らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

イタリア旅行(その4)ベローナ

2012-03-31 | 旅行

ミラノから東へ169㎞、アドリア海に面したヴェネツィア(ベニス)との中間地付近にヴェローナの町があります。
ヴェローナには劇作家シェークスピアの「ロミオとジュリエット」でお馴染みの「ジュリエットの家のバルコニー」があることから、たくさんの観光客が訪れる場所となっています。
今日はヴェローナの町をご紹介します。

ヴェローナは中世の町並みがよく残っている人口27万人の町で、中心部には古代ローマ時代の円形競技場(アレーナ・ディ・ヴェローナ)があり、町の象徴となっています。
2000年にはヴェローナ市街として、世界文化遺産に登録されています。

「円形競技場(アレーナ・ディ・ヴェローナ)」
この円形競技場は紀元前1世紀初めに作られたと考えられています。
ローマのコロッセオ、ナポリの円形劇場についでイタリア国内3番目の大きさを誇っているこの円形競技場の収容人数は、25,000人、舞台や座席も残っており、イタリア国内で最も保存状態が良いといわれています。
毎年6月から8月にかけて、アイーダなどの野外オペラが開催されているそうです。


アディジェ川沿いに広がるベローナ市街です。
高くそびえる塔は14世紀の教会、サンタナスターシア教会の鐘楼です。


ヴェローナ市街全体が2000年に世界文化遺産に登録されています。


城門跡です


「ジュリエットの家」
これがシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」でお馴染みのジュリエットの家のバルコニーです。
狭い中庭にはジュリエットの銅像が立っており、世界中からたくさんの観光客が訪れていました。



「ジュリエットの銅像」
観光客の目的は中庭に立っているジュリエットの銅像の右胸に触ることのようです。
右胸の膨らみに触ると願いが叶うとか、恋人が出来るとか言われており、老若男女を問わず、訪れた殆どの人が触れていました。



「エルベ広場」
ローマ時代にはフォロ・ロマーノと呼ばれ、市民が裁判や政治集会を行った公共広場だったそうです。
現在は白いパラソルが広げられて果物や野菜、花などが屋台で売られています。
広場の中央には14世紀に造られた「ヴェローナのマドンナ」と呼ばれる噴水があります。

・左奥の聖人が立っている建物は17世紀に建てられたマッフェイ宮殿で迎賓館として使用されたそうです。
 また、右側、銅像の後方の古い建物は屋敷として建てられたものです。壁にはフレスコで壁画が描かれています。


「ランベルティの塔」
シニョーリ広場にあるこの「ランベルティの塔」は高さ84メートルで、階段かエレベータで登ることが出来きます。
鐘は現在も人々を招集する時や非常用として使われているそうです。



イタリア旅行(その3)コモ湖

2012-03-30 | 旅行

ミラノから北へ、高速道路を1時間余り走るとコモの町に至ります。
この町はアルプス山脈の麓に位置しており、マッジョーレ湖やオルタ湖、レガーノ湖、コモ湖など、たくさんの湖があることから、北イタリアの湖水地方と呼ばれています。

今日は、アルプスの南山麓に散らばる湖水の一つ、コモ湖の風景とコモのドゥオーモをご紹介します。

「コモのドゥオーモ」
コモの町はコモ湖南端にある湖畔の町で、人口が83000人余りの小さな町で、コモ湖を通じてスイスに接しています。
町の中心に建っているこのドゥオーモはロンバルディア様式とルネッサンス様式の調和が美しい建物で、1396年に建築が始まり、1744年にトリノの建築家ユヴァッラ設計のクーポラ(丸天井)が完成したそうです。



「ドゥオーモ内部」

内部の構造は典型的なゴシック様式だそうです。


「コモ湖」

コモ湖はアルプスの南山麓に散らばる湖水地方の湖の一つで、イタリアで3番目に広い湖です。
長さは50㎞、最大幅4.4km、最大深度は410mと、ヨーロッパ最深の湖と云われています。
この湖は古くはエサルやアウグストゥスというローマの皇帝に愛され、18~19世紀にはヨーロッパの各国王室や富豪、芸術家が競って湖畔に壮大でお洒落なヴィラを建て、イタリアきっての避暑地となっているそうです。
現在もセルベッローニ邸、メルツィツ邸、カルロッタ邸を始め、別荘やホテルなど庶民保養地としての建物が湖畔に建ち並んでいます。



