今月はアライグマを2頭捕獲しました。
これで当分アライグマの被害から解放されると思っていた矢先、またもやブドウが被害に遭いました。
まだまだ敵は潜んでいるようです。
今年はブドウの棚全体をゴルフ用のネットで覆ったことから、アライグマ対策として万全と思っていたのですが、敵もさるものひっかくものです。
網の上に上り、網が沈んだところから手を突っ込み房を引っ張り出して食べているようです。
・これが落とされたブドウと房に掛けていた袋です。
・網の上に袋を引っ張り出していました。
・破られた袋と実をとられた惨めな房(破られた袋の左右)の姿です。
・アライグマが網の上から引っ張り出した袋がぶら下がっています。
憎っくきアライグマの奴め!
急遽、三匹目の捕獲を目指して、ブドウの横に檻を仕掛けました。
今回の「高野街道を歩く」シリーズは昨日の「真田庵」で終わりですが、真田と言えば映画や小説、ドラマでもよく紹介される10人の武将たち、「真田十勇士」がいます。
真田幸村を締めくくるにあたって、今日は真田十勇士について簡単に書いておきます
「真田十勇士」
真田十勇士は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて真田幸村(真田信繁)に仕えた10人の家臣からなる武将で、各分野のスペシャリスト集団です。
あくまで伝承上の架空の人物のようですが、歴史的な由来を持つ人物もいるということです。
基本的な構成は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人となっています。
・猿飛佐助・・・・・・真田十勇士の中で最も人気のある甲賀流忍者です。狩りをしに来ていた幸村にその能力を買われ家臣となる。
幸村が九度山にいるあいだ諸国を回り、旅をしながら仲間と出会っていきます。
佐助のモデルと推測されているのが豊臣秀吉に仕えた猿飛仁助の子孫、三雲佐助賢春、伊賀忍者の上野佐助など三名。
・霧隠才蔵・・・・・・伊賀流忍者の達人。父は浅井長政の家臣。浅井家再興の軍資金集めのため山賊となるが、仲間集めの旅をしている猿飛佐助と出会い忍法比べで対決
の後仲間となる。
霧隠才蔵は完全なる創作上の人物とされています。
・三好清海入道・・真田十勇士の中で最年長の武士。浪人時代に親戚である真田氏を頼り家臣に。僧侶の姿で重い鉄棒を振り回す豪傑。大坂夏の陣で弟とともに徳川親子
を討とうとして失敗し、切腹する。
三好清海入道は織田信場と京都で戦った三好政康がモデル。
・三好伊三入道・・由利鎌之助と共に鈴鹿山中で山賊になっていたところ、兄である三好青海入道の誘いを受け、幸村の家臣に。
大坂夏の陣で兄とともに徳川親子を討とうとして失敗し、切腹する。
三好伊佐入道は三好政康の弟政勝がモデル。
・穴山小助・・・・・・武田家家臣出身の武士。武田家滅亡後、父が小助を連れ、戦場を渡り歩く浪人となり、幸村の郎党となる。幸村と共に九度山に落ち、大坂夏の陣で家康
の本陣に切り込み壮絶な最期を遂げる。
穴山小助は実在の人物、穴山小助安治がモデルとされ、実は真田十勇士の中で最も実在の可能性が高いとされる人物。
・由利鎌之助・・・・鈴鹿山中で山賊をしていた鎖鎌の達人。伊三入道と共に幸村の家臣に。鎖鎌を振り回し敵をなぎ倒す豪傑であり、槍の達人でもある。大坂夏の陣で海野
六郎とは別部隊を作り活躍する。
真田家家臣で実在した由利元幸がモデルという説があります
・筧十蔵・・・・・・・・出身は諸説ある武士。種子島銃を扱い、射撃の腕は百発百中、鉄砲部隊を組織して狙撃など銃撃戦を行う。十勇士の中では異色の存在。由利鎌之助と
ともに西国を旅して情報収集する。
真田家家臣だった筧金六という人物がモデルとされる。
・海野六郎・・・・・・真田氏の重臣であった海野氏出身の武士。十勇士の中では最古参。仲間の活躍を陰で支える幸村の右腕的存在。
大坂夏の陣では徳川方に突入した先鋭部隊の一人。
海野六郎は実在した人物だとか。
・根津甚八・・・・・・元海賊の頭領。幸村が九鬼水軍の動きを探りに出かけた中で出会い、家臣となる。由利鎌之助とは喧嘩友達である。大坂夏の陣で徳川方と激闘を繰り
広げ討ち死にする。
津甚八貞盛という人物がモデルとされ、実在説が根強い。
・望月六郎・・・・・・忍術を使い、大筒や地雷火と言ったカ役武器の製造使用を得意とする甲賀流忍者。九度山真田屋敷の留守居役として幸村の近くで生活していたと言う
設定も。大阪夏の陣で幸村の影武者となって「我こそは真田幸村なり」と叫びながら切り込むも、大軍を相手に最後は華々しく自害した。
望月六郎も実在の可能性が高い。
