らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「八里半」はサツマイモ?

2023-10-17 | 雑学

先日の10月13日は「サツマイモの日」だったそうです。
我が家でもこの日に合わせて、というか、たまたま同じ日にサツマイモを少し掘ってみました。
今年の夏は高温、少雨で乾燥していたからなのでしょうか、畝の土が固くなっていたことから芋が付いていませんでした。
除草と乾燥防止のためにマルチを張っていたのですが、その効果は除草のみでした。
昨年までは大きなサツマイモが収穫できたのですが、自然相手の農業は素人には難しいものですね。

「サツマイモの日」
ところで10月13日が何故「サツマイモの日」なのか、調べてみることにしました。
この記念日が出来たのは埼玉県川越市で、その経緯は、さつまいもを「十三里」と呼ぶことから、1987年(昭和62年)に川越市の「川越いも友の会」が、旬にあたる10月13日を「さつまいもの日」と定めたことでした。

・1株に1個~3個ほどしか生っておらず、数株掘ってもこれだけの収量でした。


「サツマイモの日」の由来は解ったものの「十三里」が何故サツマイモなのでしょうか? 

「八里半はサツマイモ」
これも調べていくと、元々は「八里半」がサツマイモの異名なのだそうです。
その由来は、
江戸時代・宝永年間(1704年~10年)の頃、京都に焼き芋屋さんが登場しました。
その焼き芋屋さんの看板には、「八里半」の文字が書かれていました。
当時、サツマイモは蒸し芋で食されていたようなのですが、焼いたサツマイモが栗の味に似ていたことから  「栗(九里)にはやや及びませんが」という洒落で「八里半」と名付けた、ということです。

「江戸では十三里」
それから90年ほど後の江戸時代・寛政年間(1789年~1799年)の頃に、焼き芋は江戸にも伝わり、京都と同じように焼き芋屋さんは「八里半」の看板を掲げたそうですが、洒落好きの江戸・小石川の焼き芋屋さんが、「十三里」と名付けたところ江戸っ子にウケて評判を呼び大ヒット商品となりました。
その十三里とは、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」という洒落で、(九里)+(四里)という洒落から(十三里)となり、ここから「さつまいも=十三里」となったようです。

 他にも「十三里」の由来には、当時美味しいサツマイモの産地として知られていた川越が、江戸から十三里(約52km)のところにあるため「十三里」と呼ばれるようになった、という説もあります。
 更に、秋真っ只中の焼き芋は、とても美味しいことから「十三里」より美味しいという意味で「十三里半」と呼ぶ、という説もあるそうです。

浪速も江戸も、昔から洒落が好きだったようですね。

 


「果物」も「菓子」も元は「木の実」

2023-10-11 | 雑学

「味覚の秋」ですね。果物が美味しい季節となりました。
ところで、この果物と菓子が共に木の実から始まったと言うことをご存知でしょうか?
今日は果物と菓子について調べました。

「果物」
果物とは、もともと【木になる実】のことを言います。
果物は、「く」「だ」「もの」という3つのことばが結びついてできたもので、「く」は「木」が音変化したものであり、「だ」は「の」のような助詞から、「木の(だ)物」、即ち【木になる実】が果物です。

「菓子」
一方、「菓子」は本来「果子(かし)」と書き、こちらも【木の実】のことだそうです。
広辞苑には、菓子として、「菓」は果物の意で、常食の他に食する嗜好品。昔は多く果実であったが、今は多く米・小麦の粉、餅などに砂糖・餡などを加え、種々の形に作ったものを言う。
とあります。
辞書が示すように、菓子は昔は果実でした。

「果物と菓子の違い」
前記したように、果物も菓子も両方とも木になる実にはじまり、いちごや瓜など草になる実など、主食以外の間食を指していました。
古くは、間食に食べられていたものは、自然のものがほとんどでしたが、その後、大陸から米や麦の粉に、飴、蜂蜜などをまぜて油であげたものなどが伝わり、「唐菓子(からくだもの)」などと呼ばれました。
さらに、茶うけの饅頭や練り羊羹、カステラなど砂糖を使った甘い食べ物も外国から伝わってきました。

