気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

写経初体験

2017-07-11 12:02:16 | 日記



 生まれて初めての写経を経験した。
あるスピリチャル系のブログで写経は亡くなった人々への供養になる(サポートする)ことができると書いてあったので、僕もそれならやってみようかと思った。
僕の数少ないいいところは、思い立ったら結構早く実行することだ。

 前から鎌倉の長谷寺で写経をさせてくれると云う事は知っていたので、さっそく行ってみた。

 非常に静かな場所で写経をすることができた。
筆を握って正式に文字を書くと云う事は、非常に久しぶりで斬新な気分になった。

 部屋の中ではすでに数人の人々が写経をしていて、そのすべてが女性だった。
察するに、これらの人々はそれぞれ何らかの「想い」を胸に抱きながらここにきて写経をしているのだろうと思った。

 



 
 僕は初めてという事もあり、いくつかあったオプションの中から一番簡単なものを選んだ。
いつものことだが、そのお経を写しながらなぜ現代語訳を併記しないのだろうと思った。
どうして昔の漢文のまま載せているのだろう、と思った。

 これは結局現代仏教というものに対する僕の大いなる疑問なのだが、ついぞ真面目に答えている人を見たことがない。
漢訳仏典そのものに何か呪術的な力があり、それに加えてある種の権威、威厳のようなものが備わっているため、それらを維持するためにわざと現代語訳してこなかった、という事なのだろうか。

 ヨーロッパでも聖書は中世までギリシャ語かラテン語でのみ書かれていて、普通の一般人には何が何だかわからなかった。
それではおかしい!イエスは実際には何とおっしゃったのだ?それを神学者やえらい聖職者の解釈ではなく、ほんとうのイエスの教えをできうる限り『正確に』知りたい!!とおもったひとびと(おもに学者や聖職者)が、禁じられているにもかかわらず命の危険を冒して、可能な限り原典に近いところまでさかのぼって(いうまでもなく聖書の原典というものはすでに失われていて存在していない)聖書の現代語訳を始めていった。
これが宗教改革の端緒となっていった。

 なぜかそれと同じことがアジアではついぞ起こらなかった……
ここに西洋と東洋の違いの一端が現れているようで面白い。






 僕は日本の神様を信仰している。
それなのに仏教の習わしである写経をするなんておかしい、と思う人もいるかもしれない。
 でもそれは一神教的な考え方で、僕の信仰する神様も含めて日本の神道というのは多神教である。

 多くの神様を敬いながらも、自らの信仰する神(一柱の神)をもっとも敬い信仰するというのが古来日本での神道信仰のあり方だった。
なので、写経をすると云う事にたいして抵抗というものはなかった。

 ともあれ、無事写経を済ませ写経室に鎮座している御仏に、亡くなった母への思いを込めて奉納し、その場を立ち去った。
これからも折に触れこのお寺に行き、写経をさせていただくつもりである。

 実は写経を済ませてこのお寺の本堂でお参りしていううちに、ある不思議な「縁」に気づかされた。
僕の家が代々信仰してきたのは真言宗、豊山派である。そして偶然にもこの長谷寺も真言宗・豊山派のお寺であり、この派の総本山である奈良?の長谷寺に安置されている本尊と、この鎌倉の長谷寺に安置されている本尊も同じ十一面観音である。

 これはたぶんただの偶然ではない、と思った。
何か温かいものが僕の胸に流れるのを感じた。


 写経を終えて境内を回っていると、あるインド人らしき人が参拝している姿が目に留まった。
その人のしぐさを見て、非常に敬虔な宗教心の篤い人であることが分かった。
 仏像の前でわざわざ靴を脱ぎ、拝礼していた。それをすべての御堂の前で行っていた。

 さすがは宗教の国、ブッダの国、インドから来た人(たぶん)だと感心した。
彼はおそらくヒンズー教徒であろうと思うが、やはり多神教を伝統に持つ国から来た人らしいふるまいである。
ブッダその人も神々の存在を否定はしていない。

 その異国の人の振る舞いは、インドの神であろうと日本の神であろうと関係ない、ただただ神仏を敬う心から生まれたふるまいだ。
僕は昔は、一神教のほうが「進んでいる」宗教だと思っていた。
 今はちょっと違う。

 なぜ自分の信仰の対象をもっとも敬愛するが、あなたの信仰の対象にも敬意を払う、ではいけないのだろうか。
どうして○か×か、One or nothingになってしまうのか…今の僕にはとても分かりにくい。

 僕がこう思うようになった背景には、やはり、今の神を信仰するようになってから経験した衝撃的な神秘体験が強烈な刻印を僕の心に刻んだからであることは間違いない。
神は実在する、しかも、それまで知っていた神(キリスト教やその他の神々)とは違う神の実在をこの目で確かめたこと、これはどんな書物から得た知識よりもはるかに大きなインパクトを僕に与えた。

 つまり、神は一つではないと云う事、この世には多くの神がおそらく実在しているのであろうこと、それと近年勃興してきているスピリチャリズムもそれを示唆していること…

 ほんとうに僕らは不思議な世界に存在している、そして、古来より多くの神仏たちが彼ら(彼女ら)を信仰する多くの民の悩みを受け取り、時にはそれを救済してきたということを、寺社を巡りながらほんとうにありありと感じるようになってきた。
それを心からありがたいと思うようになってきた。

 ほんとうに僕らは不思議な世界に存在している。そのことだけは確信を持って言える。

 
コメント
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