ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

年の取り方

2007年04月10日 | これも自分あれも自分
人間生きていれば 
いろんな形の出会いや別れや
いろんな人との対話や争いや
嬉しいことや悲しいことが
起きるものです

それは 毎日の生活の中に埋もれてしまって
気がつかないほどの ささやかな喜び
蚊に刺されたくらいの チクッとした瞬間の悲しみもあれば
目を見開いて体が踊るほどの楽しさ
予期せずに頭を殴られたような痛みと虚しさの時もあります

年を取ると いろんなことが多角的に見られて
いろんな人の様々な心を感じることができて
物事の捉え方が広く深くなってきている気がして
ちょっぴり楽しみになってきていたこの頃でした

でも
年を重ねすぎてから 
人のことを羨んだり 権利を争ったり 
自分の正義を通したいがために 
人を赦すということができなくなっている大人を見かけると
自分の理想とする大人とのギャップに悲しみを覚える自分がいます
「自分のもの」と本人が思い込んでいるものに固執しすぎると
自分を客観視できなくなってしまうのでしょうか
そして
年を重ねてしまった人だからこそ
周囲の人間が諭すことができなくなってしまうのでしょうか

わたしは
「赦せる人間」になりたい
「他者を認められる人間」になりたい
「認めているという事実を声に表せる人間」になりたい

けれど
すべての人に対してできるようになれるかといえば
それはとてつもない神業にしか見えない
わたしはおごり高いのかもしれない

生きていれば いろんな試練がやってきて
ふいに泣きたくなる時もあるけれど
台所の片隅で 長い袖の淵で涙をぬぐっては 
いつもの自分を取り戻す
なんで悲しいのか どこでどうみじめになったのかは
時間をかけて解きほぐすことでしか分からないけれど
でも
わたしをそんなふうに刺激してくださる人が近くにいることが
わたしの傲慢でわがままな考えに
一石を投じ 
わたしの心の中のわーんわーん鳴っている動揺が
落ち着いた頃
結論が出ていることと思います
その時が 最終的でかつ揺るぎない結論

今まで決めかねていたことを
いよいよ決まる瞬間を用意してくれたその人に
感謝しこそすれ
憂うなどしないでいられますように

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