そうして江戸時代になると
人が手を加えて作った甘い食べ物は「菓子」で、
自然の果実のものは上方では「果物」、江戸では「水菓子」と呼んで区別されていったようです。

現在では果実のことを「水菓子」と呼ぶことはなく、一般的に「水菓子」は水ようかんや水まんじゅう、わらび餅、ゼリー、アイスなどを連想させる言葉となっています。


日本の英語表記が何故「JAPAN」

2023-10-05 | 雑学

日本を英語で「Japan」と言いますが、何故、似ても似つかないこの表記になったのでしょうか?
皆様は疑問に思ったことはありませんか?

「Japan の由来」
調べてみると、この表記はマルコ・ポーロの勘違いから生まれたという説があります。
日本を初めてヨーロッパに紹介したのは、ご存じのように冒険家のマルコ・ポーロです。
そのマルコポーロが「東方見聞録」を記す時、中国人が福建語で「ジペンクオ」といったのを「ジパング」と勘違いし、そのまま書いてしまったと言われており、そこから生まれたのが「Japan」という英語表記という説です。
実は、マルコ・ポーロは日本を訪れたことは無く、中国人に日本のことを聞いて「東方見聞録」を書きました。

他には、現代中国語における「日本」の発音のカナ表記は「リーベン」ですが、実際には「リーベン」と「ジーベン」の中間で読まれます。
しかし、隋の時代では、「日」は「ジツ」と発音するのが一般的だったようです。
そして「本」の字も地域によっては「ベン」と「ペン」の中間くらいで発音されており、人によっては「日本」を「ジーペン」と呼ぶこともあったそうです。
この「ジーペン」は「ジパン(グ)」にも聞こえることから、マルコポーロがイタリア語で「Zipangu(ジパング)」と表記し、さらにこれを英語に翻訳する際、「Japan」に変化したのではないかと言う説です。

更に、国土の広い中国では、地域によって発音が大きく異なり、「日本」の発音もさまざまなものが使われていました。
南方では「ニッポン」に近い発音がされていたのですが、これがポルトガルやスペインに伝播し、それぞれ「Japao(ジャパウン)」「Japon(ハポン)」となります。
これがさらにフランス語や英語に移され、「Japon(ジャポン)」「Japan(ジャパン)」となったとする説です。
つまり、もともとは「ニッポン」という発音から始まり、各言語を経るうちに表記や発音が変化し、英語に取り入れられる際に「ジャパン(Japan)」となったという説です。

どの説が正しいかは不明ですが、いずれにしても中国での呼び方が起点となっているところは確かなようです。


ご存知ですか?「エルトゥールル号遭難事件」

2023-09-19 | 雑学

先日、9月16日はトルコ(当時はオスマン帝国)のフリゲート艦「エルトゥールル号遭難事件」から133年でした。
「エルトゥールル号の遭難事件」と言ってもご存じない方が多いかも知れません。
この事件は1890年(明治23年)9月16日夜半に、親善訪日を終えて帰路に着いたエルトゥールル号が折からの台風による強風にあおられて、和歌山県串本沖の樫野崎に連なる岩礁に激突し、水蒸気爆発を起こして沈没した事件です。

私は全く知らなかったのですが、10数年前にトルコ旅行に行った時、現地ガイドさんから詳しく聞いて初めて知ったものです。
トルコと言えば親日国家としてよく知られているところですが、実はトルコが親日国になったきっかけがこの遭難事件なのです。
トルコではこの事件のことを学校で教えていることから、子供から大人に至るまでよく知っており、国民の皆さんは至って親日的です。

