令和3年2月も明日で終わり、いよいよ春本番となる3月がやってきます。
しかし、気温は未だ低く、昨日、一昨日と冬を思わせる寒い日が続きました。
その寒さも間もなく終わり、気も心も踊る、暖かく明るい春がすぐそこまで来ています。
昔から、正月から三月までは行事が多く、あっという間に過ぎてしまうことから、「一月(いちげつ)往(い)ぬる、二月(にげつ)逃げる、三月(さんげつ)去る」と表現されます。
今月を振り返ってみると、この表現のように、あっという間に過ぎ去った2月でした。
ところで、「逃げる」と言えば、「三十六計逃げるに如(し)かず」と言う諺があります。
この意味は、多くのはかりごとのうち、迷ったときには機をみて身を引き、後日再挙を期すのが最上の策であるという意で、中国の故事から生まれた諺です。
「諺の由来」
中国、南北朝時代に、南朝の王敬則が反乱軍を率いて、斉王の蕭道成(しょうどうせい)父子を建康(けんこう:現在の南京)に攻めたとき、斉王父子が遁走(とんそう)したという噂を聞き、南朝宋の名将・檀道済が「三十六策走(にぐ)るがこれ上計なり」と、魏の軍を避けた故実を引いて、斉王父子をあざけったことに由来しています。
元々は、敵前逃亡する者を卑怯者とののしることの意味でしたが、日本では、これから転じて逃げるを上策とする意にとられるようになったということです。
今日から国公立大学の前期日程試験が始まります。
全国各地の天神様には、今年も多くの受験生の方が合格を祈願してお参りされたことと思います。
今日はその天神様こと菅原道真が59歳で亡くなった命日なので、その日に因んで、道真が「天満天神」と言われる由来について調べました。
菅原道真は845年に学者の家系に生まれ、幼少の頃から学問の才能を発揮しました。
5歳の時には和歌を詠み、11歳の時には漢詩を作り、神童と称されていました。
そして、平安時代を代表する学者・詩人となり、祖父、父に継いで「文章博士(もんじょうはかせ)」となりました。
(文章博士とは、朝廷の役人の養成機関である大学寮で歴史や詩文を教える教官で、学問界の最高位です。)
その後、道真は宇田天皇の信頼を受け、政治を支える一人となります。
醍醐天皇の即位後、右大臣に任じられ、国家の発展に尽くしてきましたが、左大臣 藤原時平の政略により、身に覚えのない罪によって突如大宰府に左遷されることになったのです。
「大宰府への左遷」
京都を離れる際、自宅の梅の木に別れの歌を詠んだのが、皆様よくご存じの下記の和歌です。
「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
意訳:春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。
主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
大宰府では、衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、皇室の安泰と国家の平安、また自身の潔白をひたすら天に祈り、誠を尽くしましたが、延喜3年(903年)2月25日、不遇のまま59歳で生涯を閉じました。
遺体は都に帰ることはなく大宰府近くに葬られたのです。
「天満天神の由来」
菅原道真は死後に「天満天神」として祭られましたが、この名前の由来は、人々に災いを与える神の総称「天神」と、道真の怒りが天に満ちたというお告げ「天満」から来ているといわれています。
前記のように、菅原道真は政略により、身に覚えのない罪によって突如大宰府に左遷され、不遇の死を遂げたのですが、道真の死後、都では異変が相次ぎました。
これは道真の祟りとして恐れられ、延喜19年(919年)醍醐天皇は怒りを鎮めるために社殿の建設を命じます。
これが現在の太宰府天満宮の始まりといわれています。
また天慶5年(942年)には都の女のもとに道真の霊が現れ、「右近の馬場(現在の北野)に祠(ほこら)を建てるように」と告げます。