九度山町はNHKの大河ドラマ「真田丸」の主人公真田信繁(幸村)と父の昌幸が閑居していた場所と言うことから、街中が真田色一色に染まっていました。
九度山町は、戦乱の世を生きた名将・真田幸村が嘗て隠棲し、再起を誓った場所です。
真田幸村は天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れ、九度山に父とともに隠れ住みました。
その後再起を果たし、大坂冬・夏の陣で活躍するも激戦の末、幸村は壮烈な最期を遂げます。
14年間に亘る九度山での暮らしは、波乱に満ちた生涯にあって、穏やかな日々だっただろう、と案内書には書かれています。
今日はその真田幸村に関する資料館や史跡がたくさんある中から「真田庵」をご紹介します。
「善名称院(真田庵)の門」
幸村の旗印である六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、他に類例のない形式の本堂や廟所跡、真田幸村の墓、真田宝物資料館、与謝蕪村の句などがあります。
「善名称院(真田庵)」
善名称院(ぜんみょうしょういん)は九度山町にある高野山真言宗の寺院で、真田昌幸・信繁の父子が閑居した屋敷跡に建つ寺院です。
和歌山県の史跡に指定されており、別称は真田庵(さなだあん)と言われています。
牡丹の名所としても知られ、城郭風の本堂の八棟造も有名だそうです。
善名称院の境内です。
大河ドラマ人気で、真田昌幸・幸村の赤い幟が林立しています。
「真田屋敷跡」
信州上田城主であった真田安房守(さなだあわのかみ)昌幸は、関ヶ原の合戦の時次男幸村と共に西軍に組して戦いました。
戦の後、徳川家康から高野山での謹慎を命じられ、慶長5年(1600年)に高野山に上り、間もなく親子共にこの九度山に閑居したのです。
父昌幸は同年16年(1611年)に死亡(享年65歳)したので、その屋敷跡に葬ったのがこの墓地です。
その後、幸村は同19年(1614年)大坂夏の陣に参戦し、その勇猛さはつとに知られているところです。
・真田昌幸公の墓碑です。
「雷封じの井戸」
慶長年間、幸村公が閑居中、真田屋敷に落ちた雷を取り押さえて井戸に封じ、里人の難を救ったといわれています。
今回の高野街道の終点、南海高野線、九度山駅です。
ここでも六文銭の幕が張られています。
昨日ご紹介した慈尊院から119段の石段を上った高台に「丹生官省符神社」が鎮座しています。
「世界遺産・丹生官省符神社」
丹生官省符神社(にうかんしょうふじんじゃ)は、弘法大師(空海)が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生明神・丹生都比売(にうつひめ)と高野明神・高野御子(たかのみこ)の二神を祭った神社で、元は紀の川の河畔に鎮座していました。
その後、現在の地に移され、神々を合祀し「七社明神」とも称されましたが、明治に入って三殿となりました。
「町石道(ちょういしみち)登山口」
高野山町石道はここ慈尊院(丹生官省符神社)が登山口となり、高野七口といわれる高野山の登山道七本のうち、弘法大師(空海)によって高野山の開創直後に設けられた参詣道で、紀ノ川流域の慈尊院(海抜94m)から高野山壇上伽藍(同815m)を経て高野山 奥の院 弘法大師御廟に至る高野山への表参道です。
町石道が開かれた当初、弘法大師は慈尊院から高野山までの道沿い一町(約109m)ごとに木製の五輪卒塔婆を建立したとされます。
高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基の、合計216基の町石が置かれており、慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれているようです。
平成16年(2004年)7月7日「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界遺産に登録されている「丹生官省符神社」の鳥居です。
「拝殿」
丹生官省符神社は橋本市、かつらぎ町、九度山町の荘園の総社として栄えました。
「社殿」
社殿三棟は木造一間社春日造、桧皮葺、極彩色北面で重要文化財に指定されています。
向かって右から一殿、二殿、三殿と配置され、同規模同形式の社殿となっています。
御祭神は
・第一殿・・・丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ) (丹生明神)天照大御大神の御妹
・第二殿・・・大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ) (気比明神)五穀酒造の神
