気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

生きています

2023-04-24 21:29:29 | 日記

 

 

 

 

 私は生きています(笑)
しばらく更新してなかったのでもしかしたら?と思った方もいたのではないか。残念ながら、いや、幸いにも私は生きています。
 といっても特に書くことはない。ただ、この間僕が経験したことを思いつくままに書いていきたい。

 といっても...実はそれほど変わったことはない。ただ一つだけ、重大な変化はあった。それはいわゆる「彼女」といわれる存在が僕にもできたことだ。ひかりの時間にあるときはたとえようもないほど幸福だ。自分に深い好意を寄せている異性が自分の人生にいるというこの事実は、やはり大きな幸福を僕に感じさせる。同時に強い責任感も感じている。自分はこの人にふさわしい人間なのかどうか、この人の一生を預かることになった場合、自分はそれをまっとうする力があるのか、とかいろいろ考えさせられる。

 

 

 それ以外では何があるだろう、そうだ、今年の大河ドラマ「どうする家康」は僕にとってとても注目している大河ドラマだが、残念ながら多忙で見る暇がないというのが実情だ。でもこの間2回だけ見た。おもったのはなかなか面白い家康像だなということ。前回の家康を主人公にした大河ドラマで描かれているのがたぶん日本人が一般的に持っている家康のイメージだと思う。

 今回まだ2回見ただけだが、よりいままでのステレオタイプから踏み込んで、もっと深い部分に肉薄しようとしているように見える。
僕自身、本当に家康ってどんな人だったのだろうかと思うことは頻繁にある。
 彼がいま存在していない以上、彼が行ったこと、言ったこと、などから推察する以外にない。

 僕は研究者ではないので、まだまだ読んでいない資料がたくさんあるから本当に数少ない資料、史実から推測するしかない。
一つだけ思うのは、この人は江戸時代以降いわゆる世間一般に広く浸透している「ずるがしこく、慎重で、策士」というイメージとはかなり違う、むしろそれとは正反対の要素を非常に強く持った人物ではないか、というのがぼくがこの数年感じていることだ。彼ほど大きな、滑稽なほど大きな誤解を受けている歴史上の人物はたぶん日本史にいないだろうと思う。

 

 

 しかし、彼がそう誤解されているのはある意味しかたがないのかなという気もする。
というのもかれの精神の根底にある特質は一般的に外側からは見えにくいものだからだ。彼が仮に現在生きていたとしても、おそらくその特質が周りに広く理解され、愛されるということはないだろうと思う。やはりそれは外側からは見えにくいものだからだ。

 中国の偉大な歴史家、司馬遷は中国春秋時代の斉の名宰相、晏嬰(あんえい)をいたく尊敬していて、自分はこのひとの御者になってもいい、というほど敬愛の念を抱いていたという。僕は家康の馬引きか料理人になりたいと思うほど家康に対してつよい敬意を抱いている。

 これからいろんな新しい資料が発見されたり、僕自身が既存の資料を読んで、この人物にたいする印象が変化するのかしないのか、するとしたらどんな風に変化するのか、とても興味がある。そしてその過程が、どれだけぼくを真実の家康像に近づけてくれるのか...ということに興味を持っている。

 

 

 それ以外では、特にかわったことはない。あぁ、ひとつだけある。それは精神世界系の動画に実に質の高いものがたくさんあるということに最近気づき、大変な感銘と影響を受けている。正直、時代はここまで来ているのか!という思いでいる。僕が小さかった頃、若かったころにはとてもとてもこんな進んだ時代が現実に来るなんて想像だにできなかった。これはたぶん、江戸時代末期に子供時代を生きた人が年を取り老年期を迎えるころには、電話や自動車、電車などが生まれて実際にそれを目にした、そういう感覚に近いだろう。今時代は急速に変化している。ただ、それを見る「眼」をもってないひとには、何も変わっていないようにしか見えないかもしれないが。

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犀(さい)の角のように

2022-12-05 03:44:52 | 日記

鎌倉 円覚寺にて

手前は修行中のブッダ

 

 

 

