昨日に続き、国の史跡に指定された「雨山城跡」をご紹介します。
「馬場跡」
雨山城本丸より200mほど手前に作られている馬場跡です。
お城へはここで馬から降りて歩いて登城します。
・馬を繋ぎとめていた馬場跡です。
「武者隠れ」
馬場から登城する時にはこの道を通りますが、鳥居を奥から手前に入った道の両側には「武者隠れ」と呼ばれる窪んだ個所が造られています。
城に近づく敵をここで倒すのが目的です。
・本丸の150mほど手前に設けられている「武者隠れ」です。
「町石道(ちょういしみち)」
世界遺産・高野山の町石道は九度山の慈尊院から奥の院の御廟までの約24Kmの道のりに、1町(約109m)おきに180基の町石が立っていて有名ですが、雨山では雨山城から麓まで、10基の町石が立ち並んでいます。
雨山城本丸前に作られている休憩所です。
地元の大阪体育大学生20~30名が部活の一環として来ていました。
「大阪体育大学」
中央の白い建物が大阪体育大学です。
25年前に茨木市から熊取町に移転してきました。
昨年、大リーグのワールドシリーズでMVPに輝いたボストン・レッドソックスの上原浩治投手の出身大学です。
「雨山からの眺望」
海上に横長に白く見えるのは約5㎞沖合に造られている関西国際空港です。
手前の町は泉佐野市街、中央の黒い筋はJRの関西空港線、右側の高層ビルは256.1mのりんくうゲートタワービルです。
・関西空港と泉佐野市街です。
空気が澄んでいる時には関西空港は勿論、淡路島や明石海峡大橋、六甲山なども見渡せる「土丸・雨山城跡」からの眺めは、まさに眺望絶佳の感があります。
昨年10月に国の史跡に指定された地元の山頂にある山城「土丸・雨山城跡」をご紹介しています。
昨日は「城の山(土丸山)」山頂の土丸城跡を取り上げたので、今日は標高312mの雨山山頂(左側)に残る「雨山城跡」と遺構をご紹介します。
「雨山」
鎌倉時代には熊取荘と言う荘園が存在しており、南北朝時代には雨山(312m)の頂上に築かれた雨山城が北朝と南朝の争奪戦の場となりました。
雨山城は紀州と泉州を結ぶ粉河街道をおさえる山城として、泉州北部の宮里城(和泉市)と並んで戦略上重要な城であったようです。
正平3年(1347年)、北朝方から任命されて和泉国守護に着任した高師泰(こうのもろやす)は、日根野荘を拠点とする武士・日根野時盛にこの城の固めを命じました。
このあと足利尊氏、直義兄弟の争いから高師泰は追われ、一時的に南朝方が勢力を盛りかえし、正平8年(1353年)に、雨山城は南朝方の橋本正高の手に渡りました。
・左側の高い山が314mの雨山、右側が287mの「城の山(土丸山)」です。
「道石」
尾根伝いに歩いていると熊取町と泉佐野市日根野の境を示す「大阪府」と彫られた道石が建てられていました。
「雨山城本丸跡」
雨山(312m)は熊取町の南端にそびえ、雨乞いの山として山頂には雨山龍王社(雨山神社跡)があります。
頂上に築かれた「雨山城」は南朝軍と北朝軍が争奪戦を繰り広げた要城として有名な山城です。
1388年(嘉慶2年)南朝方の広橋経泰らが兵を起こし、雨山城に拠ったが、山名義理の来攻で落ち、その後、根来寺衆の拠るところとなった時期もありましたが、1617年(元和3年)に城郭が取り払われたと言われています。
紀州と泉州を結ぶため戦略上重要であったこの城は、今では南北朝時代の争乱の面影もなく、静かにその跡には雨山神社が残っています。
・雨山城本丸跡です。
「遺構」
雨山城跡の遺構としては、登城道に残る堀切、千畳敷の広い削平地、今も満々と水をたたえる井戸、月見の亭、馬場跡、射場などが本丸周辺にあって往時を忍ばせています。
「井戸跡」
300m以上の山の上にありながらこの井戸は今も水を満々と湛(たた)えています。
「月見亭」
月見亭では先着のハイカーが一息ついているところでした。
「千畳敷き」
広場が残っているだけです。説明板などは建っていませんでした。
昨年10月、熊取町指定史跡の「雨山城跡(あめやまじょうあと)」と泉佐野市の「土丸城跡(つちまるじょうあと)」がともに、一体の山城「土丸・雨山城跡」として、国の史跡「日根荘遺跡(ひねのしょういせき)」の一部として追加指定されました。
そこで先日、この両城跡に上って来たのでご紹介します。
「雨山・城の山(じょうのやま)」
正面左が「雨山」、右が「城の山(通称土丸山)」です。
