昨日から大河ドラマ「江ー姫たちの戦国ー」の主役、浅井家三姉妹の古里を訪ねるシリーズを書いています。
2回目の今日は豊国神社をご紹介します。
「豊国神社」
豊国(ほうこく)神社は、豊国大明神こと豊臣秀吉と事代主大神、それに加藤清正、木村重成を祭神としている神社で、長浜駅から北へ150mほどのところに鎮座しています。
「本殿」
豊国神社は、長浜の町人たちが長浜の町を開いた豊臣秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600年)にその遺徳を偲んで建立しました。
しかし江戸時代に入ると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されましたが、町民によって祭神は町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀られていたようです。
明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建されました。
「出世稲荷」
出世稲荷の名称は、豊臣秀吉に由来します。
豊臣秀吉は幼い頃から稲荷神を信仰しており、天正15年(1587年)に造営した聚楽第にも稲荷神を勧請しました。
翌年、聚楽第に行幸した後陽成(ごようぜい)天皇が稲荷社に参拝した時、立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けました。
以来、出世・開運の神として大名などに崇敬を受けていたそうです。
・本殿右隣にある出世稲荷です。
「加藤清正像」
加藤清正は豊臣秀吉に仕えた賤ヶ岳七本槍の一人で、天正16年(1588年)肥後半国を与えられて熊本城主となり、国人・土豪勢力の一掃に努め、麦年貢をルソンへ輸出するなどの積極的な貿易をすすめた大名です。
秀吉の信頼も厚かったのですが、石田三成らの台頭により政権の中枢からは遠ざけられてしまいました。
関ヶ原の合戦では九州にあって東軍に属して宇土城等を攻め、戦後に肥後一国54万石に加増されました。
慶長16年(1611年)50歳のときに二条城で家康と会見する豊臣秀頼の後見役を果たし、その帰国途上に船中で発病し熊本城内で亡くなりました。
「虎石」
境内のひょうたん池のすぐそばに「虎石」と呼ばれる大きな石があります。この石は秀吉の忠臣であった加藤清正が寄進した庭石だそうです。
「虎石伝説」
この石には伝説が残されているそうです。
秀吉が築城した長浜城に庭園が造られたときに、清正が庭石を寄進しました。この庭石を秀吉はたいそう気に入っていたそうです。
秀吉亡き後、江戸時代に庭石は大通寺へ移設されることになったところ、それから庭石は夜毎に「いのう(帰ろう)、いのう」と泣き叫んだといいます。
そこで、すでに廃されていた長浜城内の敷地に戻し、時を経て、秀吉が祀られた豊国神社へと移されたのがこの「虎石」と言われています。
・飛び石が連なっている突当りがようたん池です。
私が住まいしている山の手台の自治会では、先日、毎年恒例の住民懇親バスツアーがありました。
今年の行き先は、NHK大河ドラマ「江ー姫たちの戦国ー」の主役、浅井家三姉妹の古里の滋賀県長浜市です。
私もこのツアーに参加してきたので、今日から数回に分けて長浜市の観光スポットをご紹介します。
「黒壁ガラス館」
私たちの一行は長浜に到着後、最初に黒壁ガラス館がある黒壁スクエアを散策しました。
黒壁スクエアとは、長浜市の中心市街地の伝統的建造物群を生かした観光スポットで、黒漆喰の和風建築である「黒壁1號館」から「30號館」までを含む一帯を総称しています。
黒壁ガラス館は、明治33年に建てられた国立第百三十銀行長浜支店の建物跡を利用したガラスのアートギャラリーで、その外壁が黒漆喰の様相から『黒壁銀行』『大手の黒壁』の愛称で親しまれていた建物です。
1号館のガラス館を中心に陶磁器、和菓子、雑貨、飲食など、黒壁スクエアには現在30の黒壁館があって、年間約300万人の観光客でにぎわっているそうです。