 最近ツイッターにはまっていることはすでに書いたが、そのツイッターで僕がフォローしている発信者の中にブッダの言葉を発信しているものがある。その中で僕が原始仏典に出てくる言葉の中で最も好きな言葉があったので載せていみたい。ツイッターで流れてきたものはもちろんこの中の一部だ。

 

犀の角

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩(なや)ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわ)んや朋友(ほうゆう)をや。犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。

交(まじ)わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍(わざわ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 

朋友・親友に憐(あわ)れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡(あいから)むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

 

林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴(おもむ)くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、遊戯と歓楽(かんらく)とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭(いと)いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々(もろもろ)の苦難に堪(た)えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

 

出家者(しゅっけしゃ)でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者(ざいけしゃ)でも同様である。だから他人の子女にかかわること少く、犀の角のようにただ独り歩め。

葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを棄て去って、在家の束縛(そくばく)を断(た)ち切って、健(たけ)き人はただ独り歩め。

もしも汝(なんじ)が、〈賢明で協同し行儀(ぎょうぎ)正しい明敏(めいびん)な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

 

しかしもしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

われらは実に朋友を得る幸(しあわせ)を讃(ほ)め称(たた)える。自分よりも勝(すぐ)れあるいは等(ひと)しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金(おうごん)の腕輪(うでわ)を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

 

このように二人でいるならば、われに饒舌(じょうぜつ)といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

実に欲望は色とりどりで甘美(かんび)であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱(かくらん)する。欲望の対象(たいしょう)にはこの患(うれ)いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

これはわたくしにとって災害であり、腫物(はれもの)であり、禍(わざわい)であり、病(やまい)であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

 

寒さと暑さと、飢(う)えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群(むれ)を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

集会を楽しむ人には、暫時の解脱(げだつ)に至るべきことわりもない。太陽の末裔(まつえい)(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

相争(あいあらそ)う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

貪(むさぼ)ることなく、詐(いつわ)ることなく、渇(かつ)望することなく、(見せかけで)覆(おお)うことなく、濁(にご)りと迷妄(めいもう)とを除(のぞ)き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

 

義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽(ふけ)り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁(こうまい)・明敏(めいびん)な友と交(まじ)われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

世の中の遊戯や娯楽(ごらく)や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

妻子も、父母も、財宝も穀物(こくもつ)も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。

 

「これは執著(しゅうじゃく)である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

水の中の魚が網(あみ)を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩(ぼんのう)の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

俯(ふ)して視(み)、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護(まも)り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除(のぞ)き去って、出家して袈裟(けさ)の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。

 

諸々の味を貪(むさぼ)ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞(こ)い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

こころの五つの覆(おお)いを断(た)ち切って、すべて付随して起る悪しき悩み(随煩悩(ずいぼんのう))を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過(あやま)ちを絶(た)ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

以前に経験した楽しみと苦しみとを擲(なげう)ち、また快(こころよ)さと憂(うれ)いとを擲って、清らかな平静と安(やす)らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

最高の目的を達成するために努力策励(さくれい)し、こころが怯(ひる)むことなく、行いに怠(おこた)ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具(そな)え、犀の角のようにただ独り歩め。

 

独坐(どくざ)と禅定(ぜんじょう)を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患(うれ)いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。

妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。

音声に驚かない獅子(しし)のように、網にとらえられない風のように、水に汚(けが)されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。

歯牙(しが)強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥(ざが)に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

 

慈(いつく)しみと平静とあわれみと解脱(げだつ)と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背(そむ)くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

貪欲(とんよく)と嫌悪(けんお)と迷妄(めいもう)とを捨て、結(むす)び目を破り、命(いのち)を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

今のひとびとは自分の利益のために交(まじ)わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

 

 これはスッタニパータといって数ある仏典の中でも最も古い経典の中の一節で、ここに書かれているものはブッダその人が実際に教えたことにかなり近いと考えていいだろう。
僕はたくさんある原始仏典の言葉の中でも、この一節が好きで、とくにこの韻を踏むようにかかれている「犀(さい)の角のように一人歩め」ということばに明確な理由はないのだが強く惹かれる。