誉田別大神 (ほんだわけのおおかみ) (八幡大神)応神天皇に坐して武勇の神
・第三殿・・・市杵島比売大神 (いちきしまひめのおおかみ) (嚴島明神)福徳寿の神 多くの氏神社をお祀りしています。
拝殿の奥に本殿3棟が鎮座しています。
今回の「高野街道を歩く」は真田幸村の里、九度山町までのコースです。
スタート地点の橋本駅を出て2時間20分で九度山町に到達しました。
九度山町はNHK大河ドラマで「真田丸」で脚光を浴びている町だけあって街の中は真田色で染まっていました。
商店街の入り口には「真田の道」の標識が掲げられ、各商店では六文銭の入った赤い提灯が吊るされています。
九度山(くどやま)の各商店には六文銭が描かれた赤い提灯と幟が吊るされて、真田色に包まれています。
「松山常次郎記念館」
九度山町が生んだ政治家です。
案内によると、松山常次郎に関する遺品や資料の展示、また絵画界の巨匠・平山郁夫画伯の絵画を展示しているそうです。
長女の美知子さんは平山郁夫画伯の夫人だそうで、彼女は九度山町から文化・観光大使を委嘱され、町の文化や観光・物産等の魅力について紹介していると言うことです。
「丹生川」
町内を流れる丹生川です。
当日は暑い日だったことから、数組の親子連れや子供たちが川で泳いだりはしゃいでいました。
「世界遺産・慈尊院」
弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が高野山開創の際に年貢の徴収などの庶務を司る高野政所や宿泊所をおいた高野山の要所です。
弘法大師の母公が晩年移り住み、没後その廟所として弥勒堂が建立された事から、女人禁制の高野に対して「女人高野」と呼ばれ親しまれてきました。
弥勒堂に安置されている弥勒仏坐像は国宝に指定されています。
・本殿です。
「多宝塔」
この多宝塔は室町時代後期の三重塔から江戸時代前期に多宝塔に作りかえられた塔です。
この塔は大規模な三間多宝塔で下層は中央に扉をつける他は全て板壁と連子窓とし、四周に擬宝珠高欄付きの縁を設けると言う、平面及び立面は通常の多宝塔である。
と記されています。
「弘法大師堂」
この大師堂は四国堂とも呼ばれ弘法大師をご本尊としています。
ご本尊の弘法大師脇仏は四国八十八か所霊場のご本尊八十八躯をおまつりしています。
ここにお参りすれば四国八十八箇所にお参りされたと同様のご利益が得られると書かれています。
一昨日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー12名と高野街道を歩いてきました。
前回、南海電鉄高野線の橋本駅(和歌山県橋本市)まで歩いたので、今回は同駅から和歌山県九度山町までの約10㎞のコースです。
当日は多少雲がありましたが、梅雨明けの真夏の太陽が照りつける暑い一日でした。
今日から数回に分けて街道筋の旧跡などをご紹介します。
この同好会のメンバーは感心なことにいつも全員が時間通りに参集します。
矢張り、この歳になると幹事さんや仲間に迷惑をかけないように一人一人が気を遣っているのだと思います。
ということで、皆さん元気に橋本駅に集合し、予定通りスタートしました。
・橋本駅に展示されている真田幸村の冑です。左側の冑は京都府向日市の小学校の生徒さんが作ったのだそうです。
「紀の川」
スタートして暫くすると、一級河川紀の川に架かる橋本橋に差し掛かりました。
国交省近畿整備局によると、紀の川は、その源を奈良県吉野郡川上村の大台ヶ原(標高1,695m)に発し、中央構造線に沿って紀伊半島の中央を貫流し、高見川、大和丹生川、紀伊丹生川、貴志川等を合わせ、さらに紀伊平野に出て、和歌山市において紀伊水道に注ぐ、幹川流路延長136㎞、流域面積1,750kmの一級河川です。
(参考)
「一級河川と二級河川」
なお、一級河川と二級河川の違いを簡単に書いておきます。
広辞苑によると、
・一級河川・・・河川法で、維持・管理・使用の制限などに関し国の管理下にある河川。
・二級河川・・・一級河川以外の水系で、公共の利害に大きくかかわる河川のうち、都道府県知事が指定した河川。
紀の川の上流方面です。
橋本駅から一駅先の紀伊清水駅です。
今回歩いた同好会のメンバーは、60代後半から70代後半までの年齢層のため、無理をせず、ここで早めに休憩をとって熱中症予防のための水分補給をしました。
「永楽寺」
高野山真言宗の寺院です。
ここに立てられている案内板によれば、柏原村鋳物師の鋳造物「永楽寺鰐口」が橋本市の指定文化財となっています。