・国立第百三十銀行長浜支店の建物であった黒壁1号館です。
ガラス館の内部です。
「大通寺」
黒壁ガラス館から10分ほどのところに大通寺があります。
大通寺は真宗大谷派(東本願寺)の別院で、正式には無礙智山(むげちざん)大通寺といいますが、一般に「長浜御坊」の名で呼ばれています。
このお寺は、本願寺12世の教如上人が、湖北門徒に仏法を説き広めるための道場を、旧長浜城内に開いたのが始まりです。
慶長7年(1602年)、徳川家康より本願寺分立が許されたのに伴い、長浜城内にあったものを慶長11年(1608年)内藤信成が長浜に移封された際に当地に移されたと言われています。
「山門」
この山門は、文化5年(1808年)に起工、天保11年(1840年)に完成しており、実に32年の歳月を費やしてできた建物だそうです。
山門は二重の屋根がある重厚な造りになっていて、左右の山廊に階段があり、2階は板張りで、釈迦如来を真ん中に弥勒菩薩と阿難尊者の像が安置されているそうです。
「本堂(阿弥陀堂)」
元、伏見桃山城の建物で、徳川家康が本願寺教如(きょうにょ)に贈ったものが、後の承応年間(1652~1654年)に移築されたものと言われています。
元文元年(1737年)には、平面を拡張し妻飾破風を作り替えるなどの大修理を施しており、明治45年と昭和27年には屋根の葺き替えが行われているそうです。
「梵鐘」
銘文から貞治2年(1363年)に若狭国遠敷郡の多太寺の鐘として鋳造された事が分かっていますが、当寺に至る由来は定かではないようです。
小型の鐘で竜頭(りゅうず)の蓮台の宝珠を囲む火炎は美しい彫刻でこの時代の梵鐘としては類例がないそうです。
昨日は「大阪秋の陣」と言われた大阪府知事と大阪市長のダブル選挙が行われました。
大阪では実に40年ぶりのダブル選挙だそうです。
「大阪秋の陣」
このダブル選挙は、大阪都構想を掲げる前の大阪府知事の橋下(はしもと)氏が市長選挙に立候補するため、任期途中で辞職したことから、40年ぶりに市長選挙と府知事選挙のダブル選挙となったものです。
大阪市長選挙では、2期目を目指した現職の平松氏と、「大阪都構想」の実現を目指し知事を辞職した橋下氏の対決となり、大都市制度の在り方や教育政策、リーダーとしての政治手法などを巡って激しい論戦が繰り広げられ、豊臣・徳川が争った「大阪冬・夏の陣」に準(なぞら)えて「大阪秋の陣」と表して報道していたマスコミもありました。
一方、橋下前知事の辞職に伴う大阪府知事選挙も7人が立候補して選挙戦が繰り広げられました。
しかし、実態は有力候補者と言われていた民主党と自民党の府議団が推薦する前の池田市長の倉田薫氏と共産党が推薦する弁護士の梅田章二氏、それに府議会議員で前の大阪維新の会幹事長の松井一郎氏の3人が争う構図となっていました。
ここ十数年来、経済の地盤沈下が続く大阪にあって、このダブル選挙はNHKでも全国ニュースで取り上げるなど、久々に活気に満ちた大阪の話題となったように思います。
この事は大阪市長選挙の投票率が60.92%、前回比17.31ポイントの大幅アップとなった事にも表れています。
知事選挙でも52.88%で前回比3.93ポイントの上昇と関心の高さを示しています。
「府市100年論争」
橋下前知事が打ち出している、「大阪都構想」、即ち、「2つの大阪」構想は、明治時代から論争されている、「100年論争」だそうです。
即ち、府市の論争は、大阪など5大都市が府県からの独立を目指した大正9年の「特別市建議案」が直接の発端とされますが、都市制度を巡る市と府のせめぎ合いは、国を巻き込んで明治時代から続いていたようです。
今回の「大阪秋の陣」は、約100年に渡る大阪の大都市制度を巡る議論が争点となり、大阪府知事・大阪市長のダブル選挙となりましたが、このことが選挙で問われるのは40年ぶりの同日選挙が事実上初めてのこととなりました。