 この言葉を思い浮かべるとき、クローズアップされた犀の角が左右に揺られながらもゆっくりと前へ進んでいくビジョンがはっきりと脳裏に浮かぶ。おそらく、いや必ずブッダその人も実際にそういう犀の角を見て、ご自分の人生と重ね合わせるものがあったに違いない。

 ここにかかれていることは、いかにもブッダの説いた仏教の本質の一端をあらわしていて、最初期の仏教徒の修行の厳しさというものが察せられる。
今現在の仏教徒でこれほどの厳しい環境で修行をしている人々がどれほどいるだろう。この「命を失うのを恐れることなく」という言葉通り、修行の途中で命を失う修行者も実際にいたことだろう。

 今でもたまに見るかごを持って路傍にたって托鉢しているお坊さんの修行なども、この最初期の仏教徒の修行を彷彿とさせるし、それを思い起こすためにやっているのかもしれない。

 僕も実は最近、ある非常に難しい人柄の人物とのかかわりの中で苦しんでいて、そんな今の心境でみるとこの、

『音声に驚かない獅子(しし)のように、網にとらえられない風のように、水に汚(けが)されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。』

という言葉がとくに強い力を持って浮き上がって見えてくる。

 

 この全文をあらためて読んでみると、仏教というもの(特にブッダの説いた原始仏教)の核、原理的な本質となる部分をある程度は理解していないと、かなり誤解を受けるだろうと思う。何と反社会的な教えなんだろうというふうに(笑)
 僧侶が仏典(とくにブッダの説いた教え)の教えを人々に説くこともなく、また、その僧侶自身も世俗の中にどっぷりとつかっている人々が多くなってしまっている今では、それはある程度はしかたがないのかもしれない。

 すべての苦悩の根源とは何か?という疑問を若き日に抱き、その探求のために将来は王となる地位を惜しげもなく捨て去って命がけの修行の道に入っていったブッダ(釈迦)のたどり着いた答えは、確かに今の価値観から見れば「反社会的」に見える。しかし、この世俗社会というものの本質的なありようそのものの中に『人間の苦悩の根源』が内包されている以上、この覚醒者(ブッダ)がそこからの離脱を人々に説くことになったのは当然の帰結であろう。

 孤独であることが悪とされる社会の中で生きている場合、こんな生き方をすれば自分は孤立するのではないか、でも、自分の正しいと信じるところに従えば孤立せざるを得ないというような状況の中であえいでいる時、これらブッダの「肉声」は強い指針と勇気を与えてくれる。

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三峯神社再々訪と最新のスマホをみて

2022-08-08 10:06:53 | 日記

 

 

 

 友であり、同僚でもある人と秩父の三峰神社を訪れた。
コロナ第7波の時期でもあり、行くかどうか迷ったのだが場所が秩父でありほかの観光地ほどは人がいないと思い、また、しばらく自粛していたので我慢の限界に達していたので行くことにした。

 行けば西武秩父駅のバス停からすでに列ができていて、この神社に対する人々の信仰の篤さを実感した。
この神社を初めて訪れたときに神様からの歓待のサインを三つ(鹿の出現、本堂前でのタイミングばっちりの降雨、虹の出現)もいただいたので、それらが偶然であったかもしれないにせよ、かってにうれしくなってまた訪れた次第である。

 

 それともう一つの理由は、最近Nikonから動画に特化したカメラが発売されて、一度はしぼんでいた動画をとってみたいという思いが再燃してきたこともある。
なので、自分が今持っているカメラとジンバルを持っていき動画を撮ってきた。友達がいたので撮影に集中しきれなかったためいい動画はほとんどとれなかったが、楽しむことは楽しめた。それと今回は「これはやれそうだな」という実感を得た。こんどは意欲が途中でしぼんでしまうことはなさそうだと感じた。