その後、7歳の子供に道真の霊がつき、同じことを告げたため、天暦元年(947年)には北野に神殿を建て、道真を天満天神として祀るようになりました。
こうして彼を祀る神社は「天満宮」と呼ばれるようになり、天神信仰の拡大に伴って全国各地に広まっていったのです。
元々は怨霊の怒りを鎮めるという目的で祭られた道真ですが、時が経つにつれ災害の記憶も風化し、やがて学問の神様として信仰されるようになりました。
天神が学問の神様とされるのは、菅原氏が代々学者の家系だったことや、道真自身も学問に優れていたことに由来しています。
現在では学問のほかにも、広く文芸・芸能の神様として、また至誠の神様、免罪の神様としても有名だそうです。
世知辛い
最近、ふと昔のことを思い出すことがあります。
先日、現役の頃、得意先との会話の中で、たまに使用していた「世知辛い世の中でんなあ!」と言う表現が突然、記憶の中から蘇ったのです。
どのようなきっかけだったのかは覚えていません。不思議ですね。
この「世知辛い」という言葉は、普段はあまり聞くことがない言葉かと思います。
読み方は「せちがらい」です。「せちづらい」ではありません。
今日はこの言葉の語源について調べました。
「世知辛いの意味」
世知辛いという言葉は「世渡りがしにくい」という意味として使われる表現ですが、他にも、「勘定高い」「ケチ」「せこい」「抜け目がない」などという意味としても使われます。
世知とは「世俗の知恵」を意味しており、世俗の知恵とは処世術、即ち「世渡りの方法」のことで、どうやったら巧く生きていくことができるか、そのような世渡りの知恵を世知といいます。
一方の「辛い」は唐辛子のような辛さを意味するのではなく、また「つらい」という感情を指すのでもなく、「割合が多い」「傾向が強まる」というような、前の言葉を強める言葉なのです。
この2語から生まれた「世知辛い」は、元々「処世術に長けた人」という意味せすが、次第に「勘定高い人」をも意味するようになりました。
更に、そこから派生して「勘定高い世の中」という意味になり、現在のように使用されているのだそうです。
「語源」
「世知辛い」の「世知」は、もともと「世智」と書く仏教用語で、「世俗の智慧(知恵)」という意味です。
世俗の智慧とは、俗世間を生き抜くための世渡りの知恵という意味です。
「世渡りの知恵」がその後、「抜け目のないこと」「打算的なこと」「勘定高いこと」という意味に転じて使われるようになりました。
そして「辛い」は「世知」の意味を強める言葉として添えられているのです。
「三方よし」
世の中を生き抜いてゆくには多少の打算や勘定高さも必要ですが、本当の意味での処世の知恵は常に忘れないようにしたいものです。
処世の知恵は近江商人の「三方よし」の考え方が参考になるかと思います。
「三方よし」とは「商売において売り手と買い手が満足するのは当然のこと、社会に貢献できてこそよい商売といえる」という考え方です。
昨年12月、英国が新型コロナのワクチン接種を開始して以降、今月15日までに80か国以上の国でワクチン接種が始まっています。
日本は主要7か国(G7)の中では最も遅く、英国から遅れること2か月にして、漸く接種が始まりました。
日本の感染者数は、緊急事態宣言の効果で減少傾向にありますが、いつまた第4波が発生するのか、懸念されていました。
そうした中、今月17日から始まったワクチン接種はコロナ感染を収束させるための決め手であり、大いに期待されるところです。
ところが、このコロナワクチンに便乗した詐欺が多発しているということなのでご紹介したいと思います。
「ワクチン便乗詐欺」
報道によれば、新型コロナウイルスのワクチンを優先的に接種できるなどと言って、金銭などを要求する不審電話が各地で相次いでいるようです。
警察当局や国民生活センターは、悪質な「便乗詐欺」とみて注意を呼びかけています。
「事例」
警視庁によると、東京都目黒区の80歳代女性宅に先月6日、都職員を名乗る人物から「ワクチンの予約を受け付けている。一時金が必要」と電話があったそうです。