昨日は 2つの選挙とも、午前7時から一斉に投票が始まり、午後8時に締め切られて即日開票され、大阪府と大阪市という、「2つの大阪」のあり方に有権者はどんな判断を下すのか注目されたましたが、午後8時には早々とその結果速報が流され、府市共に大阪維新の会の候補者二人が当選確実となりました。
「選挙結果」
大阪府知事 当選 松井一郎 2,006,195票
2位 倉田 薫 1,201,034票
大阪市長 当選 橋下徹 750,813票
2位 平松邦夫 522,641票
両選挙とも大阪維新の会 対 反維新の会を掲げる既成政党推薦の候補者の対決となりましたが、府市共に大阪維新の会が大差で勝利し共に初当選しました。
新しい知事、市長には府と市の連携を密にして大阪の閉塞感を払しょくし、地盤沈下が続く大阪を改革して、私たち府市民の暮しが今より良くなるような政治をしていただくことを願います。
先日、東北の震災地を訪ねた瀬戸内寂聴さんがボランティア活動をしている若い人たちと対話しているTV映像を観ました。
その中で、寂聴さんがボランティアの目的などを尋ね、仏教の「忘己利他(もうこりた)」の精神と同じと話されていました。
そこで今日はこの「忘己利他(もうこりた)」について調べました。
「忘己利他(もうこりた)」とは、仏教の言葉で、自己を忘れて、つまり、己を無にして他人を利するの意です。
分かりやすく言えば、反対給付を求めないで相手の為に尽すということで、瀬戸内寂聴さんは、「忘己利他は、慈悲の極みなり」とおっしゃっておられました。
人間の性(さが)として、私たちはどうしても自分中心に考えてしまうことがあります。
もっと欲しい、こうして欲しい、とまわりに望むことが多くなりがちで、我欲が先に立ってしまいます。
伝教大師最澄の言葉に『己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり』と言う言葉があります。
自分の事は後にして、先ず、人に喜んでいただくことをする。それは仏さまの行いで、そこに幸せがあるのだと言う言葉です。
つまり、我欲が先に立つような生活からは幸せは生まれないのだということだそうです。
インドの母と言われた故マザー・テレサは講演の中で次のように話されていました。
ある日、7人の子供を抱える貧しい母のところへマザーは両手いっぱいほどの米を持って行ってあげました。
するとその母親はそのお米の半分ほどを手にして外へ出て行きました。
マザーが問うと、隣りにも同じような貧しい親子がいるので、そのお米を分けてきたのだと云うのでした。
1俵もあるお米ではありません。
自分の子供たちの1食分にも足りないお米でさえ、それを半分にして隣りの子供たちも喜ぶだろうと分けてやれる崇高な精神にマザーも感動したと言います。
人は多くの場合、反対給付を意識して行動しがちですが、お返しを意識しないで相手の為に尽すのは中々できないことです。
反対給付を求めないで、しかも震災地までの交通費や食事代も自己負担で参加し、ボランティア活動をしている多くの皆さん、特に若い人たちに寂聴さんは感動しておられました。
このような若い人たちがいる限りは日本は大丈夫だとも言っていました。
道成寺に参拝した後、私たち歴史探訪同好会のメンバー一行は約1㎞先にある次の「海士(あま)王子」を目指しました。
「海士(あま)王子」
ここに掲げられているご由緒によれば、「海士(あま)王子」は、
『熊野九十九王子の一つで、くわま、クハマ、クリマなどと呼ばれ、小松原宿所を控えた要所で、御幸記建仁元年以後由緒ある王子社であった』
と書かれていました。
「熊野道之間愚記」には、建仁元年(1201年)10月10日条に「クワマ王子」、『民経記』承元4年(1210年)4月26日条に「久和万」、文明5年(1473年)の『九十九王子記』に「桑間崎」とあるほか、仁和寺蔵の『熊野縁起』(正中3年〈1326年〉)はクアマの名を記しているほか、『和歌山県聖蹟』にはクリマの名が挙げられているそうです。
