の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

プレーの寺院巡り (2)

2013年10月04日 | プレー
■次に訪れたのは「ワット・ポン・スナン」です。ワット・ルアンの山門を出て左へ100m程行くと三叉路になります。三叉路の右角にある寺院です。

















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かっては濠と城壁に囲まれた、長辺1000mと幅500mほどの楕円形をした旧市街は道路も複雑で狭く、メイン道路へは規制で出られません。とりあえず地元の水掛け中のピックアップトラックが抜けていく道をついて行くことにします。

■寺院があったので入ります。参拝です。「ワット・プラ・ルワン」です。やはりチェンセーン様式の寺院です。










礼拝堂の中です。

親切にいろいろと話しかけてくれる僧侶で、本堂の仏像を特別に見せよう扉を開けていただきました。本堂は女人禁制だそうです。









僧侶です。プレーの9カ寺巡りを教えていただきました。タイでは一日に9カ所のお寺に参拝するとご利益が高いと言われています。

最後にワット・プラ・ルワンのお守りをいただきました。
寺院を出ると午後2時45分になっていました。昼食は未だです。

■城壁に沿った北西に寺院があってので寄ります。「ワット・シー・プン・ルアン」です。

 



この僧は礼拝堂の周りを、ゆっくり、静かに回っています。行でしょうか。



■「ワット・プラバット・ミン・ムアン」です。ラーンナーに侵略され、プレー国主の統治が終わると、寺院も破棄され廃墟となっていました。1955年に「ワット・プラバット」と「ワット・ミン・ムアン」という古い寺院が統合されて修復、現在の形になりました。

「プラ・プッタコーサイ・シリチャイ・マハサカヤムニ」と呼ばれるプレーで最も重要な仏像です。





「プラ・チェディ・ミン・ムアン」と呼ばれる古い仏塔です。後ろの建物は寺院が運営する学校です。

博物館が併設されています。



ビルマの仏像です。



サンカロークの陶器もあります。



出土した奉納仏です。

白地は綿織物です。他は絹織物です。現在のプレーは藍染が盛んで、野良着はプレーで作られたものが全国に出荷されています。





僧が表通りのソンクラーンパレードを眺めています。

表通りの喧騒は寺内まで響いています。


プレーの寺院巡り (1)

2013年10月03日 | プレー
■プレーに向かって出発です。プレーはバンコクから北に551kmのヨム川沿いに位置し、シー・サチャナライからだと国道101号線を北上、シー・サチャナライ新市街を過ぎて国道102号線を東へ走行、ウタラデットの市街を突抜け国道11号線に合流し再び北上、約40kmの登り道をどんどん上がって行きます。デン・チャイの三叉路で国道11号線はシー・サチャナライから北上してきた国道101号線と交差、国道11号線はランパーンからチェンマイへ通じています。デン・チャイの三叉路を右折すると再び国道101号線となり、プレー市街まで坂道を走行します。プレーの街は周りを標高1650mのドイ・ク・サタン山等の高いや山に囲まれた盆地にあります。
プレーは歴史は古く、7世紀にはモン族の国家が成立し「ポン・ナガラ」、「ムアン・ポン」、「ムアン・ペーン」と呼ばれていたそうです。その後927年から1017年はクメールの統治下となり「
コーサイ・ナコーン」、「ウィアン・コーサイ」と呼ばれます。「コーサイ」は絹のサテンを意味します。
クメールの覇権が弱まると独立しますが、12世紀にはスコータイに服従、町の西にある「ワット・プラタート・チョー・ヘー」は1336年から1339年頃にスコータイの副王だったリタイが建立しています。1340年にはラーンナーが侵攻、1443年にラーンナーのティローカラート王に併合され独立国としてのプレー王国は滅びました。1460年からはたびたびアユタヤから攻撃をうけ、ラーンナーがビルマの支配下に入ると、プレーもビルマに支配されました。
いずれにしても、強国が覇権を争う中間位置に成立した小国家プレー王国は、常に強国にに翻弄されながらも1397年から1398年にはカーオ王国に侵入、占領しています。

