大門から中門を経て本堂までの200mほどの境内にはたくさんの堂宇があります。
今日もそれらをご紹介します。
「丈六堂」
この丈六堂は文化3年(1806年)の再建で、堂内には丈六(一丈六尺の略)の阿弥陀如来を安置しています。
一丈六尺は約4.85㍍ですが、仏像は普通、結跏趺坐(けっかふざ:「あぐら」の意)の姿に造られるので、座高は八~九尺(約2.4~2.7m)が標準となるようです。
「丈六堂内の阿弥陀如来像」
釈尊は一丈六尺あったっとされており、この大きさに作られた仏像を丈六といいます。
・丈六堂に安置されている一丈六尺の阿弥陀如来像です 。
名勝「粉河寺庭園」
国の名勝指定を受けている粉河寺庭園です。
本堂の前庭とその下の広場との高低差を利用して作られた、日本庭園の中でも先例のない石組みの庭園です。
石組全体の構成は向かって左手に重点をおき、枯れ滝・石橋・鶴亀の島などを象徴的に表現し、右手にゆくに従って石の扱いは軽くなっているそうです。
右に見えている屋根が本堂ですが、広場と本堂は約3メートルほどの高さの差があり、その段差に庭を作っているのです。
桃山時代の枯山水観賞式蓬莱庭園といわれ、紀州産の緑泥片岩などの巨石が豪快に使われているそうです。
「本堂」
8世紀(770年)の創建以来5度の火災と1度の兵火に見舞われ、その度に造営と改造を繰り返してきました。
現存の本堂は享保5年(1720年)に再建されたものです。
江戸時代中期の欅(けやき)材による代表的建築で、西国三十三ヶ所の中で最大級の大きさを誇る本堂だそうです。
他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根の礼堂(らいどう)と二重屋根の正堂(しょうどう)とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式となっています。
この本堂に祀られているご本尊は、もちろん粉河寺縁起でも語られている千手千眼観音像ですが、残念ながら絶対秘仏だそうで、今まで公開されたことがなく、誰も見たことがないのだそうです。
「鐘楼」
この鐘楼の鐘は1回50円で誰でも撞くことができます。
毎年、終戦記念日には平和の鐘をならす集いが開かれているそうです。
今年も戦争で犠牲になった多くの人や、6年前の東日本大震災などの災害で亡くなった人たちの冥福を祈って平和の鐘をならす集いが開かれる予定だそうです。
「六角堂」
六角堂は六角形の仏堂で、享保5年(1720年)の建立です。
西国三十三ヶ所御本尊(千手観音菩薩)を祀っているそうです。
「西国三十三所巡礼の由来」
西国三十三所巡礼は観音霊場を巡る旅です。
718年長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなりました。
冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、三十三箇所の観音霊場をつくり巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻されました。
そしてこの宝印に従って霊場を定め、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めました。
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を受けたのです。
そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山の性空上人、河内国石川寺の仏眼上人と中山寺の弁光上人を伴い三十三箇所を巡礼したことから、やがて人々に広まっていきました。
この三十三の数については、観音菩薩が衆生を救うとき、33の姿に変化することに由来すると言われています。
西国三十三箇所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされています。