近世後期の史料には、九海士(くあま)王子を道成寺伝説の一部に取り入れ、道成寺の観音像を海中より引き上げた海女に因むとしていますが、九海士(くあま)王子ないし海士王子の名で呼ばれるようになるのは近世のことだそうです。
この王子は1908年(明治41年)、吉田八幡神社に合祀されています。
「風車」
山の頂には風車が並んでいました。
東電福島第一原発事故を受けて、政府では再生可能エネルギー、自然エネルギーの本格的活用が検討されており、将来、全国的にこのような風景が見られるようになるかも知れません。
「岩内王子」(別名:焼芝王子)
ここに記されている御由緒によれば、
『紀伊続風土記に「也久志波(やくしば)王子社」境内周三十間村中にあり、岩内王子を祭るとある。 また、御幸記には河流が変わり社地が没して後に小社をここに建てると
記されています。
元和元年(1615年)の大洪水で王子は滅没したようであるが付近には王地の地名が残り、大正年間に近くから楠の大木が掘りだされており、多分この辺りが旧地とみて間違
いないと思われる。』
と書かれています。
この王子は1908年(明治41年)、熊野神社(御坊市熊野)に合祀されています。
・「岩内コミュニティーセンター」の建物の前に建っている「岩内王子跡」の石柱です。
「日高川」
日高川は(ひだかがわ)は、和歌山県中部を流れる二級水系の川です。
総延長では熊野川、紀ノ川に次いで和歌山県を流れる河川の中で3番目ですが、県内だけの長さに限れば最長となります。
なお、日高川は日本一長い二級河川であり、この川が有名な安珍・清姫伝説の舞台となっている川です。
(参考)
・一級水系とは、日本の河川法によって定められた水系の区分により、国土交通大臣が国土保全上または国民経済上特に重要として指定した水系です。
・二級水系とは、日本の河川法によって定められた一級水系以外で「公共の利害に重要な関係がある水系で、都道府県知事が指定管理します。
今回の「熊野古道」のコースは約15㎞と比較的距離がありましたが、峠越えなどの山道はなく、舗装された平坦な道だったため、参加した11名のメンバー全員へこたれることなく終点の御坊駅に到着しました。
昨日に続き「道成寺」の2回目として、今日は境内にあるお堂をご紹介します。
「道成寺三重塔」
この三重塔は、宝暦2年(1752年)、当時の住持・盛寛が塔婆の再建を計画し、壇家、信者等に資金を募り、宝暦13年(1763年)に地元の大工・藤兵衛の手により、古代の伽藍の塔跡に再建されたものと推定されています。
塔の高さは20m、総桧造り、県内唯一の三重塔として県の重要文化財に指定されています。
「槇柏(しんぱく」
樹齢600年の槇柏(しんぱく:カイヅカイブキ)です。これだけ大きな槇柏は珍しいそうです。
「道成寺(護摩堂)」
護摩堂とは護摩の修法をする堂です。
そして、護摩とは、護摩壇を設け、護摩木を焚(た)いて息災、増益・降伏・敬愛などを本尊に祈ることです。
古くからインドで行われていた祭祀法を取り入れたもので、智慧の火で煩悩の薪を焚く事を象徴すると言われています。
「十王堂」
この十王堂は1707年に建てられたお堂だそうです。
「十王」とは、十王経に説く、冥府(めいふ)で死者を裁くという王の事で、初七日から三回忌まで、各王が娑婆でした罪の裁断をし、これによって来世の生所が定まると言われています。
「常念仏堂」
2005年4月16日に再建落慶入仏供養されたお堂です。裏堂が納骨堂になっていて一般の人の納骨も受け付けているそうです。
「熊野古道を歩く」シリーズの3回目は安珍・清姫伝説で有名な道成寺をご紹介します。
「道成寺」
道成寺は和歌山県日高郡にある天台宗の寺で山号は天音山です。
社伝によれば、大宝元年(701年)に文武天皇の勅願によって創建された和歌山県最古の寺で、開山は義淵(ぎいん)僧正、開基は紀道成(きのみちなり)と伝えられています。
「仁王門」