女性が目黒署に通報したため被害はなかったのですが、同様の不審電話は2月15日までに都内で13件に上り、高齢者ばかりが狙われているということです。
また、保健所や自治体の職員を装い、「高齢者を対象にPCR検査とワクチン接種ができる。予約金が必要だ。」などとして、金銭を要求する電話も確認されています。
このような不審電話は、埼玉、愛知、兵庫、佐賀県などでも確認されているということです。
更に、ワクチン接種の案内を装うメールを送りつけ、偽サイトに誘導して個人情報を盗み取る「フィッシング」の手口もあるということです。
「アドバイス」
★行政機関等が、新型コロナウイルスワクチン接種に関して、現金を要求することはありません。
・不審な電話やメールはすぐ切るか無視してください。
・不審な電話や訪問があったらすぐに110番または最寄りの警察署にご相談ください。
・自宅の電話は、在宅時も常に留守番電話に設定して、メッセージを確認する習慣をつけましょう。
★新型コロナワクチンの接種費用は全額国が負担することが決まっており、警視庁幹部は「金銭を要求されたら間違いなく詐欺なので、
電話を切って警察に通報してほしい」と注意を呼び掛けています。
国民全員が一日も早くコロナ収束に向けて、協力して取り組んでいる最中に、それに便乗して詐欺を働く輩がいるとは非常に腹立たしい思いです。
十分ご注意ください。
大阪南部の熊取地方は昨日、一昨日と真冬並みの寒さとなりましたが、それまでは4月中旬を思わせる陽気でした。
当地では2月中旬から下旬にかけてジャガイモの植え付け時期となりますが、この陽気のため、地元の農家を始め菜園仲間の人たちは殆どが植え付けを終えていました。
そのようなことから、先日、我が家でも慌てて植え付けをしたところです。
「私の作業手順」
「畝」
植え付ける畝は秋の収穫から遊ばしていた3畝に、1週間ほど前に肥料をすき込んで準備しておきました。
「種芋の準備」
種芋は1月に農協で購入し、植え付けの2~3日前に1片の重さが30g~60g程度で2~3個の芽がつくように出来るだけ縦に切ります。
そのまま、切り口がコルク化するまで、新聞紙の上で乾かします。
今年は、きたあかり3㎏、メークイン1㎏、十勝黄金1㎏を準備しました。
・30g~60gに切って乾かした種芋です。
「植え付け」
幅70cmの畝に深さ10㎝程の溝を2列に掘り、その溝に種芋の切り口を下にして、株間30㎝で千鳥掛けに植え付けます。
なお、切り口を上に向けると断面に水が溜まるなどして芋が腐りやすくなります。
・種イモを30センチ間隔に置いたところです。
種イモを囲うように4か所にショベルで隙間を作り、化成肥料を一握りずつと種芋の間にも一握り施します。
・種芋の周り4か所と種芋間に化成肥料を施したところです。
植え付け後、土を戻して畝を作り直し、マルチ用の黒いビニールを張ります。
昨年まではイチゴに使用していたマルチを再利用していたのですが、生長するにしたがって芋が土から露出して、開いた穴から光に当たって緑色に変色していたことから、今年は新しいマルチを使用することにしました。
「緑色に変色した芋」
じゃが芋の皮が緑色に変色すると、光によってじゃがいもの「天然毒素」が増えます。
緑に変色した部分にはソラニンやチャコニンという種類の天然毒素が多く含まれており、食べてしまうと吐き気や嘔吐、下痢などの症状を引き起こします。
加熱してもこれらの毒素が減ることは期待できないようです。
緑色に変色している場合は、皮を厚めに剥いてみて可食部が白ければ食べることが出来るようですが、全体が緑色の場合や苦みやえぐみを感じる場合は廃棄します。
「栽培のポイント」
・ジャガイモの生育適温は15~20℃なので、遅霜に注意が必要です。
・芽は草丈が10㎝程度伸びた頃、1~2芽を残して弱い芽を掻き取ります。
・新しい芋は種芋の上方につくので、マルチをしない場合は株元に2回ほど土寄せを行って芋が地上に露出しないようにします。
・3ヶ月余りで収穫できる短期野菜なので栽培しやすく、6月上旬には収穫が楽しめます。