 
 ただ、当初考えていた1眼レフ機とジンバルでの撮影はあまりにも重量がおもく、長時間の移動しながらの撮影には向かないことがわかった。それと、人に顔をとられることに抵抗が強い人が多い日本では、やはり大きな1眼レフよりもなるべく小さなカメラの方がいいと思った。なのでこれからはスマホとスマホ用のジンバルを使って撮影していくことにした。今持っているスマホでも動画は撮れるのだが、やはりはじめるならそれなりのスマホが欲しいと思っていて、いまどのスマホにするか考え中である。

 調べていて思ったのは、やはりソニーのスマホの優秀さだ。すでに伝統的なカメラで優れたカメラを作っているソニーなら当然なのだが、この分野でもたぶん今世界最先端を走っているといってもいいと思う。僕はずいぶん前から、カメラが売れなくなっている今、スマートフォンやアクションカメラ(小型の動画専用カメラ)でいいものを作らないと、カメラメーカーはやっていけなくなると思ってきた。

 

 しかし、日本の伝統的なカメラメーカーはやはり職人、技術屋の集まりだからだろう、伝統的ないわゆる「あのカメラ(1眼カメラやコンデジカメラ)」に対するこだわりが強く、そちらの方にかじを切ったカメラメーカーはソニーを除いてほぼないといっていい。あのライカでさえついにスマホにカメラを組み込んでいるこの時代にである。みんながチーターのように走っているのに、日本のメーカーだけは(ソニーを除いて)象のようにのっそのっそと歩いている…そんな印象を受ける。

 ただ、すでにもう日本メーカーもわかっているであろうように、スマホでこれほど高画質な写真や動画がとれるようになっている現在、わざわざあの重くて高価なコンデジや1眼カメラなどを買うひとは一部の写真好きな人々を除いてほぼいないといっていいだろう。
 動画用のカメラはスマホだけでなくGoProのように5cm前後の小型のものが発売されていて(それゆえにつかれない)、価格も5万円前後と今までの伝統的なカメラの半額以下で買えるようになっている。そういう状況の中でやはりわざわざ伝統的なカメラを買う人々はどんどん少なくなっていくのは避けられない時代の趨勢といっていいだろう。

 

 『それでも』いまだに伝統的なカメラを作ることにこだわっている日本の主要カメラメーカーはある意味、お見事といって言えないこともないが、資本主義市場というものはメーカーの願望で動いていくものではなく、あくまでも消費者の願望や利便性で動いてくのであり、前者にこだわりすぎるとやがては市場から駆逐されていくという厳しい現実に直面せざるを得なくなるだろうと思う。

 ソニーが作っているXperiaシリーズはまさにソニーの映像技術の粋を集めて作っていて、すごい!の一言である。
たぶんだがいまあれほどの高度な技術を詰め込んだスマートフォンはソニーのXperiaシリーズ以外にはないと思う。いまはブランド力を持つアップルのiPhoneが圧倒的にリードしているかもしれないが、ソニーのこの製品がそれに肉薄するところまで行くのも時間の問題ではないか。


 同じスマホで写真や動画を撮るにしても、平凡な写真ではなくすこしでも画質がよくて、それに加えて様々な細かい加工や編集機能を持ったスマホがほしい、そのためになら多少価格が高くても他社ではなくソニーのスマホを買おうという人々が増えていくのは自然の流れではないか。たとえば今の僕のように。特にいままでローエンドの一眼カメラを買ってきた層が、サブカメラとしてこのXperiaシリーズに流れていくだろうと想像する。
 その流れは最初は細く弱いかもしれない、しかし、このXperiaシリーズの評判が根付いていくうちに、そして技術がさらに高機能なものになっていくにつれて、徐々に太く太く強固なものになっていくに違いない。


 以前、あるユーチューブの動画で日本のカメラメーカーもスマートフォンの製造に参入すべきだとコメントしたら、ソニーでさえ利益をあまり出していない分野だからそんなことをしてもあまり意味がないという返事があった。
 確かにいままではそうかもしれない、しかし、それは上述したようなソニーの圧倒的な技術力がまだあまり日の目を見ておらず、それが消費者に認知されてこなかったからではないか。でもこれからは違う、違う段階に入った…と僕は感じる。

 

