなりのお金が必要で、例えば江戸と京都の往復にかかる費用は普通に行って約4両(40万円)でした。
そのため全ての人が旅行に行けた訳ではなく、仲間内で旅費を出し合い“代表者が旅に出る”という「代参」が習わしでした。
当然のことながら、旅行者は帰ってきた後の“お土産”が必要になったといいます。
この頃の“お土産の定番”といえば「伊勢神宮の神宮大麻(じんぐううたいま)」というお札で、旅行者は「ご利益」と「無事にお参りをしたことの証」としてお札を持ち帰りました。
これがお土産のルーツだということです。
現在では伊勢のお土産と言えば「赤福餅」が人気商品になっています。
美味しいので、私は大阪市内に出かけたときは、天王寺駅の売店でよく買って帰ります。
ネモフィラの花をご存じでしょうか?
花径は2〜3cmほどの小さな花ですが、淡いブルーのグラデーションがとてもきれいな花です。
私の畑では、今、ブルーと白色のネモフィラが満開になっているのでご紹介します。
・畑のネモフィラです。殆どが淡いブルーですが、手前に白色もあります。
「ネモフィラの特徴」
ネモフィラはムラサキ科ネモフィラ属に分類される植物の総称で、和名はルリカラクサ(瑠璃唐草)と呼ばれています。
ネモフィラという名前はは属名が流通名として定着したものですが、これはギリシャ語の「nemos(小さな森)」と「phileo(愛する)」という言葉に由来しています。
原産地は北アメリカで、アメリカ西部および南東部、メキシコなどに分布し、アメリカでは主にカリフォルニア州を中心に分布しています。
日本には1914年頃に渡来したと言われています。
草丈は10〜20cm、花径は2〜3cmほどの小さな植物で、横に這うように成長する性質を持っています。
「名前の由来」
ネモフィラとは、ギリシャ語で“小さな森”を意味する「nemos」と、“愛する”という意味の「phileo」を組み合わせた言葉です。
これは、ネモフィラの原種が明るい日向に森のように群生している様子からつけられたといわれています。
・傍で見ると淡いブルーがとてもきれいです。
「ギリシャ神話」
そのネモフィラには次のような神話があります。
その昔、ネモフィラという美しい女性に恋をした男性がいました。
男性は「彼女と結婚できるならこの命を神に捧げます」と祈り続け、ふたりは結婚します。
しかし、約束どおり男性は結婚してすぐに死んでしまいました。
悲しみに暮れたネモフィラは、冥界へと足を運び「夫に会いに来ました。どうか冥界の門を開けてください」と嘆きます。
しかし、死者しか通ることの許されない冥界の門が開くことはなく、ネモフィラは門の前で泣き続けました。
それを不憫に思った神プルトンがネモフィラを一輪の花に変えました。
それが最初のネモフィラだといわれています。
ネモフィラの名前はこの神話が由来となっています。
「ネモフィラ祭」
ネモフィラと言えば、ちょうど今、大阪・舞洲の「大阪まいしまシーサイドパーク」で4月7日から5月7日までの1か月間「ネモフィラ祭」が開催されているところです。
約3万㎡の敷地内に100万株のネモフィラが咲き乱れ、大地がブルーのじゅうたんで埋め尽くされて、天国と見間違うような美しい光景に、思わずうっとりするという事です。
関西にお住いの方は一度訪れてみては如何でしょうか?
・大阪まいしまシーサイドパークのネモフィラ祭の会場です。
庭の躑躅(ツツジ)がきれいに咲きました。
和名のツツジという名前は、筒状の花を意味する筒しべが語源のようですが、漢字では「躑躅」と難しい漢字を使用し、音読みで「テキチョク」と読みます。
「躑躅」の「躑(てき)」は、たたずむ、行きなやむ、あしぶみする、などの意味があり、
「躅(ちょく)」も、あしずりする、あがく、といった意味があります。
この2語を合わせた「躑躅(てきちょく)」とは、歩行の進まない状態、あしぶみ、を意味する言葉です。
でも何故、植物のツツジが「薔薇(バラ)」や「葡萄(ブドウ)」「菖蒲(アヤメ)」のように「草冠り」の字ではなく、「足」偏のある「躑躅」の難しい漢字を使用しているのでしょうか?
・庭の真紅のツツジです。
「躑躅」の語源
実はツツジの漢字表記「躑躅(てきちょく)」は、中国語で「彷徨う、徘徊する」という意味です。
躑躅という当て字を付けたのは、5~6世紀ごろ、羊がツツジの葉を食べて「躑躅して死ぬ」という記述から、「羊躑躅」の名が付いたということです。
また、他には、羊たちが食べれば死ぬので、この葉を見ると「躑躅(テキチョク=足踏みする、ためらう)」して散り散りに分かれてしまうことから、「羊躑躅」という名を付けたとも言われており、これが「躑躅」の由来のようです。
漢字で「躑躅」と書いた躑躅の花は美しく感じませんが、カタカナで「ツツジ」と書くと美しい花のように感じます。
文字による視覚の違いが美しさの違いを感じさせるのは私だけでしょうか?
13日から一昨日にかけて日本列島の殆どの地域に黄砂が飛来し、2年ぶりに黄砂を観測した所が多かったようです。
今日から明日にかけても、先日ほどの濃度にはならないものの、再び西日本を中心に黄砂が飛来する可能性があるそうです。
充分ご注意ください。
さて、今日はその黄砂に関係する難読漢字を取り上げたいと思います。
次の漢字は何と読むでしょうか?