「仁者(じんじゃ)に敵なし」という諺があります。
仁者は愛情をもって人と接するので、これを憎む人がいない。また、仁政を施す為政者には、民衆が心から従って敵対する者がいないという意味です。
「仁者」とは、仁徳が備わっている人、即ち仁徳者のことです。
14日から始まった大河ドラマ「青天を衝け」の主人公のモデルとなった渋沢栄一の名言の中にこの諺があるのです。
渋沢栄一は、『人を選ぶとき、家族を大切にしている人は間違いない。仁者に敵なし。私は人を使うときには、知恵の多い人より人情に厚い人を選んで採用している』と、人を採用する時の判断基準にしていたということです。
渋沢はたくさんの名言があることや、約500もの会社に関わり、約600の社会公共事業にも携わった「日本資本主義の父」と呼ばれていることなどでも知られています。
更に、2024年度に新しい1万円札の絵柄に採用されることも決まっており、ますます注目が集まっている人物でもあります。
・2024年度に1万円札の絵柄に採用される渋沢栄一です。(ネットより)
その彼の91年にわたる波乱に満ちた生涯を描く、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」は現役のサラリーマン諸氏は勿論、リタイアした年配の方にも人生訓として参考になるのではないかと思います。
14日に放送された初回の視聴率は8年ぶりに20%を超えるという好調な滑り出しでした。
決してNHKの宣伝をするわけではありませんが、私はこのドラマを楽しみにして、毎週観てみようと思っているところです。
大阪地方は4~5日前から暖かくなりました。
特に昨日と一昨日は最高気温が20度近くまで上がり、4月中旬並みの暖かい日となったのです。
このように暖かくなると、イチゴは冬の眠りから目覚めて新芽を伸ばし始めるので、毎年、その前にマルチ張りを行っています。
今年も先日、最終追肥とマルチ張りをしたので、今日はその作業手順をご紹介します。
イチゴの畝には、既に昨年の定植前に元肥として堆肥やBMようりん等を鋤き込んでいますが、今回の施肥はマルチを張るため追肥ができなくなることから、最後の肥料として株の周りに施肥するものです。
・今回、追肥に使用した有機配合肥料と砂状ようりん、それに化成肥料(8.8.8)です。
追肥に先立ち、先ず、株を囲むように畝の両肩と中央、それに株間に浅く溝を掘ります。
その溝に「ようりん」「配合肥料」「化成肥料(8.8.8)」を施して混和します。
・株を囲むように溝を掘って追肥した状態です。
その後、畝を作り直すのですが、溝を掘った時に株に掛かった土を刷毛で取り除き、更に株周りを整えながら畝を作り直します。
・追肥を終えて作り直した畝です。
今年は1畝に30株を植えていることから、1畝を仕上げるのに約1時間要しました。
一度に6畝すべての作業を行うのは辛いので2日に分けて行いました。
歳と共に体力の衰えを感じます。
・6畝全てに追肥して土を戻した畝です。
3日目にマルチを張りました。
マルチはホームセンターで購入したのですが、いつもと同じように黒色を買ったつもりが、表は黒色、裏が銀色の2色になっていました。
このことは、マルチを張るときに気づいたのですが、これ幸いとばかりに実験してみることにしたのです。
それは、銀色のマルチはアブラムシが寄り付かないと聞いたことがあるので、本当かどうか6畝の内2畝に銀色のマルチを敷き確認することにしたのです。
・白色の2畝が銀色マルチを張った畝です。
この後、アーチ支柱を設置してビニールトンネルを作ります。
順調に育てば4月中旬頃から熟れ始めるものと思います。
一昨昨日(さきおととい)の10日(現地時間9日)は、米ハワイ沖で愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」に米原潜が衝突し、生徒ら9人が死亡した事故から20年目に当たる追悼の日でした。
事故当時の総理大臣は誰だったかご存じでしょうか?