 日本のカメラメーカーはすべての人がそうでないにせよ、スマホ?なんで我々がそんなおもちゃのようなものを作らなきゃいけないんだ?プライドが許さない、と考えてきたし今も考えているのではないかと僕は想像している。しかし、この考えを払拭できないとやがては市場から手厳しい現実を突きつけられると僕は思う。
 そういったメーカーの経営に携わっている人々の大部分は、スマートフォンが誕生する前に成人した層でありまだまだあの伝統的なカメラに対する愛着が強い層であろうと思う。なのでよけいにこの境界線をまたぐことに強い抵抗を持っているのではないかと想像する。

 一方、ソニーはもともと家電メーカーであり、昔から様々な家電製品を作ってきた。だから、最初からこのような境界線など存在しない。伝統的なカメラに対するいわゆるマニアックな愛着やこだわりはほぼないに等しいだろう。だからこその今の現状があるのだと思う。
 そういうこだわりが悪いといっているわけではない。ただそれにこだわるのであれば、会社の規模がいまよりもずっと小さくなっていく、つまりはかなり大規模なリストラは避けて通れないし、一歩間違えば、会社自体の存続さえも危うくなるというリスクを受け入れなければいけないだろう。
 

 もっと保守的な人々は、そもそも伝統的なカメラとスマートフォンは全く別物であり、その境界線をまたぐなんてできるわけないと考えている人々もいるだろう。
確かにそれは相当の勇気と経営者側の指導力が必要だろうと思う、しかし不可能ではないはずだ。
 普通の家電メーカーだったソニーやパナソニックには、高度な技術を必要とするカメラなど作れるはずがないと伝統的なカメラメーカーはほんの十数年前までは思っていたのではないだろうか。それが今やこの両者は伝統的なメーカーをしのぐ性能のカメラを次々と創り出している。

 もっと言うなら、アップルはもともとパソコンメーカーであり、スマートフォンなどは完全な別業種であり門外漢だった。それがいまや世界で最も愛されているスマートフォンであるiPhoneを販売し、その中には高性能なカメラも入っている。アップルやソニーにできたことができないわけがない。そう考えるのはおかしいだろうか?

 
 ただ……そうはいっても伝統的なカメラ業界には百年を越える伝統があり、ほかの製造業とは違う心理的な特殊性があることも確かだろう。
そしてニコンやキャノンなどの伝統的なメーカーが跳躍できず、衰退の一途をたどっているのもまさにこの特殊性の壁が邪魔をしているのであろうと僕は感じている。
その中にとどまって特殊なマニアだけが買うマニアックなメーカーになっていくのか、それともソニーやアップルのように跳躍して大飛躍していくのか、いま彼らが直面しているのはこの段階ではないかと思う。

 もちろん「本当の」正解は僕にもわからない、だが、どちらを選ぶにしても「意識的な決断」ができずにただ現状に流されていくのは最悪の結果をもたらすと僕は思う。

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恐怖と猜疑の果てに

2022-04-25 10:42:03 | 日記

 

 

 

 特に書くことはない、と言いながら書いている。
とはいえ、やはり頭に真っ先に浮かぶのはあのロシアの狂人が始めた戦争のことだろうか。

 己の影におびえて始めた彼の戦争は、当初の予想を大きく外してウクライナ軍の驚くべき奮戦の前にあの「大国」ロシアが敗退する可能性さえささやかれている。
 僕はこの戦争が始まるまで知らなかったのだが、ロシアの経済力って韓国よりも小さいのだそうだ!その程度の国があれほどの巨大な軍隊を持ち、その程度の国があの巨大な経済力を持つアメリカや西欧の国々に対抗しようとしている…ある意味、絶望的な対抗意識の中にあのプーチンがいたわけだ。

 ロシアはたしかに領土という点では大きな国だ。しかし、本当の、真の、国力というのは大雑把に言ってやはりその国の経済力と人口の多寡、そして軍事力の三つで決まると僕は思う。そして最後の軍事力というのは最初の二つの裏付けがあって初めて意味を持つ。領土などというものはただの「箱」にすぎない。