今回のツアーでは、コモ湖観光はオプションでした。
このため、参加した人は私たち夫婦を含めて6名だけでしたが、小型遊覧船を借り切り、現地案内人の説明を聞きながら1時間余りに亘る湖上遊覧は至福のひと時でした。



コモは、古くはシーザーやアウグストゥスというローマ皇帝、文豪では、ゲーテやスタンダール、ヘミングウェイたちが保養に訪れたと言われる場所であり、現在では女優のソフィア・ローレンも住んでいるそうです。


「エステ邸」
現在はホテルとなっているエステ邸ですが、この建物は16世紀にコモの枢機卿ガリオの館として建てたられたものです。
その後、エステ家の館となり、1815年には英国皇太子妃キャロラインの住む離宮となって「ヴィッラ・デステ」と改名され、1873年にホテルとしてオープンしたそうです。
コモ湖のこの建物は美しいイタリア式庭園を持っており、イタリアきっての超有名なホテルだそうで、宿泊客の富豪の中には水上飛行機でチェックインする人もいるそうです。




イタリア旅行(その2)ミラノ(2)

2012-03-29 | 旅行

イタリア旅行の2回目も、昨日に続きミラノをご紹介します。

「スカラ座」
昨日ご紹介したヴィットリオ・エマヌエーレ・2世のガッレリアのアーケードを通り過ぎると「スカラ広場」に出ます。
この広場に面して建っているスカラ座はオペラの殿堂と云われており、初代の宮廷劇場以来の伝統を誇るイタリアオペラ界の最高峰とされています。
このスカラ座は1778年にサンタ・マリア・デッラ・スカラ協会の跡地に建てられましたが1943年の空襲で壊され、現在の建物は1946年に再建されたものです。


「スカラ広場」
スカラ広場は1856年にスフォルツェスコ城の修復も手がけた建築家ルーカ・ベルトラミにより設計されました。
世界で最も有名でプレステージの高いオペラ劇場であるスカラ座のイメージにあったエントランススペースとして造られたそうです。


「マリーノ宮」
後方の建物はマリーノ宮で、スカラ広場を挟んでスカラ座と向かい合っています。
この建物を建てたのはジェノバの銀行家 トンマーゾ・マリーノです。
建物の裏側にあるサン・フェデーレ広場でヴェネツィア貴族のアーラ・コルナーロに一目ぼれし、アーラさんのためにこのお屋敷を建てたそうです。 
今はミラノの市庁舎で、イベントなど特別の機会がないと中には入れなようです。


「レオナルド・ダ・ビンチ像」
スカラ座広場の中心にはピエトロ・マーニの作によるレオナルド・ダ・ヴィンチ像があります。
下の段には4人のお弟子さんが立っています。



「スフォルツァ城」
ミラノは1935年以来ミラノは公国としてヴィスコンティ家、スフォルツェスコ家の支配を受けましたが、このお城はそのスフォルツェスコ家の居城だそうです。
このお城は1466年に完成していますが、レオナルド・ダ・ヴィンチも建築に加わったと言われています。
現在は1階に美術館、2階には絵画ギャラリー、楽器コレクションが、地階には考古学博物館などがあるそうです。




イタリア旅行(その1)ミラノ

2012-03-28 | 旅行

17日から昨日まで休ませていただきました。今日からブログを再開しましたので、引き続き宜しくお願いします。

休んでいた10日間に、J旅行会社の海外旅行「イタリア浪漫紀行 10日間」のツアーに参加してきました。
このツアーはイタリア半島の北から南までの主要観光地を巡るもので、北に位置するミラノからスタートし、ヴェローナ⇒ヴェネツィア⇒フィレンツェ ⇒ポンペイ⇒アマルフィ⇒
カプリ島⇒ローマの順に、主に世界遺産を観光するものです。

今回のツアーの参加者は、地元関西に在住されているご夫婦や新婚さん、3人姉妹と見間違えるほどの若い美しいお母さんとその娘さん姉妹、母親を海外旅行に招待した孝行息子さん親子、祖父と女子高校生のお孫さんの二人連れなど、20名の個人やグループでした。

そこで今日からこのツアーの日程に沿って、素晴らしいイタリアの遺跡や風景などをご紹介していきます。
第1回目の今日はミラノの世界遺産をご紹介します。

私たちツアーの一行は関西国際空港からイタリアのローマまで、アリタリア航空の直行便で行きました。
日本からイタリアは流石に遠く、機内のフライトマップに表示されたローマまでの航空距離は約1万キロメートル、フライト時間は13時間ほどを要し、更に、ローマから国内線に乗り換えてミラノまで約1時間10分のフライトを経て、夜中の11時前にホテルに着くと云うハードなスケジュールでした。