午前8時50分にシー・サチャナライを出発し、120kmを走行、正午過ぎにプレーに到着しました。

今回の全走行地図です。往路は青色、帰路は緑色です。
全日程11日間で走行距離2071kmです。

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とりあえず本日の朝食です。

ウタラデットを過ぎ、デン・チャイへ向かう国道11号線は走行車両も少なく快適です。

休憩所です。かなり高い位置にあります。

休憩所から見える走行してきた道路です。まだこの先、坂道を上り続けます。

午前11時13分、デン・チャイの三叉路です。左折は赤信号でも進めます。右折は信号待ちです。あと22kmでプレー市街です。

 ソンクラーンの交通規制で迂回、迂回を繰り返し「ワット・ルアン」の門に到着です。
プレーでは、本日もソンクラーンの水撒き中です。

「ワット・ルアン」の門の両側に鎮座する 「シン」です。

829年、町の建設と同時期に建立されたというプレーで一番古い寺院です。

「プラタート・ルアン・チャイ・チャーン・カム」と呼ばれるチェンセーン様式の六角形の仏塔です。

鐘楼です。

煉瓦積みの祠堂は建国時の城壁門だったそうです。現在は改造され門内に壁が造られ祠堂となって、伝説上の君主「ルアン・ポン」が祀られています。

道路側から見ます。

屋根飾りはプレー王国の象徴たった聖鳥ハンサが飾られています。

本堂入口のパヤナーです。

本堂です。



本尊の「プラチャオ・セーン・ルアン」というチェンセーン様式の仏陀です。

本堂の入り口に描かれた壁画です。

200年前の、チーク材で建築されたラーンナー様式の建物が博物館になっています。

門が閉ざされているので僧侶にお願いして開けていただきました。
幾重にも施錠されています。

1階は古い武器類、陶磁器、民具などの展示です。棚に入っているのは刀剣などの武器類です。

伝世品でしょうか、プレー王国時代に使われた陶器です。

奥の中央にカロンの動物を描いた鉄絵瓶があります。右の首が欠けた無釉瓶はサコーン・ナコーンのソンクラーム川流域窯で焼かれています。左とその前のある緑釉、緑釉掛けの瓶は、ナーンでもたくさん出土していますが、窯は不明です。ラオスから持ち込まれてたのではないかと思っています。手前中央はナーンのボースアックで焼かれた瓶です。
説明文は1700年代のサンカロークとなっていました。
ちなみに、一番右に少し写っている青磁もボースアックです。

サンカロークもありました。

低温焼成はラオス製でしょうか。

二階は仏像が展示されています。








オム・ミアンとキン・マーク

2013年10月02日 | その他
■シー・サチャナライに5日間逗留しました。
今年のソンクラーン休日は土、日曜日と重なって、月、火曜日が振替休日で、12日から16日までの長期間休みになっていました。そのソンクラーン休みも明け、街中の水掛け渋滞も終息、プレーを目指して出発します。
出発日の朝、友人の家族が市場で「ミアン」を買って来ました。
サンカロークの陶人形で口内に食べ物を含み、頬を大きく膨らませた姿がたくさんあります。「オム・ミアン」と呼びます。「オム」とは「口に含む」という意味で、含んでいるのが「ミアン」という木の葉を黄色く変色する程度に蒸してから約1カ月ぐらい木樽に漬け込み発酵させた嗜好品だと言います。
食後にたばこを吸うような感覚で口に含んで食べます。ミアンにはカフェインを含み大量に食べると覚醒作用があるそうです。

シー・サチャナライの市場では、バナナの葉「バイ・トーン」に包まれて売られています。

伝統的なタイプで発酵させたミアンに塩と砂糖(ナムターン・ピープ)がまぶしてあります。
噛むと塩味で、多少舌にしびれを感じますが、かっては保存、携帯も容易で、人体に必要な塩分補給に好都合な食品だったのでしょう。

こちらはミアンにピーナッツ、炒ったココナッツの果肉、砂糖、塩、生姜が包まれています。

こちらはプレーの「ペー・ムアン・ピー自然公園」の入り口にある売店で「ミアン」の話を聞いているときに、店の婦人が自分用に持っているものをくれました。ミアンに揚げた豚肉の小さな角切り、塩、砂糖を生姜と一緒に包んであります。
豚肉の味に塩味と甘味が微妙に調和して、結構いける味でした。