粉河寺は約35000坪の広大な境内地と、200mに及ぶ石畳の参道、大小20有余の堂塔伽藍や名勝粉河寺庭園などを有する名刹です。
それらは大門から本堂までの境内に建ち並んでいることから、主だった伽藍等を道順に沿ってご紹介しています。
「仏足石」
大門を入り、中門との中間くらいに「仏足石」があります。
立てられている説明によれば、仏足石はお釈迦さんの足跡がきざまれている。紋様は千輻輪相(せんぷくりんそう)をあらわし、その大きさは人徳の偉大さを象徴している。後ろの碑は江戸時代の傑僧願海上人の筆である。
と記されています。
お釈迦さんの足跡の紋様は千福輪相をあらわしています。
なお、「千輻輪相(せんぷくりんそう)」とは、仏の備えている三十二相の一。足の裏にある、千の輻 (や) をもつ車輪の形の文様です。
「粉河寺童男堂」
本尊は千手千眼観世音がお姿を変えられたと言われる童男大士(童男行者)を祀り、一年を締めくくる観音様の縁日、いわゆる「終わり観音」の日となる12月18日に童男会(どうなんえ)が営まれます。
延宝7年(1679年)の建立と考えられている童男堂は正堂と礼堂からなり、桁行3間、梁間3間の正方形建物の前面に桁行5間、梁間3間の礼堂を幅1間の合いの間を挟んで建てられているそうです。
江戸時代に建てられたお堂で、廟建築の形式になっています。
「念仏堂」
「出現池」に隣接して建っている「念仏堂」は光明殿とも言い、阿弥陀如来を安置しています。
江戸時代後期の建築で、総欅造の建物です
「出現池」
本尊千手観音の化身 童男大士(童男行者)が柳の枝を手に白馬に乗ってこの池より出現したと伝えられています。
「中門」
三間一戸の楼門で、明和年間(1764~1772年)の頃から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成したようです。
軒まわりまで良質の欅(けやき)材で繊細な建物に仕上げられています。
両サイドの前後には四天王が祀られています。
「中門の四天王」
中門の左右の正面と背面には四天王が祀られています。
「多聞天(正面左)」
毘沙門(びしゃもん)の別称で四天王の一。
常時、如来の道場を守り、法を聞くことが最も多いことからこの名称となったようです。北方を守る仏法守護の神将。甲冑(かっちゅう)をつけ、両足に悪鬼を踏まえ、手に宝塔と宝珠または鉾(ほこ)を持った姿で表される。日本では福徳の神。
増長天(ぞうじょうてん)(背面左)
四天王の一。須弥山(しゅみせん)の中腹に住し、南方世界を守護する神。
像は赤色で甲冑(かっちゅう)をつけ、ふつう、右手に鉾(ほこ)を持ち左手を腰に当てる姿で表わされます。
広目天(正面右)
四天王の一。須弥山(しゅみせん)の中腹に西方に住し、西方世界を守護すると言われています。
悪人を罰して仏心を起こさせることをつかさどる。像はふつう、甲冑(かっちゅう)をつけ、筆と巻物を持つ姿に表される。
持国天(背面右)
四天王の一。須弥山(しゅみせん)の中腹に東方に住し、東方世界を守護すると言われています。
甲冑をつけた忿怒(ふんぬ)の武将形に表され、天衣を着て、右手に宝珠、左手に刀を持つ。
(参考)
金剛力士像は門の左右に安置される2体一具で二王とも称されます。
口を開けたのが阿形、口を閉じたのが吽形となります。これは「狛犬」でお馴染みでまた「阿吽の呼吸」の語源にもなっています。
左側(向かって右側)には阿形像、右側(向かって左側)には吽形像を安置するのが通例となっていますが、古代には逆の配置もありました。
阿吽形像の名称としては
阿形・・金剛、金剛力士、金剛力士、密迹金剛、
吽形・・力士、密迹力士、金剛力士、那羅延金剛、
と称されておりますが、いずれにも「天」が付きません。
現在では金剛力士像、仁王像、二王像などと呼び、その両像を阿形像、吽形像という呼び方で区別されているということです。