「霾る」
実はこの漢字はNHK大阪放送局のお天気コーナーで紹介していたものです。
正解は「つちふる」と読みます。
私は初めて見る漢字であり、読めませんでしたが、皆様は如何でしょうか?
「つちふる」を広辞苑で調べてみました。
「つちふる」は「土降る」となっており、その意味は、大風に吹きあげられた土砂、特に黄砂が降る。「霾る(つちふる)」。俳句で春の季語と説明しています。
春の季語となっているのは、毎年春になると中国大陸で発生する黄砂が海を渡って日本の上空にやってくることからのようです。
日本全国を襲った先日の「黄砂」は、正に「つちふる」でした。
車や車庫の屋根には一面黄砂が降っていました。
花粉症などのアレルギー症状や呼吸器系に疾患のある方は、黄砂の影響で症状が悪化するおそれがあるようです。
黄砂の注意報が出たときは外出を控えるなど、十分ご注意ください。
ロシアがウクライナへ軍事侵攻したことによって諸物価が大きく値上がりしています。
野菜も例外ではありません。
そんな中、季節を問わず価格が比較的安定しており、節約食材の代表格ともいえる野菜に「もやし」があります。
もやしは味にクセがなく何にでも合うので、炒めもの・サラダ・スープなど、幅広いメニューに活用できます。
「もやしの語源」
もやしは「萌やす」が語源で、豆や穀類などの種を水に浸し、日光を当てずに発芽させたものの全般をさします。
原産地は不明ですが、アジアでは古くから食べられており、日本でも平安時代に編まれたわが国最古の薬物辞典「本草和名(ほんぞうわみょう)」に「毛也之(もやし)」と記されており、薬用に栽培されていたようです。
一般に「もやし」と呼ばれている野菜は、大豆や緑豆などの豆類を発芽させたもので、光を遮断した容器の中で、水だけで育てられるのが特徴ですが、広い意味では、かいわれ大根や豆苗、ブロッコリースプラウトなどの発芽野菜も「もやし」に相当すると言われています。
もやしは嘗て兵士たちの貴重な食料だったそうです。
「戦場での貴重な食料」
「もやしっ子」という言葉のひ弱なイメージから栄養がないと思われがちですが、実は、ビタミン・ミネラル・食物繊維などを中心に体にいい栄養がたっぷり含まれており、嘗て戦場で兵を支えてきました。
楠木正成が千早城(現大阪府)に立てこもり、鎌倉幕府の大軍を相手に戦った際は、兵に豆の芽を食べさせながら耐え抜いたと伝えられています。
更に、近代に入ると、旧日本軍がもやしの栄養に目をつけ、壊血病などの病気予防に役立てようと考えました。
1918年からのシベリア出兵を機に栽培法の研究が進み、戦地の炊事場でもやしを作っていたそうです。
もやしが広く市中に流通するようになったのは20世紀に入ってからです。
1923年の関東大震災で東京は野菜不足に陥ったことから、本格的に栽培されるようになりました。
このように栄養豊富な「もやし」は比較的安価に推移しており、家計にとってはうれしい野菜です。
いろいろな料理に使用できる「もやし」で野菜不足を補ってみては如何でしょうか?
昨年10月に、東京駅丸の内駅舎の復原工事の完成から10年が過ぎました。
丸の内駅舎は1945年5月の空襲により壮麗なドームと3階部分が焼失し、1947年に2階建の駅舎として再建され、未来へ継承すべき貴重な歴史的建造物として、創建時の姿へ復原するという基本方針のもとに、5年の歳月をかけ2012年に保存・復原工事が完成したのです。
・復原された東京駅丸の内駅舎です。
東京駅は丸の内側の反対側に八重洲口があります。
丸の内側が表とすれば、八重洲口は裏側に当たることから、あまりニュースに取り上げられることがありませんが、八重洲口も大きく変貌していることにびっくりしました。
先日、偶然に観た八重洲口の映像に驚いたのですが、高層ビルがたくさん建っていました。
実は、私は60年ほど前に最初に勤務した場所がこの八重洲口だったのです。
当時、私が勤務した某銀行の八重洲口支店は駅前に建つ2階建ての建物でした。
ここに5年弱勤めた後、大阪に転勤したのです。
その後、東京には行っていないので、八重洲口がこんなに変貌していたとは知りませんでした。
下の画像の東京駅ビルには、当時、大丸百貨店があったように記憶しています。
その百貨店には仕事でもプライベートでもよく行ったものです。
懐かしいですね。
・東京駅の八重洲口です。
ところで、「八重洲」の地名は何処からついたのでしょうか?
今日は当時を懐かしみながら地名の由来について調べました。
「八重洲の地名の由来」
八重洲について調べてみると、この辺りに屋敷を構えていたオランダ人の名前からつけられたようです。
その人は1600年に日本に漂着したオランダ船の乗組員で、ヤン・ヨーステンと云う名前です。
彼は後に、徳川家康に仕え、外交や貿易の面で活躍し、家康から屋敷を与えられたのが現在の八重洲あたりで、八重洲の地名はこの「ヤン・ヨーステン」が訛って「耶楊子」(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲(やよす)」となり、「八重洲(やえす)」になったものだそうです。
60ほど年前に勤務していた頃は八重洲の由来など全く関心がなく、今になって昔を懐かしみながら調べてみました。
東京のど真ん中の地名が外国人の名前からつけられていたとは意外でした。