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■「オム・ミアン」の陶人形です。

サンカロークの闘鶏を抱く男です。口元が膨らんでいます。

この人物は象に騎乗していたのでしょう。ワイをしていますが、頬は膨らんでいます。全高4cmの小さな像です。

婦人像です。

小隊長でしょうか、身分の高い兵士の頭像です。

どのような人物像か分かりませんが、漫画に出てきそうな顔立ちです。

この人物も素性が分かりません。

兵士象です。

カロンの兵士頭像です。右頬が膨らんでいます。
サンカロークの一見瘤のような膨らみに比べると、かなり控えめな膨らみです。

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こちらは「マーク」と呼ばれる、檳榔樹の実で、左は「マーク・スック」と呼ぶ生の実、右の袋詰めは「マーク・ヘーン」という乾燥した実です。中央のピンクと朱色は「マーク」を下の写真の葉「プルー」に包みますが、その時プルーに塗りつける「プーン」という粉です。プーンは「ホイ・ケーン」という赤貝の殻を焼き、粉末にした真っ白なものが一般的ですが、写真は「カミン」(ウコンの粉末)を混ぜ合わせています。
色の違いは混ぜ合わせたカミンの量で異なり、それぞれ好みによって使い分けるそうです。
また、これらを口に含んで噛むことを「キン・マーク」といいます。「キン」とは食べるという意味ですが、噛むと出る赤い汁を吐き出し、最後に噛みカスも吐き出します。

胡椒科の植物で「プルー」と呼びます。

「プーン」に用いる「ホイ・ケーン」(赤貝)です。

焼いたホイ・ケーンの殻は写真のような道具で粉にされたのでしょう。7,8世紀のモン遺跡から出土した粉ひき台、遺跡近くの寺院に集められています。

「カミン」(ウコン)です。カレーにも用います。

スコータイ時代の「キン・マーク」のための容器類です。青銅製で寺院や上流社会で用いられたものです。

盆に盛り付けるとこのようになります。かってはどの家庭にもあった寛ぎの基本アイテムだそうです。
マークを大量に摂取すると酒と同じ酔感、倦怠感に襲われるそうです。

「プーン」を入れる容器です。プーンが付着した陶製の小壺も出土しますが、現存するのは青銅製が圧倒的に多いです。





クメール時代のプーン容器です。青磁鳥型小壺で内側に「プーン」が残った状態です。

■檳榔樹の実を噛む習慣ははインド発生で、東西交易と共に東南アジアへ伝播したとも言われており、インド文明の影響下に、マラヤ、タワラワディー、クメール等へ浸透し嗜好されました。南下してきたタイ族もモン、クメールの影響を受けて嗜好品になったのでしょう。また、仏陀に供えられたり、冠婚葬祭でも必ず出てきます。
雲南発生のミアンはタイ族の南下と共にラオス、タイ、ミャンマーへもたらされました。ただ、熱帯のタイでは涼しい北部山岳地帯からウタラデットの山間部までが生育の南限であって、シー・サチャナライ、スコータイ区域では栽培ができませんでした(現在この区域にミアンの木はありません)。
シー・サチャナライの市場で売られているミアンはタイ北部から運搬されてきているようです。
ということで、シー・サチャナライではミアンは一般的に普及していなかったのではないか。と彼に疑問を投げかけると、納得してくれたようで、男性が「オム・ミアン」、女性が「キン・マーク」ということで議論を終えました。

長年「キン・マーク」を嗜むと、噛んで出る赤い汁とプーンのカルシウムによって歯が侵されてしまいます。この老婆も長年の嗜好で歯が茶色に変色しています。
噛み汁や噛みカスを吐き出すのが好ましくないと、1940年に禁止令が出てから廃れていき、ほとんど見かける機会はなくなりました。
しかし、市場へ行くと必ず売っている商品です。ちなみに、檳榔樹の実が2個で1バーツでした。

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タイ中部以南で「ミアン」というと写真の葉が出てきます。正確には「ミアン・カム」と呼ばれ、「バイ・トーン・ラーン」の葉にピーナッツ、乾燥エビ、赤玉ねぎ、炒ったココナッツの果肉、「マナーオ」(柑橘類でスダチの仲間?)、唐辛子、ニンニク、甘いつけ汁を包んで食します。

再度、シー・サチャナライの夕陽

2013年10月01日 | スコータイ
■シー・サチャナライ逗留5日目になります。
明日から「プレー」「ナーン」へ出発予定です。もう一度、シー・サチャナライ歴史公園の夕焼けの撮影に挑戦です。
午後5時56分、歴史公園へやってきました。午後5時以降は入場料の徴収はありません。

「ワット・チャン・ローム」の仏塔です。



空の色を調整してみました。

「ワット・チェディ・チェット・テーオ」に移動です。



午後6時55分です。期待した夕焼け空は見られず、月が出てしまいました。

歴史公園から引揚げて夕食です。今晩はお粥です。