仁王門は寺院正面の長い階段上に建ち、建立は文書等から元禄5年(1691年)頃とみられています。
門の下には、梁間寸法がほぼ一致する古代の複廊(ふくろう)式の回廊の遺構が残っていることから、古代の伽藍(がらん)の中門の位置を保って再建されているそうです。
「本堂」
道成寺は、大仏殿を造った聖武天皇の生母であり文武天皇の夫人である宮子姫の願いで、文武天皇の勅願によって開創されました。
ご本尊の千手観音は義淵僧正によって造られたと言われており、お寺の名称は、寺を開基した紀道成(きのみちなり)に因んで道成寺と名付けられたと伝えられています。
道成寺の本堂は、内部には多くの人が参籠できるよう小部屋がたくさん用意されており、天台宗の本堂とは異なっています。
これは1652年に天台宗に改宗しているものの、元は中世の観音堂であるためと言われています。
また正面と背面にそれぞれ三間の向拝を持っており、このような仏堂を両正面堂というそうです。
・義淵(ぎいん)僧正によって造られたと言われているご本尊の千手観世音菩薩像です。
11月13日(日)17:00の開演で 花柳壽輔師による日本舞踊奉納公演の会場が道成寺境内に設営されていました。
この舞台では、花柳流の四世宗家家元である花柳壽輔師による、長唄紀州道成寺などが予定されていました。
「安珍・清姫伝説」
安珍・清姫伝説は紀州に伝わる伝説で、思いを寄せた僧・安珍に裏切られた少女・清姫が激怒のあまり蛇身に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としています。
「鐘巻の跡」
「安珍塚」のある一角の東南側に「鐘巻の跡」と書かれた石碑が建っています。
この鐘巻きと言う言葉は安珍が隠れた鐘を蛇に化身した清姫が巻いて焼き殺したと云う説話に基づいていると推測され、安珍が焼き殺されたのがこの場所であるとされているようです。
・安珍が焼き殺されたとされる「鐘巻の跡」の石碑です。
「鐘楼跡」
「鐘巻の跡」の東側にちょっとした盛り土と巻き石が施された場「再興鐘楼跡」があります。
安珍が焼き殺されてから約400年後の正平14年(1359年)に梵鐘が完成し、鐘楼を再興しようとしましたが、供養に際し清姫の怨霊が現れて法会を妨害し、鐘を落としてしまったと言われています。
それ以来、道成寺には鐘楼が建立されていないそうです。
「熊野古道を歩く」、2回目の今日は「善童子王子」と「愛徳山王子」をご紹介します。
「善童子王子」
善童子王子は昨日ご紹介しました「史跡 一里塚跡」から1㎞程、安珍・清姫伝説で有名な「道成寺」に向かう道中にあります。
神社の入り口に大きな看板があり、その看板の上には小さな文字で「よい子神社」と書かれています。その名称は善童子という名前から由来したのか、それとも、もともと富安荘の産土神(うぶすながみ)であったからなのか分かりませんが、地元では富安神社とも呼ぶそうです。
『中右記』には大般若経六百卷を蔵する大社であったと伝えており、格式も五体王子に次ぐ准五体王子の一つであったようですが、明治42年に湯川神社に合祀されています。
なお、五体王子とは、文献によっても違いますが、一般に他の王子社より格式が高い王子社を言い、現在では藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子の5社を指しているようです。
・善童子王子の小さな祠です。
御坊市内を走る熊野古道の大部分は、現在は県・市道として使われており、古(いにしえ)の熊野詣の旅人が行き交った道筋をたどるのは困難です。しかし、今でも処々に古い面影を残しているところも見られます。
なお、この地区で「杉」や「檜」の苗を作っている田んぼをよく見かけました。これらは植林用の苗と思われます。
・「杉」と「檜」の苗を作っている田んぼです。
「愛徳山王子(あいとくさんおうじ)」
愛徳山王子は県道27号線吉田地内から、獣道のような狭い道をしばらく上った草むらの中に石碑が立っています。