今回は城の山(土丸城跡)から尾根を伝って雨山城跡を巡るルートで、自宅からは徒歩で3時間余り、距離にして10キロ余りのハイキングコースとなります。
・左側の高い山が314mの雨山、右側が287mの「城の山(土丸山)」です。
・土丸山の登山道です。整備されていないので歩きにくい山道でした。
「小富士山」
通称、佐野富士または泉州富士と呼ばれる標高260mの小富士山です。
泉州に富士山があるとは全く知りませんでした。
言われてみれば小さな富士山にも見えます。
・土丸山の南に位置している小富士山です。
「テングチョウ(天狗蝶)」
土山城跡に上る途中の登山道の枯葉に紛れるように舞い降りていました。
テングチョウは、チョウ目タテハチョウ科テングチョウ亜科に分類されるチョウの1種で、和名は成虫の頭部が天狗の鼻のように前方に伸びることに由来します。
テングチョウ亜科は全世界に10種類ほどが知られていますが、日本に分布するのはこの1種類だけだそうです。
・枯葉と同じような色をしているので分かりにくいのですが、同行したTさんが見つけて教えてくれました。
「土丸城由来」
ここに立てられている説明板によれば、土丸城は天平元年(729年)泉佐野市日根野にいた豪族日根野氏によって築かれたと考えられる。
同3年、高師泰(こうのもろやす)は吉野の行宮をおかすにあたって日根野時盛にこの城の警固を命じた。
同8年、楠木氏一族、橋本正督が時盛をおってこの城に入り、尾根続きの雨山になわ張りを拡げたいわゆる雨山城である。
「土丸城跡」
土丸城跡は土丸山(城ノ山)の頂上付近にあり、槌丸城とも書かれる中世の城址です。
この地は、紀州と和泉を結ぶ往環道に位置し、戦略上重要な土地であったことから、この城では楠木正勝や細川頼元、山名義理、橋本正高など、有名な武将が活躍していたそうです。
元和年間の土丸城絵図には、本丸、二の丸、三の丸や守備兵の宿泊小屋などが描かれていますが、近世的城郭のイメージで描かれたものといわれています。
今も山上には、龍王神社や顕彰碑、古井戸、武者かくしなどが残されています。
また、谷をへだてて相対する雨山には雨山城跡(熊取町)があり、土丸城を雨山城の出城と考え、二つ合わせて雨山城と呼ぶ場合があるようです。
・土丸城跡から眺めた泉佐野市日根野の町です。
2月18日に、「窓越しのバードウォッチング」でチロリアンランプの蜜を啄んでいるシジュウカラ(四十雀)をご紹介しましたが、その後、メジロは飛来するものの、シジュウカラは1カ月以上に亘って飛来が確認できませんでした。
ところが、先日久しぶりに桃の木に飛来しているシジュウカラを見つけました。
同じ鳥かどうかは分かりませんが、膨らみかけたピンクの蕾を盛んに啄みながら、枝の上を楽しそうに飛びまわっていたので急いでカメラに収めました。
・桃に飛来したシジュウカラです。カーテンに隠れて気付かれないようにシャッターを切りました。
・傍で見ると野鳥は可愛いですね。
・せわしく動き回りながら蕾を啄んでいましたが、その後すぐに飛び去りました。
先日、橋下氏の辞職に伴う大阪市長選挙があり、候補者4人の中から橋下氏が再選されました。
その結果を受けて、某新聞のコラム欄に「這っても黒豆」という諺を引用した記事がありました。
私は初めて聞く諺だったので、興味深く読みました。
「這っても黒豆」とは、事理が明白であるにもかかわらず、その道理に従わないで、あくまでも自説を主張することを評して使われる諺です。
その語源は、黒い豆のようなものがあるのを見て、一人は黒豆だと言い、一人は虫だと言って、互いに譲らない。
その内にその黒いものが這いだしたので、「それ見ろ矢張り虫だろう」と言うと、勝負は既に明らかなのに、「いや、例え這っても黒豆に相違ない」と言ってなおも頑張る。
ここからこの諺が生れたものですが、自分の見解が誤っていたら潔く撤回すればよいのに、それをしない人が思いの外にいるということを言っているものです。
新聞記事では、この諺を引用して次のように書かれていました。
もぞもぞ動く黒いものは差し詰め驚くほどに低調だった投票率(23.59%)だろう。
再選された橋下市長が投票率に目をつぶって、「大阪都構想の推進に信託を得た」と言おうものなら、「這っても黒豆」に聞こえるに違いない。
(中略)
議会との不毛な対立への抗議と思われる。