案内によると、慶長8年「1603年)橋本市内旧柏原村の九郎左衛門が、旧清水村定福寺の什物(じゅうもつ)として鋳造寄進したもので、柏原の鋳物師の数少ない遺作として貴重な存在である。
定福寺は当永楽寺の旧名で明治時代末期、旧永楽寺を廃し村役場、庁舎に転用し、定福寺に合併して寺号を永楽寺と改められたと言われている。
永楽寺を後にして、日陰のない炎天の高野街道を九度山に向かってひたすら歩きました。
左の電柱に「九度山町」と掲げられている標識が見えてきました。
いよいよ真田幸村の里に入ります。
私の故郷、岡山県の西部瀬戸内に位置する笠岡地方の方言に「はぶてる」があります。
先日某紙の夕刊に懐かしい方言が載っていました。
それが「はぶてる」です。
田舎を離れて既に半世紀以上経過していますが、子供の頃に使っていた言葉は忘れないものです。
新聞記事の「はぶてる」の見出しを見ただけで、「もしや岡山の方言では?」と思い、読みかけるとその通りでした。
そこで、今日は新聞記事からこの方言ををご紹介します。
新聞記事では東京女子大学教授の篠崎晃一先生が解説していました。
「はぶてる」は共通語の「すねる」に当たる方言で、岡山の他、広島や山口、愛媛など中四国地方で使われている方言だ。
語源は諸説あるが、「ふてくされる」の意味で鎌倉時代から使われている「ふてる」と関連があると思われる、ということです。
記事では更に、共通語でも「ふて寝」等の形で使われており、この「ふてる」に「端役、端数」などと使う時の「重要でない、はんぱ」の意味を表す「端」を添えることで、心の底から反抗的な態度をとったり怒ったりしているのではなく、その中間的な、いじけて不機嫌な微妙なニュアンスを表している。
と書かれており、「ふてる」から「端ふてる」になったのではないかと言うことです。
続けて先生は、「オジサン的な妄想になるが、「すぐにはぶてるんじゃけー」と言われ、頬をぷっと膨らませて睨みつける女の子の可愛い表情をついつい思い描いてしまうのである。
と締め括っていました。
岡山ではこの方言は「ふて腐れる 」、「いじける」、「すねる」と言う意味で使われていましたが、現在でも使われているのかどうかは分かりません。
私が子供の頃使っていた「はぶてる」の方言が、鎌倉時代から使われていた言葉が語源と聞いてビックリしています。
世界中で人気を集めているスマートフォン向けのゲームアプリ「ポケモンGO」が日本でも一昨日の22日から配信が始まりました。
「ポケモンGO」は、任天堂などが出資する「株式会社ポケモン」とアメリカのベンチャー企業が共同開発したゲームで、スマートフォンのカメラと位置を把握するGPS機能を使って、実際の風景の中に現れたキャラクターを捕まえたり、ほかのユーザーと対戦したりするもので、街を歩きながらキャラクターを集める新タイプのゲームとして話題になっています。
アメリカでは一日の利用者数が約2300万人に達し、スマホ向けゲームでは過去最高を記録した日もあり、日本でも、国内でのスマホ向けアプリのダウンロード数ランキングで早々に首位になったそうです。
この人気により任天堂の株価は6年ぶりに3万円台を記録するなど経済効果も見込まれるとのことです。
一方、懸念されることも多く、アメリカではスマホの画面に気をとられ、看板などにぶつかって負傷する人が相次いだり、また運転中にゲームに興じて事故を起こしたり、更に、足を踏み外して崖から転落したりした例もあると言うことです。
日本では以前より、歩きながらメールをする「歩きスマホ」が大きな問題となっていますが、「ポケモンGO」の配信が始まったことでそれに拍車をかけないか懸念されています。
夏休みに入り「ポケモンGO」で遊ぶ子供さんが増えることが予想されていることから、家庭では保護者が子供に守るべきことをきちんと教えるよう呼びかけ、国でも菅官房長官が「安全に使うために注意を守って欲しい」と呼びかけています。
でも、このゲーム、大人が夢中になるなんて、一体何が面白いのでしょうか。
年寄りには全く理解できません。
小・中学校が夏休みとなり、NHKラジオでは毎年恒例の“夏休みこども科学電話相談室”が放送されています。
これは子供さんたちが日ごろ疑問に感じている事を電話で相談し、その場で先生方が分かりやすく回答する番組です。
ちっちゃな子供さんの質問は、大人が日頃気にとめないようなものもありますが、さりとて“質問者に説明しろ”と言われると説明できないようなものもあって、大人にも大いに参考になります。
その質問の中に、先日、「アサガオは何故朝咲くのですか?」と質問した子供さんがいました。
もし、皆さんの子供さんやお孫さんから同じことを聞かれたら、どのように答えますか?
