年号が変わる。
正直特に思うことはない。ただ、自分もついに3つの年号を生きるのか、という感慨はある。
それにしても、現天皇の生前退位が認められてよかった。あの御年で様々な公務をこなすのは相当お辛かっただろうと想像する。
他の仕事では定年退職というものがあるのに、皇室にだけそれがないというのはさすがに気の毒だと思っていた。
現天皇のことを思う時、僕の胸によぎるのはやはり美智子様のことである。
ある意味、永遠の理想の女性像の一人といっていい。この想いに共感する男性は結構いるのではないか。
内面の美しさと外面の美しさが完全に調和していて、海外の王家でこれに匹敵するのはイギリスのダイアナ妃だけだろうと思う。
ご結婚後、そのご容貌が変わるほどのご苦労をされた(であろうと推察する)が、とにかく、ある意味この世離れした人柄、人間性の良さというものがこの方ほど自然に外ににじみ出ているのは、あまり例をみない。それに加えて、文化的な要素と高貴な品格ゆえに抑制されてはいるが要所要所にはっきりと感じ取れる夫への愛。まさに永遠の女性(ひと)である。
とにかく、これからはゆっくりと、できうる限り静かに、今まではそのお立場ゆえに制限されていた人(女性)としての生を全うしてほしいとおもう。
さて、話題は変わってカメラのことである。
今僕が使っているカメラはもう10年以上使っている。(途中、アクシデントで壊れて新しものに取り換えてもらってはいるが)
そろそろ新しいカメラを買ってもいいかなと思い始めている。
ぼくは肩こりがひどい体質なので、重いものを背負って撮影しているとすぐに肩が凝ってきて鉛でも背負っているかのような感覚になり、かなり苦しい。
なので小型のマイクロフォーサーズ形式のカメラがいいかなと思って、オリンパスのカメラを買おうかと思っていた。
それでお店でこの会社のカメラを触っていると何となくしっくりとこないものがある。それは僕がこだわるシャッターを押したときの感触なのだ。
それで僕が現在使っているニコンのカメラのコーナーに行き、シャッターを押すと「やはりいい」のだ。
これは言葉では伝えにくい。自分の意志とカメラが何の障害もなく「つながっている」感覚がある。そう、車で言えばアクセルを踏んだ時に感じるあの感覚と似ている。自分の意志と車のエンジンが何の障害もなく「つながっている」感覚である。これは僕が昔、アメリカ製の車と日本製の車を運転してみて感じた違いであり、その時に日本車の優秀さというものを感覚的に実感した。
ニコン製のカメラには「その感覚」がある。
カメラメーカーにはその会社独自のレンズ群があり、通常その会社のカメラにはその会社のレンズしか合わないので、他社のレンズはつけられない。(サードパーティーがその会社用に作ったレンズは別だ)
なので、もしオリンパスのカメラにすると、今まで使っていたニコンのレンズはつけられなくなるから、またレンズを一から買いそろえなければならない。それは経済的な負担を考えると避けたいところだ。そう思っていたところで、ニコン製のカメラを触っていて感じた「あの感覚」である。もうひとつペンタックスのカメラからも同様の感覚を感じるが、いま述べた理由からやはりニコン製を選ぶほうが僕にとってはいい。
(ただ、オリンパスの名誉のために付け加えると、この会社のペンシリーズのデザインは素晴らしい!とくにPen Fはそのデザイン自体がアートだと思う。ただ持っていて飾っているだけでもいいと思う)
ではどんなカメラを買うかというと、最新の機種はもちろん選ばない。
理由のひとつはもちろん高いから(笑)である。一般庶民が1台40万円程するものをおいそれと買うわけにはいかないのである。
これには単に高額だからというだけではなく、やはりなぜ高額になっているかということと関係する。
僕はカメラだけでなく、家電製品でも最新機種は買わない。なぜかというと、その値段の中にその本質的な価値+企業の利潤に加えて、期待料が入っていると思うからだ。
最新のものだから、最先端の技術がはいっているから、すごいだろう→欲しい、という消費者の心理を織り込んだ価格になっていると思うからである。
そういう無駄な料金を払いたいと思わない。なので、通常ぼくは何を買う時でも、最新の機種から数世代前のものを選ぶことにしている。
理由の二つ目は、これはもっと本質的なことなのだが、高額なカメラでとったからといって必ずしもそれに比例していい写真にはならないだろうと思うから。昔の素晴らしい写真家の写真を考えてみたらわかる。彼らは今でているコンパクトカメラといわれるカメラよりも性能的には劣っているカメラをつかって、あれだけの傑作を残している。
カメラにこだわるよりも、ファイナルプロダクトである写真にこだわるべきだと考えるのだ。ひよっこ三文アマチュアカメラマンである僕がこんなことを言うのはおこがましいが、それはたぶん真実だろうと信じる。
もちろん、だからといってカメラは何でもいいとは思はない。好きなカメラを使っているという自己満足感が写真を撮るという喜びを増幅することは間違いないからだ。そしてその喜びがいい写真を撮りたいという願望をさらに高め、それが結果としていい写真になるというプロセスをたどるだろう。
ということで、いま下調べをしている最中でもうある程度のめぼしはつけている。
先日帰宅途中で見つけた花。人間ならば、なんで自分はこんなところで生まれたんだろう、もっと田舎の恵まれた環境に生まれたかった、と考えるだろうと思う。しかしこの花は幸せいっぱいである。そんな姿がうつくしい。
植物たちのこの姿(こころ)は僕ら人間がはるかに及ばないものを持っている。