ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

じぐざぐな心、でも子育て

2007年01月23日 | これも自分あれも自分
親子、兄妹、親戚という血の濃い間柄で起きる事件がいやに目に付く。実際のところ、そういう事件が多いのか、センセーショナルな事件の内容に触発されて、メディアがこぞって取り上げているのかは定かではないが、テレビや新聞を見るたびに、「またか。」「またぁ!?」と思わずにはいられない日が続いている。昨年末から、おめでたいはずの新年まで。。。
今の日本は、どうなってしまったのか?という議論も、様々なメディアで取り上げているが、その議論も結局は様々な考えの中に埋まっている段階で、これといった打開策は見出せないでいる。社会は、混沌としている。そして、とりあえず自分の周りで何事も起きていないことに一抹の安堵感を覚え、それに甘えて何も動かない、何も考えない、普通の日常を送る自分がいる。

テレビを見ながら夕食をとる娘が、おかずをポロッと落とし、ころころとテーブルの下を転がり落ちた。私の足元を通り過ぎ、椅子の後ろで止まった。
「何やってるの!!!だから、テレビを見ながらご飯なんか食べちゃだめって言ったでしょ!!」
どうしても見たい!という番組途中に、夕食が出来上がった。始め、テレビを消して食べるように促した。だが、醜い顔で泣きじゃくる娘に、はらわたが煮えくり返りながらも、その醜い顔(北海道弁で、“みったくない顔”)を見るほうが苦痛で、あの大げさな泣き声を聞く方が拷問に感じて、テレビを見ながら食べることを許したのは、私だった。
その事実が心の片隅で鼓動を打っているのを感じながら、こんな些細なことがきっかけで、この子を殴りたい衝動にかられる自分の暴力的な気持ちを必死に抑えていた。そして、心の中で冷静な自分が語りかける。「自分の責任でしょ?」と。

隣を見ると、ご飯を3口食べただけで、「ごちそうさまぁ。」と言っている娘もいる。思わず口をつく、意地悪な言葉。
「食べないんだったら、もうあんたにご飯作ってやんないよ!そんなことしたら死んじゃうんだから!いいの!?」
ついて出る冷たい言葉の数々に、惰性で言っているこの口が憎らしくなる。なんて母だろう、と。
心がささくれ立っている時は、本当に食事を作ることを拒否しようかとか、食べさせないようにしようかと思ってしまう。そして、ふとよぎるわが子を餓死させてしまう事件。児童虐待の記事。
私には、そんな心の壊れた状態になる母親の気持ちが分かる。ただ、きっと実際に行動に移すまで至らない程度の、夫の助けや自分の時間や心の予防線があるから、私は新聞に出ないだけなのだと思う。

おかずを拾う娘に向かって、キッと目を吊り上げ、今にもその後頭部を殴りそうになりながら、そうする自分の行動とその後の娘の泣き声と叫び声を想像する。ささくれた心に突き刺さる泣き声は、私の命を脅かすように聴こえる時もある。おかしな防衛本能が働き、私は娘を手にかける・・・・・・
そんな空想を浮かべながら、心を落ち着かせた。空想するのと、実行するのとでは天と地の差があると、識者は口を揃える。残酷なシーンを空想しながら、じぐざぐな私の心は、「こんな風に思っても、明日になればまたいつも通りに笑ったり、じゃれたりしている自分がいるんだよな。」と考えていた。

人はいったいどこで、どんなきっかけで、事件を起こすのだろう?その後は、どんな気持ちになるのだろう?
白と灰色の雲間から見える青空を見ながら、逝った知人を想った。
じぐざぐの心でも、子どもは毎日一緒にいる。母のそんなじぐざぐを感じながら、子どもはいろんなことを学ぶのだと、狭い自分を肯定したい。

明日の自分は、どんなかな。

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