・関空に駐機中のアリタリア・イタリア航空です。この飛行機でローマに飛び立ちました。


「ミラノ」
先ず、イタリア共和国は面積が30万1328k㎡で国土は日本の約80%、人口は日本の約半数の5800万人ほどの国です。
そして、私たちの観光がスタートするミラノは人口130万人余りの町で、イタリア第2の都市です。

ミラノには、ゴシック建築の最高傑作と云われている「ドゥオーモ(大聖堂)」、何百年もの歴史に培われた建築物や芸術作品、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画「最後の晩餐」などの世界遺産があります。
また、ミラノコレクションでも知られているように古くから服飾・繊維産業などファッション関連の産業が盛んな町でもあります。

このような建物が普通に建ち並ぶミラノ市です。


「ドゥオーモ(大聖堂)」
このドゥオーモはゴシック建築の大傑作とも言われています。
ドゥオーモの最初の石は1386年に大司教アントーニオ・サルッツォとミラノの領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの要求により、古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の場所に置かれたそうです。
途中、宗教改革による中断がありましたが、最初の石が置かれてから430年後の1813年にナポレオンによって完成したそうです。
天に突き刺すように伸びている尖塔は135本あり、その一つ一つに聖人が立っています。
一番高い位置に金のマリア像が輝いていており、昔はこのマリア像より高い位地に建物を建ててはいけないとされていたそうです。

 

「ドゥオーモ(大聖堂)の内部」
荘厳な内部ではミサが行われていました。


「サンタマリア・デレ・グラッツェ教会」
支配者スフォルツァ家の命によりグィニフォルテ・ソラーリによって1469年に完成されたゴシック様式の教会です。
この教会に向かって左側にある修道院の食堂にレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」の絵画があります。

・左端の黄色い建物が修道院の食堂です。


サンタマリア・デレ・グラッツェ協会の中庭です。


「最後の晩餐」

「最後の晩餐」は、レオナルド・ダ・ビンチが、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画で、キリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の日に描かれている最後の晩餐の情景を描いているもので、1980年に世界遺産に登録されています。

この絵画は、ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が“私を裏切る”とキリストが予言した時の情景を描いたもので、壁画は420 x 910 cm の巨大なものです。
1495年からから制作に取りかかり、1498年に完成したもので、ほとんどの作品が未完とも言われるレオナルド・ダ・ビンチの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つと云われています。

「最後の晩餐」は世界中からの観賞予約が多く、ツアーによっては予約がとれず、鑑賞できない場合があるそうです。
幸い、私たちのツアーでは J旅行会社の努力により観賞することが出来たものであり、本物の壁画の素晴らしさを堪能しました。

・中央がイエスキリストです。 
 裏切り者は左側から顔の位置4人目の頭髪が黒い人物で、イスカリオテのユダです。 イエスを裏切った代償としての銀貨30枚が入った金入れの袋を握ったとされています。


「ヴィットリオ・エマヌエーレ・2世・ガッレリア」
1877年に完成したこのアーケードはスカラ座へと続いています。
舗道の両側にはカフェやレストラン、書店、ハンバーガーショップなどが並び、また天井付近には絵画が、舗道にもモザイク模様のタイルが敷かれているエレガントなアーケードです。


・舗道にはこのような見事なモザイクが広がっています。



「胸突き八丁」の語源

2012-03-16 | 雑学

物事を成し遂げるに一番苦しい時期、正念場を言い表す言葉に“胸突き八丁”があります。

野田総理が不退転の決意で臨むとしている消費税の引き上げに関する民主党の合同会議が一昨日から開かれていますが、小沢グループを中心に増税反対意見が噴出しており、来週中の閣議決定、そして今月中の法案提出という最初のハードルが超えられるのか、いま正念場、所謂、“胸突き八丁”にさしかかっているところです。
そこで今日はこの“胸突き八丁”の語源について調べました。

“胸突き八丁”とは、山道で登りのきつい難所、転じて急斜面の長い坂道を言います。
“胸突き八丁”の「丁」は長さを表す単位で、1丁は約109.09mです。「八丁」はこの8倍で、109.09×8=約872mとなり、「胸突き」は胸を突かれたように息が出来なくなるほど苦しい事を表しています。