関西では毎年9月16日の地方ニュースで、追悼式典の模様が報じられるので大阪や和歌山の人はある程度知っていると思いますが、全国ニュースでは報じていないと思うので、多くの国民の方はご存じないと思います。
そこで今日は「エルトゥールル号遭難事件」とはどのような事件だったのかご紹介したいと思います。

 ・和歌山県串本町にあるトルコ軍艦遭難慰霊碑です。 (2015年10月撮影)


エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)のフリゲート艦エルトゥールル号が和歌山県串本町大島の樫野崎灯台沖で遭難した事件です。

「エルトゥールル号遭難事件の概略」
オスマン帝国(現在トルコ)の木造フリゲート艦エルトゥールル号は日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えるためと、両国の友好関係の発展と相互理解を期待して派遣された艦船で、1889年(明治22年)7月、イスタンブールから11ケ月をかけ、1890年(明治23年)6月に日本に到着しました。
一行は皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。

そして3ヶ月余後の1890年(明治23年)9月16日夜半、帰路に着いたエルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、和歌山県串本沖、大島の樫野崎に連なる岩礁に激突しました。
座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こして沈没、司令官オスマン・パシャを始めとする乗組員587名が死亡または行方不明となる大惨事となりました。

このとき、樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、十数メートルの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせました。
灯台守から通報を受けた大島村(現串本町)樫野の住民たちは総出で救助と生存者の介抱にあたりました。

漁業で生計をたてている村人たちは貧しい生活をしており、台風で出漁できず、食料の蓄えも僅かでしたが、それにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリにいたるまで供給するなどして、献身的に生存者たちの回復に努めました。
この結果、収容された69名が救出され生還することが出来ました。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島町長に伝えられ、町長は神戸港の外国領事館に救助を求めて、生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配すると共に、県を通じて日本政府に通報しました。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられています。

こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、10月5日に品川港から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」の2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられました。

エルトゥールル号遭難事故はオスマン帝国に大きな衝撃を呼びましたが、新聞を通じて大島島民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は、遠い異国の日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれています。

以上がフリゲート艦「エルトゥールル号の遭難事件」の概要です。
トルコではこの事件のことを学校で教えていることから、国民の皆さんが親日的であり、日本人旅行者に対しても非常に好意的でした。


大根役者「馬脚を露す」

2023-09-11 | 雑学

最近のドラマでは若手の俳優や女優、歌などで有名になった人など、凡そ俳優のプロとは言い難い人たちが多く起用されています。
この人たちの演技力はお世辞にも上手いとは言えませんが、それでもいろいろなドラマに出ているということは演劇の世界でも人材不足という事なのでしょうか?
昔は、このような役者のことを「大根役者」と呼んでいましたが、現在は死語となったのか、あまり聞くことがありません。
今日は大根役者について調べました。

「大根役者」
大根役者とは、ご存じのように、芝居の下手な俳優をあざけって言う言葉で、その始まりは、江戸時代に歌舞伎で舞台上の俳優に対するヤジや悪態として使われたようです。
初めの頃は「大根」とだけ呼んでいましたが、野菜の大根と区別が付きにくいため、徐々に「大根役者」と呼ぶことが浸透していったということです。

「大根役者の語源」
下手な役者を「大根」と呼ぶようになった由来には諸説あります。
・大根は白いことから「素人」とかけたとする説、
・大根の白さから下手な役者ほど白粉(おしろい)を塗りたくることとかけたとする説、
・大根は滅多に食あたりしないことから、「当たらない役者」の意からとする説、
等があります。



「何故大根なのか」

でも何故「大根」なのでしょうか?
①大根は食あたりしないからとする説。
大根は消化がよく食あたりしない食材として有名です。そのため「食あたりしない」を「当たらない=役者としてヒットしない」という意味にかけたこと。

②大根おろし説。
配役を変えられる際に「おろす(降ろす)」と表現しますが、この「降ろす」と大根おろしの「おろし」をかけて、共に「おろされる」ような、下手な役者、役をおろされてしまうほど演技が下手な役者だということ。