言う前に一度は床に這いつくばって、黒い点の正体を見極める姿勢を求められているのではないか。
(以下省略)
このコラムの「這っても黒豆」は橋下市長に言った言葉のように書かれているが、その一方で過半数を占める議会に言っているようにも読めます。
都構想を実現したいとする橋下市長は府・市の二重行政の無駄の排除を訴えているものです。
現在の東京都は昭和18年(1943年)7月に東京府東京市から東京都に移行しました。
それから70年余りの年月を経てノウハウの蓄積は十分ある筈です。
大阪府も本当に無駄が省けるなら、東京の事例を参考にしながら、議会も府民・市民のために真剣に検討すべきではないだろうか。
あべのハルカスからの展望や大坂冬の陣の関連地をご紹介しているうちに、季節は一段と進み、すっかり春の陽気になりました。
桜の花だよりが聞かれ始めているこの時期に、早春に咲くローマンヒヤシンスの花だよりは時期外れですが、前もって撮影していたので取り上げました。
ヒヤシンスは、地中海東部沿岸からイラン、トルクメニスタンにかけて自生するユリ科の球根植物で、現在2000品種以上があるといわれています。
その多くの品種がヨーロッパで育成され、世界に広まりました。
日本には江戸時代末期の安政~文久年間(1854年~1863年)に渡来したと云われています。
紫や赤紫、白、クリーム色などの小花が房状にたくさんつき、鼻を近づけると、とても甘い香りがします。
・ローマンヒヤシンスは草丈が低いこと、花が小さくまばらにつくことなどが特徴です。
ヒヤシンスは、ダッチ系とローマン系に大別でき、単にヒヤシンスと言えばダッチ系を指すのが一般的だそうです。
そして、この2品種の主な特長は、
・ダッチ系は、太い茎が1本立ち上がってたくさんの小花がついてボリュームのある系統で、水栽培によく使われる品種です。
しかし、球根は自然に分球しにくく、球根に傷をつける方法でふやされているそうです。
・ローマン系は、一本の茎に付く花の数は少ないですが、ひとつの球根から数本の花茎が出ます。
球根は自然分球しやすくよく増えます。
・花茎2㎝、漏斗型の筒部の長さは1.5㎝、葉の長さは15㎝ほどの小さな花です。
管理は、6月中旬ごろには葉が枯れ始め、休眠期に入るので、このころから水は控えめにして、葉が完全に枯れたら球根を掘り上げるようです。
しかし、我が家ではずぼらをしてそのまま置いていますが、季節が来れば毎年花を咲かせてくれています。
大阪に出かけたついでに、目的地までの道すがら、「大坂冬の陣から400年」に関連する場所巡りをしてきましたが、今日はその最終回として三光神社をご紹介します。
「三光神社」
三光神社は反正天皇の時代の創建と伝えられ、天照大神・月読命・素盞鳴命を祭神とし、境内末社に仁徳天皇・武内宿彌・野見宿彌・主守稲荷を祀っています。
旧地名が姫山または嬪山と呼ばれていたことから「摂津名所図会」には姫山神社となっていますが、1908年(明治41年)境内にあった中風除けの神として広く知られた「三光宮」を合祀して現在の社号になったそうです。
「本殿」
ここに掲げられている案内板によれば次のように記されています。
創建は第18代反正天皇(約1600年前)の御代と伝えられ、創建以後、神職として奉仕された武内宿弥(たけのうちのすくね)の末裔たる武川氏が86代にわたって奉仕された。
この地は元大阪城の出城、偃月城(えんげつじょう)の在りし所にして、慶長、元和の大坂合戦の頃、真田幸村ここに陣し、本城よりここに至るまで、地下に暗道を設け、今なおその痕跡を本殿階下に止むるより世俗に真田山の三光と称するに至れり。(一部転記)
「寿老神」
当神社の境内に「武内宿彌社」があります。
これは武内宿彌が景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5代の天皇に棟梁之臣・大臣として244年にわたり仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物と言われており、日本一の長寿であった所から「七福神」の一神の寿老人に重ね、当神社では寿老神として祀られているものです。
「真田の抜け穴」と「真田幸村の陣中指揮姿の銅像」
公園のすぐ隣にある三光神社には堂々たる真田幸村の像と「真田の抜穴跡」といわれている洞窟があります。