その語源は、平安時代に始まった山岳信仰としての富士山への登山で、頂上まで残り八丁(872m)になるととても険しい道になり、胸を突き上げるほど苦しいことから、”胸突き八丁”の言葉が生まれました。
転じて、物事を成し遂げる過程を登山に例え、大詰めの一番苦しいところ、正念場の事を“胸突き八丁”と云うようになったそうです。

野田総理の消費税引き上げの“胸突き八丁”は、最初のハードルを越えたとしても、衆議院、造反、参議院と云う大きなハードルが待ち構えており、6月の会期末まで厳しい国会運営が続きそうです。

「お詫び」
  いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
  誠に勝手ながら、明日17日から27日まで休ませていただきます。
  28日から再度書き出す予定にしていますので、引き続き宜しくお願い致します。


「どっこいしょ」の語源

2012-03-15 | 雑学

皆さん、疲れたときや椅子に座る時、立ち上がる時に思わず「どっこいしょ」と云う言葉を口にしませんか?
この言葉は歳と共に出てくると云われていますが、私も例外にもれず、以前から無意識のうちにこの言葉を発しているようです。
そこで今日はこの語源について調べました。

日本では、古くから山岳信仰があり、その対象となっている霊山が全国各地に存在しています。
これらの霊山に登るときに唱える『六根清浄(ろっこんしょうじょう)』という掛け声があります。
「どっこいしょ」の言葉はこの「六根清浄」に由来すると言われています。

『六根』とは、仏教の世界で、眼・耳・鼻・舌・身・意のことで、世間と触れ合うところです。
霊山に登る時に、これらの6つの器官が我欲などの執着にまみれていると正しい道を往くことが叶わないと言われ、そこで、そこから生じる迷いを断ち切り、身も心も清めるという意味で『六根清浄』を唱えながら登山しているのだそうです。

この眼・耳・鼻・舌・身・意の六根の働きは、眼は不浄を見ない、耳は不浄を聞かない、鼻は不浄を嗅がない、舌は不浄を味わない、身は不浄に触れない、意(心)は不浄を思わないということで、身も心も無垢清浄になろうという祈りの言葉が「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」です。
この「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」が「六根浄(ろっこんじょう)」となり、「どっこいしょ」になったと言われています。

日頃「どっこいしょ」と発している皆さん、この言葉は「身も心も清浄になろうとする祈りの表れである」と云う事で、自信を持って言い訳をしましょう。





「ホワイトデー」の由来

2012-03-14 | 伝統行事

「バレンタインデー」から1ヶ月が経ちました。
今日は男性から女性にお返しをする「ホワイトデー」です。          
1カ月前にチョコレートをもらった男性の皆さん、今日はお返しを忘れないようにしてくださいね。

さて、今日は「バレンタインデー」や「ホワイトデー」には全く無縁の年齢となった私が「ホワイトデー」の由来について調べました。

「ホワイトデー」は日本独特の行事で、その由来は、「バレンタインデー」にチョコレートを貰った若い世代の中にお返しをする風潮が生まれ、これを受けてキャンデーの販売促進を図るべく、1978年(昭和53年)6月に、全国飴菓子業協同組合が、3月14日の「ホワイトデーはキャンデーの日」と決定し、1980年(昭和55年)3月に第1回の「ホワイトデー」として、”愛にこたえるホワイトデー” を実施したのが始まりだそうです。



欧米にはこのような習慣はないようですが、隣の韓国や台湾では日本の影響をうけて「ホワイトデー」の習慣が生まれています。
なお、韓国ではホワイトデーの他に4月14日の「ブラックデー」、5月14日の「イエローデー」などもあるようです。


今日を大切に

2012-03-13 | 時事

私は新聞のコラム欄が好きなので毎日読んでいます。
コラムには政治、経済や伝統、文化、涙腺が緩むような感動する記事が短い文章の中に書かれています。
東日本大震災から1年を前にした3月10日の“よみうり寸評”に、「今日を大切に生きよ」と教えてくれる、涙を誘うようなコラムが載っていたのでご紹介します。

コラムの内容は次の通りです。(読売新聞より)
 1年前の10日、静岡で働く武山郁夫さんは、長女紗希(さき)さんの18歳の誕生日を祝うため、宮城県石巻市の実家に電話をかけた。
 (父)「今度会ったらお小遣いあげるからね」
 (娘)「お父さん単身生活だから、無理しなくていいよ」
 これが最後の会話になろうとは知る由もない。 
 