③大根の白と素人を書けた説
大根の色が白いので、「白(シロ)」と演技をたしなんでいない「素人(シロウト)」とをかけたとする説。
更に、下手な役者が場を「しらけさせる」の「しら」にかけたとする説や、演技の下手な役者ほど白粉(おしろい)をたくさん塗ってごまかそうとするイメージから、大根のように白い顔をした役者=下手な役者と捉えられたという説。

演技が下手なために人の役まで至らず、馬の前足・後ろ足を演じ、馬の脚が大根を連想させたとする説。
芝居の中で馬の脚を演じる役者のことを指して「大根」になったのではないかと言われています。



「馬脚を露す」
「馬脚」とは、芝居で馬の足を演じる役者のことです。
そして「馬脚を露わす」は芝居で馬の足の役者が見せてはいけない姿をうっかり見せてしまう意からで、つつみ隠していた事があらわれる、ばけの皮がはがれるという意味になりました。


「不入山」の埋蔵金伝説

2023-09-09 | 雑学

NHKの番組に「にっぽん百低山」があります。
この番組は「やま 高 たか きが 故 ゆえ に 貴 たっと からず」のナレーションで始まり、毎週1000㍍前後の山を紹介しているものです。
先日は高知県の標高1336㍍の「不入山」を紹介していました。

「不入山」
「不入山」と書いて「いらずやま」と読みます。
「不入山」は高知県 西部 四国山地のただ中に位置する標高1336mの山です。
この山は「日本最後の清流」と言われている四万十川の源流となっており、平家の落人が財宝を隠したと伝わる埋蔵金伝説がある山で、嘗ては人が立ち入ることが許されなかったと伝えられています。

何故、立ち入りが許されなかったのでしょうか?

「不入山名前の由来」
立ち入りが許されなかった理由には諸説あります。
その一つは、平家の落人が、平家を再興するための財宝、現在の価値で40億円と言われる埋蔵金が隠されていることから立ち入ることを禁止したとする説や、土佐藩の留山(とめやま)制度から立ち入れなかったとする説があります。

「留山」とは、江戸時代、藩が管理・支配した山林で、入山、狩猟、伐採が禁止された山のことです。
この制度により山の木は勿論、枝の1本、葉っぱの一枚までもが土佐藩のものであり、藩の許可がなければ立ち入ることすら許されませんでした。
そこから、不入山と呼ばれるようになったとも言われています。

・不入山です(NHKテレビより)


「四万十川の源流点」
日本最後の清流と言われる四万十川の源流点がこの山にあります。
四万十川は高知県の西部を流れる一級河川で、全長196km、四国内では最長の川で、不入山の東斜面の標高1,200m付近を源流点としています。
本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」と言われています。
更に、静岡県駿東郡清水町を流れる柿田川や長良川と共に「日本三大清流」の一つとも言われています。

・四万十川の源流点です。(NHKテレビより)


「埋蔵金伝説」
この山には埋蔵金伝説があります。
平安末期、不入山の麓に落ち延びた平家の落人がいました。
落人は麓の村人に「誰も山に立ち入ってはならぬ。」と言い残し、山中に身を隠しました。
その理由は、平家再興のための埋蔵金、今の価値にして40億円もの財宝を「朝日、夕日が当たる大木の下に隠した」からというものです。
いまだにその埋蔵金は見つかっておらず、ロマンに満ちた伝説となっています。

・これが「朝日、夕日が当たる大木」です。この下に貴重な財宝が眠っているかも知れません。(NHKテレビより)


「竹の花」
この番組に登場した、吉田類さんと安藤桃子さんは、埋蔵金よりも価値あるお宝を見つけたようです。
何と、それはスズタケの花の蕾だったのです。
スズタケは120年に一度だけ花を咲かせる竹です。
花を咲かせると枯れると言われてり、滅多にお目にかかれない奇跡的に巡り合わせた竹でした。
見つけたお二人は大興奮していたことから、埋蔵金より価値あるお宝になったのかも知れません。