一昨日の土曜日に現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー11名と、和歌山県の北部に位置する紀の川市の粉河寺周辺を散策してきました。
今日から数回に分けてご紹介します。
集合場所はJR和歌山線の粉河駅ですが、殆どの人が南海線や阪和線沿線に住まいしているため、JR阪和線熊取駅に集合してバスで行くことにしました。
「粉河駅」
集合場所の粉河駅です。
列車の到着は一時間に1本から2本、一日の平均乗降客は1000人ほどの閑散とした地方の駅でした。
駅員も一人のようであり、時間帯によっては居なくなって無人駅となります。
・集合場所のJR粉河駅です。
「童男大士(童男行者)」像
宝亀元年(770年)のある日、この地の猟師の大伴孔子古(おおとものくじこ)が山中で獣を追っていると、地面に光を放っている場所を見つけ、孔子古はその場所に庵を建立したと伝えられています。
そこへ童姿の行者(童男行者)が現れ、一夜の宿を求め、泊めてもらったお礼に7日間庵にこもり仏像を作る約束をしました。
7日が過ぎ、孔子古が庵を開けると行者の姿はなく、そこには金色に輝く千手観音像が立っていました。
孔子古は童男行者こそ千手観音の化身と考え、その観音像を粉河寺の本尊として大切に祀ったと言われています。
・駅前に建っている童男大士(どうなんだいし)」像です。
「粉河寺(こかわでら)」
宝亀元年(770年)に大伴孔子古(おおとものくじこ)にて創建された風猛山粉河寺は、第一番札所の那智の青岸渡寺、第二番札所の紀三井寺とともに西国三十三所観音霊場の名刹です。
約35000坪の広大な境内地、200mに及ぶ石畳の参道、大小20有余の堂塔伽藍、名勝指定の粉河寺庭園等で有名な寺院です。
・粉河寺の大門を入ったところに立てられている粉河寺の案内図です。
「ご神木」
この樟の木の樹齢は一千年余り、胴周り15m、高さ25mだそうです。
この樟の木は和歌山県下の中で第三位の大木で、紀伊風土記には「境内に樟の木の大樹あり。周囲三丈五尺許」と書かれており、古くからその巨大な姿を見せていたと言うことです。
「大門」
1,708年に建設されたこの大門は総欅(けやき)造りで国の重要文化財にしていされており、和歌山県内で高野山、根来寺に次いで3番目の大きさを誇っています。
この大門は入母屋造、本瓦葺きで、桁行12.48m、梁間7.48mという立派な2階建ての楼門です。
両サイドには、仏師春日(しゅんじつ)の作といわれる、像高5mの金剛力士像が立っています。
「金剛力士像」
大門の左右に立って寺院内に仏敵が入り込むことを防いでいます。
宝永4年(1707年)建立だそうです。
・大門の右に建つ金剛力士像(開口の阿形(あぎょう)像です。
・大門の左に立つ金剛力士像(口を結んだ吽形(うんぎょう)像です。
歳をとると白内障や緑内障を患う人が増えてきます。
白内障は手術で治療できるので心配は要りませんが、緑内障は注意が必要です。
治療せずにそのままにしておくと次第に視野が狭くなり、失明することもあるようです。
かく言う小生も白内障の手術を両眼行っており、右眼は緑内障の点眼液による治療を継続しているのです。
眼圧が正常値の自分が何故、緑内障になったのか?
今回その要因を調べて思い当たる節があったのでご紹介します。
「緑内障になりやすいタイプ」
以前、「眼底の血流が悪い人」は緑内障になりやすいということが分かってきたと報道されていました。
眼底の血流が悪い人は、網膜の視神経に栄養や酸素が届きにくくなるため、視神経そのものが弱くなってしまうことがあり、その結果、眼圧が正常でも視神経が眼圧の影響を強く受けることとなり、緑内障の発症リスクが高まると考えられているということです。
緑内障は徐々に視野が欠けていき、重症になると中には失明してしまう人もいる症状ですが、なかなか自分では気がつかないのが実情のようです。
そこで、事前に自分がなりやすいかどうかを知っておくことがとても大切なのだそうです。
では、どんな人が血流の低下をきたすのでしょうか?
