の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

プラヤ・ピチャイ・ダープ・ハック博物館

2015年12月01日 | ウタラディット
ピサヌローク市街の東に、タイを東西に分断する国道12号線と南北に走る国道11号線の交差点があり「インド=シナ交差点」と名付けています。
国道12号線を東へ走るとムクダーハーンに至り、メコン川に架かる友好橋を渡るとラオスを通過しベトナムのダナンまで469kmです。西はメーソットでモエイ川を越え398kmでヤンゴンです。北へ向かう国道11号線は、パヤオ、チェンライへ通じています。

正月やソンクラーンの長期連休には幹線道路の各ポイントに休憩所が設置され、飲料水やコーヒー等が無償で提供されます。休憩に寄ります。



インド=シナ交差点を60km北上すると「プラヤ・ピチャイ・ダープ・ハック・ハウス」の案内板です。左折して13km進むと「プラヤ・ピチャイ・ダップ・ハック博物館」がありました。

残念ながら今日は閉館です。

博物館の壁面を飾るレリーフです。
「プラヤ・ピチャイ・ダープ・ハック」について何も知識がありませんでした。
後日ウィキペディアで検索するとウタラディットの南端ピチャイの国主でトンブリー王朝のタークシン王に仕えた猛将で本名チョーイ(1740年~1782年)。
一時カムペーンペットで侵攻するビルマ軍の防衛に就きます。後にアユタヤでのビルマ軍との戦闘では、持ち前の武術を生かし、自らビルマ軍に突進して剣が折れるほど多数の敵を切り倒します。勲功を称えてタークシン王から「ダープ・ハック(剣折り)」と呼ばれました。
プラヤー・ピチャイとダープ・ハックを合わせて「プラヤ・ピチャイ・ダープ・ハック」と呼ばれます。

タイからビルマ軍の追放がすむと、プラヤ・ピチャイ・ダープ・ハックはピチャイに戻り北部の防衛に努めていましたが、1782年、タークシン王を殺害し政権を簒奪したラーマ1世から服従を求められます。
プラヤ・ピチャイ・ダープ・ハックは「二人の王の奴隷にはならず、二人の主人の召使にはならない」と拒絶し、タークシン王のみへの服従を示し処刑されます。
陶板レリーフはプラヤ・ピチャイ・ダープ・ハック軍とビルマ軍の戦闘が描かれているようです。

出身地であるピチャイでは比類なき猛将、忠義の人物として英雄視されています。



プラヤ・ピチャイ・ダープ・ハックの銅像です。


1887年、ラーマ5世は県名を「北方の港」という意味のウタラディットに改称、1899年に県庁がピチャイから、河川交通の要所で河港として栄えた現在のナーン川西岸に移ります。
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ピチャイからは国道1024号線を北上し、国道11号線に戻りデン・チャイで国道101号線、国道103号線そして国道1号線でひたすらパヤオを目指します。
午後5時15分、パヤオ湖畔に到着です。
本日の走行距離452km、総走行距離765kmとなりました。


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