・真田幸村の像と左側が「真田の抜け穴」です。
「真田の抜け穴」
「真田の抜け穴」といわれる洞穴です。
これは、真田幸村が此の地に偃月城(えんげつじょう)と名付ける塁を定め、大坂城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられている抜け穴です。
この地は宰相山と呼ばれる一角にあり、真田幸村が「大坂冬の陣」の時、大坂城の出丸(真田山)を築いたところとされています。
・真田の抜け穴の内部です。
「大坂冬の陣から400年」に関連する場所巡りの3か所目は宰相山公園を訪ねました。
「宰相山(さいしょうやま)公園」
この公園の周辺は、大坂冬の陣で真田幸村が出城を築いた古戦場跡と推定されています。
公園名にもなっている宰相山という地名は、一説には、冬の陣の折に、真田幸村が守る「真田丸」を攻めた越前宰相・松平忠直が陣を置いたということからの他に、一緒に攻めた前田利常(前田宰相)の陣だったことが由来とされています。
・宰相山公園です。
「真田丸」
真田丸の跡地は現在明確になってはいませんが、推定で現在の真田山周辺や江差町辺りのようです。
真田丸(さなだまる)とは、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城で、 単独で機能する小城砦です。
この宰相山公園の隣にある三光神社には、幸村が大坂城内との行き来に使ったという「真田の抜け穴」が残っていることから、この丘陵が「真田山」で、真田丸の跡地と推定されているようです。
「大坂冬の陣」
ここ宰相山は大坂冬の陣で真田丸を攻撃した前田利常が陣を張った場所です。
1614年(慶長19年)年12月4日、大坂城への砲撃を命令された前田隊は大坂城の付近に砲撃用の施設を作っていました。
そこに真田信繁(幸村)が守っている真田丸の中から挑発があり、前田隊の一部がそれに乗ってしまたため、他の部隊もこぞって真田丸を攻め始めました。
その様子を見ていた井伊直孝と松平忠直と藤堂高虎の各隊も、遅れをとる訳にはいかないと、我先に総構えや真田丸に攻め込んでいきました。
結局この戦いは午後には真田信繁(幸村)の作戦に乗せられた徳川方の惨敗が確定的になり、徳川方は各陣へと撤退を始めたのでした。
それから約20日後、豊臣方は徳川方と和睦し、真田丸など本丸の堀を除いて破壊されました。
・1614年(慶長19年)12月4日、大坂冬の陣の陣図です(ウィキペディアより)
「真田山公園」
この真田山公園は宰相山公園の近くにあることから、この辺りも古戦場跡のようですが、それを示すような案内などは何も見当たりませんでした。
「真田山」と言う地名だけが残っている状態です。
「大坂冬の陣から400年」に関連する場所巡りの2か所目は安居神社を訪ねました。
この神社は真田幸村が戦死したと伝えられているところです。
「安居神社」
安居神社は天王寺区逢坂1丁目に鎮座し、少彦名神(すくなひこなのかみ)、菅原道真を祀る古社です。
昌泰4年(901年)菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)したと伝えられています。
当時、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらいました。これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれているそうです。
「本殿」
安居天神社は、菅原道真の死後の天慶5年(942年)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたものだそうです。
また、当地は四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったと言われています。
・安居神社本殿です。
「真田幸村の像と石碑」
真田幸村は1615年(元和元年)大坂夏の陣で、この神社の近くにある天王寺茶臼山に陣をしき、徳川家康と対峙し、敵の本陣を追い崩しましたが、家康の首を取るに至らず、ついにこの地で戦死したと伝わっています。
境内には徳川方に討たれて戦死した真田幸村の記念碑が建っています。
・真田幸村の像と戦死跡の石碑です。