 経済力では西側のたった小さな一国にすぎない韓国にさえ及ばない国が、すべて合わせればその韓国の何十倍の経済力を持つ西側を敵視して存在し、ハリネズミのように強大な軍事力と核兵器を持ってびくびくおびえ警戒しながら存在しているのだ。
 これが異常なことであり、その先には破滅しかないということに、まともな思考力のある人であれば気づくはずである。 
まともな思考力と良識を持った人であれば、ゴルバチェフのように東と西という概念や政治体制の違いという概念そのものをなくし、共存共栄の方向に向かっていこうとするはずである。

 そのゴルバチェフを失脚させて、時代を19世紀以前に向かって逆行していく道を選んだロシアの愚かさ……

 
 このままでいけば、ウクライナ侵攻は失敗で終わるかもしれない。せいぜいうまくいっても東部地方の一部を獲得するだけで終わる可能性もある。さらに悪いことに、ロシア軍のウクライナでの極悪非道なふるまいの数々で(この残虐行為の実態はこれから数年~数十年をかけてどんどん表面化していくだろう、その過程でロシアの対外的な立場はさらに悪化していく)恐れをなしたフィンランドやスウェーデンまでもがNATOに加盟すると言い出した。 

 それに加えて、いまだ前例のない強力な経済制裁の影響はこれから徐々に表れてくる。ロシアの経済、科学技術水準などはもう取り返しがつかないほど遅れるのではないか。そのうち、誰もロシアを「先進国」と呼ぶ人はいなくなっていくかもしれない。ただエネルギーの輸出だけで食べていく「準先進国」となってしまうのではないか。

 ウクライナという領土(箱)にこだわって、経済、科学技術の発展の大幅な遅れ(おそらくは半世紀は取り返しがつかない)、何万という自国の将来のある兵士を失い、莫大な戦費、有能な頭脳の流出(国外脱出)、おまけに戦争以前よりもプーチンが敵と考えているNATOが大きくなる可能性大。
 こ
れを大失敗といわずして何といおう。

 

 さて、話は変わって今年は何を目標に生きていくか……今考え中である。
ここ数年は動画の作成をやろうと思ってきたのだが、その意欲も衰えてきた(笑)ただ、写真だけは引き続き続けていくつもりである。
 もしかしたら、京都あたりに何回か出没するかもしれない。北海道へ行きたい病は今年も健在である。あと上高地で数泊したいという気持ちもある。可能性としてはこのうちの一つだけを行うことになると思うのだが。

 いずれにしてもこれといった大きな悩みがないことが、大きな幸福だと感じている昨今である。
 

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当事者感覚の欠落

2022-04-05 01:36:06 | 日記

Lithuania Cuts Off All Gas Ties With Russia

 

 

 あまり暗いことは書きたくないのだが、やはり今ウクライナで起こっていることの重大性、その結果が及ぼすわれわれの未来への影響を考えるとやはり書かざるを得ない。いまおこっていることは『もしかすると』第三次大戦にむすびつく結構蓋然性の高いことだということが、ロシアの隣国であるリトアニアの大統領であるこの人のインタビューからはっきりと伝わってきた。

 この人が言っている通り、プーチンの野望はウクライナだけでは終わらない。ウクライナがもし(今はその蓋然性が当初ほど高くはないが)もし、ロシアの手に落ちれば、次のターゲットはポーランドやバルト三国だ、という認識が少なくとも東ヨーロッパの指導者の中にあるということがはっきりと伝わってくる。

 

 彼の表情を見てほしい、極めて厳しく切迫性を帯びている、当事者の顔である。
今、当事者とまるで僕があたかも第三者、部外者であるかのように書いたが(この見方が大方の日本人の見方だろうと思う)、実はわれわれ日本人も潜在的な当事者であるということは忘れてはならないだろう。

 なぜなら、『もしウクライナが落ちたら』、すぐにではないにせよ、プーチンの次なるターゲットであるバルト三国やポーランドが非常に危険な状況になる。これらの国はNATOの加盟国である。これらの国がロシアに攻撃されたら、さすがに米国やヨーロッパ諸国も黙ってはいない。直ちに交戦状態となる。