この王子は「准五体王子」の一つで、鎌倉時代にはかなり重要な社であったようですが、1908年(明治41年)になって近隣の吉田八幡神社に合祀されたそうです。
・「愛徳山王子」跡です。祠はなく、石碑が建っているだけでした。
先日、以前、私が勤めてい会社のOB会の中にある同好会の一つ、”歴史探訪同好会”のメンバーと熊野古道(紀伊路ルート)を歩いてきました。
そこで今日から「熊野古道を歩く」シリーズを数回に分けてご紹介します。
私が同会のメンバーと熊野古道を歩くのは今回で4回目です。
今回歩くコースは「高家(たいえ)王子」から「岩内王子」を経て御坊駅までの約15㎞です。
参加者11名は出発地点であるJRきのくに線・紀伊内原駅に集合し、最初の王子である「高家王子」を目指しました。
「高家(たいえ)王子」
高家王子は熊野古道と国道42号線、JRきのくに線が交差する地点にほど近い場所にあります。
境内には嘗て熊野本宮大社など和歌山県内の大きな神社によく見られた「長床」という修験者の集合施設があり、紀北と紀南を結ぶ熊野信仰の一大拠点であったようです。
この王子は江戸時代には「若一(にゃくいち)王子社」と称され、萩原村東光寺にあったことから「東光寺王子社」とも言われていましたが、明治時代になって王子神社と改称され、更に、昭和28年には大蔵省の指示で村の名称を使用して「内原王子神社となったそうです。
・「高家(たいえ)王子」、現在の名称は「内原王子神社」です。
「愛子の淵」
ここに記されている説明によれば、江戸時代、この近くの豪族 秦 政助の一子 亀千代は生まれつき目が見えず、嘆き、円応寺の観音様に願掛けしましたがその効もなく、前途を悲しみ淵に身投げをしました。
ところが、不思議と亀千代の体は温みが戻り、やがて口を開き、「今、地獄へ落ちるところ観音様のお救いで助かった」と言ったそうです。
悲しんでいた政助や村人一同はその神秘に唖然とし喜びました。この事があってからこの淵を「愛子の淵」と呼ぶようになったと伝えられているそうです。
「一里塚跡」
次の善童子王子の1㎞ほど手前に「史跡 一里塚跡」の石碑が建っていました。
一里塚とは、街道の両側に1里ごとに土を盛り、里程の目標とした塚のことで、多くは榎(えのき)・松を植えていました。
現在は石碑が建っているだけで、土を盛ったような塚は見当たりませんでした。
「赤穂の旅」シリーズは今日が最終回となります。
今回の赤穂行きの目的は、東の楠公、西の大石と称せられる我が国の二大忠臣義士の内、赤穂47義士が祀られている「大石神社」への参拝と大石内蔵助が山科に出立するに当たり、赤穂最後の地であった赤穂御崎を訪れることとその素晴らしい眺望を楽しむことでした。
「赤穂御崎」
瀬戸内海国立公園赤穂御崎は、春には1,700本の桜が、夏には景勝海岸での海水浴やキャンプが、そして秋冬は温泉と新鮮な海の幸の料理などと、四季折々に楽しめることが観光案内には紹介されています。
「大石内蔵助赤穂を出立」
元禄14年(1701年)3月14日赤穂城主浅野内匠頭は、江戸城松の廊下において高家吉良上野介に刃傷したため、領地は没収され、赤穂浅野家は三代57年で断絶しました。
赤穂城を明け渡した城代家老大石内蔵助は、尾崎村「おせど」の寓居(ぐうきょ)で残務処理に当たっていましたが、この赤穂岬から海路先発させた妻子を送った後、菩提寺花岳寺で亡君の百カ日法要をつとめ、翌6月25日に山科に出立しました。
「大石名残の松」
ここに立っている石碑によると、「血涙を呑んで赤穂開城を終えた大石内蔵助は元禄14年(1701年)6月半ば妻子をこの港より海路遠く大坂表に送り出し、自らは6月25日、其の後を追って山科に向かった。その時、御崎の巌頭に立つ老松を見返りつつ名残を惜しんだと伝えられています。
人々はこれを「名残の松」と言い伝えていますが、今は枯れ幹に儚く昔の語り種を残す」となっています。
赤穂御崎からの素晴らしい眺望です。
また、ここから臨む夕陽は、日本の夕陽百選にも選定されているそうです。