・スズタケの蕾です。(NHKテレビより)


「冒頭のナレーションの出典」
冒頭のナレーションは平安時代の終わりころに用いられた教科書「実語教」の一説からです。

 「山高きが故に貴からず、樹(き)有るを以って貴しとなす。
       人肥えたるが故に貴からず、智あるを以って貴しとなす」


意訳:山は高いからといって貴いわけではなく、そこに木が生えているから貴いのである。
   人も見かけが立派だからといって貴いのではなく、人格、知恵など内容が伴って初めて立派だといえるのである。


胡椒が入っていないのに「ユズ胡椒」

2023-09-07 | 雑学

「柚子胡椒」って、ご存知だと思います。
ピリリと辛くて、スーッとさわやかな独特の風味が特徴の万能調味料です。
元々は大分県日田市の農家が自家用に作っていた調味料でした。
ソバやうどん、鍋や焼き肉など、様々な料理に合う万能調味料として、すっかり認知度を高めた「柚子胡椒」ですが、「胡椒」という名称がありながら胡椒が一切入っていません。
何故なのでしょうか?

「柚子胡椒」
柚子胡椒は、調味料の一種で、唐辛子を粗刻みにし、柚子の果皮と食塩を入れて磨り潰し、熟成させたものです。
発祥の地である九州では一般的な調味料として多くの料理で使用されています。
柚子胡椒の原材料は「唐辛子、食塩、柚子表皮」で、唐辛子は青唐辛子を用いるのが一般的で、赤唐辛子が用いられる場合もあります。
青唐辛子と青柚子なら緑色、赤唐辛子と黄柚子なら朱色の柚子胡椒に仕上がります。
一般的に緑色の物は辛味が強く、赤色の物は香りが強いということです。

「柚子胡椒なのに胡椒が入っていない」
この万能調味料の「柚子胡椒」ですが、実は胡椒が入っていません。
前記したように柚子胡椒の原材料は「唐辛子、食塩、柚子表皮」です。
ピリッ辛いのは唐辛子で、胡椒は入っていないのです。
本来ならば「柚子胡椒」ではなく、「ユズ唐辛子」となるべき名称ですが、柚子胡椒の発祥の地では唐辛子のことを胡椒と呼ぶことから、この名前になったようです。

「唐辛子が何故胡椒なのか?」
では、柚子胡椒の地元大分県日田市では「唐辛子」のことを何故「胡椒」と言うのでしょうか?
そもそも胡椒と唐辛子は全くの別物で、見た目も違えば辛味の傾向もまるで似ていません。

それなのに何故 唐辛子を胡椒と呼ぶようになったのかというと、一説には九州と中国の関係が大きく影響しているということです。
江戸時代、九州は中国との貿易が盛んで、中国には多大な恩恵を受けていました。
しかし、唐辛子は「唐枯らし」と同じ音だったことから唐(中国)を枯らすとは縁起が悪いということで、唐辛子という言葉を忌み嫌い、辛い物つながりで胡椒と呼ぶようになったと言われています。
そして一般的な「コショウ」は「洋胡椒」と呼んで区別しているようです。

「使用される料理」
なお、万能調味料の「柚子胡椒」ですが、地元では鍋料理や味噌汁、刺身、天ぷら、焼き鳥、おでん、豆腐などの和風料理の薬味として用いられているようです。
更に、近年、全国的に知られるようになってからは様々な使い方がされています。
例えば、スパゲティ、サラダドレッシング、豚カツ、ラーメン、シュウマイなどに用いられているということです。


阿漕の平治伝説

2023-09-05 | 雑学

「阿漕(あこぎ)」という言葉があります。
映画やドラマのセリフで「阿漕(あこぎ)な真似はよせ!」などと聞くことがあります。
この場合、強欲でやり方があくどいさまを諫めて使用されているのですが、このようなことを何故「阿漕」というのでしょうか?
今日は阿漕(あこぎ)について調べました。