 沙希さんも、妻も母親も津波にのまれた。
 「男の俺が・・・守ってやれなかった・・・すまない」と武山さんは3人に泣いて謝り続けた。
 古里を遠く離れ、家計を支えた大黒柱を誰が責められようか。明日との隔たりを、これほどまでに大きく苦く思える今日はない。

 千利休の孫で茶人の宗旦(そうたん)は命のはかなさを歌に詠んでいます。
  「今日今日と 言いてその日を 暮らしぬる 明日のいのちは とにもかくにも」
 明日の命も不確かな世だから悔いなく生きよ、と説く。
 裏千家の茶室「今日庵」の由来の一つとされる。

 父は紗希さんの「19歳の誕生会」を開く。 娘にしてやれることをするだけ。悔いなきように。
 死児(しじ)の齢(よわい)を数える親の心根が切ない今日である。

東日本大震災は一瞬にして家族の愛、地域の絆をずたずたに引き裂きました。
被災者の皆さんが受けた心の傷や、被災地のコミュニティが震災前の状態に戻ることは不可能と思いますが、新たな家族愛、地域の絆を築きながら、今日一日を大事にし、明日へ向かって力強く歩み続け、一日も早く傷ついた心が癒されることをお祈り申し上げます。



東日本大震災から1年

2012-03-12 | 時事

東日本大震災から1年となった昨日は、各地で追悼式が行われていました。
東京では、国立劇場で天皇・皇后両陛下、野田総理大臣や遺族の代表らおよそ1200人が出席して、政府主催の追悼式が開かれ、地震が発生した午後2時46分には、出席者全員が1万5,800人を超える東日本大震災の犠牲者の冥福を祈るため、1分間の追悼の祈りをささげていました。

・黙とうをささげられる両陛下です。(FNNニュースより)


この追悼式が心臓手術後初の公務となった天皇陛下は
「被災地の今後の復興の道のりには、多くの困難があることと予想されます。
国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう、たゆみなく努力を続けていくよう期待しています。
そして、この大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います」と、お言葉を述べられました。

昨日のテレビ各局はこの東日本大震災の特集一色でした。
大震災から1年経った今も復旧・復興が思うに進まず、地元首長からは国の支援に対する不満の声が聞こえていました。
民法の“報道2001”では、宮城県の村井知事が、復興交付金の配分で復興庁が出し渋っているとして、復興庁は査定庁か!と噛み付いていました。
出席していた平野復興大臣は言い訳の説明を繰り返していましたが、復興には資金が必要であり、その資金は経済を活性化します。
資金が無ければ復旧・復興は進みません。

大震災に対する政府の取り組みが余りにも遅いと云うことが非難されてきましたが、1年経った今も地元の要望には十分応えていないようです。



「伯仲の間」の語源

2012-03-11 | 雑学

今日から大相撲春場所が始まります。
昨年は八百長問題で中止となり、大阪での開催は実に2年ぶりのことです。

今場所の見どころは大関把瑠都が連続優勝をして横綱昇進を果たす事が出来るか、が注目されるところです。
既に、横綱白鵬との実力は「伯仲」していると評価されているようなので、十分可能性があるものと思います。
それに加えて、大関を始めとする上位陣の実力もついてきているので、優勝争いが一段と面白いのではないかと、大いに期待しているところです。
力士のみなさん、ファンの期待を裏切らないよう、そして15日間満員御礼が続くよう、ガチンコの真剣勝負を繰り広げてください。

さて今日は、互いに優劣が無く殆ど同じ程度と云う諺の「伯仲の間(はくちゅうのかん)」の語源について調べました。

「伯仲の間」の伯仲とは、中国での兄弟の呼び順からきた言葉です。
中国では兄弟を上から順に「伯(はく)・仲(ちゅう)・叔(しゅく)・季(き)」と呼び、一番上の「伯」と一番下の「李」の違いは大きいけれど、一番上の「伯」と二番目の「仲」の違いはそれほどではないと云うことから、たがいに優劣がなく、ほとんど同じ程度だということを言っているもので、この出典は曹丕(文帝)著の典論からのようです。

なお、「おじ」「おば」の漢字の違いも、この「・仲・・季」からきているものです。
即ち、自分の親の兄と姉は「伯父・伯母」と書き、自分の親の弟と妹は「叔父・叔母」と書きます。