40歳以上で、下記の項目に当てはまる人は眼底の血流が悪くなっている可能性があるということです。
1.低血圧・・・全身の血流が悪くなることが多いので、網膜の血流低下を招きやすい
2.高血圧・・・網膜の毛細血管が動脈硬化になることがあるので、血流低下を招きやすい
3.糖尿病・・・血中の糖が網膜の毛細血管を傷つけることがあるので、血流低下を招きやすい
4.偏頭痛・・・脳の血管が拡張・収縮しやすい。網膜でも似た現象が起きるため血流低下を招きやすい
5.睡眠時無呼吸症候群・・・目に酸素や栄養が届きにくいため、視神経が弱くなりやすい(単なるいびきの人は心配ありません)
6.家族歴・・・血縁のある親族に緑内障の患者がいる人はリスクが高いことがわかっています
7.強い近視(度数マイナス5以上が目安)・・・眼球が大きくなって毛細血管を圧迫するので、網膜の血流低下を招きやすい
以上に該当する方は緑内障になりやすいタイプだそうです。
実際、小生も「5」と「7」に該当していることから緑内障になったのかも知れません。
しかし、最終的に視神経の障害を引き起こすのは眼圧だと考えられており、眼圧検査で「正常範囲を超えている」と指摘された人はそれだけで緑内障のリスクが高いと考えらるようです。
緑内障は自分では気づきにくい病気なので、気になる方は一度お近くの眼科にご相談されてみては如何でしょうか。
もし、緑内障と診断されたら、早めに治療を開始して頂きたいと思います。
今日のタイトル「イチゴからスイカへ」ですが、何の事だか分かりませんよね。
実は、4月17日に植え付けたスイカが順調に生育し、実が止まって早くも直径15㎝ほどになったことから、カラスやアライグマの被害に遭う前に防獣網を張り替えたのです。
イチゴに使用している防獣網をスイカの畝に張り替える作業を行ったことから、今日のタイトルになったと言う訳です。
・直径15㎝ほどになったスイカです。
イチゴの畝に張っているこの防獣網を取り外して、そっくりそのままスイカの畝に張り替えます。
今年のイチゴはこの網のお陰でカラスやアライグマの被害は全くありませんでした。
・イチゴを守ってくれた防獣網です。
イチゴの収穫は殆ど終わりましたが、未だ少し残っているので、カラスやアライグマ対策としてビニールトンネルはそのまま残しておきます。
・防獣網を取り除いたイチゴの畝です。
4株植え付けたスイカの畝です。1株当たり4本の蔓を伸ばしています。
順調に生育した事から、そのほとんどの蔓に雌花が咲き、実が止っています。
枝を立てているところは雌花に人工受粉したところです。
この時点でソフトボールくらいの大きさくらいになっているスイカが7~8個ついています。
この大きさになると過去にカラスの被害があったことから防獣網張りを急いだのです。
・順調に生育しているスイカの畝です。
一昨日は久しぶりに雨が降りましたが、急がなければならず、雨が止んだ時や小雨の時間帯を見計らって防獣網張りをしました。
これが「イチゴからスイカへ」の防獣網移設の完成したすがたです。
スイカの収穫は6月末から7月初め頃になる予定です。
・右がスイカ、左はマクワウリの畝です。
先日、「ウォーキングの奨め」と題して1日8000歩の健康法をご紹介しました。
今日はウォーキングの後に乳製品を摂取すると筋力アップに効果があると言う研究結果があるのでご紹介します。
運動をした後にチーズやヨーグルトなどの乳製品を摂取すると、運動だけを行うより筋力が増加し、生活習慣病の改善や予防にもつながる可能性があるという研究結果が信州大学の研究グループによってまとめられたと報道されていました。
それによると、速歩きとゆっくりとした歩きを3分ごとに交互に行う、「インターバル速歩」という運動を続けている女性37人を3つのグループに分け、運動の直後に乳製品を摂取することで体にどのような効果が現れるか調べたのだそうです。
その結果、「インターバル速歩」のあと、チーズ1個とカップのヨーグルト2個を摂取したグループでは、5か月後の筋力が何も摂取しなかったグループと比較して平均で8%増加したそうです。因みになにも摂取しなかったグループは殆ど変わらなかったということです。