あべのハルカスを降りた後、目的地へ向かいましたが、今年は大坂冬の陣から400年になるので、その関連場所を訪ねながらの市内散策です。
一つ目の関連場所は天王寺公園のすぐ傍にある一心寺です。
一心寺は、1600年、関ヶ原の戦いがあった年、徳川家康の第8男・仙千代君が夭折(ようせつ:年若くして死ぬこと)し、一心寺で葬儀が営まれたことから、家康との結びつきが強いことで知られているお寺です。
そして、大坂冬・夏の陣では徳川家康の本陣が置かれた場所としても有名ですが、「冬の陣から400年」に関するイベントなどは何もありませんでした。
・ハルカスから見た一心寺の念仏堂です。
「山門」
一風変わったこの山門は平成9年4月に建立されたものです。
昭和20年の空襲で消失した旧山門が大阪城玉造御門の移築と伝えられて「黒門」と呼ばれていたことに因み、新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興したということです。
左側の阿形(あぎょう)像は心の邪念を戒め、右側の吽形(うんぎょう)像は世の紊(みだれ)れを睨んだ5m余りの仁王像であり、彫刻家・神戸峰男氏によって青銅で造られているそうです。
・一心寺の仁王門です
「本堂」
一心寺は、1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、浄土宗開祖の法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「源空庵」と称して住んだのが開基とされています。
後白河法皇もこの地で、西方に沈みゆく太陽に向かって念仏を唱え、極楽生涯を願う「日想観」の修行を行ったといわれています。
現在の境内地は、秀吉の夫人高台院からの拝領によるものだそうです。
名前の由来は、慶長元年(1596年)、三河の僧侶であった本誉存牟(ほんよぞんむ)上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興し、彼の一心称名をもって寺ができたことから一心寺という名になったといわれています。
「念仏堂」
納骨などの受付所だそうです。
平成4年の建立で、堂上には180体の佛が奉安された角形相輪が輝き、内部は天上から降り注ぐ阿弥陀佛の救済の「光明遍照」がイメージされた意匠となっているそうです。
「納骨堂」
納骨は嘉永4年(1851年)に始まり、以後納められたおよそ5万体の骨をもって明治20年(1887年)に最初のお骨佛が誕生したそうです。
骨仏は、10年ごとに1体造立されるそうです。1体目から6体目までは戦争で消失しましたが、7体目にはその灰も入っているとのことです。
・納骨堂
「骨仏堂」
10年ごとに15万体~20万体の骨でもってお骨佛が造立され、等身大の阿弥陀さまとなります。
最近では第13番目のお骨佛が平成19年4月に開眼されたそうですが、この佛さまは平成9年1月以降平成18年末までに納められた16万3千体の納骨で出来ているそうです。
・お骨仏堂です。
「本多忠朝の墓 」
戦国時代の武将本多忠朝の墓が高さ約4.7mもある五輪塔で造られていました。
本多忠朝は1615年(元和元年)5月の大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線で活躍をし、壮烈な戦死をとげました。
彼は酒を飲んでいたため大坂冬の陣で敗退し、家康に叱責されたことから、見返そうと夏の陣で奮戦するも討ち死となりました。
死の間際に「戒むべきは酒なり」と言い残したといわれることから「酒封じの神」とされるようになったそうです。
今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でているそうです。
「八代目市川団十郎の墓」
墓標は上半分は梵字、下の部分に「先祖供養子孫蕃育祈」と彫られています。
8代目市川団十郎は美貌と愛嬌で非常な人気をとった江戸後期を代表する歌舞伎役者だったそうです。
嘉永7年 (1854)、父・7代目団十郎の借金返済のため、父と共に大坂中座の舞台に立つことになりましたが、初日の朝、旅館の一室で突如喉に短刀を突き刺し自殺しました。
享年32だったそうです。
動機は不明ですが、一説には図らずも大坂の芝居に出演することになってしまったため、江戸市村座の舞台との二重出演を苦にしての自殺説が有力とのことです。