ネットを調べていたら「アサガオの生理学」というHPがありましたのでリンクしておきます。
ここの「光の影響」の項目に、日没から10時間後に開花するという性質を持っていると書かれています。
ラジオでも同じ事を回答していました。
従って、秋になって日没が早くなると、日没から10時間後はまだ暗いはずですが、それでもアサガオは咲くのだそうです。
反対に外は暗くても、鉢植のアサガオを明るい部屋の中に入れておくと10時間過ぎても咲かず、蕾のまましぼむそうです。
「光の影響」
7月ごろ、アサガオの花が咲くのは、早朝の午前3時から4時ごろです。
まだうす暗く、明かりをつけなければまわりの様子が見えない時間に咲くのです。ということは、アサガオの花は、朝の明るさによって咲くというわけではなさそうです。
実は、これは前日の昼の長さと関係があるのです。
アサガオの蕾は、前日の昼間のうちにたっぷりと太陽の光をあびたあと、暗くなってから、およそ10時間後に開くという性質を持っています。
このために、朝、明るくなくても暗いうちから花が開くというわけなのです。この性質がわかれば、明日の朝、何時に花が咲くのかがわかります。
また、オシロイバナやオオマツヨイグサにも、同じような性質があります。日が暮れてから何時間後に花が咲くのかということを、いろいろな花で調べてみるとおもしろいでしょう。
と書かれています。
アサガオの性質ご存知でしたか?
子供さんの質問は大人にも参考になるでしょう。
これで「アサガオは何故朝に咲くの?」と、子供さんやお孫さんから聞かれた時に回答できますよね。
お役にたてば幸甚です。
今日のタイトルは「二匹目のドジョウ」です。
「二匹目のドジョウ」とは、「柳の下の二匹目のドジョウを狙う」を略した表現ですが、元々は「柳の下にいつもドジョウはおらぬ」から来た同義語です。
その意味は、一度成功を収めた人や物事に準じて後釜になろうとすること、あるいは既存のものを真似して作られたものなどを意味する表現で、 一度成功を収めたからといって、再び同じようにうまくいくとは限らないということを意味する諺です。
ところが、上手くいくとは限らないことが上手くいったのです。
今月12日の当ブログでアライグマの捕獲についてご紹介しました。
その後、二匹目のどじょうを狙って檻を仕掛けていたのですが、それから10日ほど後の昨日、二匹目のドジョウが獲れました。
但し、厳密に言えば同じ柳の下ではありません。
前回はイチジクの木の下に仕掛けて捕獲しましたが、今回はブドウの防獣網のすぐ横に仕掛けて捕獲したものです。
その理由は次の通りです。
・前回はイチジク3個が熟れる直前になっていたのでカラスに食べられないように袋で覆っていました。
それでも袋が破られ、3個ともイチジクがなくなっていたのです。てっきりアライグマのせいかと思い、その下に仕掛けたところ見事に的中して、捕獲できました。
・そして今回です。
アライグマ対策のためブドウの木を防獣網で覆っていたにも拘らず、数袋の房が被害に遭っているのを発見しました。
そして、アライグマが何処から入ったのか調べ、そこに折りを仕掛けたのです。
その結果、二匹目のドジョウが捕獲できということです。
・これが「二匹目のドジョウ」、いや、捕獲した二匹目のアライグマです。
今回のアライグマは、前回より大きく、引き取りに来た役場の人も「これは大きいなあ~」とビックリしていました。
このアライグマ、可哀そうですが金曜日の今日が処分日で、安楽死の道を歩くようです。
今まで農作物を荒らしてきた罰ですね。