更に、このグループでは、生活習慣病につながる慢性の炎症反応を引き起こすNFKB1と2という2つの遺伝子の働きが、それぞれ平均で29%と44%抑えられたと言うことです。
同大学の能勢教授は「安くて誰にでも手に入る乳製品を運動の後に多めに摂取すれば、生活習慣病の症状を改善したり予防したりできると考えられる」と話しているということです。
運動後の牛乳摂取による筋肉の付き方の違いは他の研究でも実証されているようです。
その研究によると、ウォーキング後に牛乳を摂った人と摂って無い人30人のデータを比べた結果、実際にウォーキングをした後に牛乳を飲んでいたグループの筋力の増加率が16%アップしていたそうで、牛乳を摂らなかったグループと比べると2倍以上アップしていたということです。
そして、牛乳の筋力アップの効果により、腰や膝の痛みの改善なども期待できると言われています。
実際にウォーキングの後に牛乳を飲み始めて筋力を半年で1.2倍にアップさせた方は膝・腰が楽になったと言っているそうです。
筋肉が増えれば基礎代謝量がアップして、太りにくくなり、生活習慣病の予防などにも効果があるということです。
「筋力がアップする理由」
筋トレや少しきついウォーキングなどをすると筋肉に小さな損傷がおこります。その筋肉の損傷を修復しようと筋肉はたくさんアミノ酸を取り込もうとするのです。
この状態は運動後の30分で終わってしまいます。そのタイミングで筋肉にアミノ酸を含んだ乳製品(牛乳なら200cc)を摂ると、アミノ酸がどんどん筋肉の中に入っていき、それで筋肉が太くなっていくのだそうです。
スポ―ツ選手が牛乳を飲む事はよく知られていますが、彼等の健康維持にも牛乳などの乳製品摂取が寄与しているのかも知れません。
皆さんもウォーキングなど、きついと感じる運動の後、30分以内に牛乳200㏄を飲んで、筋力アップと生活習慣病の予防に努めてみては如何でしょうか?
政治家の失言が相次いでいます。
今に始まったことではないですが、最近頻発しているように思います。
4月上旬には、今村雅弘復興相が「被災者の自主避難は自己責任」と発言し、問いただした記者に「退席しろ」と叫んで問題になりました。
その3週間後には今度は自分たちの派閥パーティで「震災が東北だから良かった」と発言したのです。その直後は「真意の説明」(言い訳?)に終始しましたが、翌日には辞任に追い込まれました。
同じく4月、山本幸三地方創生相は滋賀県での講演で、観光振興をめぐり「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目」と発言しました。
また大英博物館にも言及し「学芸員が抵抗したが全員クビにして大改装を実現し、成功した」と発言。セミナー終了後にも「そういうことが(事実)あった」と主張したが、翌17日には謝罪に追い込まれたのです。
そして先日も大西英男衆議院議員が党内で受動喫煙対策を議論した際、がん患者について、「働かなくていいのではないか」と発言したことを認め、「患者や元患者の気持ちを傷つけた」として謝罪したのです。
一般人よりもはるかに言動に気をつけなければいけない職業、それが政治家の筈です。
政治家の失言や暴言が次から次へと報道されているのに、彼等はなぜ学習しないのか不思議です。
特に大西議員は過去にも問題発言を繰り返しています。
2014年4月には、小西小百合議員に対して「子供を産まないとダメ」と発言し、謝罪しました。
2015年6月には、安保関連法案に批判的な報道機関に対して、「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番だ」と発言し、党から厳重注意を受けています。
更に、2016年3月には、衆議院北海道5区補欠選挙で自民党公認候補への支援を依頼していた巫女が「自民党は好きではない」と語ったことに対し、「巫女(みこ)のくせに何だ」と発言し、謝罪しています。
大西議員は、自分を何様だと思っているのでしょうか?
「俺は偉いんだ。だから俺の言うことは何でも聞け!」とでも思っているのでしょうか?
「自分は素晴らしい存在で一般市民は下民、つまり自分よりも下の存在だ」とでも考えているのでしょうか?