 そこで忘れてはいけないのは、日本はその交戦状態となるアメリカと軍事同盟を結んでいるということだ。つまり、日本も海を挟んですぐ隣にあるロシアとほぼ自動的に交戦状態になるのは自明の理である。第一次大戦も、第二次大戦もすべてその発端は小さな事件、紛争だったが、その国と同盟関係を持つすべての国々が芋ずる式に参戦せざるを得なくなりあれほどの世界大戦となった。

 つまり、これは当然対岸の火事ではない。われわれも潜在的な当事者なのだ。別に恐怖をあおっているのではない、純粋に理屈で考えてそう言っている。
プーチンを止めるにはどうすればいいのか?と聞かれたとき(5分28秒あたり)にこの大統領が答えたことが事の本質をついている。 

 

 最も重要なことはウクライナで起こっているこの戦争をウクライナ軍の勝利に終わらせることです。もしロシア軍が侵略に失敗すればそのことがプーチンをとめる最大の効果、力になるでしょう。われわれにとってもっとも優先度の高いことは、ウクライナでプーチンの意志をくじくことであり、それがウクライナの人々だけでなく、西側の国々に属するすべての人々にとって重要なことになります。
 なぜなら、もしロシアによるウクライナ侵略を止められなければ、プーチンは次のターゲットを探し始めます。そのターゲットとはバルト諸国だけでなく、ほぼすべてのヨーロッパ諸国になるでしょう。(NATOに加盟しているため)

 

 ここでロシアが撤退の憂き目にあえば、プーチンは自信を失い、ウクライナよりもさらに、はるかに強力なNATO全体を相手にすることはなくなるだろう。しかしここでウクライナがもし敗れるようなことがあれば、堤防の堰が切れたようにプーチンは東欧の国々に牙をむいていく蓋然性がかなりあるというこの人の考えに僕も強く共感する。



 そう思わせる第一の根拠は、非常に単純だがしかしそれだけに明瞭な理由、それはプーチンという人の人間性である。僕はこの大統領もそこまで見ておっしゃっていると感じる。

 ロシアでは反体制的なロシアの暗部を暴くような記事を書いてきたジャーナリストが次々と不審な死を遂げてきた。それだけではない、やはり反体制的な政治家が路上で暗殺された事件はつい数年前に起こっていてまだ記憶に新しい。また、つい最近ではやはり反体制的な政治家、ナワリヌイ氏が毒を盛られドイツで治療を受けた後、政治活動を再開するためロシアに戻ったとたんに拘束された。

 こういう話はそれだけではない、イギリスに滞在していた元連邦保安局幹部のリトビネンコ氏も犠牲になっている、しかも彼の場合、普通の毒ではなく放射性物質を使った殺害だった。
 もっと大物では14年前、元ウクライナ大統領ユーシチェンコ氏も親ロシア派の大統領候補と争っているときに毒殺されかかっている。



 これらの暗殺事件のほぼすべての裏側にいるのはプーチンだといわれているし、ぼくもそれはほぼほぼ間違いないと信じている。
現在のロシアというのはそういう国だし、そのトップに立つ指導者、プーチンとはそういう人なのだ。
 バイデンはこの戦争の開戦前、プーチンとの直接対話をせず、ただ侵攻したら徹底的な経済制裁をすると自国から言っていただけだったのは、僕が思うにこれらのことを当然彼も知っているわけで、プーチンという人間に対する非常に強い嫌悪感が背後にあり、彼と直接交渉してでもこの戦争を止めようという気にならなかったのだろうと僕は考えている。
 
 バイデンのその気持ちは僕もわからないでもない。しかし、しかしだ、この戦争がその後にもたらすあまりにも大きな悲劇、惨劇を予想できたにもかかわらず、あえて個人的な感情を優先して、捨て身で止めようとしなかったバイデンの行為は、NATOのリーダーとして、世界最大の超大国のリーダーとしては明らかに失格であるとしか言いようがない。僕はこのことは何度言っても言い足りない。

 