「阿漕とは」
「阿漕」を広辞苑で調べてみました。
①たび重なること。
②転じて、際限なくむさぼること。また、厚かましいさま。ひどく扱うさま。
③能の一。伊勢国 阿漕が浦の漁夫が密漁して海に沈められ、地獄で苦しむさまを描く。
と説明しています。

辞書が示すように、「阿漕」とは、強欲でしつこく、やり方があくどいさまのことで、悪いことを意味する言葉となっています。
この言葉の語源は三重県の津市中心部の海岸「阿漕(あこぎ)浦」に伝わる物語に由来しています。

・平治伝説の平治をまつる阿漕塚です。


「阿漕の平治伝説」
阿漕の語源となった「平治伝説」では次のように伝えられています。
病気の母親を持つ漁師の平治は「母親の病気には阿漕ケ浦で捕れるヤガラという魚がよい」と聞きました。
阿漕ヶ浦(あこぎがうら)は古くは伊勢神宮に供える魚をとるための御領で禁漁区でしたが、平治は病で日に日に衰弱していく母親を前にして決心し、禁漁区である阿漕ケ浦に夜な夜な舟をこぎ出しました。
そして、捕獲したヤガラを食べさせたことで母親の体調は少しずつ回復しました。
しかし、うかつにも「平治」と書かれたすげ笠を浜に置き忘れたのです。このことから密漁が露見してしまいました。
密漁で捕らわれた平治はす巻きにされて、阿漕浦の沖に沈められたのでした。
その後、夜になると阿漕浦から泣き声や網を打つ音が聞こえ、その音を聞いた者は病気になったと言います。

この平治伝説が「阿漕」という言葉の語源ですが、孝行息子の平治が密漁していた阿漕ケ浦の「阿漕」が何故、際限なくむさぼること等の悪い意味になったのでしょうか?

「阿漕が悪い意味になった理由」
伝説の主人公「阿漕の平治」は孝行息子であり、母親の病を癒やすために禁を犯して漁をし、そのために捕らえられ処罰されました。
一般に「あこぎ」といえば、「たび重なること。また、たび重なって広く知れわたること。」の意味ですが、そこから転じて「どこまでもむさぼること。しつこく図々しいこと。押しつけがましいこと。」として使用されるようになりました。
更に能の『阿漕』などの神宮御領地を犯す悪行として描いた作品によって、「図々しい」「強引だ」というマイナスの意味が派生し、それが定着して悪い意味の言葉となったのではないかという事です。

伝説では、親の病気を治すために禁を犯して漁をした平治ですが、孝行息子に変わりありません。
禁漁を犯したことについては厳重注意し、母の病気を治すための親孝行を褒めるくらいの処分をしてほしかったですね。
私は「阿漕」は悪い意味ではなく、むしろ孝行を奨励するような良い意味になって欲しい気がします。


「株を守りてウサギを待つ」

2023-08-30 | 雑学

「株を守りてウサギを待つ」と云う諺があります。
この「株」は株式の「株」ではありません。
樹木の切り株のことです。

この諺の意味は、古い習慣や過去に偶然成功した経験にこだわり、いつまでも進歩がなかったり融通がきかないことを譬えた諺です。
その出典は中国春秋戦国時代(紀元前770年から紀元前221年)の法家である韓非の著書【韓非子(かんびし)】に出てくる言葉です。

「兎走りて株に触れ、頸を折りて死す。因(よ)りて其の耒(すき)を釈(す)てて株を守り、兎を復(また)得んことを冀(ねが)う。」

「故事」
昔、中国宋の国の百姓が畑を耕していると、ウサギが飛び出してきて、田んぼの中の切り株に突き当って死にました。
それに味をしめた百姓は、それから農業を止めて、毎日切り株の番をして暮らしたと言います。
しかし、ウサギは二度とやってくることはなく、男は国中の笑い物になったという故事から、「株を守りて兎を待つ」は「古いやり方にこだわり、新しい状況に対応できない」ことを譬えて用いられるようになりました。