がんを患った人が働いていても当然のことであり、何ら不思議ではありません。
このような人が議員になっていることの方が不思議であり、議員は世間一般の感覚と相当ズレているように感じます。
大西議員は東京16区選出の議員のようですが、次回の改選時には有権者も良識が問われることになりそうです。
ジャガイモの産地、北海道。
全国のジャガイモ生産の約8割を占める北海道に、昨年8月、観測史上初めて3つの台風が上陸しました。
その大雨の影響で収穫間近だったジャガイモが水没し、根腐れしたことから不作となり、品不足による高値が続いていました。
ポテトチップスメーカではジャガイモが調達できず、販売休止に追い込まれているところもあるようです。
北海道の今年のジャガイモの収穫はまだ4~5か月先になりますが、昨年の不作を取り戻すような豊作になって欲しいものです。
さて、ジャガイモと言えば、家庭料理の定番に「肉じゃが」」があります。
そこで今日は「肉じゃが」について調べました。
「肉じゃが」の誕生には諸説ありますが、その一つに東郷平八郎に由来するという説があります。
東郷と言えば、日露戦争でバルチック艦隊を打ち破った海軍司令官です。
彼はある時、英国留学時代に味わったビーフシチューが忘れられなかったことから、料理長に命じて、これを作らせることにしました。
ところがこの料理長はビーフシチューのデミグラスソースを知らなかったので「牛肉、にんじん、たまねぎ、じゃがいも」という東郷の説明を頼りに作ったのが、砂糖と醤油で煮込んだ「肉じゃが」だったのだそうです。
「肉じゃが発祥の地」
その東郷さんが「ビーフシチューを作ってくれぃ!」と頼んだ地が発祥の地と言うことになるのですが、実は、発祥の地を巡って二つの市が火花を散らしているようです。
その地とは、東郷が赴任した京都府舞鶴市と広島県呉市です。
最初に名乗りを上げたのは舞鶴市で、平成7年(1995年)のことです。
呉市は遅れること3年、平成10年(1998年)に「肉じゃが発祥の地?」とクエスチョンマーク付きで宣言しました。
「?」を付けたのは、一応舞鶴市を思いやってのことだそうです。
実は東郷平八郎は舞鶴に赴任する10年も前に呉に赴任しており、そこで肉じゃがが作られたのではないか?という理由から宣言をしたそうですが、結局、どちらが発祥の地かどうかは資料が残っておらず、はっきりとはわかっていないと言うことです。
肉じゃが発祥の地論争は兎も角、家庭菜園でも間もなくジャガイモの収穫が始まります。
わが家では今月末か来月初めには収穫する予定なので、収穫したら早速、新じゃがで肉じゃがを食べたいと思っているところです。
ここ数日、日本列島は晴天に恵まれています。
昨日のニュースでは、全国の100か所で3日連続30度を超える真夏日を記録したようであり、一昨日には、群馬県館林市で全国で今年初めての猛暑日(35.3度)を記録したと言うことです。
この為、熱中症で搬送される人も増えており、行政では注意を呼び掛けているところですが、こうなると、爽やかな五月晴れの時期を通り超えて、既に真夏の太陽の季節と言ったところです。
おっと失礼しました。
「爽やかな五月(さつき)晴れ」と言う表現は間違っていました。
今日はこの表現が何故間違いなのかご紹介します。
5月は陰暦の呼称で「皐月(さつき)」といいます。
なので、五月のよく晴れた日を「五月(さつき)晴れ」と使用する人が多いと思いますが、実は、厳密にはこの使い方は間違いなのです。
それは、皐月とは、前述したように陰暦5月の呼称であり、現在の太陽暦(グレゴリオ暦)では6月に当たります。
6月と言えば、日本では梅雨の時期にあたることから、「五月晴れ(さつきばれ)」とは「梅雨の合間の晴れ」のことを意味しているのです。
「五月晴れ」を広辞苑を調べると、①さみだれの晴れ間。梅雨の晴れ間。と説明しています。
しかしながら、この「五月晴れ」を「5月の晴れた空」という意味で間違って使われることが多くなり、今ではその使い方も定着してしまったようです。
だからなのでしょうか、広辞苑の②では、5月の空の晴れ渡ること。とも説明しています。
一方、ウィキペディアでは、 五月晴れ(さつきばれ)を、五月晴れ(ごがつばれ)と表現すれば新暦の5月の晴れという意味にも用いられ、そちらの意味で国語辞典に掲載されることもあると説明しています。
辞書が示すように、「五月晴れ(さつきばれ)」の本来の意味は梅雨の晴れ間のことですが、「五月晴れ(ごがつばれ)」と表現すれば新暦5月の晴れ間と言うことになるようです。
「さつきばれ」「ごがつばれ」共に本来の意味を知った上で使用したいですね。
因みに、「五月雨(さみだれ)」は陰暦5月に降る長雨。又はその時期のことで、所謂、梅雨のことをいいます。
近畿地方の本州西には岡山県、広島県、山口県、島根県、鳥取県の五県があり、この地方を中国地方と呼んでいます。
岡山県出身の私の故郷には中国銀行があり、広島県には中国新聞社や中国電力、中国放送など、中国を冠した企業があります。
この中国と言う呼称ですが、何故この地方を「中国」と呼ぶのでしょうか?「China」と関係があったのでしょうか?