 戦争が始まった後も彼は公の場でプーチンは戦争犯罪者だとか、つぎは化学兵器を使うぞとか、まるでテレビの前で映画をみている人間のようなことを言っている。プーチンは政権の座にとどまるべきではないと発言した時は、さすがにやばいと思ったのだろうホワイトハウス(バイデン政権内部)があわてて、政権転覆を目指しているわけではないと火消しをした。政権内部から公式の場で自国の大統領の発言を修正したということはかなり異例である。

 このおっさん黙らせろ、と思ったに違いない。
もしケネディ大統領であればどうしたか……と思っているのはたぶん僕だけではないと思う。あのキューバ危機のさなか、ぼくは何かで知ったのだが、あの時はまさに核戦争が起こる可能性が本当にあって、ケネディや弟のロバートケネディ(司法長官)は毎日普通のアメリカ市民の顔を胸に浮かべていたという。つまり、『もし』核戦争に発展したら、それらの市民たちの平和な生活は一瞬で終わってしまうという危機感、認識があったからだ。

 

 バイデンにそれだけの危機感、認識があったとは僕には思えない。
しかしもう始まってしまったことを言っても仕方がない。とにかく今は、プーチンの野心を砕くためにウクライナ侵攻を絶対に失敗に終わらせなければならない。

 このインタビューでリトアニアはロシアからのガス輸入を完全に停止したと述べている。リトアニアは他のヨーロッパの国々よりももっと大きくロシアからの輸入に頼ってきたが、それを徐々に減らしていき、今ではロシアに頼らなくてもエネルギーを融通することができるようになったため、今回の決定をしたといっている。もちろん地理的、歴史的なロシアとの関係から、この国にエネルギーを頼るのは危険だと考えたうえでの決断だろう。賢明としか言いようがない。それは今のドイツなどを見ていると特に感じる。

 このインタビューを見てすぐに思ったのは、先日日本政府(経産省)が発表した日本とロシアのエネルギー共同開発をやめないという決定である。
その中で経産省の人物がその理由として、日本は中東にエネルギーの大半を依存しているため、そのリスクを分散するためロシアからの輸入も必要だと考えたからだというものだった。



 僕はそれを聞いておかしくないかと思った。ロシアのあれだけの他国への攻撃性、ウクライナ市民への虐殺(後ろ手に縛られて殺された市民の遺体が路上に放置されている映像は凄惨の極みである)をみても、そして、何よりも日本は北方領土をロシアに占拠されている国である、そんな国にエネルギーをたとえ一滴でも依存することの方がはるかに日本の安全保障上の脅威ではないか。
 
 それとも、経済協力と見返りに北方領土をかえしてもらおうという魂胆、密約でもあるのか?もしあるなら、違法なことをしている国に対して膝を屈して媚びるようなその態度は情けないとしか言いようがない。仮にそのような密約があったとしても、ロシア(プーチン政権)という国の性格を考えれば状況次第で反故にしてくることは想像に難くない。利用だけされて捨てられるのが関の山である。

 それになりよりも、それは同盟国アメリカやウクライナに対する裏切りに等しい。

 中国や韓国に対しては普段あれほど強硬な態度をとる政府、自民党の保守系政治家だが、これは露骨な二重基準であろう。アジアの国々にははっきり物が言えても、白人の国には何も言えないのだろうか?

 エネルギー供給に関しては、ロシア以外の選択肢が必ずあるはずである。ないならそれを作ればいいのだ。日本の技術力があればできないはずはない。そしてそれは日本の将来の大きな、新たな産業となっていく。


 
 ここはロシアに徹底的に侵略の対価を払わせる必要がある。それがなによりのロシア、中国の軍事力発動の抑止力となるからだ。
日本政府はあまりにものんきすぎないか?あるいはもっと恥ずかしいことに、人道的な問題に対してあまりにも無関心すぎないか?あれほどのはらわたがむかつくような国家による犯罪を目の当たりにしても経済が大事なのか?やっぱりエコノミックアニマルなのか?と世界は見るだろう。

 経済?お金?
これから起こることはそれどころではないかもしれないんですよ。

コメント
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