「出典」
この諺の出典は「韓非子(かんびし)」です。
「韓非子」は、中国春秋戦国時代(紀元前770年から紀元前221年)末期に活躍した韓非という人物が著した書物の名称です。
春秋戦国時代を終わらせ、中国を統一した秦の始皇帝もその一部を愛読していたといわれています。
韓非とは、中国戦国時代の思想家で、法家の代表的人物です。姓が韓で、名が非です。

それにしてもこの故事に出てくる百姓さん、たまたま飛び出してきたウサギが捕獲できたからと言って、畑仕事をせずにじっと待っているなんて、よくそのような怠けた考え方が出来たものですね。
国中の笑いものになるのは当然でしょう。


即席ラーメン誕生から65年

2023-08-26 | 雑学

コロナが落ち着いてきたことから訪日外国人観光客が戻りつつあるようです。
日本政府観光局(JNTO)によると、2023年7月の訪日外国人旅行者数(推計値)は232万600人で、コロナ前の2019年との比較で22.4%減(2019年実数:299万1189人)となっており約8割まで回復してきました。
また、1月からの累計も1303万2900人で、年間2000万人突破まで、あと700万人となっています。

訪日旅行者の目的は日本の美しい自然や神社仏閣などの日本文化に触れること、美味しい日本食を堪能することや買い物などが人気のようです。
食事では何を食べても自国の和食より美味しいという事ですが、特にお寿司や天ぷら、おにぎり、ラーメンなどが好まれており、その美味しさに驚嘆したということです。

「日本最初のラーメン」
ところで、日本で最初にラーメンを食べた人物はあの水戸黄門でお馴染みの水戸光圀とされています。
1665年に光圀が明国の儒学者・朱舜水を水戸藩へ招いたときに、中国の麺を紹介され、1697年6月16日に光圀が朱舜水から伝授された麺を家臣に振る舞ったと言われています。
しかし、近年、室町時代の僧侶・亀泉集証(きせんしゅうしょう)が1485年に「経帯麺」のことを知り、1488年に来客に振る舞ったという説がでてきています。
これは、光圀の1697年から200年以上も遡りますが、いずれにしてもラーメンは昔から食べられており、今では日本食の定番料理となっています。



「即席ラーメン誕生」
このラーメンをもっと手軽に食べられるようにと、即席めんを開発したのが安藤百福氏であり、その誕生から今年は65年になります。
今では世界の多くの国々でインスタントラーメンとして当たり前に食べられていますが、発売された当時(1958年)は「魔法のラーメン」と呼ばれる画期的な発明だったそうです。

安藤氏は1957年(昭和32年)、理事長を務めていた信用組合が倒産したために無一文となっていたことから、かねてより胸に温めていたアイデアを実行に移すことにしました。
それは「いつでも、どこでも、手軽に食べられて家庭に常備できるラーメンをつくろう」と云うものです。
そう決意すると自宅の裏庭に研究用の小屋を建て、一人、手探りの状態で、「家庭でお湯があればすぐに食べられるラーメン」の開発に取り組み始めました。
そして、早朝から深夜まで、睡眠時間を削り研究に没頭する日々が、丸一年、休むことなく続き、完成したのがチキンラーメンでした。

「チキンラーメン名前の由来」
家族総出で製品づくりをしているとき、合い言葉のように飛び交っていたのが「チキン」という言葉だったそうです。
大事な役割を果たすスープがチキンで作られていたために、「チキンのスープを運んできて!」など、安藤氏は絶えず「チキン」「チキン」と叫んでいたそうです。
この事から製品名を決める際も自然の成り行きで、シンプルで覚えやすい「チキンラーメン」となったと云われています。