そこで調べてみました。
先ず、「China」と関係があったのか?ということについては、全く関係はありません。
日本で「中国」と言う単語が初めて記されたのは太平記で1300年代のことです。
当時、現在中国と呼ばれている中華人民共和国は「元」、「明」で、「中華民国」が成立したのは1912年です。
よって、「China」とは全く関係ありません。
次に何故、中国地方を「中国」と呼ぶのか?については、日本の律令制に由来するようです。
奈良、京都の王朝政府は日本各地を四つの地域に区分しました。
王都を取り巻く地域は「畿内」です。「畿」は王宮、都を意味する文字です。「畿内」に似た言葉を現代語で探せば「首都圏」だそうです。
その「畿内」から遠い国は「遠国(おんごく)」、近い国は「近国(きんごく)」、そして中ほどに位置する国が「中国」となったのです。
なので、中国とは「遠国」と「近国」の間にある所を指していたということです。
その分類は以下の通りです。
「畿内」…山城、摂津、和泉、河内、大和
「近国」…若狭、美濃、尾張、三河、伊賀、伊勢、志摩、近江、丹後、丹波、但馬、播磨、淡路、紀伊、備前、美作
「中国」…越中、加賀、能登、越前、甲斐、信濃、飛騨、遠江、駿河、伊豆、因幡、伯耆、出雲、備中、備後、阿波、讃岐
「遠国」…陸奥、出羽、常陸、下野、上野、武蔵、上総、下総、安房、相模、越後、佐渡、隠岐、石見、安芸、長門、周防、伊予、土佐、筑前、筑後、肥前、肥後、壱岐、対馬、
豊前、豊後、日向、大隅、薩摩
つまり中国とは、「都から中程度離れている国」という意味なのです。
従って、嘗ては都から西の方だけでなく、東の方(中部地方の一部)も中国だったようです。
さらに西の方でも、島根、広島の一部や山口県を含まず、香川、徳島を含んでいることから、現在の中国地方とは一致していません。
この「中国」が中国地方の元々の語源であることは間違いないと思いますが、現在の中国地方5県の区分がいつから使われたか、なぜこの名前が採用されたかは定かではありません。
しかし、中国地方の呼称の由来については主に3つの説あるようです。
1.律令では畿内からの距離に応じて国を「近国」「中国」「遠国」に分類していて「中国」がまとまっている地域だったからとする説。
2.大陸との窓口など西の拠点であった大宰府と都の中間にあった国々の地域だったからとする説。
3.日本神話の葦原中国(あしはらのなかつくに)があったと思われる地域だったからとする説。
いずれも決定打に欠け、由来ははっきりとわからないのが実情だと言うことです。
(参考)
10世紀ごろ、「律・令・格・式」という法体系が出来上がり、その中の「延喜式(967年施行)」という法律で、全国の国を都からの距離に応じて畿内、近国、中国、遠国に分け、公文書の提出期限などを分けていました。
なお、「律・令・格・式」とは、刑法の律、刑法以外の諸規定を網羅した令、補足法としての格 (きゃく)、施行細則である式です。