「20年前の開き直り」
実は、いま女性蔑視発言で国内外から非難されている、2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長その人なのです。
20年前の「えひめ丸」事件当日、総理大臣だった森氏は休暇を取とってゴルフをプレーしていました。
側近から事故の一報を聞いた後もそのままゴルフ場に留まったことが大きな問題となり、マスコミにこのことを問いただされると、「プライベートだ」、「ゴルフが悪いことなのか!」 と開き直ったのです。
これによって非難、批判は拡大し、結局、森喜朗氏は内閣総理大臣の職を辞することになったのです。
「あれから20年!」
2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長がまたもや20年前と同様、自らの失言で辞任することになりました。
報道によると、今月3日の日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で、「女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」と、女性を蔑視する発言をし、更に、その後、長々と自説を述べ、他の委員らは意見など出せる雰囲気ではなかったようです。
この発言について、翌日には、「深く反省をしている。発言をいたした件については撤回をしたい。不愉快な思いをしたみなさまについてはお詫び申し上げたい」と謝罪しましたが、会長を辞任することは否定したのです。
しかし、日本のみならず世界から非難が集中し、更にバッハIOC会長も「完全に不適切発言」と切り捨てたことから、一昨日になって責任をとりたいとして、会長職を辞任する意向を示しました。
「立場を理解できない森氏」
それにしても、この人は自分の立場と言うものをよく理解していないのではないでしょうか?
総理大臣の時は「休暇にプライベートでゴルフをしては悪いのか?」と開き直りました。
一国の総理大臣なら、たとえプライベートの時間であっても、国民の生命と安全を守る立場から、国政優先が当然のはずです。
にも拘らず、その国政優先よりも、プライベート優先を選択したことから批判を浴びたのです。
そして、あれから20年後の今回は、オリンピック憲章にもある「男女平等の原則の完全実施を目指す」という、オリンピック精神に反する女性蔑視発言です。
いやしくも東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長の立場にある人が、オリンピック精神をないがしろにするような差別発言をすることは絶対許されるものではありません。
国内外から非難されるのは当然です。
更に、批判されると開き直るその姿勢は、20年前と全く同じです。
総理大臣を務め、社会的地位が高く、人生経験の豊富な人がなぜ、その判断ができないのでしょうか?
辞任は当然であり、同情の余地は全くありません。
それよりも、新型コロナで東京オリンピック・パラリンピックの開催が危ぶまれる状況の中、今回の騒動が開催に影響を及ぼさないかと、その事が懸念されます。
一昨昨日(さきおととい)の8日午後4時50分頃のことです。
小雨が降り出したので、畑からの帰りに車のところまで行くと、正面の空に薄く虹が出ているではありませんか。
全体がグレーの雨雲に覆われていたことや、太陽が沈む前の黒い雲間から差し込む弱い光の関係からなのか、虹のアーチの左側だけが薄く立っていたのです。
直前から小雨が降り続いていたことから、この虹は生まれた直後だったのかも知れません。
最近では虹を見ることがなく、この弱々しい虹でも、珍しい現象だったので撮影してご紹介することにしました。
・この画像がアーチの左側だけが出現した虹です。
そのままな暫く眺めていると、薄いアーチが次第に右側に伸びていき、薄いながらも虹らしくなりました。
・1~2分すると、薄い虹のアーチが出現してきました。
虹を出現させた太陽光は、黒い雲に覆われていたので弱かったのでしょう。
今にも消えそうな弱々しい虹のアーチでした。
その薄くて弱々しい虹が1~2分見えたでしょうか、次第にアーチの左側が消えていき、右側部分がかすかに見える程度となりました。
・右側に少しだけ残る、消滅寸前の虹のアーチです。
そして、黒い雲に太陽が隠れると虹も消えてしまいました。
その間、僅か5分前後の出来事でしたが、はかない虹の一生をつぶさに見せてもらいました。
「虹の原理」
虹の原理は皆さんご承知のことと思いますが、簡単に説明しておきます。
雨の後にできる虹は、大気中に浮かぶ水滴と太陽光によって発生します。
光は水滴にぶつかると「屈折」して水滴中に入り、そこで「分散」して7色に分かれ、色ごとに内面で「反射」して、再度水滴表面で屈折して出ていき、虹となります。
つまり、虹が7色に見えるのは、水滴中を通った太陽光が7色に分解されているからです。
屈折は光の波長にによって異なります。
虹で見えている色は人間の眼で感じることのできる可視光線(太陽の光)の色で、色は赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の順に並んでいます。
赤が最も長い波長であり、紫が最も短い波長です。
以上のように、虹が見えるのは、太陽の光が水滴を通りそれぞれの波長に分散されるから、ということになります。
「虹を見るための条件」
虹を見るためには下記のような条件が必要です。
①空気中に水蒸気(水滴)があること
②晴れていること
③太陽に背を向けること
なお、太陽の光が水平に近い角度で水滴に差し込むと大きな虹が、太陽の高さが高いと小さな虹が見えます。
更に、人の目に対して太陽から42度の角度にある水滴はアーチ型に位置している為、虹もアーチ型に見えるのだそうです。
「虹を出現させてみよう」
晴れた日に太陽を背にして、庭でシャワー状態の散水をしてみてください。
虹が発生します。
今では車を運転する人にとってカーナビは必需品となっていますが、嘗て、マイカーが普及し始めた頃は、その役割を果たしていたのは地図帳でした。
初めての場所へ出掛けるときは、事前に地図帳でルートを確認したり、曲がるポイントもチェックしておいたりする必要がありました。
我が家でも、常に地図帳を手元に置き、助手席に座った家内に地図帳とにらめっこしてもらい、ナビゲーターになってもらったものです。
そんな地図帳時代に終止符を打ったのがカーナビ(カーナビゲーション)の登場ですが、そのカーナビを発明したのは日本の会社だと言うことをご存知でしょうか?
今日はカーナビの誕生について調べました。
「カーナビの誕生」
世界初の地図型自動車用ナビゲーションシステムが登場したのは、今から40年前の1981年(昭和56年)のことです。
開発したのはホンダです。
ホンダ(Honda)は自動車自身が自車位置情報を獲得する完全自立航法に目を向け、その開発に取り組んでいました。
まだGPSによる位置情報が入手できない時代に、Hondaは新たに自動車量産用として開発したジャイロセンサーと距離センサーによりクルマの移動する“方向”と“距離”を検出することで、道路上の自車位置を電子データとして置き換えることに成功しました。
その自車位置データをディスプレイ画面上に重ねた地図に表示する“ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ”を完成させました。
「ホンダのナビゲーター」
ホンダはジャイロセンサーと距離センサーによってクルマの「移動方向」と「移動距離」を検出し、正確な現在地を獲得する方法を新たに開発し、これを電子データに置き換え、画面にはめ込んだフィルム型地図に走行軌跡として映し出したのが、1981年に登場した世界初のカーナビ「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」です。
ホンダはこの特許を取得しましたが、その特許技術を無料で公開したのだそうです。
当時は画期的なものとして注目を集めたこの技術は、のちに省燃費ルートや渋滞回避ルートの表示などさらなる便利な機能へとつながっていきます。
「マツダのナビ」
1990年にはマツダから世界初のGPS(人工衛星)を使ったカーナビが発売されました。
「ユーノスコスモ」に初搭載され、当時は「CCS(カー・コミュニケーション・システム)」と呼ばれました。
これまでのカーナビではドライバー自身が現在地を設定し、ズレが生じたら手動で修正する必要がありましたが、GPSによって自動で現在地が取得できるようになったのです。
「トヨタのナビ」
世界初のルート案内カーナビは1991年にトヨタから発売されました。
トヨタは、1991年に「ソアラ」「クラウン」に経路案内をするカーナビ「GPSエレクトロマルチビジョン」を搭載し、 1992年には 「セルシオ」に音声ルート案内をする「ボイスナビゲーションシステム」を追加しました。
カーナビはただ「現在地を表示」するものから、「目的地へ道案内」するものへと進化し、加えて音声案内によって、ドライバーが運転中視線を外さずにルートを知ることができるようになったのです。
今ではスマートフォンやタブレットを経路案内に利用する人も多いようですが、使いやすさといった観点では「カーナビ」が勝るのでしょうね。
今後、どのように進化していくのでしょうね。